16日目(3)
「き、きす……」
分かっていたけれど改めて言われると破壊力がある言葉だ。
「……そうよね、キスだったわよね?」
私は自分の唇を押さえるように片手を持ち上げ、目を泳がせながらうろうろと地面を見る。
「でも、どうして……急に……どうして殿下は、私にキスなんか……」
あまりに唐突な展開だ。
キスをした後にからかうように笑ってくれたら意地の悪い冗談だったのだと分かるけれど、そんな感じではなさそうだった。
まるで、思わずしてしまった、というような顔をしていた。
おろおろしている私を見て、スピンツ君が言う。
「殿下の気持ちはちょっと分かります。だってエアーリアさん、何だか泣きそうな顔をしてたから」
「……泣きそうな顔をしていたら何故キスをするの?」
「え? うーん。分かりません」
「さっきは分かるって言ったのに」
明確な答えが分からない者同士であやふやな会話をする。
やがてスピンツ君は寒そうに首をすくめると、私の手を引いて城に戻ろうとした。
「とにかく僕たちも中に戻りましょう。風が出てきて寒いです」
「目の前で大事件が起こったというのに、スピンツ君は冷静ね……」
私はきょろきょろと辺りを見回して続ける。
「誰かに見られなかったかしら……。誤解されたらまずいわ」
近くには誰もいなかったが、遠くには警備の騎士たちが歩いているし、門のそばにも何人かいる。それに庭を何か荷物を抱えた使用人が歩いているし……。
悪い事をした犯罪者のような気分で周囲を見回していると、スピンツ君がこう言ってくれた。
「大丈夫ですよ。エアーリアさんと殿下がキスしてた時は、誰もこっちを見ていませんでしたから」
「そう……」
誰にもあの衝撃的な場面を目撃されていなかったのはよかった。
だが、私の状況は全くよくない。これからどんな顔をしてロキオ殿下の侍女をやればいいというのだ。
スピンツ君に手を引っ張られながら城に入り、階段を登り、廊下を進んでいる間も、ぐるぐると思考の混乱は続いた。
しかしスピンツ君が向かっているのがロキオ殿下の執務室だと気づいたところで、私は慌てて両足を踏ん張り、歩みを止める。
「ま、待って……! 今は無理よ。どんな顔をして殿下と会えばいいの? 一週間、いいえ、せめて一日でいいから時間を……。ああ、でも侍女が一日ずっと殿下のおそばにいないなんて無理ね」
「僕がやれる事は代わりにやってあげられますけど、殿下はエアーリアさんが淹れるお茶がお気に入りですもんね。朝、殿下の髪を整えるのも僕では上手くできませんし」
「でもやっぱり、少しだけ時間がほしいわ」
いつもポケットに入れている小型の懐中時計を確認する。今は午後の三時半。ならばせめて夕食の時までは、どうにか殿下を避けて仕事ができないだろうか。
キスをした後、自分の行動にびっくりしたかのように私の前から立ち去ったロキオ殿下の行動を見ると、おそらく殿下も今は私に会いたくないと思うのだ。
「スピンツ君。私は夕食の時間までロキオ殿下の私室の方にいるわ。殿下の上着の取れかけのボタンをつけ直さなくちゃならないし、殿下のハンカチに刺繍を入れようと思っていたから、それもやらなくちゃ」
別に今すぐやらなくてはいけない仕事ではないが、今更になってドキドキと大きな音を立て始めた心臓に手を当てながら言う。
「さっき父たちと一緒にロキオ殿下もお茶を飲んでおられたし、午後のお茶はいらないと思うの。夕食の準備はちゃんとするから、お願い、それまで殿下の事を任せてもいい? 何かあれば呼びに来てくれて構わないから」
手を握って懇願すると、スピンツ君は「分かりました」と頷いてくれた。
「よく分からないけど気まずいんですね。僕が殿下のお側にいますから大丈夫ですよ!」
「ありがとう。ごめんね」
そう言うと、スピンツ君と別れて、私はロキオ殿下の私室にこもった。ロクサーヌは執務室の方にいるので、遠慮なく針や糸を広げて裁縫をする。
はたから見ると黙々とやっているように映るだろうが、私の頭の中は落ち着かなかった。
近づいてくるロキオ殿下の顔、青い瞳、香水の香り、唇の感触。それがずっと脳内で勝手に繰り返され、一人で赤面する。
「ああ……集中できない」
今は刺繍はやめて、先に簡単なボタンつけの方を済ませてしまう事にする。
カチカチと時計の針が進む音を聞きながらボタンをつけ終わり、少し冷静になってきたところで再びハンカチの刺繍に取り掛かろうとした時だった。
静かにゆっくり、だけど唐突に部屋の扉が開いたかと思えば、ロキオ殿下が顔を出したのだ。
「……で、でんかっ!」
驚いて舌が回らない。私は殿下を見た途端に椅子から立ち上がっていた。
ロキオ殿下は後ろめたそうな顔をして、扉を中途半端に開けたままこちらを見ている。
「殿下、駄目ですよ!」
ロキオ殿下の後ろにはスピンツ君もいる。二人きりではない事に少し安堵した。
「エアーリアさんは時間が欲しいんです! キスをしたから、今は殿下と顔を合わせるのが気まずいんですから!」
ご丁寧に全部説明してくれるが、「キスをした」なんて言葉にされるとまた恥ずかしくなる。
「うるさい。お前はどこかへ行っていろ」
ロキオ殿下はスピンツ君の肩を押して廊下に留めると、自分は部屋の中に入ってきた。
「またキスしちゃ駄目ですよ!」
「しない。うるさい。どこかへ行け」
バタン、と扉を閉めて、殿下は内側から鍵をかける。
そうしてまたこちらへ顔を向けたので、私は肩をビクつかせて後ろへ下がった。
「そんなに警戒するな」
ロキオ殿下は少し傷ついたような顔をして言った。
だけど私は別に警戒しているわけではない、と思う。ロキオ殿下が怖いわけでも、二人きりで部屋にいるのが不快なわけでもない。
ただ、さっきのキスの事を思い出すと恥ずかしくて、どうしていいか分からなくなるのだ。どんな顔をしてロキオ殿下を見ればいいのだろう。
一度静かになった心臓の鼓動が、また大きくなり始める。
「私はただ、さっきの事を謝りに来ただけだ。悪かったな。いきなり……あんな事をして」
咳をする時のように拳を口元に当てて、ロキオ殿下は顔をそらした。耳が赤い。
「あ、いえ……」
殿下が扉の近くから一向にこちらへ近づいてこないので、私も少し冷静になった。距離があるので、変に緊張しないでいられる。
「済まない」
ロキオ殿下は私から目を逸らしたまま、もう一度言った。
「いえ、そんな……」
謝られると、許すしかなくなる。
さっきは私が泣きそうな顔をしていたから、慰めようとしてくれたのかもしれない。
正直、慰めるためにキスをするとか全く理解できないけど、ロキオ殿下にとっては頭を撫でるような感覚だったのかも。
(そうよ。殿下は人とは感覚がズレていて、慰めようとしてあんな事をしてしまったのね)
自分の中で勝手に都合のいい結論を出し、納得する。
なんだ、それなら大丈夫だ。別に深い意味があったわけじゃないのなら、と。
よく分からない慰めで初めてのキスを奪われてしまったのは少しショックではあるが、殿下も悪気があったわけじゃないので許せる。あれは殿下の優しさの表れなのだろう。
「私はきっと殿下に気を遣わせてしまったんですね。でも平気です。キ、キスの事は忘れますから」
キスのところで少し詰まってしまったが、私は笑顔を作って続けた。
「殿下も私なんかにキスした事は忘れて下さい。あれはなかった事にしましょう」
口付けの事を気にしたりロキオ殿下の事を意識していたら、侍女としての仕事がちゃんとできなくなってしまう。
「そうしましょう。ね? 私たちの間には何もなかったという事で」
それが私にとってもロキオ殿下にとっても良い事だと思えた。
しかしロキオ殿下の表情は、私の言葉を聞くうちにどんどん不機嫌になっていく。
「何です……? あの、な、なぜ睨むんですか?」
うろたえながら言う。ロキオ殿下の眉間には皺が寄っていた。
「別に」
棘のある言い方だ。
「殿下……?」
「分かった。お前の言う通りにしよう。お前がそうしてくれと言うなら、私もそれに従う」
腕を組んでこちらを見下ろしながら殿下が言うが、あきらかに納得していない口調だ。
そうして不機嫌なまま、扉を開けて廊下に出ながら私にこう言った。
「とにかく、私を避けるように仕事をしていないで執務室の方に来い。侍女ならばいつも目の届く場所にいろ」
すたすたと廊下を去っていくロキオ殿下の足音を聞きながら、私は少し唖然としてその場に留まった。
「大丈夫ですか?」
廊下で待っていたらしいスピンツ君が顔を覗かせる。
「大丈夫よ」
私はスピンツ君にはほほ笑んで言ったけれど、内心ロキオ殿下にちょっとだけ怒りを覚えていた。
どうしてロキオ殿下が不機嫌になるのかと。
(いきなりキスをされた私が怒るなら分かるけど、殿下には腹を立てる権利はないはずなのに)
この件をなかった事にするというのは、殿下にとっては有り難い提案だったはず。感謝されこそすれ、腹を立てられるいわれはない。
(何なのよ)
唇を尖らせつつ、私はスピンツ君と一緒にロキオ殿下の後を追ったのだった。




