16、17日目
ロキオ殿下とのキスは、なかった事にする。
そう決めたので、それ以降、私はなるべく平常心を保っていつも通りに仕事をした。ロキオ殿下を変に避ける事なく、真面目に、黙々と。
ロキオ殿下も話を蒸し返す事はなかったけれど、ずっと顔をしかめて不機嫌ではあった。一緒に執務室にいる時、視線を感じて顔を上げると殿下がこちらを睨んでいたという事が何度かあったのだ。
「何ですか?」
私もさすがにイラッとしてしまって、強めに尋ねたりもしたが、
「別に」
殿下はフイッと顔をそらすだけだ。
そこで私がため息をついて立ち上がると、またこちらを見る。そして扉に手をかけると声をかけてくる。
「どこへ行く。ここにいろと言っただろ」
「ハンカチを片付けてくるだけです。刺繍が終わったので」
「刺繍?」
殿下は睨むのをやめて、私が持っていたハンカチに視線を落とした。
「それは私のか?」
「もちろんそうです」
「見せてみろ」
相変わらず、いちいち言い方が高飛車だ。殿下のその横柄さには私もすっかり慣れてしまっているが、今は刺繍の出来栄えを確認されると思うと緊張してしまった。
真っ白なハンカチを寂しく感じて刺繍をしてみたものの、まさかこうやって持ち主にじっくり見られる事になるとは思わなかった。ロキオ殿下は自分の持っているハンカチに刺繍があろうがなかろうが気を止めないと思っていたからだ。
「ど、どうぞ」
私はおそるおそるロキオ殿下にハンカチを渡す。刺繍は大きなものではなく、ハンカチの角にワンポイントとして王家の花であるユリを施しただけだ。
王族の中でもロキオ殿下や王妃様は派手な薔薇の花の方がイメージに合っている気がするけれど、高潔なユリの花も意外と似合う。
「ユリか」
ロキオ殿下はハンカチを受け取ると、まじまじと刺繍を観察した。
「あまりじっくり見ないでください。上手じゃないので」
教養の一つとして縫い物や刺繍は小さい頃からやっていたけれど、特別上手いというわけではない。
城のお針子に頼んだ方がよかったかもしれない、と思いながら居たたまれなくなっていると、
「いや、上手くできている。明日はこのハンカチを持つ事にしよう」
ロキオ殿下はハンカチを見ながら表情を崩して言った。心なしか声も嬉しそうだ。
穏やかに、そして少し無邪気に笑うロキオ殿下を見て、私は驚きに目を見張った。殿下もこんなふうに笑えるのかと、胸の辺りに何やら衝撃が走る。
完璧ではない出来栄えの刺繍を素直に褒めてくれた事にもびっくりした。勝手に私のハンカチに花なんて刺繍するなと叱られる可能性も考えていたのに。
固まっている私に、ロキオ殿下はハンカチを返しながら続けた。
「無地のハンカチをいくつか取り寄せて、それにも刺繍をしてくれ。ユリだけでなく、私の名前の頭文字も組み合わせて。ユリだけだと王族の誰でも使えてしまうからな、私だけのものだという事が分かるように」
「え、では……今ある他のハンカチはどうされるのです?」
「もう使わない」
ロキオ殿下はあっさりと言った。そして部屋にいたスピンツ君に「欲しいものがあれば持っていっていいぞ」と声をかけている。
「いいんですか? やったー! 高級ハンカチ!」
喜んでいるスピンツ君の隣で、私は困惑していた。
(こんなに刺繍を気に入ってもらえるなんて)
「下手くそだな」なんていう言葉をかけられた方が、まだロキオ殿下らしいと思うのだが。
けれど気に入ってもらえたのはとても嬉しい。こうやって仕事を褒められると、自分の事を認めてもらえたようで安心するのだ。
「すぐに取り掛かりますね」
ふふふと笑って言うと、ロキオ殿下もつられたように唇の端を持ち上げたのだった。
翌日、私は朝の仕事を終えた後、一人でロキオ殿下の衣装部屋で作業をしていた。明日から二週間ほど殿下はご自分の領地に滞在されるので、必要な衣服などを鞄に詰めているのだ。
殿下は月に一度は領地に行っているようだが、私がついて行くのは初めてだった。
「ひとまずこれでよし、と」
持っていく鞄は殿下の分だけで五つになった。馬車に運ぶのは明日の朝でいいので、とりあえず衣裳部屋にこのまま置いておく。
そこで時計を見ると、昼食の準備に取り掛かるまでまだ少し時間があった。
(二週間も留守にするし、王妃様に挨拶しておこうかしら)
例の定期報告は二日後だが、その日は城にいない。それに来週も報告に来るのは無理だと伝えておかねばならない。
(殿下にキスをされた事は……黙っておこう)
王妃様に隠し事をするのは後ろめたいが、あれはなかった事になったのだ。それに喋ってしまって、王妃様に変に期待をさせたくない。『その調子でいけば、計画通りにロキオを失恋させられそうね』なんて。
私は最初からこの計画には乗り気ではなかったが、ロキオ殿下と少し親しくなった今はさらに気が進まない。
最終的にサベールの王女様がロキオ殿下の心を癒やしてくださるとしても、やはり無闇に失恋させて傷つけたくないから。
(初めは、そもそもロキオ殿下が私を好きになるなんてありえないからと安心していたし、今もありえないとは思っているけれど……)
衣裳部屋に鍵をかけてから廊下に出る。そして王妃様の部屋に向かいながら、私はそっと自分の唇に触れた。
忘れようとしているが、キスの事はなかなか忘れられそうになく、思い出しては赤面してしまう。
(いや、でも、あれはただの慰めだから)
自分に言い聞かせながら早足で廊下を歩いた。
「そう、明日からフルートーへ行くのね」
「はい、二週間ほどロキオ殿下のお供で行ってまいります」
王妃様の言葉に頷く。
王妃様の私室は南向きで、いつも明るい。そして豪華な調度品の数々と一緒に至るところに花も飾られているので、常に華やかだ。ロキオ殿下は花には興味がないようだけど、王妃様は花が好きだ。
「近いから、馬車でゆっくり行っても三時間ほどで着くわね。けれど道中気をつけるのですよ」
「はい、ありがとうございます」
ロキオ殿下の領地であるフルートーは王都の隣りにあるので、国の端にある私の実家に帰るより移動はずっと楽だ。
「それで、最近はどう? ロキオとは」
金色のまつげに縁取られた目をこちらに向けて、王妃様は尋ねた。
けれど私も聞かれるだろうとは予想していたので、なるべく落ち着いて返す。
「はい。順調です」
「具体的にどう順調なのかしら?」
「ええっと……」
キスの事は言えないし、と数秒思考を巡らせて、これなら言ってもいいかと口を開く。
「ハンカチに刺繍をしたのですが、それを気に入ってくださいました」
「あら、いいわね。何の刺繍をしたの? 『愛しい人』とでも刺繍したのかしら」
「そ、そんな刺繍は入れません! 王家の花であるユリを入れただけです」
「まぁ、つまらない」
王妃様は不満そうに眉を寄せた。私は困って言う。
「ですが、恋人でもないのにそんな刺繍を入れれば引かれてしまいますよ」
「そうかしら?」
「そうですよ」
王妃様のような美人から貰うなら、男性は嬉しいかもしれないが。
「けれど、エアーリアにしては積極的に動いているようね」
「はい」
刺繍を入れたのは単に無地のハンカチが寂しく見えたからというだけなのだが、王妃様の前ではロキオ殿下にアピールするためだったという事にしておこう。
「順調なようで安心したわ。最初はお互いに印象が悪かったようだったからね。フルートーへ行っても本来の目的を忘れないように動くのですよ。二週間もあれば大きく進展するでしょう」
「は、はい……」
「けれど体調には気をつけて。帰ってきたらまた報告に来てちょうだい」
「分かりました。それでは失礼致します」
話が終わると、私はそそくさと退室した。あまり長く王妃様の前にいると、殿下とキスをした事や、この計画に対するやる気がない事など、色々とボロが出そうだからだ。
廊下を歩いていると、スピンツ君が向こう側から駆けてきて、私を見つけるとこう言った。
「あ! エアーリアさん! ロキオ殿下がお呼びです」
「何かあったの?」
「いえ、何もないんですけど、ロキオ殿下が『エアーリアはどこへ行った?』って気にされるので」
スピンツ君の答えを聞いて、私は呆れて――でも存在を気にされている事を少し嬉しく思いながら笑った。
「すぐに戻るわ」




