16話
「俊君は泳いだりしなくていいの?」
「もう十分堪能したよ。それに星合さんは目が見えないからわからないだろうけど、僕の泳ぎは泳いでいるというか溺れてるという表現のほうがふさわしい程度のものだ。だから水に触れるのは好きだけど、泳ぐのは得意じゃない」
「私も泳ぐの苦手だよ。――でも気を遣わなくても遊びに行っていいからね」
そうは言うが、目の見えない桜子を一人にするわけにもいかなかった。瑛は椅子にこしかけながら船をこいでいるし、孝平と楓子は壮大な砂の城作りになぜか夢中になっている。
「こんなことを言ったら軽蔑するかもしれないけど、僕はつい最近まで、いやひょっとして今でも君の目が治らなければいいと心のどこかで思っている」
2人の間の音が空気が凍りついたみたいに止まった。波の奏でる音と海水浴場に集まる人々の喧騒と瑛の寝息が音桐の鼓膜を次々に震わせた。
「――なんで、そう思うの」
桜子はさして怒った様子もなくそう尋ね返してくれた。しゃべりやすい雰囲気を作ってくれた。
「仕方ないじゃないか。僕と君の関係は一時的に失明した小説家とその口述筆記者だ。その大義名分がなくなったら僕らの関係がどうなるのかを危惧するのは不自然じゃないだろ」
「うーん。俊君、私は今結構怒っています」
「君の目が治らなくてもいいって言ったから?」
「そうではなく、私と君の関係について大義名分がなくなれば『はい、おしまい』となりかねないと思っていることです。しかもそれって、私の側が俊君との関係を切ろうとするってことですよね。ホント失礼」
「ごめん」
またやってしまった。幼い頃より自分に自信がないために卑屈になりすぎて――当人としては謙遜しているつもりなのだが――他人を怒らせることがよくあった。
「まあそれだけ私と友達でい続けたいと思ってくれているということでしょうから、今回は不問とします」
彼女は先ほどから続けているそのしゃちほこばった口調にとうとう自分が耐え切れなかったのか言い終わるとともに噴き出した。吊られて音桐も笑う。
「それだけじゃないんだ。僕はイケメンじゃないから、君の目が見えるようになって僕の顔を見たらきっとがっかりするだろう」
桜子はまだ笑っていた。
「えっと、別に期待してないよ。そんなの。多分イケメンなんだろうなって思ったことすらないし」
「それはそれで傷つくな」
「えー、面倒くさいなあ」
「君は美人だから。ただの友達にしても釣り合わない」
「友達なのに、そんなの関係ある? 恋人とかならわかるけど。でも恋人だって当人同士が満足しているなら関係ないよ。――それに私美人ってほどの顔でもないし」
「いやらしいな。その年まで生きて、自分の顔に対する世間的な評価を知らないってのには無理があるよ。文学賞受賞したときにも美少女小説家とか言われてたじゃないか」
「ああいうのは大げさにいうものだよ。というか女の子に自分のこと美人だと思っているでしょって聞くほうがよっぽどいやらしいと思うけどね」
それは確かにそうだ。場合によってはどう答えても角が立つ。
ささぁと波が打つ。
「何ヶ月も目を閉じていてそれがある日いきなり開くってどんな感じだと思う」
音桐のそんな呟きを聞いて、桜子は怪訝そうな顔でこちらを見た。
「僕や主治医の先生や馴染みの看護婦さんとか、君の目が光を失っている間に遭った人達が、いつか君にひどい言葉を浴びせた人達だったらどうする。君の目が見えてないことを理由に知らないフリをして謝罪もせずに接していたんならどうする」
「――急に話変わるなあ。それって私の本を読んで批判的な意見を述べた人達ってこと? 別に顔なんて知らないし、目が見えるようになればそのことに気付くってことはないと思うけど」
「いや読者に限らず、だよ」
「うーん、でもきっと何か事情があると私は思うよ。だって今俊君が挙げた人は皆私に親身に接してくれたから。だからその人と過去どんなことがあろうと、まずはあのときは虫の居所が悪かったのかもしれないとか、そう考えてみる」
「――そうなんだ。すごいね」
「別に、普通のことだと思うけど」
今こそ自分が『音桐壮二』であることを告白する絶好のチャンスであったのかもしれない。
しかしそれはあまりにもアンフェアだと思ったからしなかった。あんな質問をして、あんな回答を得て、ノータイムで自分の罪を告白するのは相手に赦しを強制するようなものだから。
まぶたをこする瑛がそろそろ帰り支度をするように言っていた。
2
帰り道時間が遅くなったのでファミリーレストランで食事をしていくことになった。
それが起こったのは食事の途中だった。今思えば油断していたのだと思う。こんな学校の近くなのに余りにも考えが足りなかった。
ある人物が声をかけてきたのだ。文芸部に所属している同じ1年生、田淵だ。
「あれ、音桐? こんなところで会うなんて奇遇だな」
途端に音桐たち4人の顔がしまった、という顔になったのは言うまでもない。
桜子だけがきょとんとした表情をしていた。




