1日目(2)
王妃様からのとんでもない命令を断れなかった私は、結局ロキオ殿下を誘惑する事になった。
「とは言え、接点がなければロキオから好意を寄せられる事も難しいでしょうから、今日からお前はロキオの侍女になりなさい」
「え?」
普段なら、王妃様の言葉に「え?」なんて訊き返す事はしないのだが、今日は「え?」や「はぁ」といった失礼な相槌を連発してしまっている。
「ロキオには四人の侍女がいたけれど、少し前に二人辞めてしまってね。まだ一年目の侍女が二人残っているだけなの。だから表向きは彼女たちの指導と手伝いをするという事で、お前をロキオに紹介するわ」
「あの、王妃様。私はその〝任務〟が終われば、また王妃様の侍女に戻れるんですよね?」
「ええ、もちろんよ。お前のような有能な侍女を手放すのは、わたくしも惜しいもの」
「それならよかったです……」
ホッと息をついた私に、王妃様は「さぁ行きなさい」と指示を出す。
「え、もう? 今からですか?」
「ロキオにはすでに話をしてあるわ」
「早いっ」
私がこの任務を受ける前提で、王妃様はすでに動いていたようだ。用意周到過ぎる。最初から私に拒否権などなかったのだ。
王妃様から部屋を追い出され、私は泣く泣くロキオ殿下の元に向かう。最初に私室を尋ねてみたが留守のようだったので、今度は殿下の執務室を目指した。
(どうしよう)
歩きながら考える。
王妃様は私の事を忠実だと評価してくれたし、『命令や指示を細かいところまでしっかりと守る』とも言ってくれた。
けれど今回に限っては、命令をしっかりと守る事はできそうもない。
王妃様を裏切るのは心苦しいけれど、ロキオ殿下を失恋させるなんてやっぱり無理だと思うし、万が一成功してしまっても殿下の心を傷つける事になり、良心が痛む。他人を傷つけるような事はやりたくない。
(命令を遂行しているふりをしようか……)
王妃様はずっと私の行動を監視しているわけではないので、嘘をつくのは簡単だ。
王妃様には「ロキオ殿下に好かれるために頑張っています」と言いつつ、殿下の前では他の侍女に紛れて淡々と仕事をしていればいい。
そして最終的には、「頑張って誘惑してみたけどロキオ殿下は手強く、なびかなかった」と報告するのだ。
王妃様に失望されるかもしれないのは悲しいが、そうするしかない。
と、階段を降りながら心を決めたところで、誰かの怒鳴り声が耳に届いた。
(この声は……)
階段を降りたところで、そっと廊下を覗き込む。
声から想像していた通り、そこにいたのはこの国の第三王子、ロキオ殿下だった。
「お前はいつまで子ども気分でいる!」
ロキオ殿下は絶賛激高中で、自分の従者の赤毛の少年――歳は十三歳ほどだろうか――を高圧的に叱りつけている。嫌な場面に出くわしてしまった。
「ご、ごめんなさい殿下。でも――」
「うるさい。言い訳はするな。どうやらお前の頭には綿でも詰まっているらしい。でなければ、こんな馬鹿な事をするはずがない」
泣きそうな顔をしている少年に、ロキオ殿下は容赦がなかった。
私も王族に仕える身なので、何かミスをしたらしい少年の方に同情してしまう。見ているだけで胃が痛くなるような光景だ。
殿下もいくら少年がミスをしたからって、あんなに声を荒らげなくてもいいのに。
たとえば王妃様の場合、言う事は時々辛辣だけど、侍女をあんなふうに感情的に怒鳴りつけたりしない。
(やっぱり、〝高慢王子〟だわ)
私はため息をもらしたくなった。
王妃様は、上二人の王子と比べるとあまりロキオ殿下とは会わないので、私も殿下と関わる機会は少なかった。
しかしその少ない関わりの中での殿下の印象は、『高慢で怒りっぽく、いつも不機嫌な人』だった。実はあの少年が叱られている姿を見るのも今日が初めてではない。
最近辞めたという二人の侍女たちも、ロキオ殿下の厳しさについていけずに城を去ったのではないだろうか。
私はロキオ殿下の侍女が泣きながら廊下を走っていくところも目撃した事があるのだ。
いつも堂々としていて余裕がある、まさに次代の王に相応しい第一王子のイオ殿下。
優しく謙虚で思いやりがあり、兄を影で支える人格者、第二王子のシニク殿下。
上二人の王子たちのいいところや尊敬できるところはすぐに言葉にする事ができるけれど、ロキオ殿下を褒めるのは難しい。
しいて言えば、外見は文句なく格好良い、というくらいだろうか。兄弟の中では一番王妃様に似ていてちょっとつり目で、それが色っぽくて魅力的だとも思う。
瞳は綺麗なアイスブルーで、髪も王妃様似の明るい金髪。背も高くて顔は小さく、足は長いし……。
本当に、性格が残念なのが残念過ぎる美形なのだ。ロキオ殿下の性格をよく知らない一部の一般国民たち――特に女性からは、兄王子たちより人気があったりするのに。
殿下は眉間に深い皺を寄せたまま、厳しい口調で続けた。
「お前が私の役に立った事が今まで一度でもあったか?」
「わりと頻繁にお役に立てているかと……」
「自分で言うな! というか、よくそんな事が言えるな。お前はいつもいつも私に迷惑をかけ、余計な手間を増やしてばかりだろう!」
人間は誰しも、たまに些細なミスをしてしまうものなのに、それでここまで激高して臣下を怒鳴りつけていては、自分の評判が落ちていくばかりだ。殿下はそれに気づかないのだろうか。
しかしロキオ殿下の次の言葉で、私は首を傾げる事になる。
「いいか、もう二度とその猫を私の部屋には連れてくるな!」
(猫……?)
一体ロキオ殿下は何に怒っているのかと疑問に思った。
しかしこちらに背を向けている少年をよく観察してみると、腕に一匹の虎柄の猫を抱いているのに気づく。
猫はまだ若いのか元気が有り余っているようで、少年の腕の中で捕れたての魚のようにビチビチと暴れていた。
そしてついに少年の手を引っ掻いて拘束から逃れると、廊下を走って逃げてしまう。
「あ、タイガー!」
「何がタイガーだ。ただの野良猫にたいそうな名前をつけるな。あいつはお前が責任を持って捕まえて、外に出しておくんだぞ。あの猫に城の中にいられたんじゃ、何を壊すか分かったものじゃない」
「どうしても飼っちゃ駄目ですか?」
少年の言葉に、ロキオ殿下は怒りで顔を赤くした。
「飼うなら自分の部屋で勝手に飼え! 私が怒っているのはそこじゃない! 私は、お前が勝手に私の部屋にあの猫を連れてきた事を怒っているんだ! 私の部屋にはロクサーヌがいると分かっていながら、どこの馬の骨とも知らぬ若い雄猫を連れてきた事を!」
「だ、だって、ロクサーヌも友だちが欲しいかと思って……」
そこで殿下はついに少年の胸ぐらを掴み、たいそう恐ろしい顔で相手を睨みつけた。『胸ぐらを掴む王子』なんて始めて見た。
「お前はまだロクサーヌの性格を把握していないのか? もう何年私についている?」
「まだ三年です」
「五年だ。さばを読むな」
何だか話の流れがよく分からなくなってきた。殿下は従者の〝些細なミス〟に必要以上にお怒りだったのではないのだろうか。
そして従者の少年は気が弱いかと思いきや、どれだけ怒鳴られても絶妙な返しで殿下の怒りを沈めさせない。もう黙っていた方がいいのではないかと横から口をふさぎたくなる。
殿下は怒りで声を震わせながら続けた。
「ロクサーヌは人見知りだ。生まれた直後に私のところへ来て、他の猫を見た事もない。それはお前も知っているだろう。ロクサーヌが来たのは三年前の事だからな。お前は人にも懐きにくいロクサーヌが、どうしてあの元気だけが取り柄の野性味溢れる若い猫と仲良くなれると思ったんだ」
「万が一という可能性も……」
「万が一があったとしても! いきなりロクサーヌと同じ部屋に放り込むんじゃない、馬鹿者! 知らない部屋に閉じ込められてあの猫は混乱し、暴れ、私が戻った時には部屋は荒れ放題、そしてロクサーヌはカーテンの内側に引きこもったまま出てこない! ただでさえ食が細いのに、水も食事も取らずに今も怖がったままだ」
何だか最初と印象が変わってきたと、私は微妙な目をして二人を見ていた。
ロキオ殿下は確かに一方的に少年を怒鳴りつけているが、実家で猫を飼っていた私は、殿下が怒鳴る気持ちも分かってしまう。
うちのおじいちゃん猫も生まれた時から一匹で人間に育てられてきたので自分を人間だと思っていて、窓の外の野良猫なんかを目撃すると、怖がって数日はその窓辺を避けるくらいに臆病で繊細だ。
猫でも懐っこい子はいるし大胆な性格の子もいるだろうが、ロキオ殿下のロクサーヌは繊細な子なのだろう。
それをいきなり知らない若い猫と一緒に部屋に閉じ込められたんじゃ、引きこもりにもなる。
「きっと仲良くなれると思ったんですけど……すみません。今度はもっと大人しい子を連れてきます」
少年はすごく反省しているようで、全然していない気もする。懲りていないというか。
案の定、ロキオ殿下はまた烈火の如く怒り出した。
「大人しい猫でも、もう二度と他の猫を連れてくるんじゃない! お前は今、何故、私に叱られているのか理解していないのか」
これ、ロキオ殿下は悪くない……? と、私は心の中で呟いた。
愛猫の安全が脅かされては、あれだけ声を荒げる気持ちも分かる。そして反省しているようでいつか同じ事を繰り返しそうな従者の少年に、つい「馬鹿者」なんて言ってしまう気持ちも分かる。
良く言えば純粋なんだろうけど、悪く言えば確かにお馬鹿な少年だ。
前にもこの少年がロキオ殿下に叱られている場面を見た事があるけれど、それも何か叱られるだけの事情があったのかもしれない。
少し注意をしただけで心折れてしまう子も大変だが、叱っても全く落ち込まない子を教育するのも大変だ。
この光景を見た当初はロキオ殿下をひどいと思っていたが、今はむしろ、この少年の面倒を五年も見ているロキオ殿下が聖人か何かに見える。
いつの間にか従者の少年からロキオ殿下に同情の対象を変えていた私だったが、ロキオ殿下が「もういい。反省してろ」と大きなため息をついてこちらに向かってきたので、慌てて階段の方へ引っ込む事になった。
(どうしよう、こっちに来る)
二人の様子を覗いていたとバレるとまずいので、静かに階段を五段ほど上ってから、さも今階段を下りてきたところだというふうに装う事にした。
まだ怒りが収まっていないであろうロキオ殿下とここで挨拶を交わすのは避けたかったが、今から階段を上って逃げても、慌てて去って行く後ろ姿を見られてしまうだろう。
案の定、ロキオ殿下はすぐにここに現れた。私がゆっくり階段を下り始めたところで、角を曲がってきたのだ。
従者の少年は猫を捕まえに行ったのか、こちらに来る気配はない。
「あ、ロキオ殿下」
偶然を装って声を上げると、階段の端に寄ってからスカートを軽く持ち上げ礼を取る。
昔は、身分が下の者が上の者を呼び止める事は失礼だとされていたようだが、最近ではその辺も緩くなった。
「ちょうどご挨拶に伺おうとしていたところでした」
「ああ……。この前王妃が話していた侍女か」
ロキオ殿下は私にいきなり声をかけられても特に戸惑う様子はなかったけれど、
「エアーリアだな。お前は優秀だと聞いた。王妃が褒めていたぞ」
「ありがとうございま、す……」
顔を上げてふとロキオ殿下を見ると、言葉とは裏腹に私を見る目は冷たかった。
いや、冷たいというか、逆に目の奥にはちらりと炎が燃えていた気がする。ほんの少しだけ憎しみが込もっているかのような、そんな目。
私はロキオ殿下の事をよく知らないし、ロキオ殿下も私の事はよく知らないはずだ。好感も不快感も持たれていないと思っていたのに、そんな目で見られる理由が分からない。
私が戸惑っていると、殿下は一歩こちらに近寄って来て、階段の途中で私を壁際に追い詰めた。
「それで?」
そして私の顔のすぐ横に手をつき、自分の影で私を覆いながら、ロキオ殿下は憎々しげに言う。
「王妃と二人で、一体何を企んでいる?」