Episode5 夢魔の棲む館
“特別手当”という甘い言葉に誘われて、残業を引き受けた遠藤の向かった先には、水木らスタントチームの面々が待っていた。彼らと同行した先で“異星人案件”という、G.A.M.の裏の仕事に参加することに…。果たして、寂れた別荘地の廃墟に、未確認生命体(UMA)は存在するのか?
Episode5「夢魔の棲む館」
日の暮れかけた国道を山の手の別荘地に向かって、コンテナ車を走らせている。
山の間から時々西日が差してくるが、ヘルメットの日除けシールドのおかげで快適だ。
「…どこからこういう情報が入ってくるんですか?情報屋みたいな人がいるんですか?」
「そういう事は、あまり気にしないほうがいいよ。」
助手席に座る水木さんは、苦笑いして答えてくれた。
深入りしないほうがいいと、遠回しに忠告してくれているのだろう。
とは言え、気になるのだからしょうがない。
ほかに話題も無いし…。
-1時間ほど前-
『残業、行けるかしら?特別手当がつくわよ。』
むし暑い倉庫内で小道具とかを片づけていたところに、桂木さんから電話がかかってきた。おいしそうな提案をしてくれたので、思わず飛びついてしまった。
なにより“特別手当”という単語に、心を動かされてしまった。
ボーナスの時期を過ぎてからの入社だったしね。
臨時収入の使い道に心を躍らせつつ、足取りも軽く指定された倉庫に向かう。
だがそこには水木さんたち、“対宇宙人トラブル解決部隊”こと、スタントチームの4人が待っていた。
「やあ、よろしく頼むよ。」
にこやかな表情の水木さんに、「どうも。」と返して平然を装ったものの、胸中は穏やかではなかった。
桂木さんからは荷物の運搬と聞いただけで、この人たちと同行するということは、知らされていなかった。
ほかに荷物らしいものは特になく、つまり荷物とはこの人たちのことだ。
この仕事がヤバい案件である、と気付いたときには、もう後の祭りだった。
『300m先 交差点を 右 です。』
カーナビが、抑揚のない声で進行方向を伝えてきた。
今向かっているのは、他県との境に近い別荘地で、なかでも一番奥にある洋館が目標である。
ペンションとして開業した当時は好評だったのだが、景気の低迷と共に利用者も減少、十数年が経過する間に所有者が何度か変わったが、再び日の目を見ることはなかったようだ。
廃業となり不動産屋の手を転々、今の所有者からも忘れられかけていた物件だ。
半年ほど前から廃墟マニアのSNSに、写真が載るようになっていたとのこと。
“幽霊を見た”という証言から始まって、“吸血鬼が住んでいる”とか、“血を吸うUMAの棲み処”とか、SNSで噂が広まって行った。
幽霊がでるとか、奇怪な現象が起きるとか、廃墟にまつわる噂にはきりがない。
今回も何かを見間違えたのだろうと思われていたが、どうやら本当に何かが棲みついているらしいのだ。
二週間ほど前、この屋敷に不法侵入した少年たちがいた。
彼らは廃墟を巡るツアーを慣行していた、いわゆる廃墟マニアの集まりである。
彼らにとっては、リアルでダンジョンに挑戦する冒険であったのだろう。
別の場所でも、無断で入り込んだりしていたようだ。
まあ、誰も住んでいなければ、建物は悪くなる。
窓が割れたり壁が腐食したりして、小動物が入ったりすることもあるだろう。
「ずぼらな管理者が、玄関の鍵を水道メーターのところに隠していた、なんてことがあるかも知れないですしね。」
「さすがに詳しいね。」
「あぁ、どうも……!」
と、答えたところで、変な感じがして表情が固まる。
今、“さすがに”って言った?
快適なはずのヘルメットの下で、汗が一雫流れる。
シールドのせいでよく見えないが、水木さんの口もとが笑っているような気がする。
心なしか楽しそうだ。
「あっ、前見ないと危ないよ。」
「す、すみません。」
大学時代に魔訶研の活動で、似たようなことをやっていたのは、既にバレているようだ。
恐るべしGAMの情報網。
それはともかく…、この日少年たちは、朝になっても帰って来なかった。
いつもなら深夜には家に帰って、布団に潜り込んでいたというのだが…。
親たちが警察に捜索願いを出した矢先、少年らが帰ってきたという連絡が入る。
全員が洋館の中で奇妙な現象に襲われ、気がついたら日が昇っていて、1階のロビーで目を覚ましたという。
何があったか事情聴取した結果、各々が好きな異性やら、または映画やゲームのような幻を見ている間に眠ってしまったという。
心地よく目覚めた後、首筋に何かに噛まれたような傷、言うなれば吸血鬼に噛まれたような、二つの血の跡が残っており、それに気づいた少年たちは、怖くなって逃げ帰って来たという。
それ以前にも不法侵入する者がいたらしく、SNSには場所こそ明かされていなかったが、建物の画像と各々が体験した不思議な現象が投稿されていた。
被害届が出ていないので、警察は周辺のパトロールを行い、不法侵入を防ぐくらいしかやってない。
家主に連絡を取りたいが、転々と代わっているので確認が手間取っていて、なかなか進展しないのだという。
不法侵入した者たちも、咎められることが嫌だから、被害届を出していないのだろう。
幸い、ひどい怪我もなかったようだし…。
警察から洋館の所有者に、連絡が取れたのが1週間ほど前。
管理者の不動産屋があわてて手配した調査会社(“ゴーストハンターS”とかいう名前の、胡散臭い会社)の調査員が、逃げ帰ってきたのが3日前。
彼らの携帯には、眠り込んでしまった調査員の首に、覆いかぶさる黒い影が映っていた。
偶然映り込んだもので、ピントが合っておらず、その正体は不明のままだ。
実は撮影者の指が映り込んだのではないか?という、楽観的な意見もある。
社名を伏せて“超常現象の研究機関”という触れこみで(これも胡散臭い…)、調査を請け負ったのが昨日のことなのだそうだ。
何もなければそれでもいいのだが、G.A.M.の持つ情報源によれば、該当する生物がどこかの惑星で棲息しているという。
繁殖でもされると、地球の生態系の存続に係わるので、その原因を究明し地球外生物の仕業であれば対象を捕獲、または排除するというのが今日の仕事の内容である。
もちろん実在していても「何もありませんでした」と,依頼者には報告する手はずになっている。
報酬が目当てじゃないからね。
ちなみに、捜索のために建物内を探索するのはスタントチームの4人で、俺は現地まで送り、作業終了後には皆さんを回収して帰ってくる、という役割である。
「あと、今さらですが、この仕事は異星人案件ですよね?」
「そうだが…、確かに今さらだねぇ。それがどうかしたのかい?」
「ほかに運転手として適任者とか、いなかったのかなぁとか思いまして。」
ちょっとばかり前に入社した人間に、こんな大事な仕事を任せていいのだろうか?
「そうか…、前任者はちょっと事情があって、この仕事を降りてしまったからねぇ、今となっては遠藤君以外に、適任者はいないよ。」
「事情って、どんなですか?」
「個人的なことだよ。」
いわくありげな水木さんの返答に、妙な不安感が沸き上がってしまった。
「まさか、よその星から来た未知の病原菌に侵されたとか?」
「そんなことは無いよ。」
「じゃあ、異星人に襲われたせいで、得体の知れない生物に変身してしまったとか?」
「…えーっと、」
返答に困った水木さんが、苦笑いをしている。
『そんなわきゃあるか!バカ野郎!』
ヘルメットのインカムから、ツッコミを入れてきたのは茅原さんだ。
インカムで怒鳴るのはやめてください。耳が痛いです。
『音量の自動調整ボタンを、ONにしておくといいよ。』
ヘルメットの機能を説明してくれたのは、佐々木さんだ。
このヘルメットには、そんな便利な機能もあるらしい。
『そんなこと、あるの?』
『だから、あるわけないって!』
通常モードの宇佐美さんの疑問に、茅原さんがツッコミを入れている。
水木さん以外の3人は、コンテナの中で待機中である。
着替やスーツを入れるロッカー以外に、休憩のためのソファーや冷蔵庫が置いてあるらしい。
今日は超常現象を調べる会社の調査員という設定なので、全員が作業員用のスーツを着ている。
『隊長も隊長で、何もったいぶってんですか!病気の治療のために辞めたって、正直に言えばいいじゃないですか、面倒くさい。』
「いや、なんかプライベートなことだし、あまり大っぴらにしないほうがいいかなと思ってね。」
『変なところで、気を使わないでください!』
前任者は高齢だったことと、がん治療のために辞めたらしい。
水木さんの話によると、銀河連邦(仮)所有の検疫のできる施設(宇宙ステーションみたいなものらしい)が、いたるところにあるのだという。
地球に立ち寄るときにも、そこを通らないと問答無用で攻撃される、…らしい。
でも地球外の生き物がここにいるってことは、検疫の内容に穴があったとしか考えられないですよね?
「そういう噂があるってことだよ。それにこの生物を、どこかに移送する途中だったのかも知れないしね。」
営利目的で運ばれていたのかも知れないってことですか?なら仕方ないですが、管理はちゃんとしてほしいものですね。
生物を移送する場合は、ほかに戦争目的というのもあるらしい。
生物兵器ってとこですか?
この前の宇宙グモはどうだったんだろう?
水木さんたちも、詳しいことは聞かされてないらしい。
「そんなわけだから遠藤くんなら、この仕事がどんなものなのか、説明する必要もないしね。」
あぁ、そういうことですか。
秘密を守る条件で、この仕事に就かせてもらっているわけですから、今後の人生をG.A.M.に握られてるようなもんです。
「そんなに自分の価値を、低く見積もることはないよ。」
かなり卑屈になってしまった。
いじけてるわけじゃありません、ちょっとばかり逃げ道を探したまでです。
逃げようがない事が確認できました…。
でもまさか地球が惑星間航行の中継点になっていて、異星人がこっそり来訪していて、トラブル対応に特撮映画の会社が働いているなんて、誰も思いつかないですよねぇ。
ところで、水木さんたちはなんでこの仕事に就いているんですか?
『それこそ聞かないほうが無難だ。』
インカムから茅原さんに窘められる。
水木さんを見るとやはり苦笑いをしている。
…ですよねぇ。
G.A.M.社内で、異星人トラブルに関わっている人間は少ない。
そのことに誰が関わっているか、ということも知らされていない。
あえてそれを問わないというのも、この仕事を続ける上での鉄則だ。
前任者が抜けてしまったから、企業秘密の一端を知ってしまった俺は、この仕事に打ってつけってことになるんだろうか?
…このまま使い潰されるのではないか?という、一抹の不安をも感じる。
魔訶研の時は、昔のテレビであったという“○○○探検隊”のつもりで参加していたし、UMAの捜索も実際にいるはずはないだろうから、見間違っただろうなにか、もしくは別の生き物を探せばいいのだと考えていた。
なかなか思ったようにはならなかったが、結果としてなかなかいい感じに盛り上がった。
まあ、あれはアトラクションみたいなものだったしなぁ。
しかし今回は、その道のプロ(?)が言っていることだから信憑性が高い。と、なれば…生死にかかわることもあるのではないか?ということだ。
ウサ耳男たちに追いかけ回された時は、宇佐美さんたちのおかげで何とか助かったけれど、就職の見返りに、こんなリスクがあるとは考えてなかった。
はぁ…。
先行きを案じれば、ため息も出ようってものだ。
「大丈夫かい?やっぱり荷が重かったかな?」
大丈夫です。既に3回クリア済です。
あと、出来ればそういうのは、選択肢があるうちに言ってください。
それから数十分、山道を進んだだろうか。
陽も落ちて夕闇が周囲を包み込んだ頃、現場である洋館の前に到着する。
趣のある、というか映画でよく見たことのある“幽霊屋敷の門”を思わせる立派な門の近くにコンテナを停める。
ここへ来るまでの間、ところどころに街灯があったが、道を囲む雑木林のせいで見通しは悪く、隣家は10分ほど前に“売家”の看板がある別荘らしい建物を見たっきりだ。
3階建て洋風ペンションの裏手には、広葉樹が繁る林があって、それは建物のすぐそばまで迫っていた。さっきまでざわめいていた蝉たちは鳴りを潜め、ザザザァという枝葉の騒めきの合間に、虫の音が聞こえる。
標高が高いせいだろうか、涼しい風が吹いていた。
レンガ造りの壁には半分近く蔦が繁茂しており、一部崩れかけている箇所もある。
幽霊屋敷とか、悪魔の館という、SNSで呼ばれている通りの様相を程していた。
俺的にはゾンビサバイバルゲームで、研究施設への入口になっている別荘のイメージだ。
中に入る前に建物の状態を確認するようで、小型のドローンを飛ばして様子を探る。
ドローンの操作は、佐々木さんが行っているようだ。
水木さんがコンテナの中に入ってしまったので、俺は運転席で周囲の警戒をしつつ、タブレットでドローンからの映像を見ている。
曲りなりにも廃屋探検の経験者として、意見があったら言って欲しいそうだ。
…懺悔とか、かな?
ドローンが裏手に回り込むと、開いている窓が確認できた。
『先客がいるみたいだね。』
『どっかの廃墟マニアか?』
その窓からドローンも侵入する。
光源がないので、暗視カメラに切り替えられる。
テレビの特番でよく見る、なんとなく緑がかったモノクロ映像に変わる。
中には空っぽのダンボール箱や、棚がいくつか置いてあった。
以前は食料か何かの貯蔵庫だったっぽい。冷蔵庫らしいものもあるし…。
開いている扉から通路へ移動して、開けた空間に出る。
『ホテルのロビーみたいだな。』
佐々木さんの言うように、テーブルやソファーが置かれていて、塵や埃が積もっているのがわかる。
ドローンをホバリングさせたままで、周囲の状況を確認する。
人の目線くらいの高さだと思われるが、侵入者らしい姿は確認できない。
こんな時“人以外のなにかが映り込んでいないか”と、探してしまうのは悪い癖なんだろうなぁ。
静かにドローンの高度があがっていき、ロビー全体が見渡せる位置に着いた。
ロビーは1、2階が吹き抜けになっているという事だったが、天井近くまで上がったようだ。
1階には、ソファーやテーブルがいくつか置かれていて、喫茶店にあるようなカウンターと、カップや皿の並んだ棚もあったから、宿泊客がくつろげるようにしてあったのだろう。
奥には食堂や調理場とかがあるそうだ。
2階はロビーをぐるっと囲む通路があり、1階とは大きな階段で繋がっている。
通路の横には宿泊のための、ゲストルームが並んでいる。
3階には主の部屋などがあり、通路の脇にある扉のどれかが、階段に繋がっているという事だった。
ドローンを天井に固定させて、カメラで周囲を確認している。
このドローンにはプロペラを支えるアームのほかに、上下に稼働するサブアームが装備されていて、天井の梁に固定することも可能なのだそうだ。
『人がいます。』
ドローンのカメラがズームアップすると、半開きになった扉に挟まっている感じで、倒れている人影を確認した。
既に襲われた後なのか、死んでいるのか、気を失っているだけなのかは不明だ。
ラフな服装からして、無断で侵入したユーチューバーじゃないだろうか?
そばにスマホも落ちているし…。
おかしなものは確認できなかったので、救護のため中に入ることになった。
「じゃあ、留守番と周囲の警戒を任せるよ。」
「学生のサークル活動じゃないんだから、おとなしくしとくようにな。」
「はしゃぐな、危険。」
「あ、あたり前ですよ、社会人ですから…。」
茅原さんと宇佐美さんから、やんわりと釘を刺される。
ペンションに入って行く4人を見送り、コンテナ車の周りを確認してから運転席に乗り込む。
ホラー映画では、残された者が先に襲われるのは定番だからね。
ついて行った方が良かったような気もする。
こういう状況で一人残されるのは、不安しかない。
気を紛らわすためにも、タブレットで調査隊の状況を確認する。
天井に張り付いたドローンのカメラから、4人がロビーに入ってくるのが見える。
茅原さんを先頭に、要救助者に近づいていく。
『噛まれた痕がありますが、気を失っているだけのようですね。』
ヘルメットの通話機能で、4人の会話が聞こえてくる。
茅原さんがペンライトで照らしながら、要救助者の容態を確認しているようだ。
隣で宇佐美さんが、天井とか周囲を警戒しているようで、照明をせわしく動かしている。
『階段の途中に、もう一人倒れています!』
扉の奥を調べに行った佐々木さんが、もう一人の要救助者を見つけて連絡してきた。
中には階段があって、3階に繋がっているようだ。
『遠藤くん、すまないが救護班に連絡を取ってくれ。』
桂木さんに連絡して、救護班を送ってもらう。
倒れていた二人はロビーのソファーに移動させられた。
念のために宇佐美さんを残して、水木さんたちは3階へ上がって行く。
タブレットには4人分のカメラ映像と、ドローンカメラの映像が分割して表示されており、画面をタップすると一つが拡大される。
ドローンカメラには寝かされている二人の横で、宇佐美さんが立っているのが確認できる。
時折、天井の一画をじっと見つめていることがあるが、それ以外は微動だにしない。
猫が部屋の片隅をじっと見ている動作に似ている。
宇佐美さんカメラを確認してみるが、おかしなものは映っていない。
ヘルメットの下で宇佐美さんが、どんな顔をしているか想像してみたが、いつもの不愛想な顔しか思い浮かばなかった。
カメラを切り替えて、3階へ上がった水木さんたちの動向を確認する。
先頭の茅原さんがペンライトで足元を照らしながら、スタンブレードを手に暗い階段を進んでいるのがわかる。ときどき明かりの先が右左、天井方向に向けられている。
スタンブレードは長めの警棒といった形のスタンガンで、打たれると強烈な電撃を発生するそうだ。
地球外生命体を相手に、電撃が効くかどうかはわからないが、物理的なダメージは、全宇宙共通であると思いたい。
某SF映画で指揮官が部下の戦闘状況を見ながら、指示を出しているくだりを思い出す。
新兵の俺には指揮権はないけど、何か気付いたら連絡をするように言われている。
今のところ、おかしなものが映り込んだりはしていないが、録画しているからあとで見直すつもりだ。
3階には4つの部屋があり、うち一つに鍵がかかっていた。
ほかの部屋には、前住者の生活の名残があったが、注視するものは何もなかった。
『この部屋の中に、何かありそうです。』
『確かに臭うな。鍵は開けられそうか?』
『開きました。』
茅原さんがピッキングで鍵を開けたようだ。
水木さんと佐々木さんが身構えるなか、ドアが開けられた。
『…臭い。』
『うわっ…。』
なにやら異臭がしたらしい。
その原因はすぐにわかった。
『死んでる。』
『…誰でしょうかねぇ?』
主の書斎らしい部屋の床に、倒れている男がいる。
水木さんが遺体の状態を確認している。
『ここで何か、調べ物をしていたみたいです。』
茅原さんが、机の上に置いてあるノートやら、分厚い本を確認していた。
今は誰もここに住んでいないはずだから、無断で入り込んでいたに違いない。
不法侵入した者たちが見かけた人影は、この男なのだろう。
『吸血鬼の正体は、この男なんでしょうか?』
同じことを思いついたらしい佐々木さんが、天井とかに照明を当てながら水木さんに聞いている。
『いや、たぶん違うだろう。』
水木さんが言うには、死んでから10日以上は経っているらしい。
『専門分野じゃないから、断定はできないが…、』と、言いかけて動きが止まる。
『誰だ!』
誰か隠れているらしい。
佐々木さんがスタンブレードを構えて、静かにクローゼットの横に移動する。
茅原さんが腰の後ろに手を回しているから、銃か何かに手を掛けているのだろう。
『私たちはこの家の持ち主に頼まれて、調査に来た者だ。ケガとかしているなら手当てをしたいから、そこから出て来てくれないか?』
水木さんがクローゼットの中の誰かに声をかけている。
わずかに間があいた後、か細い声で返答があった。
『…幻覚じゃ、ないですよね?』
クローゼットの扉がゆっくりと開いて、若い女性が恐る恐る顔を出した。
ペンライトの明かりを片手で遮って、眩しそうにしている。
幻覚とはどういうことだろう?不法侵入の少年たちが言っていた、夢のことだろうか?
水木さんたちはヘルメットのシールドを下ろしていて、口元しか見えないようにしている。
顔バレを防ぐためだけれど、正体不明の怪しげな人たちに囲まれては、安心できないだろうなぁ。
『階段で倒れていた、パーティーの仲間かな?』
『二人は無事なんですか?』
水木さんの言葉を聞いて、少し安心したのか、ゆっくり近づいてくる。
どうやら三人でここに入り込んだらしいが、先行して中を見ている間に、眠ってしまったらしい。
どういうわけか、急に睡魔に見舞われたのだそうだ。
首に傷がないところを見ると、彼女はまだ襲われてはいないのだろう。
目が覚めた時、水木さんたちが入ってきたのを、警察が来たのと勘違いして、書斎に鍵をかけたという。
死体には気付いていたが、隠れる方を優先したようだ。
眠りに陥る直前、数年前に事故で死んだ友人に会ったという。
亡くなる前に大げんかをしていて、謝れないでいたことが心残りだったらしく、抱きついて涙ながらに謝っているうちに、眠ってしまったとのことだった。
目が覚めてそれは夢だったと気付いたのだが、SNSでの噂とか聞いていた彼女には、とてもリアルな体験だったという。
『だから今もそこで彼女が見守ってくれていることが、とても嬉しいんです。』
生前、どれくらい仲が良かったのか知ることはできないが、彼女は大変うれしそうに話してくれていた。
…あれっ!“今も”って言った?
『なにっ!』
水木さんたちが一斉に彼女の視線の先を見る。
書斎の入口の方に、全員の視線が向けられた。
『…お前たち、何でここに!』そう言って、水木さんはドアの方にふらふらと近づいて行く。
何かが見えているのかも知れないが、カメラには誰も映っていない。
ドアの近くでヘルメットを外してしまったらしく、カメラがあらぬ方向を向いて止まる。
佐々木さんと茅原さんの様子もおかしい。
『こ、こんなところで…、えっ!…何してるんですか…?』
佐々木さんは後ずさりして壁に突き当たり、へたり込んだようだ。
声がうわずっているのはなぜだろう?
誰かに迫られているみたいな様子だが、佐々木さんの目の前に、誰かがいるわけではない。
その佐々木さんのカメラには、後ろを向いて立っている茅原さんが見切れている。
茅原さんは壁に向かい、手のひらを板壁にあてて、何かを覗き込むような体勢をとっている。
『……うわぁ、いいなぁ~。』
口は半開きのままで、デパートのショーケース越しに、おもちゃを眺めている子供のように壁に顔を近づけている。
当然ながら、壁に何かあるわけではない。
「どうしたんですか!水木さん、佐々木さん、茅原さん!」
インカムで声をかけるが、反応がない。
そう言えば、水木さんはヘルメットを外していた。
「佐々木さん、茅原さん!返事してください!」
インカムが有効なうちに再度声をかけるが、やっぱり反応がない。
佐々木さんのヘルメットが外されたようで、グルグル回っていたが、死体の方を向いて止まった。
死体はうつ伏せに倒れていて、首に付けられた噛み傷らしい跡が映っている。
映画でよく見る吸血鬼の噛み痕みたいだが、俺の見たことのある映画のとはちょっと違う。
ふたつの牙の痕にも見えなくはないが、その間に血の筋が残っている。
しかも、一か所だけでなく複数の痕が付いている。
どういうことだろう?
死後数日が経過しているというのは、モノクロの画面越しでもわかるほどに、肌が変色していた。
血を吸われ過ぎて、死んだのだろうか?
そんなことを気にしている間に、茅原さんのヘルメットも外されて、床を転がっていく。
やがてカメラが止まった先で、不法侵入の彼女が映り込む。
カメラからは背中しか見えないが、座り込んでじっとしているその背中に、何かの影が近づいていた。
「げっ!」
大きな羽虫のようなものが、彼女の背中に停まった。
女性の体と対比すると、猫ぐらいの大きさだろうか?
地球にいる昆虫と同様に、頭部、胸部、腹部に分かれていて、胸部に6枚の羽を持っているが、大きな蚊に似ている。
そう、ガガンボという、トンボくらいの大きさの蚊みたいなやつに似ている。
子ども心に、こんな大きな蚊に血を吸われたら死んでしまうのではないか?と恐れていたことがある。
実際のガガンボは蚊とは別の種類の昆虫で、生き物の血を吸うものではなかった。
いつだったか昆虫図鑑を見てその事実を知り、胸をなでおろした記憶がある。
その、猫ぐらいの大きさの宇宙ガガンボが、不法侵入の女性の背中にとまっている。
もちろんこんな生き物は、地球上にはいない。
これが地球外生命体だろうか?
次の瞬間、彼女の体がピクッと揺れる。
宇宙ガガンボの腹部と思われるあたりが収縮を始めた。
背中越しだからよく見えないけど、今、まさに血を吸っているってことなのか?
水木さんも、佐々木さんと茅原さんも、なんだかおかしな行動をとっていて気が付いてないようだし、被害に遭った人たちの話によると、幻覚を見せられているってことか?
このままではミイラ取りが、マジでミイラになってしまう。
…どうしよう?
…応援を待つか?さっき救護班を依頼したから、30分ぐらいで来ると思う…たぶん。
死ぬほどに血を吸われるわけじゃないらしいし、後遺症らしいものも確認されてないし、それなら慌てなくとも…。
運転席のエアコンが利きすぎているみたいで、やたらと寒さを感じる。
宇宙グモに出くわしたときみたいに、空気が重だるい。
耳鳴りのような高い音が頭に中で響いて、胸のあたりがざわつく。
ハッキリ言って、未知の生き物は恐い。
複数いるかも知れないし、ほかに何かされるか分かったもんじゃない。
なにより、どういった生物なのか、よくわかっていない…。
でも、すぐに駆け付けることができる者は…俺しかいない。
こういう時、クロスレンジャーなら、何のこだわりもなく駆けつけるのだろう…。
あっ!そう言えば、宇佐美さんは!?
タブレットを操作して、宇佐美さんのヘルメットのカメラ映像を確認する。
あれっ?壁に引っ付いている…?いや、床に倒れているのか?
映像が90度くらい傾いている。
もしや、宇佐美さんも既に襲われてしまったのか?
ドローンカメラの映像に切り替えると、ヘルメットを装着した状態で、ソファーの横で寝転がっていた。
インカムで話しかけても返事がないから、既に眠らされていると判断すべきだろう。
ああっ、モニターの端に、浮遊する宇宙ガガンボが映り込んでいる。
やっぱりほかにもいた!
ゆっくりだが、宇佐美さんに近づいていく。
これ以上は、じっとしていられなかった。
予備のスタンブレードを取り、ペンションへと走る。
玄関の重い扉を開けてロビーに入ると、今まさに宇宙ガガンボが、宇佐美さんに憑りつこうしていた。
近づいてスタンブレードでなぎ払うと、見事にばらけて飛び散ってしまった。
しかも人形の手足がバラけるみたいに、関節の接合部から外れて散らばった。
あれ?以外に脆いぞ、こいつ…。
しかも動きも遅い…。ちょっと、拍子抜けだ。
まさか何かのアニメみたいに、また繋がったりしないだろうかと少しの間、身構えて見ていたが、取り越し苦労だった。
ほかに仲間のガガンボは見当たらないので、宇佐美さんを起こしにかかる。
「起きてください!宇佐美さん!」
声をかけつつ、肩を揺するが、反応がない。
インカム越しでは大きな声を出しても音量が調整されてしまうので、直接声をかけようとして、自分のヘルメットを外しにかかった。
甘い匂いがした…ような気がした。
直後、目まいのようなものを感じて、一瞬、目を閉じた。
…変な感じがしたので周りを見回すが、なにか変わった様子もない。
自分の顔とか、体とか触って確認するが、どこにも異常はない。
気を取り直して宇佐美さんを起こそうとしたが、既にヘルメットを外して目の前に立っていた。
「遠藤、何でここに?」
「宇宙生物に襲われそうになってたんですよ、覚えてないですか?」
床にバラけて散らばっている地球外生命体、宇宙ガガンボだったものの欠片を指して説明する。
「ありがとう…。」
珍しくお礼を言われてしまった。
宇佐美さんはまっすぐこっちを見つめていて、なんだか照れる。
…なんだろう?違和感がして宇佐美さんの顔をじっと見る。
いつもより少し明るい表情に見えた。
「…隊長たちは?」
あっ、そうだった!ほかの皆さんも襲われているところだった。
宇佐美さんと一緒に、3階に急ぐ。
例の部屋に足を踏み入れたところで、宇佐美さんが何かに気付いて飛び退いた。
直後、宇佐美さんの目の前を、黒い影が通り過ぎ、一陣の風が舞った。
天井とかも気にしながら部屋の中に入って行くと、モニターで見たより広い部屋だったことに気付く。
部屋の奥に4人の姿を確認した。
宇宙ガガンボも、宇佐美さんを襲った黒い影の正体も、そこにはいなかった。
水木さんが背中を向けて座り込んでいた。
茅原さんたちは寝転がっているが、顔を壁の方に向けているので表情は見えない。
「水木さん!大丈夫ですか?」
俺の声に気が付いたのか、水木さんが立ち上がる動作をとった。
「良かった、大丈夫そうですね…。」
後ろから見る限り、変わった様子はない。
水木さんがゆっくりと立ち上がり、振り返る…。
うっ!
その顔は人間離れしていて、虫のようなものに変わっていた。
皮膚の色が赤黒くなっていて、目は爬虫類のようになって見開かれており、いつだったか映画で見た、甲殻類型の異星人みたいな姿になっていた。
イソギンチャクの触手みたいなものが、口の周りにたくさん生えていてゆらゆらと動いていた。
その口を大きく開けて「グワーッ」と叫ぶ。
あとの三人も立ち上がるが、同じような姿に変貌していた。
疣のついたゴム手袋のように変形した手を前に出し、いわゆるゾンビスタイルでこちらに迫ってくる。
パーンっ!と発砲音がしたかと思うと、怪物化した水木さんが頭から血を吹いて倒れる。
続いて3発の銃声がして、あとの三人も倒れた
振り返ると宇佐美さんが銃を構えたまま、震えていた。
「宇佐美さん、どうして…。」
「仕方なかった…、もう助からない…。」
そうつぶやいた直後、何か黒いものが飛んできて、宇佐美さんを吹き飛ばした。
凄い勢いで壁に激突した宇佐美さんが、ズルっという感じで崩れ落ちる。
「宇佐美…!」あわてて駆け寄ろうとしたが、目線の上の方に、なにか黒いものが揺れている。
キーンという、甲高い音が聞こえていた。
なぜ気付かなかったんだろう?
音のする方に…、天井の方に、ゆっくりと視線を向ける。
思ったよりも高い天井に、そいつはふわふわと浮いていた。
人の倍くらい大きな、宇宙ガガンボだった。
甲高い音はヤツの羽音だった。
太い前足で、宇佐美さんをはたき飛ばしたようだ。
目線を反らさないようにゆっくりと動き、壁際で転がったままの宇佐美さんに近づき、肩を抱いて起こした。
打ち所が悪かったようで、焦点が定まっていないうえに、口から血を流していた。
「…あとは、……お、願い…。」
そう言って、こと切れてしまった。
「…お願いとか、言われても…。」
宇佐美さんでも敵わないような怪物相手に、どう立ち向かえって言うんですか?
よろよろと立ち上がって、スタンブレードを構える。
対峙する宇宙ガガンボ(大)は、近づいてくるかと思ったが、ゆっくりと上方に離れて行く。
なぜかと思ったその時、首の後ろでカサカサという音がするのに気が付いた。
別の個体が俺の首に憑りついて、血を吸っていた。
不思議と痛みとか無かった。
あわてて振り払い、噛まれたあたりを手で押さえて、宇宙ガガンボの行方を探す。
何かが動いた気がしたので、振り返ると鏡があって俺の姿が映っていた。
ひどく顔色が悪い。
手を頬に当てるとなんだか違和感があって、ニキビのようなブツブツが幾つも浮き出てきていた。
手のひらにも同じようなブツブツが出てきて、ギョッとなる。
鏡に映った自分の顔が、水木さんたちと同じ甲殻類のような怪物に、徐々に変わって行く。
同様に、エビかカニの手足のように変わり始めた両手を見つめて、膝をつく。
耳元で響く蚊の羽音が聴覚を占領し、人生の終わりを告げるような、絶望的な感覚が頭の中を埋め尽くしていく。
視界が、徐々に黒い靄に覆われていく。
誰かが近寄ってきた。
足音というか、感覚で分かった。
俯いている視界に、誰かの足もとが映りこみ、俺の前で止まった。
誰だろう?
と、その誰かの手が伸びてきた。
胸ぐらを掴まれ、立ち上がらされる。
宇佐美さんだった。
だが、その顔は血の気を失っていて、白目をむいている。
まさかゾンビにでもなってしまったのか?
声を出そうとしたが、しゃべり方を忘れてしまったようで、息が詰まったような歯切れの悪い小さな音しか出ない。
「くっ……、かぁっ…、くぁ…。」
蚊の鳴くような声が聞こえたのか、宇佐美さんの口が小さく動いている。
何か話しかけてきたのか、うなっていただけなのかはわからない。
直後、パーンッ!という感じの、ある意味、切れのいい音が、部屋の中に響き渡った。
おもむろにビンタを喰らった。
訳がわからず惚けていると、続いて2発、3発と往復ビンタをし始めた。
ペシッ、ペシッ、ペシッ、ペシッと子気味良い音が部屋の中に響く。
普通に痛い、とか思っていたら、なにかしら声が聞こえる。
最初は何かの雑音かと思っていたのだが、徐々にその音は言葉となり意味を持ってくる。
「…起きろ、遠藤、起きないか。」
いつもの抑揚のない口調でそう言って、さらにビンタを続ける。
意識がハッキリとしてくる。
やっとの思いで、「いたい…。」と声を発する。
グルグルと回る視界が、宇佐美さんを中心に形を成していく。
ゾンビなんかじゃない宇佐美さんが、目の前にいて俺を見ていた。
1階のロビーだった。
周りを見回すと、水木さんたちが座り込んでいる。
二日酔いのサラリーマンのようなポーズで、頭に手を当ててうなだれていたが、決しておかしな生き物に変身したりはしていない。
「大丈夫か、遠藤。」
大丈夫です。と、言ったつもりだったが、「らいりょううれふ…。」と変な声を発していた。
両頬と口の周りが、なんだか痛い。腫れあがっているようで、触るとヒリヒリする。
宇佐美さんにビンタを喰らった結果だった。
おかげで目が覚めたってこと?
顔に触れた手が、エビの触手みたいになったりはしていなかったので、ほっとする。
それはそれとして、もう少し優しく起こしてくれると嬉しいです。
「なかなか、起きなかった。」
少しばかりバツが悪そうに聞こえたが、いつもの宇佐美さんだった。
笑い声が聞こえたので、そっちを見ると、頬を腫らした俺を見て、茅原さんが笑っていた。
でも、茅原さんの頬っぺたも赤いですよ。
隊長や佐々木さん、不法侵入の女性も無事なようだ。
ということは、俺は夢を見ていた?
えっと、どっからが夢…?
俺が声をかけたり、体を揺すったりしたせいで、宇佐美さんは目を覚ましたらしい。
時間的に俺が起こしに行った直後で、俺自身はヘルメットを外したあたりで眠らされてしまったようだ。
どうやら宇宙ガガンボの持つ、特殊能力によるものらしい。
動きの遅い彼らは、得物を狙うための特殊能力として、対象の精神を麻痺させる能力があるようだ。
後日聞いた話では、吸血を行う生き物に対し、幸福感、あるいは恐怖感を与えるという効果があるらしい。
それが人間にとっては、“夢”という形で現れるらしい。
宇佐美さんが目を覚ますと、俺がすぐ横で眠っていたそうだ。
吸血のために、近寄って来ていた宇宙ガガンボがいたので殴って粉砕。
タブレットの映像を見て、事態を察した宇佐美さんは、急いで3階に上がり、女性に憑りついていた宇宙ガガンボを撃退。
天井に張り付いていた、ほかの2体のガガンボも叩き落したという。
宇宙ガガンボは動きが遅かったが、能力で眠らされてしまうと厄介なので、捕獲ではなく、排除したという。
どういった理由で地球に来たのかはわからないが、別の惑星で確実に棲息しているので、絶滅するようなことは無いという。
赤くなった頬をさすりつつ、救護班が到着するまでの間に、建物内に宇宙ガガンボが隠れていないか、もしくは遺物(卵や幼生体など)が残っていないか確認して回った。
ペンションの1階に床が抜けている一画があり、そこには地下室があった。
ひびの入った壁から地下水が染み出して、足の甲くらいまで水が溜まっていた。
宇宙ガガンボは、ここに棲みついていたらしく、別の個体の遺骸が見つかった。
湿った場所を好むのは、地球のガガンボと同じみたいだ。
宇宙ガガンボの遺骸は、俺や宇佐美さんが倒したものも含めて回収、不法侵入のユーチューバーたちを救護車両に乗せた後で、別の車両に積み込まれた。
幸い卵やら生き残りが出てくることもなく、全員の体に異常がない事も確認できたので、撤収することになった。
片づけが終わったころには日付が変わっていたので、本社屋内にある待機室で泊まらせてもらった。
酷い夜だった…。
顔の腫れは翌日まで残り、鏡を見ると豪雪地域の子供みたいに頬が赤かった。
青野さんには「男前があがったじゃねえか!」と弄られた。
事がことだけに本当のことを話すことができず、「転んだんですよ。」と言い訳したが、転んで頬が腫れるようなことはないので、しばらく変な目で見られた。
女がらみと思われたようだ。
確かに叩いたのは女性でしたけどね…。
ヘルメットを被ろうとすると、頬が痛くてつらいので医療室へ足を運ぶ。
「虫に刺されたと聞いたが、こんなに腫れるものなのか?」
医療班の主任である桑島ユウ先生が、眼鏡のツルを両手で調整しながら、俺の顔を興味深そうに見ていた。
教師風の端の吊りあがった眼鏡にポニーテールというのが、彼女のトレードマークだ。
年長者っぽい口調は、普段先生とか呼ばれているからだろうか。
白衣の隙間からチラッと見える胸元が艶めかしい。
30歳前後かなぁとか思ったりするが、女性に年齢を聞くのは失礼なので聞いていない。
俺の不穏な妄想に気が付いたのか、怪訝な表情を見せる。
…これは虫に刺されたものではありません。
宇宙ガガンボに眠らされている俺を、宇佐美さんが起こそうとした結果です。
とか、話していいものか迷っていたら、「宇宙生物に刺されたんじゃなかったのか?」と聞かれたので、正直に話すことにした。
大いに笑われた後、触診を受ける。
笑い事じゃないんだけどね…。
しばらく腫れた頬を触りまくって、痛がる俺をおもちゃにする。
以前、打ち身で来た時も、あちこち触られまくった。
この人は患者を触りまくるという、悪い癖があるみたいだ。
医者なんだから触診をするのは当たり前だが、セクハラなんじゃないのかな?
「明日になれば腫れも引くだろうから、今日は一日安静にしておけばいいだろう。」と、指示を受ける。
腫れてるだけですから休まなくても…、と思ったが、「医者の言うことは、おとなしく聞いておけ。」と押し切られた。
診察書類を総務部に提出して、休暇を取ることになった。
“超常現象の研究所”としては当初の予定どおりで、人に害をなす生き物は確認できなかった、と依頼主に伝えられた。
そのうえで地下から発生したガスが滞留しており、その影響で幻覚を見たのではないか?
不法侵入者たちの首の傷も、幻覚を見たがゆえの自傷行為ではないか、と結論付けられた。
さらに老朽化とガスの影響で、床や壁が腐食していると書き加えられたため、近いうちに解体されることになるだろう。
ガスについては捏造だが、建物の老朽化は事実なので、またぞろ廃墟マニアが侵入する前に工事に着工してほしいものだ。
「この男がSNSで、情報を流していたみたいです。」
後日、ペンションの中で死んでいた男の素性が判明した。
スマホが残されていて、廃墟マニアのブログに、何度もアクセスした形跡があった。
失業した大学の講師であった。
2年ほど前に、病気で奥さんを亡くしていた。
子どもはいなかったが、仲むつまじい夫婦だったらしい。
奥さんが死んでから、講義に身が入らなかったようで大学を休みがちになり、ついには退職してしまったという。
茫然自失となって、あてもなくさまよっていたところ、ペンションの鍵を見つけたので、こっそり入り込んだようだ。
で、例の宇宙ガガンボに襲われた。
最初は夢でも見ていたのではないか、と考えたらしいのだが、夢うつつの状態で見たこともない生物の姿を見たらしい。
生物学者であった彼は、新種ではないか、と観察を始めたようだ。
窓の鍵を開けておいて、廃墟マニアが忍び込みやすくしていたのもこの男の仕業だった。
侵入者たちがこの生物に襲われるのを、半年近く観察していたようである。
研究者として再起を考えていたのか、観察ノートが数冊残っていた。
警察に捜索願いが出されていたので、早々に親族のもとに還されるらしい。
結局、血を吸われ過ぎたのか、死因は栄養失調だったようだ。
そう言えば、男の首筋には、複数の噛み痕があった。
もしかしたら、宇宙ガガンボの特殊能力で、幸せだった頃の夢を見続けていたのかも知れない…。
Episode6「俳優殿下」に続く
はい、夢落ちです。
サブタイトルもありがちなものになってしまいました。
遠藤の想像力(妄想力?)の逞しさを、感じてもらえると嬉しいです。
見たことのある映画の印象的なシーンを思い出して書きました。
“リスペクトしている”と思っていただけると嬉しいです。
現実で映画みたいな出来事が起きていて、何もできないことに日々無力感を覚えています。
できるなら早く終結することを願って止みません。
次はもっと明るい話にしたいです。




