37日目(3)
ロキオ殿下の低い声を聞いただけで、これ以上なく機嫌が悪い事が分かってしまう。
目の前に立っているリアムさんは、少し動揺した様子で「ロキオ殿下……」と呟いた。
しかし殿下はリアムさんには視線を向けず、私の肩を抱いたまま言う。
「私は昼食会を楽しめとは言ったが、こういう楽しみ方をしろとは言っていない」
「こういう楽しみ方って何ですか……」
私は怯えて首をすくめつつ言った。リアムさんと普通に会話を楽しんでいただけなのに。
そしてやっと私を睨むのをやめると、殿下は今度は顎を上げて尊大にリアムさんを見下ろす。
「私の侍女と知り合いか? どういう関係だ?」
リアムさんは慌てて居住まいを正して自己紹介し、こう続けた。
「エアーリアさんとは家の関係で何度か会った事があって、今日も声をかけてくれたので色々と話しをしていたところです」
「ほう。エアーリアの方から声をかけたのか」
そこでまたロキオ殿下は私を見たようだ。私は顔を上げられなかったが、睨まれている気配を感じた。
最近、私に対しては優しくしてくれていたので忘れていたがロキオ殿下は基本的にいつも不機嫌なので、幸か不幸か、リアムさんは殿下が今不機嫌なのはヤキモチを焼いているからだとは気づいていない。
「そうか、お城で侍女をやっていたんだね」と私に話しかけている。
「ロキオ殿下の侍女をやれるなんて名誉な事だね」
「そうだな」
私に喋りかけているリアムさんに、ロキオ殿下が高慢に答えている。
この状況をどうしたらいいのかと内心狼狽していたら、唐突に国王陛下が手を叩いて皆の注目を集めた。
「どうやら楽団が揃ったようだ。遅れたが、演奏を楽しもう」
いつの間にか、噴水の隣に十人ほどの楽団が座っていた。そして優雅で明るい曲を演奏し始める。
すると、それに合わせてダンスを踊り始める人も出てきた。国民性というか、曲が流れてきたらつい踊ってしまう人が多いようだ。
従者や使用人たちがテーブルや椅子を退けてスペースを作ると、しっかりとステップを踏む人も、ゆらゆらと体を揺らしているだけの人も、そこでペアになって踊り始める。
父と母は周りで見学しているが、ミリアンとミシェルは楽しそうに手を取って、難しいステップを踏みながらくるくる回っていた。
「あ、えっと……」
リアムさんがちらりとこちらを見た。私をダンスに誘おうとしてくれているのだろうか。
しかしそう察した時――私はぐっとロキオ殿下に腕を引かれた。
「行くぞ」
ロキオ殿下は、いつの間にか機嫌を直していたようだ。今は子どものように笑っていて、私を中央へ連れ出す。少しはしゃいでいるみたいで、とても珍しいものを見た気持ちになる。
呆気にとられている間に、ロキオ殿下は私の腰に手を回し、片手を握っていた。一応ダンスは踊れるので、ロキオ殿下がリードを取って動き出すと私の足も自然と動き始める。
「ダンスなんて退屈だと思っていたが、エアーリアとならわりと楽しいな」
殿下は瞳をきらめかせて私に笑いかけた。それだけで勝手に高鳴る心臓をどうにかしたい。
「まぁ! 見て」
「素敵ね」
ロキオ殿下が珍しく穏やかに笑っているからだろうか、今日の爽やかな衣装との相乗効果で、殿下はこの場の注目を集め始めた。
「ロキオ殿下があんなお顔をされているの、見た事がないな」
「いつもあんなふうだと、若い女性以外の国民からも人気が出るでしょうね」
「外見が全てではないが、やはりあの整ったお顔立ちと、王妃様譲りの髪と目の色は人目を引く」
「イオ殿下やシニク殿下より目立ちますものね」
周りで見ている貴族たちのひそひそ声が耳に届く。イオ殿下やシニク殿下も妃と踊っているが、この場の主役はロキオ殿下になっていた。
(さすが、ロキオ殿下)
皆の視線がロキオ殿下に向いている事に、私は密かに満足していた。自分の好きな人の魅力を皆にも分かってもらえたような気持ちになって嬉しい。
しかし踊りながら周囲を見渡すと、国王陛下と王妃様もこちらを見ているのに気づいた。けれどその表情が私と違って嬉しそうではなかったので、浮かれていた心を一気に冷やされたような気持ちになる。
二人はとても冷静な瞳で、第一王子のイオ殿下と、そのイオ殿下よりも目立っているロキオ殿下を見守っていた。
(王妃様……)
私が周囲を気にしているからだろうか、最初、熱心に私を見つめるばかりだったロキオ殿下も、自分がこの場の注目を一身に集めている事に気づいたようだ。
するとロキオ殿下はほほ笑みを消して、一曲目が終わると同時に踊るのをやめ、私を端の方へと連れ出した。
「楽しかった」
殿下は皆の視線から外れると、また私にほほ笑みかけてそう言ってくれたが、楽しかったという感想のわりには、それから再び踊ったりする事はしなかった。
そして昼食会もそろそろ終わりという時間になると、ロキオ殿下は私に「家族のところにでも行っていろ。浮気はするなよ」と言って、自分はどこかへ行ってしまった。
私はそれを追いかけようとしたが、
「あ! 姉さん、いた! 踊ろうよ」
ミリアンに捕まって、再びダンスを踊っている人たちの中に連れ出される。私はロキオ殿下の事を気にしつつ、引っ張られるまま踊り始めた。
「ミシェルはどこへ行ったの?」
「あそこ。声かけられて踊ってる」
見れば、同じ年頃の男の子と一緒だった。確かイレイザ侯爵のご子息だっただろうか。父が見たら心配しそうだ。
「ミリアンも可愛いと思った子がいたら誘えばいいのに」
「別に僕が可愛いと思ったって、その子と将来結婚できるわけでもないし」
ミリアンの言葉に、私は口をつぐんだ。跡継ぎであるミリアンは、結婚に関しては私より自由がないかもしれない。
ミリアンは私よりも父や母からの愛情を受けているかもしれないが、その分背負うものも大きい。今まで自分の事ばかりで、あまりその辺りを気遣ってあげられなかったかもしれないと後悔した。
「ミリアンは誰か好きな人がいるの?」
私が尋ねると、ミリアンは同情されているのに気づいた様子で慌てて首を横に振った。
「まさか! いないよ。僕が変な言い方をしたから、心配してくれたんだね。だけど大丈夫だよ。本当に好きな子とかいないし、この会場にもさ、正直、ミシェルと姉さん以上に可愛い子なんていないよ」
少しだけ大人びた笑みを見せて、ミリアンは冗談っぽく言った。そしてこう続ける。
「それにさ、結婚は自由にはできないかもしれないけど、父さんや母さんは僕に合う人を見つけてくれるって信じてるんだ。身分だけで判断して、変な女性を連れて来たりはしないよ。二人は僕の事を愛しているからね。最適な相手を見つけてくれる」
「それはきっとそうね」
父や母はミリアンの事をただの跡継ぎだとは思っていない。それ以前に、大切な自分たちの子どもなのだ。
でも、『二人は僕の事を愛しているから』なんて事を自然に言えるミリアンはやはり羨ましい。と、私がそう思った時だった。
「どうしてくれるんだ!?」
突然、ロキオ殿下の大きな怒鳴り声が会場に響いた。
「何? ロキオ殿下?」
ミリアンも足を止めて、声のした方へ顔を向ける。楽団もびっくりして演奏の手を止めてしまった。
静かになった庭で、噴水の音をかき消すようにロキオ殿下は声を荒げている。
「お前はいつもヘマばかりだな!」
ミリアンと一緒に声のする方へ急ぐと、人垣の中で、ロキオ殿下はスピンツ君を叱りつけていた。
スピンツ君は中身がほとんど残っていないワイングラスを手に持っていて、ロキオ殿下のズボンは太ももの部分が赤く汚れてしまっている。
状況から見て、スピンツ君がグラスを落としそうになったか何かして、誤って飲み物をかけてしまったのだろう。スピンツ君はワインは好んで飲まないから、ロキオ殿下に渡そうとして失敗したとか?
「こんなところで私に恥をかかせるなんて。本当に使えない従者だ!」
ロキオ殿下は目を吊り上げて怒っている。
以前の私なら、怒鳴っているロキオ殿下を見て「やっぱり高慢王子だ」と呆れたかもしれない。従者が悪いとしても、もっと他に注意の仕方はあるはずだし、何もこんな公衆の面前で怒鳴りつけなくてもいいのにと。
けれど殿下の性格を多少なりとも知っている今では、この光景を見て戸惑うばかりだ。
ロキオ殿下はこれくらいで激高するような人ではないはず。
私がロキオ殿下付きの侍女になった初日の日に、スピンツ君を怒鳴りつけていた場面を目撃した事はあるが、あれはスピンツ君が野良猫を部屋に入れてロクサーヌの友達にさせようとしていたから――つまりロクサーヌが怪我をする可能性があったからあれだけ怒っていたのだと、今なら分かる。
現にそれ以外でスピンツ君を強く怒鳴りつけているところは見た事がない。小言を言ったり、注意をしたりするのは日常茶飯事だけど、それは常識的な叱り方に見えた。
(ズボンを汚されたから? それともたまたま機嫌が悪かったから、こんなに怒っているの?)
困惑しつつ、殿下をなだめるために前へ出ようとした時だった。
「ロキオ」
私より早く、イオ殿下がロキオ殿下を諭すために声を上げた。




