11日目
ロキオ殿下は利き手である右手を怪我したものの、動かせないのは中指だけなので、ペンを持って字を書いたり、ナイフを持って食事をしたりは一応できるようだ。
お風呂や着替えの時などは手伝いが必要だけど、そこは主にスピンツ君がお世話をしているので私の負担はそれほどでもない。
けれどやはり細かい気遣いは必要になる。強がりなロキオ殿下が無理をしていないか見張ったり、毎日怪我の治りをチェックしたり包帯を替えたり、患部にちょっとでも悪い変化があれば侍医の先生を呼びに走ったり。それに食べ物でどれだけ怪我が早く治るかは分からないが、普段以上に栄養のある食事のメニューを料理人と一緒に考えたり。
指にヒビが入っただけで大げさだと、ロキオ殿下は私に呆れていたけれど、主人が怪我をしてしまったのなら、侍女は誰だってこれくらいの事はするだろう。
しかし私の場合、リィンやマナが城を去ってしまっていたから、手伝ってくれる侍女仲間がいないのは少し大変だった。
ただでさえ分担して行っていた侍女の仕事を一人でやらなければならないのに、怪我をしたロキオ殿下への気遣いも必要になり、さらにロクサーヌがここへ来て時々甘えん坊に変化するので、食事の時やブラッシングの時以外にも構ってあげないと拗ねる時がある。一人で平気で寝ている時もあれば、突然甘えてくる時もあるのだ。
そんな気まぐれなところも可愛いし、ロクサーヌの世話ができるのは幸せだが、毎日忙しかった。
ロキオ殿下を誘惑する、という王妃様から与えられた任務もすっかり忘れていたが、明日は王妃様に定期報告をしに行かなければならない。
全く任務には勤しんでいないが、それでも最初よりはロキオ殿下と仲良くなれたと思うので、現状をそのまま伝えてみよう。一応、進歩はしていますと。
「はい、綺麗になったわ。終わりね」
私は膝の上に乗っているロクサーヌに言った。今は誰もいないロキオ殿下の私室でソファーに座り、ロクサーヌのブラッシングをしていたのだ。
しかし「終わり」という言葉を聞き取ったロクサーヌは、ごろんとお腹を見せて私を立たせないようにする。
「ロクサーヌ、私にも次の仕事があるのよ。そろそろロキオ殿下の午後のお茶の用意をしなくちゃ。忙しい時に限って甘えてくるんだから」
困ってしまうが、ロクサーヌが甘えてくれるのは嬉しいので表情は緩んでしまう。
これまでロクサーヌはあまり誰にも甘えなかったらしいが、食事の時に褒めるという事をし始めてから人懐っこさが増した。スピンツ君の事は相変わらず警戒しているが、夜眠る前には、ベッドでロキオ殿下にも甘えているようだ。
「さぁ、私を立ち上がらせて」
いつまでも撫でていたいが、そうも言っていられないので、私はロクサーヌを膝から降ろした。
しかしそのまま部屋を出ようとすると、ロクサーヌは扉の前に先回りして小さく鳴く。まるで「行かないで」と言っているようだ。
健気だし、可愛過ぎる。
頭を撫でていると「今はいい」と怒る時もあるのに、本当に何故忙しい時に限って甘えん坊になるのか。
「それじゃあ一緒にロキオ殿下のところに行きましょう。殿下はお仕事中だけど、膝の上に乗せてもらうといいわ」
執務室にはロキオ殿下に用のある文官など様々な人間が出入りするので、人見知りだったロクサーヌは今まで私室でのんびりと留守番をしていた。
しかし甘えたい気分であるらしい今は、執務室の方に連れて行ってあげた方が寂しくないかもしれない。
私はしゃがんでロクサーヌを抱くと、再び立ち上がる。
しかしその時、くらりとめまいがして、数秒動けなくなった。
けれど立ちくらみになる事はたまにあるので、上手くやり過ごして、ロクサーヌをしっかり抱いたまま廊下に出る。
そしてロキオ殿下の執務室に着くと、ノックをして中に入った。ロキオ殿下は机に座っていて、スピンツ君が渡す書類に次から次へとサインをしている。
「お仕事中に失礼します。ロクサーヌが寂しがるので、ここにいさせてあげても構いませんか?」
「ああ、構わない。最近のロクサーヌは、時々猫が変わったように甘えん坊になるな」
言いながら、ロキオ殿下は手を止めて椅子を少し引いた。ロクサーヌを膝に乗せられるように。
私がロクサーヌを渡すと、ロキオ殿下は甘えるロクサーヌを嬉しそうな顔で撫でる。愛猫にめろめろだ。
「ところで殿下」
私はスピンツ君が抱えている書類の束に目をやって言った。
「この書類全てにサインされるのですか? あまり無理はされないようにしてくださいね」
骨にヒビが入った殿下の中指は、まだ添え木を当てたままだ。
「お前は心配症だな」
ロキオ殿下は少し面倒そうな様子を見せつつも、私がじっと見ていると軽く肩をすくめる。
「分かっている。無理はしない」
その答えに満足して、私はにっこり笑った。
「そうしてください。今、お茶を淹れますね」
しかし退室しようと体を反転させたところで、急に胸の辺りに気持ち悪さがこみ上げてきた。
と同時に頭や顔から血の気が引いていき、すうっと体が冷えていく感覚がする。
この感覚には、子供の頃から馴染みがあった。
(貧血かも……)
これまでの経験から体の異常の原因はすぐに予想できたが、答えが分かったところで、勝手に出てくる冷や汗は止まらない。
(駄目だわ)
頭がくらくらして、立っていられなくなる。
吐くほどではないが気持ち悪い。
気を失って倒れる前に、膝を折ってよろよろと床に座り込んだ。
「エアーリアさん?」
スピンツ君が後ろから声をかけてくるが、今は何も返せない。
椅子の脚が絨毯の上を滑る音がして、ロクサーヌが「ヒャア」と小さく鳴いた。ロキオ殿下が立ち上がって、ロクサーヌを机に移動させたみたいだ。
「どうした?」
そして次の瞬間には、ロキオ殿下は私の隣で片膝をついてしゃがんでいた。
「エアーリア、どうした?」
「貧、血……」
かもしれません、までは続けられなかった。喋るのも辛い。
「真っ青だな」
ロキオ殿下は、うつむいている私の顔を隠す長い黒髪を、避けるように持ち上げて言う。
そして次の瞬間、殿下の香水がふわりと香ったかと思うと、私の体はロキオ殿下に軽々と持ち上げられていた。
私は内心焦りながらも、気持ち悪さをやり過ごすので精一杯で、力なく殿下に体を預ける事しかできない。
「殿下、どこへ?」
スピンツ君が質問し、殿下が答える。
「エアーリアの部屋に行って、ベッドに寝かせた方がいいだろう。お前はフロンを呼んできてくれ」
フロンとは、侍医であるお爺ちゃん先生の名前だ。スピンツ君は「はい」と返事をしてすぐに出ていく。
私は目をつぶっていたけれど、ロキオ殿下もすぐに執務室を出たようだった。廊下に立っていた近衛騎士は私たちを見て驚いた声を出した。
「エアーリア様はどうされたのです?」
「貧血のようだ」
「我々がお運びしましょう」
「いい。大丈夫だ」
と断って、殿下は廊下を進んでいく。足音が複数聞こえるので、騎士も慌ててついて来ているらしい。
早足で進んでいた殿下だったが、途中で急に足を止めた。
「エアーリアの部屋はどこだ?」
分からずに進んでいたみたいだ。
「侍女の方々の部屋は、西棟の四階にまとまっていますが……」
騎士がそう言うと、ロキオ殿下はまた勢いよく歩き出した。
そして西棟の四階に着くと、今度は私を見下ろして尋ねる。
「お前の部屋はどこだ?」
「右側の……一番奥、です」
ほとんど声は出ていなかったが、ロキオ殿下は聞き取って奥へと進んでくれた。
「鍵は?」
「ここに……」
スカートのポケットからごそごそと鍵を取り出す。喋っていると気が遠くなる。
「開けてくれ」
やがてロキオ殿下は私の部屋の前で足を止めると、鍵を近衛騎士に渡してそう命令した。
扉が開く音と共に、私もうっすらまぶたを持ち上げる。今朝、ちゃんと部屋を綺麗にしてから出ただろうかと、こんな時だが不安になったのだ。
私が与えられている私室は広いが、寝室は別にあるのではなく、ベッドもこの部屋にある。
素早くベッドの上をチェックするが、寝巻きが放置されたりはしていない。ちゃんと洗濯に出した今朝の私、よくやった。
女性の部屋には入りにくいのか騎士は部屋の外で待機しているが、ロキオ殿下はまるで自分の部屋であるかのように堂々と中に入って、私の体をベッドに横たえた。変に恥ずかしがられても私も照れてしまうのでいいけれど。
殿下は私の上に毛布をかけると、自分の上着も脱いで私に被せ、暖炉までつけ始めた。私は今、血の気のない白い顔をして唇まで真っ青になっているだろうから、寒がっていると思われたのかもしれない。
「申し訳ない、です……」
主人に世話をされるなんて、侍女失格だ。
しかし私の弱々しい声をかき消すように、ロキオ殿下はぴしゃりと言った。
「黙れ。寝ろ」
「はい……」
申し訳ないと言っておきながら何だけど、病人にはもう少し優しい言葉をかけていただければ嬉しいのだけど……。




