32日目
「殿下、そろそろ休憩されませんか? お茶をお淹れします」
「いや、お茶はいい。ちょっと体を動かしに行くからな」
午後のお茶の時間に声をかけると、ロキオ殿下はそう言って立ち上がった。
「スピンツ、行くぞ」
「はい」
「どちらへ行かれるのです?」
スピンツ君と連れ立って部屋を出ようとするロキオ殿下に尋ねると、殿下は片方の口角を持ち上げて答えた。
「訓練場だ。今の時間は誰も使っていないはずだからな」
「訓練場? まさか剣の稽古をされるおつもりですか? 右手の怪我が治ったばかりなのに」
「心配しているのか? 大丈夫だ。怪我には気をつける」
殿下は私の頭を軽く撫でて言った。
いや、心配しているのは確かなのだが、別に『好きな人が怪我をする事を心配している』わけではなくて……。
「私は侍女として、主である殿下を心配しているんですよ」
「ははは、そうか」
念を押して言っても、ロキオ殿下にはあまり響かなかった。
けれど殿下が稽古で無理をしないかは本当に心配なので、私はこう尋ねた。
「私もついて行っていいですか?」
「ん? 構わないが……」
殿下はそこでふと考えてから、じわっと頬を赤く染める。
「いや、やはり駄目だ。エアーリアがいると集中できそうにない。それでまた怪我をしていたんじゃ格好悪いしな」
そう言って、「一時間ほどで戻る」と足早に部屋を出て行く。
無理をしないといいのだが……。
二時間後、ロキオ殿下はわりと無理をして帰ってきた。怪我はしていないようだが、多少髪を乱して汗を滲ませ、上着やベストはもちろん脱いでシャツは少し汚れている。
「予定より一時間ほど遅かったようですが……」
スピンツ君との稽古が白熱したのだろうかと思いながら、いい汗をかきつつも疲れた様子のロキオ殿下を見つめて言う。
すると殿下は軽くほほ笑んで私の頭を撫でた。その仕草はさり気ないので、避けようとしても間に合わない。
「集中していたらいつの間にか時間が経っていてな。寂しかったか?」
「ロクサーヌと遊んでいたので全く大丈夫です」
即座にそう答えて、「風呂に入る」と言うロキオ殿下を浴室に押し込んだ。怒りっぽくて高慢なロキオ殿下より、優しくて甘い空気を放つロキオ殿下の方が扱いが難しい。
ふう、とため息をついていると、寝室の扉が開いてスピンツ君が中に入ってきた。
「着替えを持ってきました」
「ありがとう、スピンツ君」
二人でタオルやバスローブの準備もしながら、ロキオ殿下が浴室から出てくるのを待つ。
スピンツ君は子犬みたいな笑顔をこちらに向けて言った。
「殿下が今、真剣に剣の稽古に取り組んでおられるのは、エアーリア様に格好良いところを見せたいからなんですよ」
「私に? どういう事?」
「騎士さんたちとの手合わせで、次こそ手加減されずに真剣勝負して勝って、その姿をエアーリア様に見せたいみたいです。『そうすればエアーリアはさらに私に惚れるに違いない』って自信満々に言ってました」
「殿下……」
私は遠い目をした。私がロキオ殿下の侍女を辞める算段をつけている間に、殿下も色々と作戦を考えていたようだ。
けれど騎士に勝ったからといって、それだけできゅんとするほど私は簡単じゃないですよとも言いたい。
「前は騎士さんに教えを請うのは嫌だって言って隠れて稽古していたんですけど、今日は殿下の近衛騎士のフェリオさんに稽古に付き合ってもらっていました。殿下が素直に『教えてくれ』って頭を下げるものだから、フェリオさんもびっくりしてましたよ」
「えぇ!?」
……どうしよう。それを聞いて、プライドの高い殿下が頭を下げている場面を想像してしまい、「簡単じゃないですよ」と思ったそばから簡単にきゅんとしてしまった。自分でも自分がきゅんとするポイントがよく分からない。
スピンツ君は笑顔のまま、ご機嫌に続ける。
「最近、エアーリアさんとロキオ殿下が仲良しで嬉しいです」
「……あくまで主人と臣下としてね」
しっぽを振ってはしゃぐ子犬をなだめるように言う。
するとスピンツ君は唐突に話題を変えてしゅんと眉を下げた。
「僕、殿下が寂しい思いをされているのは、なんとなく気づいていたんです」
「どうしたの? 急に」
私は小首を傾げて尋ねる。
「前から思っていたんです。殿下はいつも少し寂しそうな目をされてるなって。特に、国王陛下や王妃様、それにイオ殿下やシニク殿下を見ている時に、すごく寂しそうに見えて……。僕は殿下の従者になってすぐ、殿下は家族からもっと愛されたかったんだなって気づきました」
私は黙ってスピンツ君の話の続きを待った。
「けどそれに気づいても、僕は殿下の寂しさを心から分かってあげる事はできないんです。だって、僕も両親に捨てられて寂しい思いはしたけど、でも殿下に拾われて、王城でも新しい友だちをたくさん作る事ができたから、あまり悲しくなくって」
スピンツ君は本当に人懐こく、皆から愛される子だ。城で働く使用人たちとはもちろん、料理人から庭師、侍女、さらには文官や登城してくる貴族たち、さらにロキオ殿下の兄であるイオ殿下とシニク殿下とまでいつの間にか仲良くなっていて、可愛がられている。
国王陛下や王妃様とはさすがに『仲が良い』わけではないが、二人ともたまにスピンツ君と会うと、無害な子犬を見ているみたいに優しい目をする。
『あの子は人好きのする子ね。ロキオは自分とは正反対の性格の子を従者にしたのね』
王妃様はそんな事も言っていた気がする。確かに高慢王子だと敬遠されがちなロキオ殿下と違って、スピンツ君が城を歩くとすれ違う皆が声をかけてくる。
私はロキオ殿下のように敬遠されているわけではないが、人見知りで自分からはなかなか心を開けないので、スピンツ君のように誰とでも仲良くなれる性格は羨ましく、見習わなければならないと思う。
スピンツ君はタオルを両手で抱きながら、床を見て言う。
「だから殿下も友達をたくさん作れば寂しくないのにと思うけど、たぶん殿下が本当に欲しいものは〝たくさんの友達〟ではないんだと思います」
そこで顔を上げて、スピンツ君は私を見た。
「僕は殿下の寂しさをちゃんと分かってあげられない。でもエアーリアさんは、何だか殿下と似ている気がするんです。真面目で控えめなエアーリアさんと、派手で時々意地悪な殿下では水と油のようにも見えますけど、でも僕にはぴったり合うように思えるんです。だから――」
期待を込めて、スピンツ君は見えないしっぽを小さく振り始める。
「エアーリアさんがロキオ殿下とずっと一緒にいてくれたらいいなって思います。今はエアーリアさんはロキオ殿下のアプローチをかわしておられるように見えますけど、それを受け入れてあげてほしいなって……。僕の勝手な希望なんですけど、でもエアーリアさんもロキオ殿下の事、好きですよね?」
純粋な瞳で見つめられると、罪悪感を感じずにはいられない。建国祭が終わった時、私がロキオ殿下の元から離れると知れば、スピンツ君は悲しむだろう。
私は心を痛めながら言う。
「殿下の事はもちろんお慕いしているけど、それはスピンツ君がロキオ殿下を好きなのと同じなの。恋とかそういうのじゃなくて」
するとスピンツ君は今度は少し眉根を寄せて、不満そうに唇を尖らせた。
「本当ですか?」
「本当よ」
「でも、もしエアーリアさんがロキオ殿下のお嫁さんになってくれたら、僕は嬉しいです。僕はエアーリアさんの事も好きなので殿下と一緒になってほしいし、ロクサーヌだってそう思ってるはずです。殿下とエアーリアさんに結婚してほしいって」
「ロクサーヌはそんな事考えてないと思うけど……」
困り果てて言う。私の敵はこんなところにもいたのかと思いながら。
ロキオ殿下一人を裏切るのも辛いのに、こんなに可愛いスピンツ君の気持ちにも応えられないなんて。
ロクサーヌと離れるのも悲しいし、建国祭の後で王妃様の侍女に戻る時には思い切り後ろ髪を引かれるだろう。
「ごめんね、スピンツ君。期待には応えられないわ」
「でも――」
「ほら、もう殿下が出てこられるわ。私は外にいるからお世話をお願いね」
スピンツ君にうるんだ瞳で見つめられると弱いので、彼に説得されてしまう前に寝室を出た。
ロキオ殿下の甘々攻撃も危険だが、スピンツ君の悲しげなうるうる攻撃も危険だ。
しかし逃げるように執務室に戻ると、一人で留守番していたロクサーヌに、私は今度はすりすりと甘えん坊攻撃を受ける事になったのだった。
皆、本当に手強い。




