26~29日目
カリンの大きな独り言を聞いてしまった後、私は早足でロキオ殿下がいるであろう執務室に戻る事にした。
本当は執事のクロッケンさんのところにも寄ってから戻るつもりだったけど、大した用事ではないので今日は止めにする。
だって一人で廊下を歩いていてカリンと鉢合わせしたくない。
さすがのカリンも殿下の前で私に手を出す事はできないだろうから、今は殿下のそばにいるのが一番安全だ。
「失礼します」
しかし執務室にロキオ殿下の姿はなかった。いるのは、机の上の資料や本を整理しているスピンツ君と、窓辺で日光を浴びて伸びているロクサーヌだけ。
「あ、エアーリアさん。お帰りなさい。足りなかった刺繍糸は貰えましたか?」
「ええ、貰えたわ。ところでロキオ殿下はどこかへ行かれたの?」
「はい。私室の方へ行かれました。しばらく入ってくるなと言っておられたので、何か用があるなら、殿下がこちらに戻ってこられるまで待った方がいいですよ」
「そうなの、分かったわ」
ロキオ殿下がいないと少し心細いような気持ちになるが、殿下の執務室にカリンが入ってくる事はまずないだろう。廊下には騎士もいる。
私は扉近くに二つ並べて置いていた椅子の一つに座り、隣の椅子の上に置いておいたハンカチと裁縫セットを手にした。殿下のハンカチにするユリの刺繍は、まだ全部できていないのだ。なにせ新しい無地のハンカチを十枚も買ったので、刺繍も十個しなくてはならないから。
けれど十枚ともユリでは面白くないので、何枚かはロクサーヌをモデルにした灰色の猫の刺繍にしようかと思っている。愛猫を溺愛しているロキオ殿下も喜んでくれるだろう。それとも成人男性が持つには猫の刺繍は可愛過ぎると言われるだろうか。
ちくちくと刺繍をしていると、しばらくしてロキオ殿下は部屋に戻ってきた。何故か僅かに顔を赤くして。
そして私が部屋にいるのを見ると、ぎょっとしたように目を丸くしてさらに顔を赤らめた。
「どうされたんです?」
「も……戻ってきていたのか、エアーリア」
殿下はそう言った後で「いいや、何でもない」と取り繕って、何事もなかったかのように執務机に座る。
不審な様子を見せる殿下の事を、スピンツ君と私は頭に「?」を浮かべながら見ていたが、そこで私はふいに我に返って自分の胸を見下ろした。
ブローチがちゃんとそこについているのを見ると、安堵して息をつく。
「どうした?」
今度はロキオ殿下が尋ねてきたので、私は小さく苦笑いして返した。
「いえ、ここに戻ってくる時に早足で廊下を歩いてきたので、ブローチが取れなかったかと心配になって。落としたら大変ですから」
「……ああ、ブローチか。私に気を遣わなくても、別に落としたくらいでは怒らないぞ」
「いいえ、このブローチはもう私のお気に入りになっていますから、なくしたら悲しいので……」
カリンに拾われて無惨に壊されたら、本当にちょっと泣いてしまうかもしれない。
するとロキオ殿下は珍しく明るく笑って、こう言った。
「そんなに気に入ったか。心配しなくても、なくしたらまた買ってやる。店には他にもう一つ、それとよく似たデザインの物が売っていたし……ああ、だが……」
殿下はそこで一度言葉を切ってから、改めてこう続ける。
「とにかく他にも良さそうなものがいくつかあったからな。なんなら、城に帰る時に王都の大きな店に寄ってもいい。何でも欲しいものを買ってやる」
「ありがとうございます」
殿下はサラさんと同じような事を言ってくれたが、やはりこのブローチが大事なので、他のものを買ってもらえるとしてもなくしたくなかった。全く同じものをもらえるとしても嫌なのだ。
私は再びハンカチの刺繍に取り掛かりながら、同じく仕事に取りかかったロキオ殿下をちらりと見る。
(カリンの事、ロキオ殿下に言ったら、殿下は私の言い分を信じてくれるだろうか)
サラさんとは違い、殿下はカリンの事をよく知らないはずだ。彼女が私を嫌っている事も、悪巧みをしている事にも気づいていない。
その状況で私が突然、「カリンという使用人に危害を加えられるかもしれないんです」と訴えたら、殿下はどういう反応を見せるだろう。
ロキオ殿下にとって、もしかしたら私は『大切な侍女』かもしれない。しかし、だとすればカリンも『大切な使用人』の一人なわけで、私の言葉だけを一方的に信じて対処する事はないと思う。
私はロキオ殿下から視線を外して、手元の白いハンカチをじっと見つめた。
(私はたぶん、ロキオ殿下を疑っているのね)
殿下は私に優しい表情を見せてくれるようになったし、ブローチもくれた。なんならキスもした仲だけど、本当にこんな私の味方になってくれるのだろうかと、自分に自信がないゆえに疑っているのだ。
ロキオ殿下にカリンの事を言えない理由も、かつて両親に例の家庭教師の事を言えなかった理由も同じなのだろうと思う。
「この人は私の事を何よりも愛して大切に想ってくれている」という自信があれば、すぐに助けを求められたのかもしれないが、両親に対しても、そしてロキオ殿下に対してもそんな自信は持てない。
私は結局、ロキオ殿下に助けを求める事はできなかった。そしてカリンの行動に怯えつつ、ビクビクと三日ほどを過ごした。
部屋の施錠は毎日ちゃんとしていたし、廊下にはいつも騎士たちが立ってくれていたが、一日の仕事を終えて暗い部屋に戻る時はいつも少し恐ろしかった。
食事や飲み物は料理人に作ってもらった後、自分で運ぶようにしたし、ブローチは肌身離さず身につけた。
とは言え、この三日はほとんどずっとロキオ殿下の執務室や私室で殿下のそばにいたし――殿下は外出する予定があったのだが、会う予定だった相手の都合で無しになったらしく、ずっと屋敷の中で仕事をしていたのだ――食事やお茶の準備、洗濯物を運んだりするために廊下へ出る時は、常にスピンツ君と一緒だった。
『エアーリアもフルートーに慣れてきただろうが、そういう時に気を抜くとまた倒れるからな。しばらくスピンツにはエアーリアを手伝わせる。スピンツが忙しい時は私の近衛を一人連れていって、荷物持ちでも何でもさせればいいし』
殿下がそう言ったので、私が部屋を出るとスピンツ君もついて来てくれるのだ。
私の体調は悪くなく、今まで通り仕事をこなしても倒れると思えなかったが、一人で廊下を歩くのが怖かったので喜んでこれを受け入れた。
カリンの姿を遠くに見つけると、もう毅然とした態度は取れずに即座に逃げていたが、わけが分からないままスピンツ君も後をついて来てくれた。
けれど実はスピンツ君もカリンの事は苦手だったようだ。
『あの人、僕の名前や身分を尋ねてきて、ただの庶民だと知ったら馬鹿にしたような態度をとるんですよ!』
スピンツ君はそう言って憤慨していて、それ以降はカリンを見つけるとすぐに私に教えてくれ、二人で一緒に逃げるようになった。スピンツ君は鬼ごっこの感覚で楽しんでいたようだが。
とにかくこの三日、ロキオ殿下の外出予定がなくなったり、スピンツ君がそばにいてくれた事で、私は精神的にかなり助けられていた。
(殿下と、スピンツ君と、ロクサーヌ)
今、その三人がいる部屋に私もいる。とても安心できる空間だ。
スピンツ君とロクサーヌはともかく、ロキオ殿下にまで癒やしを感じているなんて、一ヶ月前の私に言っても信じないだろう。
そう、私がロキオ殿下の侍女になってから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。短い期間で関係も随分変わったと思う。
「殿下、指の調子はどうですか? 添え木を取って一週間ほど経ちましたが、痛みなどはないですか?」
お茶の準備をしようと立ち上がりながら、殿下に話しかけた。
殿下は右手を握ったり開いたりしながら、
「ああ、この通りもうほとんど治ったようだ。エアーリアの厳しく手厚い介抱のおかげでな」
冗談を言うように笑う。無茶をしないように小言を言ってきた事を、厳しいと表現したのだろう。
私も笑ってお茶を入れようとしたが、ロキオ殿下がそれを止める。
「お茶はいい。少し部屋を出るからな」
「……そうなのですか。分かりました」
私の表情に、もしかしたら不安が表れていたのだろうか。殿下はそっと私の肩に触れてこう言った。
「すぐに戻る、と言いたいが、もしかしたら一時間以上かかるかもしれない。ロクサーヌのブラッシングでもして待っていてくれ。スピンツも部屋に残していく」
あれ? と私は内心首を傾げた。
もしかしてロキオ殿下は、私が何かに怯えているという事に、少しだけ気づいてくれているのだろうか?
殿下の言葉を聞いてそんな事を思う。だって普通は少し部屋を出るだけでこんな事言わないだろう。
しかし私が訊けずにいるうちに、ロキオ殿下は部屋を出ていってしまった。スピンツ君の「どちらに行かれるんです?」という質問に「ちょっとな」と濁した答えを返してから。
その後、私はロキオ殿下に言われた通りにロクサーヌのブラッシングを全身くまなくしたが、それが終わっても殿下は部屋に戻ってこなかった。
私は少し逡巡すると、難しい顔で本と向き合って勉強をしているスピンツ君に声をかける。
「私も少し出てくるわ。サラさんに用事があるの」
この三日でカリンの様子に何か変化はあったかと訊きに行こうと思ったのだ。サラさんは忙しかったようで、私にカリンの事を警告してくれた日以来、じっくりと話をできていない。
私はカリンを避けて行動しているが、サラさんは女性使用人をまとめる立場なのでカリンとも毎日顔を合わせているだろうし、彼女の些細な変化にも気づきやすいはず。
楽観的な希望だけど、この三日でカリンが冷静になって、大人しくなっていてくれれば嬉しい。
「僕もついて行きましょうか?」
「いいえ、大丈夫よ。ちょっと、サラさんに話があって……」
「分かりました。じゃあ僕は待ってます。この時間なら、サラさんは厩舎にいるかもしれませんよ。セオさんと一緒に馬の世話をしている時があるんです」
「そうなの。ありがとう」
スピンツ君にお礼を言って部屋を出ると、私はすれ違う騎士に軽く会釈をしながら階段を下りて一階へ向かった。一階の廊下には騎士は歩いていないので、一気に緊張感が高まる。
周囲にカリンの姿がない事を確認しつつ、私は屋敷の裏口を目指した。正面から出るより、裏口から出た方が厩舎に近いからだ。
しかし裏口の戸を開けたところで、私の視界に不審な影が映った。
左手にある木の後ろで、誰かがしゃがみ込んでいるらしい。もぞもぞと何かをしている。
(あれは女性使用人の服? あんなところで何を……)
私は気になって、後ろから彼女に近づいた。
しかしすぐにそこにいるのはカリンだと気づいた途端、一瞬にして冷や汗をかく。
彼女に気づかれないよう、またそっと屋敷の中に戻ろうとした――その時だった。
カリンの前に、大きく平らな石が置かれている事に気づく。さらにその石の上には、太陽の光を反射してきらりと光るものが見えた。
(私のブローチ!)
かなり気をつけていたはずなのに、いつの間に落としてしまっていたのかと目を見開く。カリンの目の前にそれがあるのが信じられない。
けれど次にはカリンがこぶし大の石を振り上げる姿を目にして、私はとっさに駆け出していた。
カリンが私の大切なブローチを壊そうとしていると気づいたからだ。
「駄目っ!」
私が叫ぶと、カリンは手を上げたままびっくりした顔で振り返った。
「うっ……!」
「痛ッ!」
私は石を持ったカリンの手を掴もうと腕を伸ばしたのだが、走っている勢いを殺しきれず、結果的にはしゃがんでいるカリンに覆い被さるようにして転んだ。
「ちょっと! どいてよ!」
カリンは私の体を押し返してきた。私は彼女に突き飛ばされながらも、ブローチだけは何とか取り返す。髪が乱れているのも、ドレスが汚れた事も、手に軽い擦り傷ができている事もどうでもよかった。
私はブローチを握りしめると立ち上がって、乱れた髪のままカリンを見下ろす。
「一体、何をしようとしていたの!」
人生で初めて出したのではないかというくらい、鋭い声が出た。
「これはロキオ殿下から頂いた私の大切なブローチよ! それをよくも壊そうとしたわね! 私の宝物を!」
顔も険しくなっているらしく、カリンは驚いた様子で口をぽかんと開けた。
「私が気に入らないからって、こんなふうに人の大切なものを傷つけようとするなんて……」
そこで声が震えてしまった。ブローチを壊そうとするなんて本当に酷いと思ったら、目に涙が浮かんできてしまったのだ。
私は涙をこらえると、カリンをきつく睨みつけて言った。
「あなたがここまでするのなら、私だって相手になるわ。いつまでも逃げ腰でいると思わないで」
私の怒りと勢いについて来れずに、カリンはまだ動揺している。
「さぁ、私が嫌いなら、私の何が気に食わないのか、ここで全部言ってみなさい。だけど私だって今回は言い返すわよ!」




