春の森にて
人外が出てきます。
見た目は人型だったり獣だったり異形だったり様々です。
妖の生態の関係で、触手っぽいものが出てくることもあります。
ご了承下さい。
高校からの帰り道。羽村薫は、ざっざっと落ち葉を派手に蹴散らしながら、鎮守の森を散策していた。町のど真ん中に広がる大きな鎮守の森は、水源池を囲む森でもある。
池に着くまで、あと20分くらいかかるな。ちらっと時計を見て薫は思った。
人けのない森をてくてく歩き続けるうち、落ち葉の擦れるガサゴソいう音がしなくなったことに気付いて、ふと足を止めた。いくら落ち葉を踏んでも、音がしない。
そういえば、鳥も虫も鳴いていない。一切の音が周りから消えている。
え、どうして? なんで音が聞こえないんだ、耳がおかしくなったか?
内心焦る薫の目の前に、はらりはらりと枯れ葉が舞い落ちてきて、やはりカサともコソともいわずに、地面に積もる。恐る恐る頭上を見上げれば、音もなく木々の枝葉が揺れている。風は吹いていないのに。あの梢に、周りの木々の茂みに、ナニかがいるのだ。
異変を感じたら、その場にじっとして、周りが元に戻るのを待つんだ。下手に逃げ出すと妖に見つかり、標的にされるから。
あの人に教えられた通り、不自然なほどにしんと静まり返る森の小径で、薫はじっと息を殺してその場に佇んでいた。
やがて、
あれ、あの子だ
また、あの子だ
ほら、あの子だ
あの子が来た、あの子が来た、あの子が来た
なにかのささやきあう声が聴こえてきた。
何だ、あいつらか。
「あの子ってなぁ、お前ら」
薫はホッとして、しつこい声に呆れたように言った。
「もう俺はガキじゃねぇよ」
彼の返事に抗議するように、こつんと彼の頭に何かがあたった。
彼は、勢い余って地面に落っこちたそれをそっと摘み上げた。それは、小指の先ほどの大きさの、形は毬栗に似た白いもの。棘だらけの見た目に反して、触ってもそれはごわごわしているだけで、皮膚に突き刺さりはしない。
そのことを彼は子どもの時から知っている。
ただの固い毛束だよな、このトゲ。先っちょ、ちょっと丸いし、ガキん頃は白い金平糖だと思ってたっけ。
つらつらと思い返しながら彼がそれを弄んでいると、ばらばら、ばらばらとそれが樹上からたくさん落ちてきた。
あの子だ、あの子だ、あの子だ……
彼の服に棘を絡ませてくっつき、離れようとしない。
布地越しに棘の感触がちくちくして
「お前ら、よせ、くっつくな、びみょーに擽ってぇんだよ」
彼が笑いながら叫んでも、それらはお構いなしだ。そして、薫が摘んだままの一匹が
う ま そ う だぁぁぁ
不穏な言葉を吐くなり、その小さな身体が真っ二つに割れたのかと思うほどの大きな口をぐわっと開いた。青紫色の触手のような舌をその口の奥からぬらりだらりと伸ばしていく。この体のどこにこんな長い舌が収まっていたのか、本当に謎だ。
「え、腹減ってんの?」
気づけば、体中にくっついた何十、何百もの白いトゲのものたちが餌を前にお預けを食らった犬のように、唾液の滴る長い舌をちらつかせて喘いでいる。
「やめろ、離れろ、莫迦、さすがにこの数は嫌だぁぁ!」
彼が悲痛な声で拒絶したが、まるでそれが“良し”の合図であるかのように、非情にも奴らは一斉に食事を開始した。薫の露わな皮膚、顔、首筋、指先、至るところに奴らの舌が絡みつく。シャツのボタンとボタンの間から侵入させてまで彼の素肌を探し求め、舐め尽くす。奴らに舐められるたび、薫の背筋がぞわりと震える。血の気がざぁと引き、すぅーっと身体が冷えていく。
この白いモノたちは、他の生き物を舐めて精気を吸う妖だ。
一匹や二匹に指先を舐められるくらいなら何のことはないし、舐めさせてやったこともある。とはいえ、この数に一度に食事を摂られると流石に耐えられない。
何よりこれだけの数の舌が身体を這い回るのだ、肌に滑る唾液も舌の感触も途轍もなく悍ましい。
気味の悪さと文字通り気力が尽きたために意識が遠くなりかけた時
「だめだよお前たち。彼は私のものだ」
柔らかな声音が彼の耳朶に届いた。
あれだけ纏わりついていた白い棘のモノたちが彼の体から次々と離れ、地面に転げ落ちてはざわざわと落ち葉を鳴らして消えていった。
力が抜け、どさっと地べたに座り込むと、彼は新たに姿を現した者を見上げた。
「もっと早く助けてくれよぉ、ささめぇ」
「私も食事の最中だったので、手が離せなかった」
中性的な美貌の男が薫を見つめて答えた。長い銀の髪に青い虹彩。少なくともこの国における一般的な容貌ではない。
自分は、精霊のようなもの、らしい。
そう本人から告げられたのは、別れ際だった。
私は、見た目はこれ以上歳を取らないし、見た目の年齢の何倍もの年月を生きてきた。だから、別れはよく知っている。人と妖が別れたら最後、二度と会うことはない。
別れる寂しさに泣きながらも、薫が絶対また会いに来るからね、俺、ささめがおっさんになってもちゃんと見つけるからねと再会を約束した時、ささめは冷ややかにそう言い放ったのだ。
そんなささめだもの、人の子一人、妖に襲われていても、自分の飯のほうが大事だよな。助けてくれただけでも感謝しなきゃな。
薫が一抹の寂しさを覚えつつも
「助けてくれてありがと。……久しぶり、ささめ。あんたほんとに、面変わってねぇな」遅まきながら挨拶をすれば、ささめは首を傾げた。
「ほぉ。久しぶり、と来たか」
「だって、ざっと4年ぶりだぜ」
小学5年の2学期が始まってすぐ。薫は転校し、この町を出ていった。今は高校1年の春だ。
「人の感覚で4年というのは、そこそこ長いものなのか?」
人ではないささめには、人の気持ちも感覚も分からないか。薫はやれやれと肩を竦めた。「そうだよ。4年も経てば普通、色んなものが、……」
変わってしまうのだと言おうとして、薫はふと言葉に迷った。
辺りで小鳥が賑やかに鳴いている。梢を飛び回る姿も見える。
あの鳥の名前を教えてくれたのは誰だったか。
焦げ茶色の蝶がひらりと木陰へ消える。
あの地味な色のジャノメ蝶を蛾だと思って怯える俺に、わざわざそれを捕って、ごらん、蝶だよと意地悪……いや、教えてくれたのは誰だったか。
風が運んでくる、池の水の匂い。フェンスを越えてあの池に近づき、危うく水に落っこちかけた俺をすんでのところで掬い上げてくれたのは誰だったか。
あぁ、俺が生まれた土地の、見慣れた景色だ。
そして、その誰かが今、傍にいる。
これが俺の世界だ。
大事なものは何も変わってないじゃないか。
俺は、帰ってきたんだな。
「ま、何でもいいや」
一人納得して薫は立ち上がった。制服についた土埃を払っていると
「貴方。ずいぶんと背が伸びた。視線が近い。日の光と雨をよほどたっぷりと浴びたと見える」
ささめが興味深そうに薫を眺めて言った。
「俺は植物かよ。人間ってのは、よく食ってよく動いてよく寝ると大きくなるんだよ」薫が真面目に突っ込みを入れると、ささめはふんわりと笑んだ。そして
「……貴方が不在の間、私は相当無聊に苦しんだ」
静かに言った。薫は目を瞠った。そして、恐る恐る聞き返した。
「なぁ、それって。つまんなかったってこと? 俺がいなくて」
まじまじと見つめられて、ささめは目を逸らした。
「これが、……寂しいという感覚なのだと、知った」
ぼそぼそと告げられた言葉に、にぱぁと薫は意地悪い笑みを浮かべた。
「ひひひ、4年間、寂しい思いさせてごめんなぁ、ささめ」
きれいな顔を子どものようにぶすっと歪めてささめが不満げに言った。
「全くだ。こんなにも時を長く感じる日々を過ごすなど、御免被る」
それほどまでに、此奴……!感極まった薫はぎゅっとささめにハグをした。
「俺もだよ、ささめ。またこの町で暮らすからさ。これからも、
ホケキョ。
絶妙なタイミングで鶯が鳴いた。
人と妖は顔を見合わせてくすくす笑った。