崖から落ちた家族の手を掴む 片手に配偶者 片手に子供 両方は引き上げられない どちらを助ける?
今夜の夕食は、子供たちのリクエストでハンバーグにした。長女も次女も、私のつくったハンバーグを夢中で食べてくれる。「ママのハンバーグは世界一美味しいね」二人は口を揃えてそう言う。世界一だなんて、大袈裟じゃない? でも、そう言われるとつくった甲斐がある。お世辞だとしても嬉しいわ。
テーブルの向かいに座る夫は、ハンバーグをツマミにして、缶ビールをグラスに注いで吞んでいる。こやつは、いつも私の手料理をツマミに晩酌をし、食事のしめにお茶漬けをすする。まったくもう、せっかくつくったのだから炊きたてのご飯と一緒に食べてよね。まったくもう、長い晩酌は、うんざりよ。
「ねえ、パパ。ママと私、どちらが好き?」
この時、口のまわりをケチャップで真っ赤にした小学一年生の次女が、夫に、他愛のない質問をした。
「どちらも好きはダメ。どちらか一人を選んで」
すると、グラスのビールを呑み干した夫は、間髪を入れず、こう言った。
「ママだよ」
「えーーーーー!」
予想していた答えと違ったのか、次女があたふたしている。
「じゃあ、ママとお姉ちゃん、どちらが好き?」
「ママ」
「じゃあ、じゃあ、ママと、私とお姉ちゃんのセット、どうちらが好き?」
「ママ」
「まじでーーーー! ショックーーーー!」
次女は、ふくれてしまった。
すると、次女と夫の会話を横で聞いていた小学五年生の長女が、眼鏡をキラリと光らせてこう切り出す。
「それでは、パパ。究極の選択です。あなたは、崖から転落した家族の手をとっさに掴みました。片手にママ。そして、もう片方の手には、私。しかも、妹が、私の足首を掴んで一緒にぶら下がっています。しかし、あなたの力では、両方を引き上げることが出来ません。さあ、あなたは、どちらを助ける?」
この質問にも、夫は、間髪を入れなかった。
「ママ」
間接的に「お前たちを見捨てる」と宣言された子供たちの顔がひきつった。
「君たちも、いずれは、そう答えてくれる人を愛し、そう答えてくれる人に愛されなさい」
夫がそう言うと、食事を終えた子供たちは、釈然としない様子で自室に消えて行った。
「ちょっと、あんた。さっきの発言、あれってどうなの? 子供たちのトラウマになったらどうするつもり?」
夫婦二人になった食卓で、さすがに夫をたしなめる。
「しゃーないだろう。どちらか一人、究極の選択、って言われちゃったのだから」
夫が、素知らぬ顔で、また手酌でグラスにビールを注ぐ。
「ちなみに、君ならどうする? 片手に僕、もう片方の手に子供たち。さあ、どちらを助ける?」
「そんなの、子供たちに決まっているでしょう!」
「あははは。そう答えると思ったよ。だから僕は、これからも、子供のことを第一に守る君を、第一に守り続けるんだ。だって僕一人の力では無理でも、君がいれば家族全員を守ることが出来るからね」
まったくもう。こやつは、いつもこのように訳の分からない理屈で、私たちを煙に巻こうとする。
「て言うか、その状況になったら、私、秒であんたの手を離しますからね」
「うん、いいよ。そうするべきだ」
「分かってるの? あんた、崖から落ちて死ぬのよ?」
「死ぬもんか」
「死ぬっつーの!」
「死なない。すぐに奈落の底から這いあがってみせる。君のため。家族のため」
あーーー、まったくもう! こやつときたら、まったくもう!
「おお、珍しいね。どういう風の吹き回しだい? 美人のお酌で呑めるとは、こいつは贅沢だな」
私としたことが、夫のグラスにビールを注いでいた。