37日目(4)
「そんなに怒ってやるな」
イオ殿下は、穏やかな口調で親しげにロキオ殿下の肩に手を乗せた。
そしてロキオ殿下の太ももを覗き込むように見ると、
「まぁ、確かに酷いが」
緊迫した空気を壊すように笑って、険しい顔をしているロキオ殿下に続ける。
「スピンツもわざとかけたわけではないのだ。そう怒鳴るな。そうだ、私が新しい衣装を買ってやろう。可愛い弟に久しぶりに贈り物ができるいい機会ができた」
スピンツ君はしゅんとしたままうつむいていて、ロキオ殿下はそんなスピンツ君をまだ睨みつけている。
イオ殿下はほがらかに笑って、ロキオ殿下の肩を軽く叩く。
「な、それで機嫌を直せ」
「兄上がそうおっしゃるのなら……」
ロキオ殿下は不機嫌な顔のまま、ちらりとイオ殿下を見た。
そしてイオ殿下に「さぁ、ならばロキオは着替えてくるといい」と促されると、ロキオ殿下は庭を後にして城の中へと一人で入って行った。
「騒がせたね」
ロキオ殿下がいなくなると、イオ殿下はにっこり笑ってこの場をまとめた。そして楽団に合図をして、演奏を再開させる。
貴族たちもぽつぽつとお喋りを再開し、気まずい空気も少しずつ消えていく。
「ロキオ殿下は、やはりロキオ殿下だったという事か」
「お怒りになる気持ちも分かりますけど、あまり周りが見えておられないようでしたね」
「容姿には文句のつけようもないが、内面は少々……いや、大きな声では言えないが」
小声で話す貴族たち。一旦上がったロキオ殿下の評価は、また元に戻ったようだった。
そして元々高かったイオ殿下の評価は、ロキオ殿下を諭した事でまた上がった。
「それに比べてイオ殿下はさすがでしたね。お心が広くて」
「まさに将来の国王にふさわしい方だ」
自分の事を言われているわけではないのに、ロキオ殿下の事を悪く言われると悔しい気持ちになる。スピンツ君をあんなふうにきつく怒鳴ったのには何か理由があるはずなんですと、一人一人に言って回りたくなった。
「あの子、大丈夫かな?」
隣りにいたミリアンの声で、ハッと我に返った。ミリアンはうなだれたままのスピンツ君を見ている。
「行ってくるわ」
「うん」
ミリアンと別れてスピンツ君に駆け寄る。
「スピンツ君、大丈夫?」
「あ、エアーリアさん」
さぞかし落ち込んでいるだろうと、そっと背中に手を添えて声をかけるが、スピンツ君はあっけらかんとした様子で顔を上げた。
いくらスピンツ君が打たれ強いと言っても、さすがに今のは堪えたはずだと思ったのだが……。
「えっと……平気? 思いきり怒鳴られていたけど」
「僕ですか? 僕は平気です。実は――」
スピンツ君が何か言おうとしたところで、周りにいた貴族の何人かが声をかけてきた。
「君、あまり落ち込まない方がいいよ」
「もう少し気をつけた方がいいが、失敗は誰にでもあるものだ」
ぽんぽんと肩を叩かれて、スピンツ君は「はい。ありがとうございます」と頭を下げていた。
そして貴族たちが去って行くと、スピンツ君は私に向き直って言う。
「僕は平気です。見ての通り、周りの人たちは僕の方に同情してくれますから。いつもそうなんです。ロキオ殿下に僕がきつく叱られていると、それを見ていたお城の使用人たちがお菓子をくれたりして」
「そうよね、私も前までスピンツ君に同情していたわ。けれど今は少し戸惑ってるの。ロキオ殿下はどうしてあんなに怒ったの?」
私がそう尋ねると、スピンツ君は周りを見回した後、小声でこう教えてくれた。
「実は、あれは演技なんです」
「演技?」
「そうです。僕は殿下に頼まれたんです。『つまづいたふりをしてワインをかけろ』って」
私は「え?」と疑問の声をこぼして、目を見張った。
「どういう事なの?」
「たまにあるんです。こうやって皆の前でロキオ殿下がわざと怒る事。たぶん、殿下は皆から必要以上に好印象を持たれないようにしているんだと思います」
「一体どうして……」
「分かりません。もしかしたらイオ殿下のためかもって思いますけど、ロキオ殿下は詳しくは教えてくれないので」
兄の評価を上げるために、自分は悪者になっているという事だろうか。普段の高慢な態度も、実は演技だった?
スピンツ君は心配そうに、ロキオ殿下が去って行った城の方を見た。
「僕は皆の前で怒鳴られたって平気なんです。だって、ロキオ殿下は本気で僕に怒っているわけじゃないし、後で何でも僕の好きなものを買ってくださったりするから。それにさっきも言ったように、周りの皆は僕に同情してくれるんです。僕に友達や知り合いがたくさんいるのは、僕から声をかけていって増やしただけじゃなくて、『いつもロキオ殿下に叱られている可哀想な従者』を気遣って、周りの人たちから声をかけてくれる事も多いからなんです」
子犬のような目で私を見上げて、スピンツ君は眉を下げた。
「でも、ロキオ殿下は悪者のまま、いつも一人なんです。エアーリアさん、僕は大丈夫ですから、ロキオ殿下のところに行ってあげてください。きっと今も一人でいるはずです」
「ええ、そうするわ」
私はスピンツ君の言葉に頷いて、体を反転させた。そうして昼食会から抜け出して、急いで城の中に入る。
途中の廊下で出くわした騎士にロキオ殿下の行方を尋ねると、どうやら私室へ向かったようだった。
「殿下。私です、エアーリアです」
私室に着いた私は、素早く二度扉をノックした。
しかし返事がなかったので、もう一度声をかける。
「殿下、入ってもよろしいですか? 殿下!」
すると数秒置いて、「入れ」と言葉が返ってきた。私は扉を押し開けて部屋に入る。
ロキオ殿下は出窓に座っていて、こちらには顔を向けずに外を見ていた。そこからは昼食会の様子がよく見えるはず。
着替えはしておらず、ズボンは赤く濡れたままだ。
聞きたい事は色々あったが、まずは着替えてもらった方がいいだろう。
「着替えを取ってきます」
急いで衣裳部屋に向かって、ズボンを取って戻るが、殿下は出窓から動いていなかった。
「殿下……」
私が近づくと、ロキオ殿下はやっとこちらを向いてくれた。
殿下は感情が顔に出るタイプだが、今は表情からは何も読み取れない。喜びも悲しみも感じていない、感情が抜け落ちたような顔をしている。
「殿下」
不安になって、着替えを抱えていない方の手でロキオ殿下の頬に触れる。すると殿下はその手に自分の手を添えて、甘えるようにまぶたを閉じた。
「着替えましょう」
そう声をかけるが、ロキオ殿下は動いてくれない。
私は着替えを出窓に置いて、殿下にもう一歩近づいた。
「スピンツ君から聞きました。どうしてあんな演技をしたんです? どうして殿下は、皆から好かれようとしないんですか?」
殿下はまぶたを持ち上げたが、目を伏せたままでこちらは見ない。そして私の手を握ったまま、自分の膝の腕に置いた。
「……別に好かれないようにしているわけじゃない。ただ、兄上たちより人気が出るとまずいと思って、時々ああやってスピンツに協力してもらって、短気で高慢な王子を演じている」
「イオ殿下やシニク殿下より人気が出るとまずいと言うのは……」
「イオ兄上は王位継承順位一位、シニク兄上は二位だ。その二人より三位の私が貴族や国民たちから人気になれば、余計な争いを生みかねない。貴族の中から私を王にするべく担ぎ上げようとする者が現れるかもしれないし、兄たちからは恨みを買う。そして国王も王妃も、子どもたちにはそんなふうに王位を巡って争ってほしくないだろう」
ロキオ殿下は、握っている私の手をじっと見て続ける。
「もしもイオ兄上が王にふさわしくない人物だったなら、それもよかったのかもしれない。私やシニク兄上が王になるのも。けれど人格者で器の大きいイオ兄上は、きっと優れた王になれる。だから私はそれを邪魔しないようにする」
「それは分かります。兄弟で争いたくないというお気持ちは。けれどわざわざ演技なんてしなくても、ロキオ殿下はそのままでいいじゃないですか。イオ殿下が優れているなら、ロキオ殿下は普通のままでも構わないはずです」
私がそう言うと、ロキオ殿下は軽く笑いをこぼした。
「エアーリア、人は見た目に左右される生き物だ。いつも偉そうにして、不機嫌な顔をして、そうやって印象を下げなければ、イオ兄上より美形な私は国民たちから人気が出てしまうだろう。イオ兄上は内面は私より優れているが、外見は私の方が上だ。私は普通にしているだけで周りの人間を惹きつけてしまうからな」
ロキオ殿下は自信満々に口角を上げて言った。ちょっと調子を取り戻したみたいだ。
確かにロキオ殿下は目立つ。今日みたいに普通ににこやかにダンスを踊っただけでも、周囲の人たちが見とれて、好印象を持ってしまうくらいに。
「殿下は兄上想いなんですね」
「自分のためでもある。泥沼の王位継承争いも、暗殺の危険にさらされるのもごめんだからな。それに私はこういう役割なんだ。国王も王妃も、今の私に満足しているはずだ。二人は私にイオ兄上より優秀になってほしくないのだから」
殿下は寂しそうに笑って、こちらを見た。
「私は小さい時から、それに気づいていた。特に王妃の態度は徹底していたな。私たち兄弟に向ける愛情に差をつけて、イオ兄上は一番、私は三番目なのだと示していた。『三番目の自覚を持って、将来の王となる兄を支えるのだ』と、まるで牽制されているようだった」
私は思わず殿下の手を握り返した。
私の心配の気持ちを感じ取ったのか、殿下は軽く首をすくめて言う。
「大丈夫だ。別にないがしろにされていたわけではないし、拒絶されていたわけでもない。王妃からも国王からも愛情はもらっていた。けれど、イオ兄上やシニク兄上ほどはもらっていなかったというだけだ。私の寝室や私室だけ王族の居住区から離れているのも、王妃や国王が決めた事じゃない。私にはイオ兄上たちほど権力がない事が周りの人間にもよく分かるように、自分からこの部屋を選んだのだ」
「そうだったのですか……」
王妃様がロキオ殿下を除け者にしたわけではないと知って、少しホッとした。
ロキオ殿下が一度窓の外を振り返ったので、私もそちらを見る。庭では国王陛下が何か喋っていた。そろそろ昼食会は終わりなので、最後の挨拶をしているのだろう。
殿下はまたこちらへ顔を戻して続ける。
「全く親から愛されずに育った子どもや親の顔すら知らない子ども、親に虐待されて育った子どもも世界にはたくさんいる。そういう者たちからすれば、私はずっと幸せなのだろう。自分は三番目なのだと悩んでいた子どもの頃の私の悩みは、とても小さなものなのだろう。……けれど私にとってはそれは大きな悩みだったし、大人になった今もずっと寂しい気持ちがある。エアーリアなら分かってくれるだろう? 誰の一番でもない寂しさがどれだけ悲しいかというのは」
私は小さく頷いて、両手でロキオ殿下の手を握る。殿下も私も両親から愛されて育ったが、他の兄弟ほどは愛されなかった。生まれた時から今までずっと、三番目に大事な子だった。
殿下は背中を丸めると、私のおでこに自分のおでこをくっつけた。
「私は自分の役割に納得している。イオ兄上には王になってほしいから、自分は愚かな第三王子でいる事にも不満はない。けれど心の中のこの寂しさは、誰かに愛してもらわねば埋まらない。ずっと三番目では嫌なのだ」
そこで一度顔を離すと、ロキオ殿下は私を強く抱きしめた。
「私を愛してくれ、エアーリア。私はお前の一番になりたいのだ」




