だいにわ。大草原の小さな小屋
一旦休憩を挟もうということになった。
「洗面所ある?」
「外に井戸があるわよー」
才悟朗は早速出鼻をくじかれた思いだ。この調子だと、サニタリー関連までこの部屋と同レベルな予感がする。井戸があるなら上水道関連はまあ棚上げできるとして、問題は下水道関連。もっと具体的に言えば便所がどうなっているかが心配だ。
「ちょっと顔洗ってくるわ……」
「てらー」
才悟朗が寝台を下りると、空いたスペースにブルーが転がってくつろぎだした。気楽なもんだナ、悪態とも呆れともつかない呟きを心中でこぼす才悟朗は、そういえばいつの間にか敬語が吹っ飛んでいることに気がついたが、面倒なのでまあ良いかとタメ口で通すことにした。
いい布団で寝たからか、随分と体が軽い。コレばっかりは神々に感謝せにゃ、などと益体もないことを考えながら部屋に一枚だけあるドアを開けると、そこには見渡す限りの大草原が広がっていた。
わ、ワンルームのみ!
「あ、いい忘れてたけど履物はベッドの下よー」
「欧米か……!」
どうやら室内も靴で闊歩する欧米スタイルだったようだ。そういうことは先に言ってくれとボトボトこぼしながら履物を履いて、才悟朗はようやく部屋の外に踏み出した。
「部屋っていうか、小屋だな……」
外に出て、まず小屋の四周を眺めて回る。2✕4の木造プレファブといった作りで、高床になっている。外壁は下見板張り。屋根は4寸程度の勾配の切妻屋根で、檜皮だろうか、とにかく木の皮で葺いてある。八本柱妻入りの建物であり、建築史をかじった人間であれば、なんとなく大社造りの趣を感じられないでもない。
「ま、あっちは九本柱か」
神々が用意した小屋という先入観がそう思わせるのかもしれないな。とりあえずの納得を得て、才悟朗は当初の目的であった井戸へと向かった。
井戸の場所はすぐにわかった。小屋の裏手に円上に石が組んであって、屋根付きの櫓には滑車が設置されている。多くの日本人が想像する井戸の最大公約数的なフォルムだ。
底を覗くと、暗い水面が僅かな光を反射してゆらゆら揺らめいている。枯れる心配はなさそうだ。滑車から下がっている紐を引っ張れば、水を並々湛えた釣瓶がスルスルと上がってくる。
「よっ……と。滑車は偉大な発明だコリャ」
すりきり一杯まで水の溜まった木桶というのは意外にも重いものだ。才悟朗は原始的な文明の利器に心底感謝しながらえっちらおっちら水桶を井戸のヘリに置くと、顔を洗うべく手を近づけたところで、サッと光が差した。小屋の影から太陽(太陽ではないんだろうけど便宜上太陽とする)が顔を出したのだ。にわかにあたりが明るくなったことで、桶の水面に自分の顔が映る。それは大して特別でもないありふれた光学現象だったが、才悟朗を大いに驚かせることになった。
「これ……え? 俺……??」
才悟朗は水桶にかぶりついて、水面に映る己の顔を凝視した。忙しく目玉を動かして、その隅々までを検分する。
それは紛れもなく、記憶にある自分の顔である。決して二枚目ではないが、取り立てて不細工というわけでもない。中の中から中の上といった容貌。しかし違和感は確実にあって、最近ついてきた顎下の肉はなくなっていたし、白髪の混じり始めた頭髪は黒々としている。目尻に寄ったシワもきれいに引き伸ばされていて、全体的に若返っていたのである。
記憶を探れば、およそ二十歳前後の自分の顔はこんな感じだったはずだ。成人式の日に見合い用にと撮って、そのまま使われることなく死蔵している写真があったので、だいたいあたりは付く。現材四十路街道まっしぐらな才悟郎からすれば、二十歳ばかり若返ったことになる。
えぇ……? 才悟朗は困惑した。そういえば先程から体が軽かったのは、寝具の上等さによるものではなく、つまり若返っていたからなのだ。
才悟朗は手早く顔を洗うと、上着でさっさと拭って室内にとんぼ返りした。井戸水は冷たく清潔で、それはいくらばかりか才悟朗の頭を冷やした。
「ブルー!」
「随分時間かかったわねー。で、どったの?」
「いや、どったのって、顔だよ顔、俺の顔!」
「……60点くらい?」
「そうじゃなくてさァ! あ、でも平均異常なんだやったぜ。じゃなくて、若返ってるみたいなんだが!」
「あーそのことね。立ち話もナンだし、座ったら?」
ブルーが布団をぼすぼすと叩いて着席を促す。色気も微塵もないお誘いだ。もっとも色気があったとして、身長15センチの小人に欲情するような性分ではないが。才悟朗は促されるままベッドに腰を沈めた。
「まずね、ラックが若返ってる件だけど、挑んでもらうゲームが結構体力勝負なとこあるからさ。全盛期の肉体で年齢固定してあるってワケ」
「えぇ……」
「なによー。若いまんまで歳とらないのよ? もっと喜びなさいよー」
「いや、いきなり人間じゃなくなってるの理解しろってのは無理でわ」
「まあいいじゃないの。どうせもとの世界には戻れないんだし」
「そのサラッと咀嚼しづらい情報出してくのやめない? え? 戻れないの?」
「正確には戻れるケド、ヒトの摂理からは外れた存在として戻る感じね。つまり神々の末席に名を連ねることになるワケ」
「うーんスケール感」
「言っとくけど、かーなーり名誉なことだかんね。普通に生きてて神に列席されるとかまずないから」
「っても望んだわけでもないしなァ」
「ダーウト!」
ブルーがそのこまい人差し指を唐突に才悟朗の鼻先に突きつけてきたので、才悟朗はあえなくそっくり返った。ふかふかの寝具に体が沈む。ブルーはそんな才悟朗の頭上をブンブン飛び回りながら続けた。
「望んでたハズだよ、ラック。だってそれは、このゲームのユニットに選出される条件だから」
「ンなこと言われたってな」
やはり才悟朗には心当たりがない。新世界の神になる! なんて、中学校と同時に卒業してきた幼い野望だ。まさかそれ? と尋ねれば、ブルーはかぶりをふった。
「ラックさ、こんな世界クソクソのクソだ! 俺も異世界転生してチート無双してーなー! って、思ってたでしょ」
「うっ」
確かに心当たりはある。ここ数ヶ月は徹夜三昧の修羅場進行だったので、現実逃避めにそんなことを思った記憶はあった。えぇ、でもそんだけでぇ?
「もちろんそれだけじゃないよ。このゲームのユニットに選出されるもう一つの条件は、急にいなくなっても特に世界に影響がないやつ。あとは厳正な抽選のけっかねー」
「ひどない?」
「だってラック、元の世界に奥さんとか子供……あ、ゴメン恋人いた?」
「いや……いないけど」
「友達」
「ネットの……海には……」
「家族は?」
「あー、親父は三年前に熊に襲われて死んだし、母さんは去年牡蠣に当たって死んだな……」
「なかなかヘヴィーね。兄弟は?」
「いないけど」
「仕事は?」
「建築士……」
「会社の中核を担うような社員だった?」
「いや、木っ端社員だったけど……ねえやめないこの悪辣アキネーター。心が死ぬ」
「ね?」
「チクショウ……!」
才悟朗は精悍さを取り戻した腕で目元を隠した。悔し涙が一筋、ハリを取り戻した頬を伝う。才悟朗の心はズタボロだ。現実というのは錆びたナイフのように歪に傷口をえぐる。
ブルーはその調子を見て一つ息をつくと、今後の話をしましょ、と言った。
「とりあえずダンジョンアタックしよっか」
「まって」
しかしブルーは待ってくれなかった。残念。