29日目
「ほら、何を黙っているの? 思う存分、私をけなせばいいじゃない」
しかし私が威勢よくそこまで言ったところで、カリンはさらに大きく目を見開いた。その視線は私から僅かにずれている。
一体何を見て驚愕しているのかと私は後ろを振り返り、そしてカリンと同じように目を丸くした。
「で、殿下……!?」
後ろから私たちに近づいてきていたのは、ロキオ殿下とサラさんだった。
ブローチを握ったまま固まっている私の前に出て、ロキオ殿下は冷たくカリンに言う。
「カリン、部屋に戻って荷物をまとめろ。お前はクビだ」
「そんな、殿下っ……」
カリンは立ち上がってロキオ殿下に縋りついた。
「待ってください。今の見ておられたでしょう? 私は一方的にエアーリア様にわめき散らされていただけで何も――」
そこでカリンは息をのみ、口を動かすのをやめた。ロキオ殿下を見つめている彼女の顔が、だんだん青くなっていく。
私からは見えないが、ロキオ殿下はそんなに恐ろしい表情をしているのだろうか。
「お前、エアーリアが来る前に自分がしようとしていた事は見られていないとでも思っているのか?」
殿下の声は氷のように冷たくて、私まで震えてしまう。さっきまでカリンに怒りを向けていたはずなのに、今は彼女にちょっと同情してしまいそう。
殿下の冷え冷えとした声を聞くだけで、「どう言い訳しても、どんなに取り繕っても、もう無理なのだ」と分かってしまうから。
殿下は続ける。
「私はお前に一度忠告をしたな? あの忠告を聞いた上で、お前は今回の行動を起こした。それがどういう意味か分かるか? どれだけ私が怒っているのかもお前は分かっているはずだ。仕事をクビになるだけで済んで喜ぶべきだ。それとも一族まとめてこの土地から追い出されたいか?」
「も、申し訳ありませんでした……」
低い声で淡々と話すロキオ殿下が恐ろしいのか、カリンは何も言い訳ができない様子で、生気のない顔をして蚊の鳴くような声を出した。
「ごめんなさい……お許し下さい、どうか……」
「もういい、行け。二度とエアーリアの前に姿を現すな」
サラさんに促されて、カリンはうつむいたまま屋敷に戻っていく。使用人ですらなくなった彼女は、自分のこれからの事を考えるのに精一杯で、もう私の事なんて目に入っていない様子だった。
去っていく二人を見送り、私の怒りはすっかり沈下していた。カリンがクビになって安堵したからというわけではない。ロキオ殿下の冷たい怒りに触れて、勝手にしぼんでいってしまったのだ。
小型犬の私が小型犬のカリンにきゃんきゃん吠えていたら、横から狼が唸りながら出てきて、私まで恐ろしくなってしまった、という感じだ。狼は味方なのに。
「で、殿下」
目の前にあるロキオ殿下の背中に、恐る恐る声をかける。
殿下はきっと怒りをたたえた怖い顔をして振り向くのだろうと身構えていたのに、私を見つめる表情は冷たくも恐ろしくもなかった。
「エアーリア」
眉間に僅かに残っている皺は先ほどの冷たい怒りの名残りだろうけど、今はこちらを心配しているような、それでいて少し呆れているような、けれど愛しいものを見るような、複雑な表情をしている。
「馬鹿なやつだな、お前は。私のやったブローチのためにこんな怪我をして」
殿下は視線を下げると、かすり傷のできた私の手を取り、怪我をした部分を避けて両手でそっと握った。
「そもそも、これはお前が〝宝物〟だと言うブローチではないというのに」
「え?」
ロキオ殿下は私の指を緩め、きつく握っていたブローチを取り出した。
「見てみろ。デザインが少し違うだろう。それにほら、自分の胸を見下ろしてみればいい」
ロキオ殿下に言われるまま、無言で自分の胸元を見る。そこには私の大切なブローチが光っていた。
「え……、え? えぇっ!?」
三度「え」と言いながら驚く。
「どうしてブローチが二つも!?」
「びっくりしているエアーリアは面白いな」
ロキオ殿下は私の乱れた髪を撫でつけて直しながら笑った。
「笑っておられないで、どういう事なのか説明してください。その様子だとロキオ殿下も一枚噛んでおられるのでしょう? たまたまここにいたわけではないんですね? それにさっき、カリンに『一度忠告をした』と言っておられましたが、あれはどういう意味です?」
「まぁ、落ち着け。とりあえずエアーリアの手当てが先だ。すごい勢いでカリンに突っ込んで行ったからな。お前があれだけ俊敏に動けるとは」
「殿下!」
こんな時でも私をからかう事を忘れないロキオ殿下。カリンには静かだが深い怒りをぶつけていたのに、今はその怒りは鳴りを潜めている。
「行くぞ」
殿下は握ったままだった私の手を引っ張って、自分の私室へと連れて行った。
スピンツ君とロクサーヌは執務室の方にいるので、私室は私とロキオ殿下の二人きりだった。
静かな部屋の中で、二人並んでソファーに座る。私は殿下に擦り傷の消毒をしてもらいながら、殿下の話を聞いていた。
「最初にエアーリアの様子が気になったのは、ここに来て三日目の事だったか。エアーリアと一緒に池の魚を見に散歩に出たが、全く魚がいなかったという事があっただろう?」
殿下はその時の事を思い出したのか、少し笑った。
「あの時、池から部屋に戻る途中、カリンと擦れ違ったのを覚えているか?」
そう、あの時、カリンは私には頭を下げずに、顔を上げて睨んできた。
ただそれだけの事だったが私はカリンの失礼な態度にびっくりして、立ち止まってしまったのだ。
「私はその時、カリンの事をよく知らなかった。雇ったばかりの新人だし、まだよく顔を覚えていなかったんだ。だが、エアーリアが驚いたような表情でカリンの後ろ姿を眺めていたから、そこで初めて少し気になった」
私の傷の消毒を終えると、殿下は消毒薬をテーブルに置いたが、私の手は私の膝の上に戻してくれなかった。自分の膝の上に置いたまま、傷を避けて私の指を握る。
「それでサラにカリンの事を訊いた。カリンと擦れ違った時にエアーリアの様子が変だったが、何か知らないか? と」
ロキオ殿下がその時から私とカリンの問題を認識していたなんて知らなかった。殿下は何も気づいていないと思っていたのに。
「サラは、カリンはエアーリアにおかしな嫉妬をしているのだろうと言っていた。両親が早世しなければ、エアーリアは親と同じように城で下働きをしていたかもしれない。なのにそうはならずに、今は王族である私に気に入られている。それが気に食わないのだろうと」
殿下に気に入られていると思った事はないが、サラさんはこう言ったらしい。
『――殿下たちが前庭でピオボールをされた日、殿下とエアーリア様が仲良くいちゃついている様子をカリンも見ていたんですよ。それでエアーリア様が分不相応に可愛がられていると思ったのではないですか?』
私は決して殿下といちゃついていたわけではないが、確かにサラさんに「仲がよろしいのは結構ですが、使用人たちも見ていますのでほどほどに」と注意された後、使用人たちの方を見てみれば、カリンだけは不愉快そうな顔をしていた。
ロキオ殿下は私の手を見たまま続ける。
「それで、サラにはカリンに注意をするよう言った。エアーリアに無礼な態度を取らないよう言っておけと。そして何かあればすぐに私に報告するようにも言った。サラが言って聞かなければ、私から直接カリンに言わねばならないしな」
「私が使用人に直接注意をする事などまず無いのだが」と続けながら、殿下は私の指を軽く握った。
そしてちらりとこちらを見て、少し話を変える。
「カリンのような見当違いの嫉妬を向けてくるような人間はどこにでもいるが、エアーリアは今回の事で多少なりとも傷ついているだろうと思った。だから……」
殿下は私の胸元で輝いているブローチを指差した。
「それを買ってきた。『店の主人が強引に売りつけてきた』と言っていたが……実は、私が選んで買ってきたものなのだ」
「知っています」
私は即座に頷いた。殿下は「そ、そうか」と恥ずかしそうにして、話を戻す。
「それからしばらくは、サラからは特に変わった報告は受けなかった。しかしカリンの態度が改善したという報告も受けなかったから、何か対応を考えなければと思っていた時だった」
また真剣な口調に戻って続ける。
「カリンがエアーリアの食事に下剤を入れようとしていた可能性があると、サラから報告を受けた」
三日前に私がサラさんから受けたような説明を、ロキオ殿下も同じ日に受けていたらしい。
つまり、カリンが休憩中に私の事を悪く言い、サラさんや周りの使用人たちから逆に責められた事や、それで私を逆恨みして下剤になる薬草を採ってきたり、私の部屋がある二階の様子をうかがったりと怪しい行動を取り始めた事を知ったらしい。
「カリンの行動は怪しいが、しかしその時点ではまだ、サラの早とちりという可能性もなくはなかった。下剤はカリンが自分で使うためだったのかもしれないし、二階の様子をうかがっていたのは掃除をするつもりだったのかもしれない。私は実際にカリンの様子を見ていないから、怪しいと疑う事しかできない状況だった。だが――エアーリアが何かされるかもしれないと思ったら居ても立ってもいられなくなって、気づけば私はカリンのところに行って、彼女に警告していた」
「え……警告とは?」
殿下は私の事を心配して行動を起こしてくれたのかと思いながら尋ねると、殿下はうつむいたまま言葉を濁した。
「まぁ……私の侍女に手を出すという事は王族である私に手を出すという事だぞ、というような事を……」
別におかしな事は言っていないと思うのだが、殿下は何故か恥ずかしそうに耳まで赤くする。
「何です、その反応? 他に何かおっしゃったんですか?」
「いや! 言ってない」
反射的に殿下は答えて、話を戻した。
「カリンがその時どういう反応を示したかは、正直よく覚えていない。私がいきなり現れて、ぽかんとしていたような気がするが……。とにかく私は言いたい事を言ってカリンに警告した後、また自分の部屋に戻ってきた。サラはまだそこにいて、いきなり部屋を出て行った私の事を呆れたように見ていたな」
サラさんはため息をついてこう言ったと言う。
『エアーリア様のブローチを使ってカリンを罠に嵌めようと思っていたのですが、殿下が直接注意なさったのなら、カリンは大人しくなるかもしれませんね。まぁ、どの道エアーリア様にはブローチを貸してもらえなかったのですが』
どうやらサラさんは、私にカリンの事を話した後すぐにロキオ殿下のところに向かったようだ。
というか、殿下の元に報告に向かう途中で私の姿を見かけ、先に私に声をかけたというのがおそらく正解だろう。
「私はブローチを使った作戦もいいと思ったんだが、エアーリアは拒否したらしいな」
殿下は穏やかに笑いながら続ける。
「そんなにブローチを気に入ってもらえるとは思わなかった」
「だって、カリンに壊される可能性もあるのに渡せません」
私はそこでふと首を傾げた。
「でも結局、その作戦は実行する事にしたんですよね? 違うブローチを使って」
ロキオ殿下は頷く。
「そうだ。エアーリアにブローチを買った店で、もう一つ似たようなブローチが置いてあったのを思い出して、それを使う事にした。とは言え、サラにブローチを買いに行かせたものの、私の警告以降カリンが心を入れ替えているようだったら、何もするつもりはなかった。だが、カリンは誰かに責められると逆上するタイプのようでな……。これまで以上に何とかエアーリアを貶めようと躍起になっている様子だと、サラが言っていたのだ」
カリンは周りから「あなたの方が間違ってる」とか「もうやめなさい」と注意されればされるだけ、意地になってしまうのだろうか。
「それでブローチをひと気のない廊下に置いて、サラに頼んでカリンを呼び出した。カリンはブローチを取ってポケットに入れ、サラの用事を済ませた後で、外に向かった。後はエアーリアも見ていた通りだ」
「はい」
「私やサラは、カリンがブローチを壊した後で出て行くつもりだった。未遂で捕まえるより、絶対に言い訳できない状況に追い込んだ方がいいかと思ってな。だが、そこでエアーリアが来て予想外に勇ましい姿を見せてくれたものだから……」
「も、もう忘れてください。髪を振り乱してブローチを取り返していた姿なんて。しかも自分の胸にちゃんとブローチはついていたのに」
私がそう言うと、ロキオ殿下は白い歯を見せて笑った。
「私は嬉しかったぞ。エアーリアが怒っている姿を見て、ブローチを本当に大切にしてくれているのだと思った」
数秒、お互いに見つめ合う。
そしてお互いに照れながら同時に目を逸らした。
沈黙にそわそわしていると、ある事に気づいて私は口を開いた。
「あ! もしかして、この三日ほどスピンツ君を私につけてくださったのは、体調の事だけを心配してくださったのではなかったのですね? それに殿下が外出の予定をキャンセルされたのも……向こうの都合だとおっしゃっていましたが、本当は……」
「そうだ。お前がカリンに怯えているようだったからな。なるべくそばに私かスピンツがいるようにした。カリンも、エアーリアが他の人間と一緒にいる時には手を出してこないだろうしな」
ロキオ殿下は、握っている私の手をじっと見ながら続ける。
「本当は私がお前に、『カリンの件は知っている。だが彼女には私から注意をしてきたから安心しろ』と声をかけてやればよかったのだが……カリンにした警告の事を思い出すと居たたまれなくなるのだ……私は何故、あんな……」
殿下の声は段々と小さくなっていき、反対に顔はどんどん赤くなる。そして耳まで赤くしたところで、結局口を閉ざしてしまった。
どうして赤面するのだと思いつつ、私は首を傾げて言った。
「何か理由があったんですね? でも気になさらないでください。外出まで取りやめてそばにいてくださって、それだけでも私は随分安心しましたから。それに私も殿下に素直に助けを求めればよかったのに、言わずにいたんですから……」
「エアーリアの事だ。どうせ遠慮していたんだろう」
ロキオ殿下の言葉に曖昧にほほ笑む。
遠慮もしていたが、やはり私は、ロキオ殿下が私の完全な味方になってくれるか分からなかったから言えなかったのだと思う。
でも今考えれば、そんな事を不安に思っていたのが馬鹿みたいだし、ロキオ殿下に失礼だった。
だって殿下は、最初からずっと私の味方だったのだから。
幼い頃の事を思い出す。例の家庭教師が私に嫌がらせをしていた時、父や母はそれに気づく事がなかった。勉強中は同じ部屋にいるわけではなかったから仕方がないと思いつつ、寂しい気持ちもあった。
でも、ロキオ殿下は今回の事に気づいてくれていた。それがとても嬉しい。
「でも本当に、よく気づかれましたね。私とカリンの事。きっかけは私がカリンの後ろ姿を見ていた、というだけだったのに」
「エアーリアの事はいつもよく見ているからな」
「え?」
「エアーリアの事はいつもよく見ているから、様子がおかしいとすぐに気づく。それくらい簡単な事だ」
当たり前のように言うロキオ殿下に、私はぱちぱちと二度まばたきし、顔を赤らめた。
「そ、そうなのですか」
父と母ですら私の事をそこまで見てはいなかったはずなのに、どうしてロキオ殿下がそんなに私を見ているのか、と思いながら、私は何となく面映ゆくなったのだった。




