20日目(1)
フルートーに来て三日目。ここでの侍女生活は、王城にいる時と変わらない。
朝はスピンツ君に今日のロキオ殿下の衣装を渡した後、殿下が着替え終わる頃を見計らって寝室に向かう。
「エアーリアです」
「あ、あと少し待ってください!」
寝室の扉をノックすると、中から慌てたようなスピンツ君の声が返ってきた。
続けてロキオ殿下のぼそぼそとした喋り声も聞こえてくる。
「別に全裸でいるわけでもないのに、そんなに慌てなくてもいいだろう」
「でもまだシャツを着たところで、前がはだけてるじゃないですか」
「それくらい見られても恥ずかしくはない」
「殿下はそうでしょうけど、エアーリアさんはきっと恥ずかしがります。もう! 殿下はデリカシーがないんですから!」
「お前にそんな事を言われたくない」
私が廊下で待っている間、二人でそんな事を話している。
「エアーリアさん、いいですよ!」
そうして中に入ると、ロキオ殿下は上着以外の服を全て身につけ、スピンツ君に香水をつけてもらっていた。
まだ髪は整えていないので寝癖がついたまま前髪が跳ねているが、何故かその姿を見て可愛いと思ってしまう。
(いや、おかしい……)
ロクサーヌが舌を出したまま寝ている姿を目撃した時と同じくらい、胸がきゅんとした。
(おかしい)
もう一度心の中で呟いてから、気を取り直して殿下に挨拶する。
「おはようございます、殿下」
「ああ、おはよう、エアーリア」
ロキオ殿下には椅子に座ってもらい、整髪料と櫛を使って髪を整えた。私の髪は少し硬いのだが、殿下の髪は柔らかいので触り心地がいい。
私が髪に触れている間、ロキオ殿下はずっと目を閉じていた。頭を撫でている時のロクサーヌみたいだ。
(なんだろう、この感じ)
幸せってこういう感じだろうか。最近、ロキオ殿下のそばにいて、ロキオ殿下のお世話をするのが楽しいのだ。
「少し散歩に付き合え」
午後のお茶の時間になると、殿下は一旦仕事をやめ、私に向かってそう言った。
「分かりました。お茶やケーキを持っていきますか? ケーキは殿下の好きなチーズケーキを料理人が用意してくれましたよ」
王城には菓子職人がいるが、このお屋敷では料理人がお菓子も作っている。
「そうか、チーズケーキを。だが今日は少し風があって寒いからな。戻ってきてから部屋で食べよう」
私は頷くと、ロキオ殿下のコートを用意した。殿下が「エアーリアも着ろ」と言うので自分のコートも取りに行き、寒さ対策をする。
「いってらっしゃーい」
スピンツ君はにこにこ笑って私たちを見送ってくれた。
「スピンツ君は行かないの?」
「ロクサーヌが寂しがるかもしれないので一緒に残ってます」
ロクサーヌは熟睡しているので寂しがらないと思うのだが、ロキオ殿下がさっさと部屋を出ていってしまったので、私も慌てて後を追った。
ロキオ殿下の目的地は裏庭にある池のようだった。大きさはそれほどなく、深さも入ってもふくらはぎが濡れるかどうかというくらい。
殿下は池のほとりで立ち止まると、私に向かって手招きする。
「どうされました?」
「見てみろ。この池では火魚と呼ばれる珍しい魚を飼っているんだ。半年ほど前に購入してな。小さい魚だが、赤い鱗と、炎のようにひらひらと舞う尾びれが美しく……」
説明しながら、ロキオ殿下は自分が指差している池へと視線を向けた。
しかし、透明な水の張った池には、魚の影は見当たらない。池の底にある水草の緑が、陽光を受けて輝いているだけだ。
殿下は不思議そうに片眉を上げた。
「どういう事だ? 三十匹以上はいたはずだぞ」
眉間に皺を刻むロキオ殿下をなだめるように、私は急いで説明をする。
「サラさんが言っていたのですが、魚は猫や鳥に食べられてしまったようですよ。三日と持たなかったと……」
ロキオ殿下はふと黙って、自分の記憶を探っているようだった。
そうして、顎に手を当てて言う。
「そう言えば、そんな報告を受けたような気がするな。仕事が忙しかった時だったから、適当に返事をしたような……」
殿下は顎に手を当てたまま、目だけを動かしてちらりとこちらを見た。
そして少し気まずそうな顔をすると、池に視線を戻して「……部屋に戻るか」と言う。
「散歩はもういいのですか?」
私は首を傾げて言った。外に出てから五分と経っていない。
しかし言った後ではたと気づいた。
「もしかして、殿下は私に魚を見せようとして、ここへ連れて来てくださったのですか?」
そう言うと、殿下は私をまたちらりと見た後で再び池の水面を見つめて、こちらを見ないまま口を開いた。
「……そうだ。美しい魚だったから、喜ぶかと思ってな。まさか全滅しているとは」
池はあまり深くないし隠れられるような岩もないから、狙われ放題だったのかもしれない。濁っていない透明な水の中では、赤い色もよく目立っただろうし。
「可哀想な事をした。外で魚を飼うのは初めてだったからな」
言い訳するように殿下は続けた。魚は確かに可哀想だった。
だけどロキオ殿下が私を喜ばせようとして「散歩に付き合え」と言ってくれた事は嬉しい。
「赤い火魚、見たかったです」
残念だと眉を下げつつ、ほほ笑んで言うと、ロキオ殿下は寒さのせいか少し赤くなった頬を掻いて、あさっての方を見ながら答えた。
「そんなに見たいのなら、また飼おう。今度は大きな水槽を用意して室内で」
「そんな、私のためにわざわざ用意していただかなくても」
慌てて言うと、ロキオ殿下は羞恥を受けたかのように顔を赤くしてムッとした。
「お前のためだけじゃなく……あー……ロクサーヌ! ロクサーヌが喜ぶかも知れないだろう! 動く魚をそばで眺めているだけでも暇つぶしになる。私はなかなか遊んでやれないからな。別にお前のためだけに飼うんじゃない」
「そ、そうですよね! ロクサーヌのため……」
私も赤面して、うんうんと何度も頷く。よく考えれば当たり前だ。言い方がそんな感じだったから勘違いしてしまったが、ロキオ殿下がなぜ私のためだけに魚を飼うのか。
「すみません、早とちりして」
顔を真っ赤にしたまま言うと、
「……まぁ、お前のためというのも少しはあるからな。謝る必要はない」
と、ロキオ殿下はぼそっと言った。勘違いした私を憐れに思ったのかもしれない。
「部屋に戻るか……」
「はい……」
微妙な空気になってしまったので、二人で足早に部屋に帰る。
しかしその途中、一階の廊下を歩いている時に、前から来た二人の使用人と擦れ違った。
そのうちの一人はカリンだ。二人とも掃除を終えたところなのか、手にはバケツと雑巾を持っている。
カリンたちはロキオ殿下と私に気づくと、廊下の端に寄って頭を下げた。




