Episode7 猫を被(かぶ)れ!
遠藤の給料が上がった。
スタント要員として認められたからだ。
命の危険度も上がった。
難易度の高い仕事を与えられることが増えたからだ。
そんなわけで休日だろうと体を鍛えなければならないし、気難しいお客さんの相手もしなければならない。困ったことに未知の生物の相手までしなければならないのだった。
頑張れ遠藤、ヒーローへの道はまだ始まったばかりだ。
Episode7 猫を被れ!
「そういうわけだから、日々の体調管理もしっかりやっておくようにね。」
社長秘書の桂木さんに呼ばれて、辞令をいただいた。
工場ロケでスネゾウの着ぐるみに入ってからこっち、事あるごとにスネゾウのスタントに呼ばれて蹴られたり、切られたり、ふっ飛ばされたりしてきたのだが、この度スーツアクター兼任として雇用契約が更新されてしまった。
ちなみに俺には拒否権が無い。
拒否すれば解雇されるかも知れないし、その場合あらぬ噂が広まって、俺の人格は全否定された上に、遠回しに社会から葬られてしまうだろう。
異星人とのトラブルを極秘裏に解決するという、G.A.M.の裏の仕事を知ってしまった以上、撮影中の事故とか、もしくは過労死かなんかに見せかけて、物理的に排除されてしまうことがあるかも知れない。
この辞令は、そのための“布石”なのかも知れない。
ギシッ、ギシッと音を立てて、運命の巨大な歯車がゆっくりと回って行く。
そんな映像が思い浮かぶ。
「断っておくけど、遠藤くんの功績を考慮してのことだからね。」
ポンっと肩を叩かれて、現実に引き戻される。
声をかけてくれたのは、クロス・レッドのスーツアクターの水木さんだ。
ネガティブなことを考えていたから、暗い顔をしていたかも知れない。
しかし、功績と言えば聞こえはいいが“わがままなヒーローの殺陣の相手”という、面倒な役を押し付けられただけのような気がする。
「まぁ、難しく考えないでいこう。」
さわやかにそんなことを言われても響きません。
変身後の、水木さんの重い剣を受けるのだって、たいへんなんですからね。
『今度は怪人の方をやってもらっても、いいかも知れませんね。』
なんて、アクション監督の鮫島さんと話していたのも覚えてます。
ただでさえ、蹴られたり、切られたり、ぶっ飛ばされたりして大変なところに、よくわからない異星人案件の処理とか、主役の小栗恭介からも目の敵にされるとか、明るい未来が想像できません。
暴漢に襲われて休養していた宮内さんが、先日退院し職場に復帰した。
運送班の先輩だが、スネゾウのスーツアクターを臨時でやっていた人だ。
休養中、その穴埋めを俺がしていたわけだが、想定以上に出来ていたみたいで、宮内さんの出る幕がなくなってしまったのだ。
本人も乗り気ではなかったという事なので、交代の話はすんなり決まってしまった。
俺の場合、裏の仕事である異星人案件の対処もあるし、スタントチームの人たちと、行動を共にしている方が、都合がいいという事なのだろう。
「しっかり鍛えておかないと、不慮の事故であっさり…なんてこともあるかも知れないわね。」
桂木さんが不穏な発言をしていた。
一瞬、宇佐美さんの蹴りを受けた時の記憶がよみがえる。
気が付いたら、地面を転がっていたあの時の感覚は、トラウマになりそうだ。
…実際、ありそうな話ですごく嫌なんですが…。
ふと見ると、桂木さんはとても楽しそうな顔をしていた。
そんなわけで勧められたのがG.A.M.本社の近くにあるスポーツジムだった。
何を隠そうG.A.M.が運営しており、設備も充実している。
料金も手頃だし社員割引もある。
小栗恭介ら俳優陣も通っているので、それを目当てに来るお客さんもいて、なかなか盛況だ。
即日入会手続きを済ませた翌日曜日、ひと汗流した後、ドライブに出かける予定だったのだが、駐車場から車を出したところで、茅原さんと宇佐美さんに出くわしてしまった。
「いいもの持ってるじゃないかぁ!」
茅原さんがスタスタと近づいて来て、後部シートに乗り込んだ。
当然のように宇佐美さんもそれに続く。
タクシーじゃないんですけど…。
聞く耳は持っていないようで、近くのファミレスへの道を指示された。
彼女たちもジムで汗を流したところだそうで、芳香剤の臭いしかしない車内が、シャンプーかなにかの良い臭いでいっぱいになった。
仕事のある日も無い日も、必ず2時間程度の運動をしているという。
「今どきマニュアル車とは気合が入ってるな、どうしたんだこれ?」
前から欲しかったんで買いました、ローンですけどね。
給料上がりましたし…。
「そういや、正式にスタント要員になったんだってな、おめでとさん。」
…それはどうもありがとうございます。
「なんだ?嬉しくないのか?」
棒読みの返事をしたので、茅原さんに不審がられてしまった。
それはまぁ、給料が上がるのはありがたいとして、その代償で命の危機を感じなければならないというのはどうでしょう?
「大丈夫だ、うちにはしっかりした医療班が待機している。」
それはいつ心臓が止まっても大丈夫、という意味でしょうか?
「止めないようにすればいい。」
えっ!…………。
宇佐美さんのつぶやきに、一瞬、思考が停まる。
「おい、前!」
キキーッ!っと、かん高いブレーキ音を立てて車を停める。
赤信号に気付くのが遅れてしまったのだった。
大きく息を吐いて、胸をなでおろす。
後続車がいなくて良かった。
茅原さんも同じような反応をしていた。
その隣で宇佐美さんが不思議そうな顔をしていた。
どうやら手加減をする気がないみたいで、俺の方の耐久力を上げよ!と言っているようだ。
普段考えたこともないが、どうやったら心臓に毛が生えるのか知りたいと思った。
「まぁ、手加減はしてやるから、派手にぶっ飛んでくれりゃいいわ。」
食後、アイスコーヒーを片手に、茅原さんが言った。
一緒に昼食をとることになり、ファミレスでテーブルをともにしているのだった。
同じようなことを小栗恭介からも言われました。
ジムであった時に…。
『僕が相手の時も、派手にぶっ飛んでくれよ。』
汗をかいた前髪を、さわやかな仕草で掻き上げながら、小栗恭介はそう言った。
アレは言われてできるものじゃあないです。
一度、宇佐美さんの蹴りを受けてもらえればわかります。
最近はスネゾウの中に入っていることが多いから、忘れられているかも知れないけど、俺の本業はドライバーですからね、間違えないでください。
そう言っておいたが、聞いていたかどうかは定かではない。
「あいつ、人の話を聞かないからな。」
茅原さんが相槌を打つ。
同感です。俺はまだ名前も、覚えてもらってません。
「でもほかに困ることはなにもないだろう?いいじゃないか?」
いやいやいや、お芝居とはいえ殴られたり、蹴られたりするのは恐いですよ。
ましてや肩とか胸とかで火薬が弾けるとか…。
手加減してくれない人もいるし…。
と、宇佐美さんをチラッと見たが、ナイフとフォークを持つ手がわずかの間停まっただけで、黙々と食事を続けていた。
どうやら今取り掛かっている、400グラムステーキから手が離せないらしい。
一緒に昼食をとることになり、ファミレスでテーブルをともにしているのだった。
「弾着もうまくなったよなぁ。最初はおかしなリアクションして、NG喰らってたのによぉ。」
弾着とは銃で撃たれて、体から血が噴き出す基本的な特殊効果だ。
この場合はレンジャーに撃たれたスネゾウの、弾の当たったところがはじけて、火花と煙が出ることを指している。
『このど下手くそぉ!!素人かぁ?!』
すみません、ど素人です。
思ったよりも大きな音がして、爆炎も凄まじかったので、体が委縮してしまったのだ。
慌てて吹っ飛ぶ動作をしたものの、見事にタイミングを外して監督に怒鳴られたのだった。
5回目でどうにかOKをもらった。
「うちの特撮には、やたら爆発の好きな人が多いからなぁ。」
ああ、樋上さんとか好きそうですよねぇ。爆発シーン多めだし…。
樋上さんとは特撮の監督だ。
編集でCG処理をしてしまうことの多い中、この人が関わると一気に火薬の量が増える。
「まあ、こんな体験はそうそうできる事じゃないから、楽しんでやればいいんじゃないか?」
確かに、普通にサラリーマンとかやっていたら、できないことばっかりだった。
ここ数日で、そんな体験を山ほどしている気がする。
ただ、楽しんでできるほどの境地に達するには、まだまだ時間がかかりそうだ。
あの時、ウサ耳を付けた宇佐美さんを助けたりしなければ、ここで一緒に食事しているようなことも無かっただろうなぁ。
少しばかり前の事を振り返って、感慨に浸りつつ、コーヒーを口に運ぶ。
向かいに座る宇佐美さんをチラッと見たら、嫌そうな顔をして料理皿を手前に引き寄せた。
…取ったりしませんからね。
宇佐美さんは、スレンダーな体形の美人さんだ。
けっして凹凸が足りないというわけではい。
変に出すぎていないだけだ。…と思う。
その割に攻撃力が半端ないというのは、どういうことなのだろう?
最初に会ったときにも思ったことだが、おかしな言動さえなければ好みのタイプだった。
あくまでも“おかしな言動が無ければ”というところを強調しておく。
その宇佐美さんは今、4皿目のハンバーグに手を掛けたところだった。
既に3皿の料理が、彼女の胃袋の中に消えていた。
見事な食べっぷりである。
黄色いスーツのレンジャー隊員は、昔から力自慢で大食漢というイメージがあるからなのか?もしくはキャラクターを地で演じているのか?
そして、彼女が食した多くの食材はいったいどこへ行くのか…?
どれくらい汗を流したのか知りませんが、体形が崩れちゃいますよ、いいんですか?
ぷよぷよな体形になった宇佐美さんを想像して、思わずふくみ笑いする。
「痛っ!」
おでこに何か飛んできた。
テーブルに転がるそれを見て、ハンバーグに添えられていた、グリーンピースだと気付く。
意外と痛かった。飛ばしたのは言うまでも無く宇佐美さんだ。
指で弾いて飛ばしたようだ。
あれ?なにか悪い事言ったかな?
非難の意志を込めて宇佐美さんを見ると、彼女もこちらを見ていた。
「ひわなぃが…、」
何か言おうとしたが、口の中がいっぱいだったので中断したようで、もごもごと咀嚼して飲み下した。
「いま何か、不穏なものを感じた。」
前も思ったけど、この人は他人の心が読めるのかな?
確かにぷよぷよな宇佐美さんを想像したとき、吹き出しそうになりましたけどね。
「宇佐美、ちょっと待って。」
宇佐美さんの口元に付いたハンバーグのソースを、茅原さんがお手拭きで拭う。
それにしても茅原さん、宇佐美さんをかまい過ぎじゃないですか?
ここへ来る時もずっと手を引いていたし、今も食事をする宇佐美さんを甲斐甲斐しく世話している。パっと見、仲の良い姉妹みたいに見える。
ついでに、グリーンピースを人にぶつけないように、注意したげてくださいね。
それにしても、戦っている時の宇佐美さんは、付け入る隙もないのに、なぜこういう時はこんなにも無防備なんだろう?
ちなみに、宇佐美さんの体形が崩れるようなことはなかった。
消化器系、どうなっているんだろう?
二人はこの後、買い物に出掛ける予定だと言うので、興味半分で聞いてみた。
「なに買いに行くんです?」
女の子らしく、服とかお洒落アイテムとかを買いに行くのだろう、と思っていたのだが、
「サバイバルナイフ。」
…という、たいへん色気のない返事が返って来て、返答に困ってしまった。
茅原宏美さんは元自衛隊員で、某アクション女優のような体つきをしている。
腕なんか俺より逞しい。
銃とかナイフとか、ミリタリーグッズのマニアなのだそうだ。
「興味があるのなら、見せてやってもいいぞ!」
それなりに興味はあったが、深く関わるのは危険な匂いがしたので、丁重にお断りした。
そういえば、始めて合った時のガン捌きも、常人のものとは思えなかった。
もともと銃の撃ちあいとか、銃撃戦に関わっている人なら、こういうスタントも楽しんでできるかも知れない。
ちなみに佐々木さんも元自衛隊員で、狙撃手を担当していたという。
所属する部隊が違ったので面識はなかったが、趣味が一緒だったのですぐに打ち解けたらしい。
そうか、佐々木さんもミリオタなのか。
水木さんは交通機動隊で副隊長をやっていた人で、子供が二人いるのだそうだ。
実はたいへん家族思いな人だと言う。
宇佐美さんについてもいろいろ聞いてみたかったのだが、茅原さんに電話がかかって来て、別行動をとることになった。
「何処かに出かけるなら、宇佐美も連れてってくれないか?」
体良く、宇佐美さんの世話を、丸投げされてしまった。
連れて行けって言われても、俺が楽しむだけのドライブですから、宇佐美さんが楽しいかどうかはわかりませんよ?
「買い物とか、行かなくていいんですか?」
デザートのアイスを食べている宇佐美さんに聞いてみたら、スプーンを口に入れたままうなずいたので、流れのままに同行することとなった。
ちなみに茅原さんは何処に行くのか聞いたところ、「大人の付き合いだ。」という返事がウインク付きで返って来た。
あぁ…、そういうことなら仕方ないですねぇ、お邪魔するわけにも行きませんし…。
駅前で車を降りた茅原さんは、しばらく歩いてから、回れ右してダッシュで戻って来た。
「手とか出したら、ただじゃ済まないからな!」
胸元を掴まれて、お約束の忠告をいただいた。
そんなこと言うくらいなら、宇佐美さんも連れてって下さい。
都心から少し離れた山中の街道へ向かう。
個人的に曲がりくねっていたり、起伏の多い道路が好きなので、車を手に入れてからは、ちょくちょく出かけている。
別に某有名マンガみたいに、ドリフトキングを目指しているわけではないから、無茶な運転はしない。
純粋に走ることを楽しむためにやっている。
前の仕事でそういう道を走る時、なかなか楽しかったのが癖になったみたいだ。
助手席の宇佐美さんは相変わらず表情が読めないので、楽しんでいるのかどうかはわからない。
それでも、ウサ耳男たち追いかけられた時のことを考えれば、落ち着いているように見えた。
「遠藤、楽しいの?」
宇佐美さんから声をかけられてハッとする。
何も言われないのをいいことに、ついつい自分本位の運転をしていたみたいだ。
そんなに楽しそうに見えたのだろうか?
宇佐美さんを乗せていたから、それなりに気を付けていたのだけど…。
「そうですね、カーブとかでギアチェンジして、エンジンの回転と合わせられると、ことのほか気持ちよく動くので面白いですよ。」
「…わかった。」
…賞賛を期待していたわけではないが、もう少し長めの意見をいただきたいものだ。
まぁ、俺の気持ちを理解してもらえたのならありがたい。
でも、宇佐美さんとしてはどうなんだろう?
「宇佐美さんこそ、何処へともわからないところに連れていかれることに抵抗はなかったんですか?」
「宏美から…黙って乗っていれば、おいしいものを食べさせてくれる、と聞いた。」
ほとんど表情を変えなかったが、楽しみにしているのか、声がいつもより弾んでいる気がする。
…あぁ、なるほど、そうですか。
俺の知らないところで、暗黙の了解が成り立っていたようだ。
「あと、自分で走らなくてもいいから、楽。」
これは素直な感想のようだ。
あれ?宇佐美さんの故郷には、車とか電車とか無かったのだろうか?
浮世離れしたこの性格は、文明と隔離された田舎とかで育ってきたからなのかも知れない。
もしくは“〇〇の穴”みたいに、特別な教育施設で育ってきたとか…。
もうちょっと詳しい説明を求めたが、「ご飯がおいしくなかった。」という返答しか帰って来なかった。
嫌な思い出とかあるのかも知れない。
額に当たったグリーンピースの痛みを思い出す。
下手に詮索すると、また何か飛んできたら困るので、今は触れないでおこう。
峠の中腹にあるピザ屋が今回の目的地である。
何度か素通りしていて、気になっていた店だ。
“自身のこだわりのために商売をやっている”という店長さんがやっている店だった。
そのこだわりは十分発揮されているようで、窯焼きのピザはとてもうまい。
凄い勢いで宇佐美さんが平らげてしまったので、お代わりを頼んだ。
ピザを気に入ったらしい宇佐美さんが、もう一枚お代わりを頼んだが、材料がなくなったので今日は閉店だと言われてしまった。
直後、口をもごもごしながら、普段よりきつい目でジッと見られた。
ニュータイプが感応したような音がした気がした。
「わかりました、また来ましょう。」
そう答えると、目線を戻してピザを食べ始めたから、妥協してくれたみたいだ。
柳眉を下げてもらって何よりだ。
食べ物の恨みは恐いからね。
そう言えば、生まれ育った所が、『ご飯がおいしくなかった。』って言っていたよなぁ。
宇佐美さんの食に対する執着は、そういうところからきているのかも知れない。
そんなわけで、食べ終わったピザのお皿を、恨めし気に見ている宇佐美さんを促して帰路につく。
峠道を下っている途中で、宇佐美さんが「停めて。」と、言ってきた。
あれ?まさか車に酔ったりしたんですか?
たくさん食べた後だから、このカーブの多い街道は、辛かったのかも知れない。
車を止めるとドアを開けて駆けだした。
背中くらいさすってあげるつもりだったけど、余計な心配だったみたいだ。
道の脇の草むらに猫がいた。
白い猫が風になびく雑草にじゃれていた。
しゃがみ込んで猫を見ている宇佐美さんに、目を奪われてしまった。
あっ…
普段の彼女からは想像できない“乙女”がそこにいた。
不意打ちを喰らった感じで、しばらく目が離せなくなってしまった。
人懐っこいのか、警戒心もなく近づいてきた猫の喉元を、宇佐美さんが撫でる。
ゴロゴロと喉を鳴らしている猫を、宇佐美さんが抱きあげて頬ずりをしている。
彼女にしては珍しく“至福”という感じの表情を見せる。
ここにいるのは本当に、あの宇佐美さんなのだろうか?
木々の隙間から差し込む陽の光や、風にそよぐ木の葉のざわめきの演出効果も相まって、純真な少女が猫と戯れている、そんな風にしか見えなかった…。
ハッ!俺は緩んできた顔を引き締めるべく、両手で頬をパン、パンと叩いて、両手を頬に当てたまましゃがみ込んだ。
なんとか現実に戻らなくてはいけない。
そう、あれは紛れもなくあの、宇佐美さんなのだ。
いくら何でもフィルターかけすぎだろう。
しかし、普段が普段なだけにインパクトが強い。
なんとかフィールドみたいなものを、展開しているのだろうか?
心中で葛藤していた俺は、宇佐美さんの視線に気づいてそっちを見た。
「猫を被ってみた。」
猫の両前足を両手で持って、帽子を被るように猫を頭に乗せている。
頭の上の猫は、なんだか困惑顔である。
ダメ押しを喰らってしまった。
まさに、振り返りざまにカウンターを受けてしまった、というタイミングである。
いや、ちょっと待って、それ可愛すぎるからやめて下さい。
いつものとおり無表情なんだけど…、いや、無表情なことが余計に可愛さを醸し出していた。
ニヤけているのがバレないように、口を両手で隠してごまかした。
「かわいい?」
俺の心中を知ってか知らずか、少し首をかしげる。
うっ、もうこっちはダウン寸前です。
充分かわいいですよ、あれ?かわいいとか言ったら、失礼かな?
そう言えば宇佐美さんの年齢とか、聞いたことがない。
年上か、同い年くらいと思っていたんだけど…。
そう考えたら、少し余裕ができた。
とにかく、普段の彼女からは、考えられない行動である。
ニヤけて赤くなってしまった顔を整えてから、向きなおって返事をした。
なんでそんなことしたんです?
「可愛げがない、と言われた。」
しゃがみ込んで、むずかる猫を地面におろした宇佐美さんは、猫に目をやったままそう言った。
猫は体をブルブルっと震わせると、腰をおろして後ろ足で首の後ろを掻いていた。
『可愛げのない女は黙れ!』
先日、小栗恭介に言われたことを気にしていたのだろうか?
以外に繊細な…、いやいや、見かけで判断しちゃだめだ。
あれは恭介の八つ当たりですから、気にしなくていいですよ。
彼は自分さえよければ、いいんですから。
「…綾瀬に、猫を被っておけばいい、と聞いた。」
綾瀬さんとはクロス・グリーンこと、緑川ひかる役の綾瀬由紀さんのことだ。
『長澤みたいに猫をかぶっていれば、男なんて簡単に騙されてくれるわよ。』とか聞いたらしい。
うん、その考えは正しい。自分で言うのもなんですが、男はバカですからね。
「…長澤は撮影中、猫を被っているらしい。」
あぁ、確かにその節はありますよねぇ。最近知ったことですけど。
「…注意して見ているが、いつ猫を被っているのかわからない…。」
素の自分は隠しているようですから、わからない人は多いでしょうね。
『このボンクラ野郎!』
長澤恵美の本性は、小栗恭介を怒鳴りつけた時にしか見ていないから、撮影中はお嬢様なイメージを保っているのだろう。
いや、あれも実は演技だったりするかも知れない。
「遠藤は、撮影で、猫を見たことがある…か…?」
猫ですか?…、たまに撮影で使いますよね、猫。…って、あれっ?
「今度、よく観て見る。」
宇佐美さんが、何か意を決したような表情をしている。
ついでにこぶしも握りしめていた。
あーっ、違いますからねぇ。
“猫を被る”というのは、猫を帽子みたいに被ることじゃないですよ。
確かにかわいく見えますけど…。
つい今しがた思い知りました…。
人前では本性を隠して、可愛らしく見せておくことの意味だと説明する。
「それで猫がいなかったのか。」
なんとかわかってもらえたみたいだ。
そう言えば茅原さんが『小栗が宇佐美にちょっかいを出してきた。』と、言っていたから、無愛想な宇佐美さんに、しびれを切らせていたのかも知れない。
一方的に責められていたところに、茅原さんが来て事なきを得たと言う話だったかな。
それ以降、恭介にとって宇佐美さんは『可愛げのない女』となっているようだ。
そんなふうに思っているのは、恭介ぐらいだと思うけど、宇佐美さんには思うところがあったようだ。
「私がう………だから…。」
宇佐美さんが小声で喋ったせいか、セミの声がうるさいせいなのか、よく聞き取れなかった。
「いま、なんていったんですか?」聞き返したが、宇佐美さんも困った顔をしていた。
俺の声も聞こえなかったのかな?
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ、とヒグラシだったかな、セミが鳴いている。
確かこのセミは、もっと静かに鳴いているイメージがある…、あるんだけど…。
なんだろう?今ここで鳴いているのは、アブラゼミか、クマゼミのような大きな声で風情がない。
周りの木々に響いているせいか、よけいに騒がしく感じる。
ガナガナガナガナ、ガナガナガナガナ、ギャースー
あれ?俺の知っているセミの鳴き声じゃない?
痛っ、肩に何か固いものが当たった。
木の枝でも落ちて来たのかと思って、足元を見ると地面に頭を突っ込んでジタバタしている甲虫らしきものがいた。
こいつが空から落ちてきたのだろうか?
そう考えて頭上を見上げると、とんでもない光景があった。
黒い小さななにかが集団で、上空にドーナツ状の輪っかを作って飛んでいた。
ガナガナガナガナ、ガナガナガナガナ、ギャースー、と鳴いているのはその集団だった。
そのうち、ポツリ、ポツリと俺たちのいるところに向かって落ちて来た、いや、飛んできた。
地面に落ちて刺さった(?)やつを引き抜いて見ると、角のあるクマゼミみたいだった。
ヘラクレスオオカブトみたいに長い角を持っていた。
しかも、その角がアイスピックみたく鋭く尖っている。
ツノゼミという昆虫は地球上に存在するが、こんなに大きくはないし、角もこんなに尖ってはいない。
まじまじと観察していたら、もぞもぞっと動き出し、顔をめがけて飛んできた。
とっさに躱したのだが、肩のところをかすめて飛んで行った。
シャツが破れ、赤い傷跡が残っていた。これはヤバい生き物か!
「…宇宙生物。」
宇佐美さんが猫を抱いて車の中に入った。
ドアを閉めたが、今度は車に向かって突撃してきた。
天井やガラスにぶつかって傷を付けて行く。
ああ、せっかくロ-ンを組んだのに…、
いや、そうじゃない。
宇佐美さんにシートベルトを付けるように促し、車を急発進させた。
走りだすと奴らも追いかけて来た。
蜂が巣別れをする時に、集団で移動するみたいな感じで、黒い粒みたいなものが後ろから迫って来る。
しかし、カーブの多い下り坂ではセミたちに追い越されてしまい、黒い雨粒のようモノが正面から車に突っ込んできた。
ダダダダダダダダダダダダッと、雹とか霰に打たれた時のような音がする。
大半はフロントガラスをかすって横か、後ろへ飛んで行く。頑丈な体を持っているらしく、何度も突っ込んでくる。
なので、フロントガラスは見るも無残な状態になっていた。
金属片で引っ搔いたみたいに白い筋がいくつも付けられていく。
幸い視界は保たれていて、少し不安ながらも運転を続ける。
猫を抱いた宇佐美さんのいる、助手席側に集中している。なんで?
4つ目のカーブを超えたところで、ついにフロントガラスに穴が開いてしまった。
すかさず一匹のセミが突っ込んできた。
猫をかすめてシートに突っ込み、動けなくなっている。
「あっ!」
小さな悲鳴が聞こえたので見ると、猫のわき腹に血が滲んでいる。
今のセミが傷つけたのだろうか。
宇佐美さんが傷を手で押さえているが、猫は苦しそうだ。
コンソールボックスからティッシュペーパーを出して、何枚かつまんで宇佐美さんに渡す。
傷口に当てられたティッシュが見る間に赤く染まって行く。
その間にもセミたちは、窓ガラスの穴から中に入ろうと突っ込んできた。
小さい穴に、2、3匹が一度に突入して動けなくなっていた。
知能は低いようだ。
宇佐美さんは片手でフロントガラスの穴をポーチで塞ぎ、片手で猫の傷を押さえている。
ポーチに当たったセミ達が、跳ね返されていく。
何が入っているんですかそれ?
「極秘事項。」
ま、まあ、女の人のバッグには、秘密があるって言いますもんねぇ。
「トンネルは、まだ?」
少し先に800mくらいのやつがある。
「距離を取って。」
トンネルに入るまでに、引き離せってことかな、どうするんです?
「緊急処置。」
物騒なことにならなければいいなと思いながら、スピードを上げていく。
対向車が心配だったけど、幸いなことに出くわすことはなかった。
夕暮れが近い山道を、今から走り抜けようなんて酔狂な者はいないってことらしい。
カーブの少ない区間だったので、スピードを上げて多少距離が取れたようだ。
それでもまだ後ろに着いてくる。
トンネルに入ると、宇佐美さんが肘で窓ガラスを粉砕した。
かなりひびが入っていたから、にべもなく壊れた。
「ごめん。」
俺の気持ちを察してくれたようだ。
表情が緩んでいた気がしたが、気のせいだったかも知れない。
「スピード落とさないで!」
直後、厳しい口調で指示が飛んできた。
宇佐美さんがポーチから何かを取りだした。
なにかを引き抜いて投げたソレは、まさか手榴弾?
数秒後、爆音が響き、車体が揺れる!っていうか、爆風で押される。
炎が上がり、すごい勢いで追いかけて来るのが、バックミラーに映っていた。
なんでそんなもの、持ってんですかぁ?!
「護身用。」
トンネルの出口に向かって速度を上げる。
あぁ、思えば短い人生っだったよなぁ、って何度目だろう。
下手すると、これが最後になるかも知れない。
車体のすぐ後ろに爆炎が見える。
燃料か何かが燃える臭いと、激しい熱気が迫ってきた。
「うわぁーーーー!」
悲鳴みたいな声を上げながらアクセルを踏んでいた。
爆風に押されるような感じで、トンネルから飛び出す。
爆炎はトンネルを出たところで霧散したようだ。
急ブレーキ気味に停車したが、道が悪いせいもあり、車体が左右に振られた。
窓を開けてトンネルの方を振り返る。
周囲に爆薬の臭いと、薄い煙が立ち込める。
爆発音のせいで、森の中で鳴いていた鳥や虫たちは鳴りを潜めていた。
緩やかな風が吹いて、爆炎の名残りを浚っていく。
トンネルから出て来るセミはいない。
どうやら殲滅できたらしい。
宇佐美さんに「大丈夫ですか?」と声をかけたが返事がない。
彼女の膝の上にいる猫は、ピクリとも動かなくなっていた。
肩を震わせながら静かに泣いていた。
困った…、こんな時、なんて声をかけたらいいかわからない。
いい男なら気の利いたセリフの一つも言えるんだろうけど、いくら考えてもろくな言葉が出てこなかった。
経験値が足りなさすぎる。
それでも、肩を抱いてあげることくらいはできそうだと思って手を伸ばした。
が、そんなことは今までしたことがないので、緊張して手が震える。
なぜか鼓動が速くなっていた。
もう少しで手が届くと思った時、驚愕すべき事態が発生した。
「ああ、痛かった。」
えっ!
渋いおっさんの声で、猫が喋った。
その瞬間、宇佐美さんも俺も固まってしまった。
宇佐美さんは泣くのをやめたが、口は開けたまんまだ。
「いやぁ、わしらは命を7つ持っているんじゃよ。」
のほほんと話すおっさん声の白猫。
たぶん、猫じゃないんだろうなぁ…。
表情が固まったまま、視線だけを膝の上の白猫に移す宇佐美さん。
白猫は、宇佐美さんの顔と俺の顔を交互に見比べている。
俺もきっと、すごく間抜けな表情をしていたと思う。
「私の純情を返せ!」
めずらしく宇佐美さんが激昂した。
「俺のもだ!」
よくわからない感情がこみあげて来て、思わず声を荒げてしまった。
せめて、せめて、どこぞの武闘仙人みたいなしゃがれ声じゃなく、某ゲームの愛くるしいペットモンスターの声で喋って欲しかった!
ついには涙まで溢れてきた。
「地球人は難しいのぉ。」
そう言っておっさんネコは、後ろ足で耳の後ろを掻いていた。
腹の傷はいつの間にか治っていた。
どうやらセミだけでなく、ネコも宇宙生物だったらしく、桂木さんに連絡したところ回収班を送ると言われた。
ネコ(猫型異星生物)は、とある星のVIPであるという。
宇宙船が襲われ地球に不時着した。
この場合、地球の近くにあるという検疫衛星が迎撃することになっているのだが、流れ弾を受けて動作不能に陥ったという。
対抗勢力が彼を抹殺すべく解き放ったのが、セミ(昆虫型生物)だった。
ターゲットを教えると、集団で襲いかかる殺人(猫)生物だという。
助手席に攻撃が集中してたのは、そういう理由だった。
とんでもない生き物がいたものだ。
宇宙は広い…。
でも、せまい車内には重い空気が滞留していた。
回収班が着くまでしばらくの間、そこで待機しておくようにと指示された。
「退屈じゃねぇ、なんか話をしてくれんかね?」
流暢な日本語で、おっさんネコが話しかけて来る。
宇佐美さんの膝のうえで丸まって、彼女を見上げている。
その仕草だけなら多少のことは許せるものの、これで喋ったりしなければ…、喋ったりしなければ…。
理不尽さに、体の中から何か湧き上がってくる気がして、拳を握っていた。
「…しゃべるな。」
その声は優しく穏やかに聞こえたが、ことのほか冷たく響いた。
ネコはピクッと体を震わせた後、目を丸くして硬直していた。
俺の方をチラッと見た後、諦めたように宇佐美さんの膝の上で蹲った。
目を丸くしたままだったので、人間なら不服の意を示しているといったところか。
宇佐美さんは優しく猫を撫でてはいたが、笑ってはいなかった。
しばらくの間、妙な憤りを、宇佐美さんと共有していたような気がする。
バックミラーを見たら、俺も不機嫌な顔をしていた。
表情を戻そうとして目の下をぐりぐりと弄っているのを、ネコが不思議そうに見ていた。
陽が傾いてきて、カナカナカナカナ、と今度こそ本当の蜩が鳴き始めた。
やがて回収班が来て、簡単な事情聴取と検査があった。
宇宙生物から、病原菌や微生物など、感染していないかを確認するためだ。
おっさんネコは回収班に引き渡して、その場を後にした。
運搬用のケージに入れられたおっさんネコが、「嬢ちゃんの膝の上の方がいいなぁ。」とか言っていたがスルーした。
マジおっさんかよ!
帰宅するまでの間、すれ違う車や通行人から、おかしな目で見られ続けた。
助手席の窓ガラスは粉砕、フロントガラスはすり傷だらけで穴も開いている。
おまけに車体の後部には、焦げ跡まで付いていた。
さっさと通り過ぎてしまいたいところだが、トラブルはもうごめん被りたいので、地味におとなしい運転を心掛けた。
というか、宇佐美さんの纏っているオーラというか、雰囲気がピリピリしていて痛い。
いつもより硬い表情でずっと前方だけを見つめていて、触れようと手を伸ばしたなら、気まぐれな猫みたいに飛び出して、何処かに行ってしまいそうな感じだ。
『私がう………だから…。』
あの時なんて言っていたのかも気になる。
困った、こんな時なんて声をかけたらいいかわからない。
いい男なら気の利いたセリフの一つも言えるんだろうけど、ハードルが高すぎる。
…経験値が足りなさすぎる?
いやいやいや、普通に考えても宇宙生物との遭遇だなんて、そうそうあるはずがない。
いかな名俳優でも、こんな事態に打つ手はないだろう。
結局、かける言葉を思いつくこともなく彼女のマンションにたどり着いた。
ちなみに茅原さんと二人で、シェアしているそうだ。
出迎てくれた茅原さんの顔を見て気が緩んだのか、宇佐美さんが泣き出してしまった。
「なにがあったの、宇佐美ぃ?」
ちょっと赤い顔をしている茅原さんが、心配してか宇佐美さんを抱きしめる。
茅原さんが宇佐美さんの頭を、いとおし気に撫でてやっている。
こうやっていると本当の姉妹みたいで、殺伐とした宇宙生物との戦いの後では、とても安心する。
だが宇佐美さんが発した一言で、事態は風雲急を告げる。
「…純情を、もてあそばれた…。」
疑わしい言い回しであった。
「遠藤ぉ~、きさま、なにをしたぁ~!」
瞬間的に黒いオーラを纏った茅原さんが、鬼神と化して胸ぐらを掴む。
なにやら酒臭い。
そういえば大人の付き合いとか言ってたよね。
色っぽいことを想像していたのに違ったようだ。
頬に冷たく固いモノがあたる。
近すぎて視点が合わないが、銃のような形状のものが目の前にあった。
…銃だった。
なんでそんなもん持ってんですかぁ?
「護身用だぁ!」
愛用のものらしく、うっとりと見つめてから俺の頬にピタピタとあてる。
「正直に言えば、苦しまないようにしてやる。」
過剰防衛ですから、それぇぇぇぇぇぇー!
命の危機を何度か感じながら、1時間近く説明してやっと納得してもらった。
ちなみに宇佐美さんはといえば、車の助手席に座って寝てしまっていた。
ネコ可愛がりも大概にして欲しいものだ。
Episode7.1「猫のいる風景(仮)」に続く
猫づくしでした。
どうでしょう?
猫が喋るアニメや映画はたくさんありますが、できればかわいい声(猫なで声というやつ)でしゃべってもらいたいものです。
そう思っているのは私だけでしょうか?
蝉は群れで行動する生き物ではないので、ここに出て来る殺人ゼミは蜂に近い生き物という設定です。
集団で人を襲ったり、よもや血を吸ったりするようなことはないのでご安心ください。
宇佐美さんのポーチに何が入っているかは極秘事項です。