30日目(1)
フルートーを発つ日が明日に迫っていた。二週間、長いようであっという間だった気がする。
カリンは昨日のうちに屋敷を去ったようだ。サラさんによると、反省しているかどうかは分からないが、ロキオ殿下にとても怯えている様子だったので、もう二度と殿下や私の前には姿を現さないだろうという事だった。
私に背を向けながらカリンを問い質していたあの時、殿下は一体どれだけ恐ろしい顔をしていたのか。
「お寒くないですか?」
「ああ。エアーリアは?」
「大丈夫です。今日は風もないですし、日なたは暖かいですね」
ロキオ殿下と裏庭を散歩しながら、そんな会話を交わす。
殿下はコートのポケットに手を入れて歩きながら言った。
「明日には城に戻るし、エアーリアにもっとフルートーの景色を見せてやろうと思ったが、屋敷の敷地内ではたいした景色は広がってないな。季節的に花は咲いていないし、紅葉も終わっている」
枯れ木を見上げた後、こちらを振り向いて続ける。
「来月は街の方を案内してやろう。王都ほどではないが、そこそこ賑やかだぞ」
「いえ、そんな……。私のためにわざわざ時間を取っていただく必要はありません」
慌てて首を横に振るが、そうするとロキオ殿下の機嫌は少し悪くなった。眉間に皺が寄るので分かりやすい。
「ありがとうございます、嬉しい!」と喜んだ方がよかっただろうか。だけど主人に街へ連れ出してもらって案内までしてもらう侍女なんて聞いた事がない。
ロキオ殿下はまた前を向いて歩き出した。微妙な空気のまま散歩を続ける。
すると前方に魚が全滅した例の池を見つけて、私は「あ」と小さな声を上げた。この空気を打ち破るべく、池に関する事で何か殿下とのお喋りが弾むような話題はないかと探す。
「アビーディーの城にも池がありましてですね……」
「なんだ、唐突に」
池を見てふと思い出したという感じを装おうとしたが、不自然な口調になってしまい、殿下には唐突な話題に思えたようだ。
けれど話には乗ってくれる。
「アビーディーの領地は自然が豊かで、城は小さな山の上にあると聞く。私はアビーディー城には行った事がないが、王城より大きいのか?」
私は生まれ育った城を思い浮かべて答えた。
「王城よりは小さいと思います。それに王城は華やかで美しい城ですが、アビーディー城は古めかしい石造りの城で、頑丈ですが飾り気がなく、少し恐ろしい雰囲気なんです。それこそ幽霊が出るという噂もありますし」
「歴史のある城だからな」
「それで、城の近くにある池もちょっと怖い感じなんです。水はこんなに澄んでいなくて緑色になっていて、水深も深いので底も見えなくて……。水を抜いたら昔の戦争で亡くなった人の死体が出てくるんじゃないかって、大人たちは結構本気の冗談を言っていましたね」
「面白そうな城だ」
ロキオ殿下は笑って言った。
怖い雰囲気はあるものの、私も生まれ育ったアビーディー城には愛着がある。
けれど城の北側に広がるあの大きな緑の池だけは、どうしても好きになれないままだ。
恐ろしい雰囲気が嫌なんじゃない。ただ、見ていると昔の事を思い出して寂しい気持ちになり、胸がじくじく痛むから。
私は澄んだ美しい池のそばに立って、ぼんやりと水面を見つめた。殿下も私の隣で池を見ていた。「やはり火魚は一匹も残っていないな」なんて言いながら。
私は水面から視線を外して、そっと殿下の顔を見上げる。
一ヶ月前とは随分印象の変わった、私の主。
そして気づけば、尋ねられてもいないのに、忘れられない子ども時代の話を語り出していた。
「昔、アビーディー城の池に落ちた事があって……」
ロキオ殿下を楽しませられるような愉快な話じゃないのに、何でこんな話をし出すのだと、もう一人の自分が心の中で疑問に思っている。
けれど口は止まらない。
「十歳くらいの時だったでしょうか。初夏の暖かい日でした。夜や曇りの日なんかはおどろおどろしい雰囲気の池なのですが、晴れている時に訪れるとそれほどでもなくて、その日は両親と弟、妹と一緒に池の畔でお茶をしながらのんびりしていました。大きな日傘を立てて、椅子やテーブルも持ってきて、侍女たちや執事も周りにいました」
私はきらきら輝く水面に再び視線を戻す。
ロキオ殿下は反対に、池から私に目を移した。
この話がどこに行く着くのか分からない様子で、探るようにこちらを見ている。
「そのうちお菓子を食べ終えたミリアンとミシェルが、退屈なお喋りの時間に飽きてその辺を駆け回り始めました。私も二人と一緒に遊んで、大人たちはまだ何かを話していました。父と執事は、城の北側にある大きな木が病気にかかって腐り始めたから、倒れる前に切ってしまわないといけないな、なんていう話をしていて、母は侍女たちと、新しく買った帽子のデザインについて話していました」
その時の事はよく覚えている。母や侍女たちの笑顔や、ミシェルのはしゃぎ声、白い日差しが降り注ぐ池の畔の光景を。
「大人たちが話に夢中になっている間に、ミリアンとミシェル、それに私は池のすぐ側までやって来ていました。最初はミリアンが冗談で軽くミシェルの背中を押して、驚かせていたんです。けれどそれに怒ったミシェルが少し強い力でやり返してしまって、『危ないわよ』と私が言った時には、もうミリアンは池に落ちかかっていました。そしてミリアンはとっさに何かに捕まろうとしてミシェルの腕を掴んでしまい、結局二人一緒に池に落ちてしまったんです」
その時の焦りが蘇ってきて、胸がざわめいた。可愛い弟と妹が、深い池に落ちたのだ。
七歳のミリアンとミシェルでは到底足がつかないし、一度沈んでしまえばどこにいるのか分からなくなってしまうくらい水は濁っている。
子どもだった私でも、池に落ちた二人に命の危機が迫っているのが分かった。
「冷静に岸に手をつければよかったのでしょうが、二人は落ちた瞬間パニックを起こしていて、水飛沫を上げながら暴れて、どんどん岸から離れていってしまいました。池の底に死体があるかもしれないという噂を思い出したようで、溺れながら泣き叫んでいたようでした。それで、私は二人を助けなければと思って、考えなしに池に飛び込んでいて……」
あまりに必死で、自分も溺れるかもしれないという恐怖はなかった。しかしそれが悪かったのかもしれない。
案の定、私も溺れてしまったのだ。
「ドレスが水を吸い、水の中では思うように動けませんでした。それでも何とかミリアンたちの方へ行こうと、もがきながら岸から離れて行きました。一度沈んでしまうと、緑色の濁った水の中では、どちらが上か下か分からなくなるんです。それでも何とか一瞬水面から顔を出して呼吸をして、でも水も一緒に飲み込んでしまって、とにかくすごく苦しくて怖かったのを覚えています。本当に死ぬかもしれないと思いました」
ロキオ殿下はずっと黙って話を聞いてくれていた。
「けれど大人が近くにいたので、皆すぐに私たちが池に落ちた事に気づいてくれました。一番に動いてくれたのは父で、私は溺れながらも、父が必死の形相で目を見開いてこちらに駆けてくる姿を目にしました。それでとても安心したんです。父が助けてくれるから、もう大丈夫だと」
そこで私は数秒黙った。
ここで話を終わらせた方がいいと思っているし、私もあまりこの話はしたくないと思っているのに、やはり勝手に唇が動き出してしまう。
「けれど、池に飛び込んできた父は……」
私はロキオ殿下に、この話を聞いてほしいと思っているのかもしれない。長年抱えてきた寂しさを、殿下に吐露したいのかも。
声は震え始めていたが、私は続けた。
「父は、ミリアンとミシェルのすぐ手前にいた私には目もくれず、双子を両肩に乗せるようにして助けました」
私を引き上げてくれると思った手がこちらには伸びてこなかった時、私は自分の中で何かが壊れるのを感じた。
「私は、自分は見捨てられたんだと思って……もう、水の中で浮き上がろうともがくのをやめました」
「それでどうなったんだ?」
今まで黙って話を聞いていたのに、ロキオ殿下はそこで思わずといった様子で尋ねてきた。私は今ここで無事に生きているというのに、子どもの私が死んでしまったんじゃないかと心配しているみたいに。
私はそんなロキオ殿下の様子に少し笑みをこぼして続けた。
「父はミリアンとミシェルを岸にいた執事たちに預けてから、私を助けに戻って来てくれたようです。気づけば私は岸に倒れ込んでいました」
執事が『エアーリア様がまだっ……!』と声を上げたので、父は急いで私を救助してくれたようだった。
「三人とも助かった後、母が『ああ、よかった』と泣きながら、ミリアンとミシェルを抱きしめていたのも覚えています。私は侍女に背中を擦られて水を吐きながら、それを見ていました」
父がミリアンとミシェルを優先的に助けたのは、二人が私より幼かったからかもしれない。それとも、二人が今にも沈みそうで、私以上に危険な状況だったのかも。
子どもが三人溺れていたら、大人でも同時に三人を救助するのは難しい。誰かを優先して、誰かを後回しにしなければならない。
私が父の立場でも優先して助けるのは、先に池に落ちていて、体力のない年下のミリアンとミシェルだったかも。
私は何度も自分にそう言い聞かせてきた。
だが、父はあの時、そんな事を考えている余裕はなかったはず。私たちが溺れている事に気づいて、必死にこちらへ駆けてきた時の父の表情を見れば分かる。
――単にあの時、父の目にはミリアンとミシェルしか入っていなかったのだと。
三人全員を助けるためにはどういう順番で救助をすればいいか、なんて事は絶対に考えていなかった。
もしかしたらミリアンとミシェルが池に落ちた時点で意識は二人に絞られていて、私が池に飛び込んだ事には、そもそも気づいていなかったかもしれない。
けれどそれは当然の事のように思う。
ミリアンとミシェルは父と母がやっと授かった可愛い子どもなのだし、特にミリアンはアビーディー家の跡継ぎだ。私より大事に想って当然なのだ。
けれどあの日、私は完全に自分に自信をなくした。
養子という事もあって前から自分には自信がなかったが、救助を後回しにされた時に、私の心の中にあった〝硝子の入れ物〟が割れてしまったのだ。
その入れ物には、父や母から何か褒められるたびに少しずつ得たもの――つまり〝自信〟を貯めていたのだが、割れてしまったせいで全て流れ出てしまった。そして入れ物はいまだに割れたままなので、だれにどれだけ褒められても自信が貯まる事はない。
父と母は私たちを平等に扱おうとしてくれたし、三人とも同じように愛していると言ってくれていた。
『エアーリアはミリアンやミシェルと同じ、私たちの大切な子だ』
『そうよ、何も差はないわ。だから遠慮しないで甘えていいのよ、エアーリア』
そうやって、よく私に言い聞かせてくれてもいた。そしてその気持ちは本心なのだろうと思う。二人は同じように私と双子を可愛がっているつもりだったのだ。
だけど私は、池に落ちるずっと前から気づいていた。
父と母は、私より双子の方をより愛しているのだろうと。
双子と私に対する両親の扱いの差は、私以外は誰も気づかないほど小さなものだった。
例えば、母が『今日も可愛いわね』と声をかけるのはいつも双子が先で、私はその後で『エアーリアも可愛いわ』と付け加えられるのが常だったり、父は双子の好き嫌いをよく知っているのに、私の好物や趣味はいまいち把握していなかったり。
そして両親ともに、私の事よりミリアンとミシェルの事をよく見ていた。
父と母の視界に入っているのは、ミリアンとミシェルばかりなのだ。
あの家庭教師が私に意地悪をしても気づかなかった父と母だが、もし意地悪されていたのがミリアンとミシェルだったら、一日で気づいたかもしれない。いや、きっと気づいただろうと思う。父と母は双子の些細な変化を見逃さないはず。
だからと言って別に両親を恨んでいるわけじゃないし、ミリアンとミシェルに嫉妬しているわけじゃない。
そんな感情より感謝の気持ちのほうがよっぽど大きいし、私は優しい両親と可愛い双子を愛している。
私は、私を家族の一員にしてくれた彼らの事を、この世で一番大切に思っているのだ。
でも、だからこそ苦しい。
私にとって一番大切な人たちは家族だが、家族は私の事を一番には愛してくれないから。
両親にとってはミリアンとミシェルが一番だし、ミリアンとミシェルはお互いの事を一番に想っている。
それはとても納得できるし当然なのだが――でも、だから私はいつも少し寂しい。
こんなの、とても贅沢な悩みだとは分かっている。
本来なら貴族の子ではなかった私なのに、両親はドレスを与えてくれ、きちんとした教育を受けさせてくれた。もちろん毎日の食事に困る事もない。
なのに私はこれ以上のものが欲しいと望んでいるのだ。
一番に愛してほしいと。
そのためにミリアンやミシェルを二番にしなくていい。ただ、二人と同じ位置に私の事も置いてほしいと思ってしまう。
本当に、どうしようもなく欲深い。
「すみません、いきなりこんな話をして……」
隣にロキオ殿下がいる事を思い出し、私は笑って顔を上げようとした。
急にこんな話をして殿下に引かれないように、せめて最後は笑顔を作って、ここからどうにか明るい話に持っていこうとする。
けれど顔を上げた私の瞳からは、何の予兆もなく、ぽろぽろと涙が零れ落ちていた。




