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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Hollow

作者: 夜岸明希




 私たちは、彼が殺害されるところを窓からずっと見ていた。男は二十代半ばくらいで、柔らかい雰囲気を持っていた。何か絶望的な持病を抱えていて、その為に優しさを得ているといったような、ふんわりとした笑顔を浮かべていた。腹に刃物が突き刺さり、ぐりぐりとかきまわされても、彼は微笑んでいた。彼の微笑みに似た生ぬるい陽射しが森を照らしていた。眼球の奥にしみこむほどの緑色で構築されている景色に、真っ赤な液体がこぼれた。半袖の白いシャツが赤く染まり、腹のあたりに生地がぺったりとはりついていく。彼は後ろによろよろと下がり、太い樹木の幹に背を預け、しゃがみこんだ。


 蝉の鳴き声が、大気を震わせていた。遠くに浮かぶもこもことした雲の下を、鳶が滑っていた。ぴんと広げた羽が、真っ青に冷えた空を切り裂いていた。眩い昼下がり、何もかも焼け付くような明るさを持っているのに、いやに涼しい風が吹く。わずかに開いた窓から、氷水で冷やしたような、すっきりとする空気が流れてくる。


 男は、一人残された。彼を切り裂いた男はこちらに背を向けたまま、どこかへと走り去った。空を仰いだまま、血を流している優しい男。口角を上げたまま、目を閉じている。青白い肌が光に包まれている。さわさわと雑草が揺れた。血だらけの腹に羽虫がとまった。彼はまるで植物と同化していくようだった。伸び続ける草に足を食われ、樹木に背を飲み込まれ、笑顔を葉に吸い込まれ、厳かな木として何百年も生きていきそうだった。


 妹は私の手をぎゅっと握っていた。私たちは彼が刺されて、倒れ、眠るのを、静かに見守っていた。助けなければ、なんて少しも思わなかった。それは始まってしまったことで、終わらなければならなかったことなのだと思ったからだ。生まれたら、死ななければならない。そんな簡単な理屈のようなもので、刺されて死ぬのなら、それを邪魔してはならないのではないか、と私は感じてしまった。何より、彼は幸せそうなのだから。


「あの人、死んだの?」


 奏は私の目を見上げながら言った。


「死んだと思うよ。全く動かないでしょう?」


「どうする?」


「さあ、どうしようかな。奏ちゃんは、どうしたい?」


 手を離して、奏は床に座った。読みかけの絵本を開いて、私にもそうするよう促した。そうだ、私は思い出した。一番良いところで中断していたのだっけ。


 奏の横に座り、読み聞かせを再開した。奏は七歳で、絵本を一人で読むことはもう出来る年齢だ。けれど、妹は私に絵本を読ませたがった。私の声を聞きたいのだと言って、すぐに泣いてしまうのだ。彼女にとって絵本とは違う世界に飛び立つことではなくて、場面ごとにかわる姉の声色を耳に染み込ませる行為を楽しむことだった。


 私はうさぎが火で燃やされる場面を朗読した。大きな本の見開きで、うさぎは木に縛られ、泣きながら焼かれていた。それは、窓枠から見た男の死と似た構図だった。天を仰ぎながら死にゆく生き物。さきほどの殺人は、果たして現実だったのだろうか? なんて馬鹿げた妄想をしてしまう。あれも絵本の一場面だったのでは? と。だから私も奏も、飛び出したり騒いだりしなかった。現実ではない気がして。


 絵本を読み終わる。隣を見ると、奏が寝息をたてていた。私は彼女を布団に寝かせて、夕飯の準備をはじめた。


 誰かが作り、誰かが捨てた、ツリーハウス。太い木に巻き付くように伸びた階段の上に、六畳ほどのスペースしかない小さな家が建っている。誰も暮らしていなかったせいか老朽化が早く、室内に残されていた新聞の日付からは想像もつかないほど何もかもがぼろぼろになっていた。いや、あるいは何十年も昔に建てられたものであるかもしれなかったが。街にほど近い森の中にこのような家があるなんて、誰も知らなかった。誰も訪れてもこなかった。私たちはここにおもちゃや絵本、布団、食べ物を持ち込んで、土日を過ごしていた。家にいても良いことなんてなかった。両親は仕事でいないし、戻ってきたとしても叱られてばかりだった。


 陽が沈む。窓から見える木々が、視界の端に映る山の姿が、暗闇に溶けていく。紫色に塗りこまれたぶよぶよとした空が、やがて半透明の黒いゼリーに変化する。玄関の灯りをつけ、室内にろうそくを配し、缶詰を開ける。やがて起きてきた奏と食事をとる。窓ガラスに虫がぶつかってくる。ゆらゆらとろうそくの火が揺れて、家具や私たち、食器の影が踊る。風が家を揺さぶる。みし、とたまに床が軋む。


「ひよりちゃん」


 と、奏は微笑みながら言った。妹は窓枠の暗闇を見ながら菓子パンを食べている。


「なあに?」


「何かね、ここは家じゃないみたい」


「家じゃなければ、何かな?」


「んー。船みたい。海のね、深いところを潜ってね、気持ち悪い魚を見つけるの」


「深海ね?」


 ぼうっとした目で、奏は何かを考えていた。私は考えている奏のことが大好きで仕方なかった。彼女が口を閉ざして遠い目をすると、私は決してそれ以上声をかけたりはしなかった。幼い頭の中で、きっといろんな光景や世界や宇宙が蠢いているのだ。奏はあまり喋らない。多くない口数は、しかし中身がからっぽであることを示してはいない。むしろ彼女の中には何もかもがありすぎるのだ。何を話すべきか、の優先順位が未だ分からないから、断片的にしか話さない。だが奏の大きな瞳を見れば、下唇を突き出しながらくせっ毛をいじりつつ唸る可愛らしさを見れば、その後現れる奇妙な言葉の深みを知れば、この小さな体にだって星があることくらい分かる。


「私、お外に行きたい」


 パンを食べ終えて、奏は言った。私はまだ鯖の缶詰を食べていた。


「外? どうして?」


「お話したいから」


「お話なら、おうちでも出来るでしょう?」


 奏は首をふった。


「お話、したいから」


 私の手を引いて、奏は歩き出す。夜に外出するのはあまり好きではなかったが、仕方なくついていった。それに一人で外に出られて、あの男みたいに刺されでもしたら困る。


 錆びた手すりをつかみ、転ばないよう注意しながら階段をおりていく。背後の小さな光源では、地面まで照らすことが出来ない。私たちは一歩ずつ深海へと潜っていく。一段一段おりていく度に、つないだ奏の手が、くしゃくしゃの髪の毛が、聡い目が、暗がりに没していく。森のざわめき。冷たい風。陰鬱な葉音。肌にじわ、と滲む汗。鳥の鳴き声がどこかから。しかし何の姿も見えない。見えるのは頭上の広い星空のみ。高い梢の向こうに夜をくりぬく白い半月。が、安い照明になれた眼球では、まだ月明かりの恩恵を感じられはしない。


 暗闇の中、歩くべき道を熟知しているかのように奏はすたすたと歩いていく。何かに導かれるように。あ、と私は思った。そしてその予感は的中した。


「こんばんは」


 と、妹は暗闇に向かって挨拶をした。


「こんばんは」


 暗闇から、声がした。徐々に目がなれてくる。視界が開けてくる。木々の輪郭、うねる根の陰影、太い幹に背を預けて死んだはずの男。


「おじさん、お腹、すいてない?」


 ポケットから小さい缶詰を取り出して、奏はかがんだ。男はじっとしていた。目を閉じて、口角を上げたまま、固まっている。


「いや、すいていないよ。それに食べたところでお腹は膨れないんだ。僕のお腹には穴が開いているのでね」


 君はわざわざそれだけの為に来てくれたの? と男は言った。


「ううん。ご飯はね、もしかしたら食べるかなと思っただけ。お話したいから来たの、本当は」


 私は向かい合う二人の後ろに立ち尽くしていた。男は明らかに死んでいるはずだった。腹を裂かれて血まみれで、半日以上経っている。こんなに普通に会話出来るはずはないのだ。辺りは土と緑の香りで溢れている。溢れてはいるが、血なまぐさいのを隠してはくれていない。二人のそばに感覚を集中すると、吐きそうな血の臭いが鼻をずるずると汚してくる。


 けれど、男は優しい雰囲気に包まれていた。新しい毛布みたいだった。お風呂に入れたあとの猫のようだった。もこもこ、もふもふとしていた。手を伸ばせば、彼はきっと柔らかく握ってくれる。体を預ければ、そっと抱きしめてくれる。泣いていたら、ふわりと髪を撫でてくれる。そんな想像を、期待をしてしまえるような空気。


「おじさん、寂しくない?」


 男の靴を指先でつつきながら奏は言った。


「寂しいと思えば、人はいつでも寂しいものだよ。人について思わなければ、寂しさなんてものはどこにもないのさ。でも、僕は今、寂しくなくて、たぶんもうすぐ、寂しくなるだろうね」


「私が来たからなのね」


「君は寂しいの?」


「私は寂しくないよ。ひよりちゃんがいてくれるから。時々怒られて、寂しくなるけど。でも、ずっと一緒にいるとね、お腹の中が寂しくなるの。一緒にいると寂しくないし楽しいのに」


「君はお姉さんをとても愛しているんだね。だから、寂しくなるんだよ」


「どうして?」


「お姉さんも、いつかはいなくなるのだと、君が理解しているからさ」


「おじさんのお腹の中も、寂しいのね」


 そう言って、奏は彼の腹に手をあてた。血は大体乾いているのだろうけれど、シャツからは不気味な水音がした。押したことで中身が動いたのかもしれない。


「おじさんは死んだの?」


「ああ、死んだのだろうね」


「死んだら、全部なくなるんじゃないの?」


「何も、なくなりはしないよ」


 まるで優しい父親みたいに、彼は言った。相変わらず身動きしない。奏は木と話しているように見えた。


「僕はここにいる。でも、ここにはいない。土日の君たちも、そうだろう? 小学校に通い、みんなと遊ぶ。君たちは確かに街にいる。でも、土日は森の中だ。世界は君たちの行方を知らない」


「なぜ、」


 と、私は言いかけて黙った。なぜ、私たちのことを彼は知っているのだろう? しかし、二人の間に入ることは罪深い気がして、ためらわれた。


「そこにいても、いなくても。体があっても、なくても。同じことなんだ。僕は確かにある。君も確かにある」


「私は、おじさんに呼ばれたから来たの」


「そう、僕は君を呼んだ」


「寂しいから?」


「いいや、違うよ。知ってもらいたくて」


 男がもたれている木が、ざらざらと鳴った。葉が揺れ、ちぎれ、月明かりを浴びながら雪のようにふる。


「君が見ているものは、普通の人とは違うかもしれない。僕にはなんとなくそれが分かる。腹を刺され、死ぬ瞬間、寂しそうな君の目が見えた。窓の向こうから、僕を見る君の目が。君は、本当は、死んでみたいんだろう?」


 私はその言葉を聞いて、心臓が爆発するかと思った。この男は、全てを知っている。


「ひよりちゃんは、怯えなくても、いいんだ。僕は、この子に話をするだけだ。君をどうこうする体も、どうこう言う権利も、死人である僕にはない」


 男は自らのもつ雰囲気を動かして、奏を撫でた。そんな気がした。地面に座り込む奏は、空を見ながら嬉しそうにしていた。妹の姿は背中しか見えなかったが、空気で分かった。


「一番悲しんだ人だけが、一番優しくなれるんだ。火炙りにされたうさぎだから、火炙りにされるというのがどれだけ怖いことかを知っている。もし別の誰かが火炙りにされると知ったら、うさぎは死ぬ気で誰かを助けてあげることだろう。分かるね?」


「うん」


「君は今、苦しいかもしれない。お父さんも、お母さんも、君を愛してはいない。そこにいるお姉さんも、本当は……でも、君の中には星がある」


 ほし。奏は深海の底から、水面を見上げる。


「君の中にある世界を、君は愛している。だとしたら、君がいなくなったら、みんな死んでしまうんだ」


「でも、生きても死んでも、変わらないんでしょう?」


「そう、何も変わらない。いいかい? 何も、変わらないんだ」


「あ」


「君は賢い子だ。僕は優しい子だと言われてきた。誰からも騙され、都合よく使われ、最後は殺されてしまった。でも、諦めたりはしなかった。それが僕だからだ。君も、泣きながら生きていかなきゃいけない。味方はたぶん、誰もいない。だから僕は君を呼んだんだ。気持ち悪い姿で、すまないとは思いながらも」


「ありがとう、おじさん」


 血まみれの男に抱きついて、奏は言った。


 私はいたたまれなくなって、泣きながら森の中に入った。奏を愛していない。私は。賢くもない、私は。特別じゃない凡人。その癖、お姉さんぶって奏にきつくあたっている。あの子の天性は私が与えたものであるみたいに。独占して、普通の暮らしからも引き離して、異常な子を育て上げる姉という悲劇に酔っている。そんな醜さを誰かに知られたということが怖くて、恥ずかしくてたまらなかった。


 月光を吸い込み、銀色に輝く池のほとりで、私は一人泣いていた。長い、長い時間、泣いていた。どこにも居場所なんてなかった。蛙が跳ねて、水面に飛び込んだ。きらきらと光を反射しながら水しぶきがあがった。冷たい岩に座っていたら、お尻が痛くなってきた。頭がぐるぐると回って、ここがどこなのか分からなくなった。


 気が付いたら隣に奏が座っていて、私にもたれていた。くせっ毛を撫でてやると、ぎゅっと抱きついてきた。


「お話は、終わったの?」


「うん、」


「そう。また、会えるって?」


「ううん。もう、会えないの」


 幼い妹から、血の臭い。けれど、愛しくて、抱きしめる。


「でもいいの。おじさんはね、私のこと、見てくれてるって。寂しくなったら、また話そうねって」


「良かったね。友達が出来て」


「私には、ひよりちゃんがいるの」


 奏は私のお腹を優しく撫でてくれた。涙が溢れて止まらなかった。


「ひよりちゃんが私を好きじゃなくても、私はひよりちゃんが好きなの。それでいいんだって。みんな、そうすべきなんだって。だから、私はずっと寂しくはないの」


「こんなお姉ちゃんでもいいの?」


 しかし、返事はなかった。奏は深い眠りに落ちていたのだ。私は妹のくせっ毛を撫でた。撫で続けた。



 夜はいつまでも明けなかった。





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