1日目(1)
(この状況は何?)
私は馬車の中で座ったまま、首をすくめて小さくなった。
馬車の中は狭くないのだが、隣りに座っているこの国の第三王子――ロキオ殿下がこちらとの距離を適切に開けてくれないので、私は馬車の壁に追い詰められるはめになっている。
「エアーリア」
耳元でロキオ殿下が囁く。私の名前を呼ぶ事すら楽しいというように。
「エアーリア」
「はい、聞こえています」
だからあまり顔を近づけないでください、と心の中で言う。殿下の短い金色の髪が、さっきから私のこめかみに当たっていてくすぐったい。
私は顔を引き、ロキオ殿下と少し距離を取ってから、ちらりと隣を見上げてみた。
するとロキオ殿下は薄いブルーの瞳を細めてほほ笑む。
一ヶ月前まで、眉間に皺を寄せた不機嫌顔で私を見ていたロキオ殿下が、こんなに穏やかな顔をして私を見ているなんて信じられない。
本当に人が変わってしまったようだ。
つり上がった目でいつも人を睨みつけていて、そこにいるだけで相手に威圧感を与えるロキオ殿下はどこへ行ったのか。
「エアーリアの髪は綺麗だな。黒絹のようだ」
殿下は甘い声で言った。恋人同士ではないので、一応私には無遠慮に触れないようにしてくれているみたいだが、地味な黒髪に嫌というほど視線が注がれているのは感じる。
「瞳は夜空を映したように美しい」
「も、もうやめてください! 恥ずかしいです」
私は顔を真っ赤にして訴えた。走行中の馬車の中では逃げ場がなく、ロキオ殿下と向き合わざるを得ない。しかし私が何を言っても、ロキオ殿下は余裕を崩さない。
「やめる事はできないな。エアーリアが私の気持ちに応じてくれるまでは」
私は頭を抱えたくなった。
閉ざされた馬車の中でロキオ殿下のアプローチを受け続けるなんて、これはなんという試練だ。
(早く城に着いてほしい……)
心から、私はそう願った。
***
私はこの国の王妃様に仕える侍女だ。二十歳にして侍女歴は四年。そろそろベテランの枠に入ってきている。
と言うのも、私が新人の頃に先輩だった人たちは、皆、結婚して侍女を辞めてしまったからだ。
今、王妃様に仕える侍女は私を含めて五人いるけれど、先輩は一人もおらず、いるのは同期と後輩だけ。
侍女の仕事にもすっかり慣れて、ミスをする事もほとんどなくなり、自分で言うのもおこがましいけれど、王妃様からも信頼されている。
「エアーリアは真面目で仕事熱心ね。お前ほど信頼できる侍女は初めてだわ」とお褒めの言葉をいただいた事は、私の自慢なのだ。
しかしそんな私でも、時には王妃様の突飛な言葉に戸惑う事もある。
「申し訳ありません、王妃様。あの……もう一度おっしゃっていただけますか?」
「いいでしょう。もう一度だけですよ。何度も同じ事を言うのは嫌ですからね」
見事な金髪を華やかに結っている王妃様は、細かな皺の出始めた目元をすっと細めてこちらを見返した。
人払いをした私室にいるのは、テーブルに着いて優雅にお茶を飲んでいる王妃様と、表情は取り繕いながらも内心混乱して背中から変な汗をかいている私だけ。
王妃様はいたって冷静な口調で、馬鹿なわたくしめのために再度同じセリフを言ってくださった。
「エアーリア、お前はわたくしの三番目の息子であるロキオを誘惑するのです」
……どうしよう。
二回も言ってもらったのに、王妃様のおっしゃっている事が理解できない。
王妃様は今年で四十九歳だとは思えないほど美しく、大人の落ち着いた魅力があり、聡明でいらっしゃる。そして堂々としていながら傲慢過ぎる事はなく、愛情深い。
王妃様の事を語れば止まらなくなってしまうくらい尊敬できる方だけれど、でも時々、何を考えていらっしゃるのか分からなくなる時がある。
「誘惑……ロキオ殿下を……」
私の頭の中には、王妃様と同じ見事な金髪の、尊大で意地悪そうな第三王子の姿が浮かんだ。
気の強い目元が王妃様とよく似た美形王子だが、王妃様とは違って傲慢さを隠そうともしない、いつも不機嫌な顔をしている王子という印象でもある。
とはいえ、私はロキオ殿下とは直接話した事がないので、傍から見た印象だが。
「誘惑って、あの、それは、つまり、ど、どういう……」
よく分からない命令でも王妃様からの指示ならなるべく応えたいと思ってしまうので、私は戸惑いつつも王妃様の望みを的確に読み取ろうとした。
「落ち着いて、少しお黙りなさい。これから詳しく説明するのですから」
「あ、はい」
私が即座に唇を閉じたのを見ると、王妃様は窓に目をやり、よく晴れた空を見つめつつ続ける。
「ロキオももう二十一歳でしょう? ですからそろそろ結婚を考えてもいいと思っているのだけど、あの子、結婚には全く乗り気じゃないのよ。まだ早いとか、今は女性には興味はない、身を固めるつもりはないなんて言って」
「はぁ」
「そしてこれは他言無用の話だけれど、実はロキオにはサベールの王女と結婚してもらおうかと思っているのよ」
「え、そうなのですか……」
サべールとは、この国の北にある隣国の名前である。つまり、ロキオ王子はサベールの王女様と政略結婚をするのだ。
三番目といえども、王子という立場に生まれたからには結婚相手を自由に選ぶのは難しいのだろう。
一番上のイオ殿下もサベールとは別の隣国の王女と政略結婚していて、二番目のシニク殿下は国内の公爵令嬢と、こちらも政治的な思惑の元に結婚している。
そこで今度は三番目のロキオ殿下の番というわけだ。
「相手はロキオとも会った事があるし、容姿は知っているわ。それでロキオの事をとても気に入ってくれているようだけど、ロキオにはまだ話をしていないの」
「はい」
「けれど話しても乗り気にはならないでしょう。相手が可愛らしい王女様であってもね。母親だから分かるけれど、彼女はロキオの理想の女性像とは違うと思うのよ」
それでも結婚してもらわねばならないのが、政略結婚というものだ。
王妃様はため息をついておっしゃった。
「今、二人を結婚させても、無理矢理結婚させられたと思ったロキオはおそらく酷い夫になるでしょう。サベールの王女をどう扱うかは想像がつくわ。おそらくほとんど存在を無視して、政治的な場面で必要な時だけ妻として扱うわね」
憂い顔でティーカップを置いた王妃様は、しかしそこで瞳を鋭くして私を見た。
「それで、よ。わたくしは考えたの。わたくしの信頼するエアーリアに、一役買ってもらおうとね」
「けれど王妃様」
私は冷や汗をかきながら言う。
「ロキオ殿下にはサベールの王女様と結婚していただかなくてはならないのに、そこで何故私が殿下を誘惑するのです?」
「それを今から説明するのよ」
「はい申し訳ありません」
私は再び口を閉じた。王妃様は話を遮られるのが嫌いなのだ。
「エアーリアにロキオを誘惑させるのは、最終的にロキオを失恋させるためよ。まず、お前はロキオの理想の女性を演じ、ロキオから恋をされるの」
「え」
「そしてロキオが本気になったところでエアーリアが振れば、あの子は心を痛めるでしょう」
「え、あの」
「そして傷心のロキオに、サベールの王女を近づけるのよ。ロキオは最初はエアーリアの事が忘れられないかもしれないけれど、失恋したところを優しくされればそのうちサベールの王女に心を開くわ」
「そんなに上手くいくでしょうか?」
「サベールの王女とは、わたくし会った事があるのよ。お前もその時にいたでしょう? 子猫のように可愛らしく、そして人の心に入っていくのが上手な、とても器用なお嬢さんだったわ。彼女ならロキオを上手く癒やしてくれるでしょう」
確かにサベールの王女様は可愛らしい方だった。だが猫を被っているような感じもあって、王妃様も彼女と面会した後で「あれは相当な根性悪ね」なんて明け透けな言葉を吐いていたはずだ。
私の心の声が聞こえたのか、王妃様は扇を開いて口元に当てながら、平然とした顔で言う。
「性格が悪くなければ、王妃も王女も務まらないの。わたくしだって決して性格が良いわけではないわ。したがって、あれは褒め言葉よ」
いや、思い切り悪口だったような……。
いまいち納得できないが、私は無理矢理頷いた。王妃様の前で私の口は無力だ。
けれどこれだけは言わなければと、おずおずと唇を開く。
「サベールの王女様が失恋したロキオ殿下を上手く癒せるとしてもですね、あの、その前に私がロキオ殿下を失恋させる事ができないのではと思います」
「それはお前の頑張り次第よ」
「頑張ったって無理ですよ! あのロキオ殿下に異性として好かれるなんて」
私はついに声を荒げてしまった。
「周りの人間全員、自分より劣っていると見下していそうな人ですよ!? ロキオ殿下と同じくらいの美形の姫でなければ、きっと相手にされません。私のように容姿も地味で、内面も何の面白みもないような人間では……」
「全く……」
私の言葉に、王妃様は呆れたようなため息をついた。
「謙虚も行き過ぎると苛々してしまうわ。その壁にかかっている鏡を見てごらんなさい。お前は美しいわよ。わたくしほどではないけれどね」
王妃様に言われて鏡を見る。困ったような目をした黒髪の女性がそこに映っていた。が、私には平凡な顔に見える。
王妃様のようにパッと目を引くきらびやかさもなければ、私の妹のように、まるで妖精かと見紛うような可憐さもない。
でもこれ以上自分を卑下すると悲しくなるし、王妃様にも苛つかれてしまうので、それ以上は何も言わない事にした。私は王妃様ほどではないけれど美しいのだという事にしておこう。とりあえず。
「内面に面白みは確かにないけれど――ちょっと、最後まで聞きなさい」
哀愁漂う顔をした私を見て、王妃様がすかさず言う。
「お前は真面目だし、命令や指示を細かいところまでしっかりと守る。そういう意味で性格に面白みはあまりないけれど、わたくしはお前に面白みは求めていないのよ。仕事熱心でわたくしに忠実なエアーリアを評価しているの」
王妃様はそこでこちらに流し目を送り、低めの魅力的な声で続けた。
「ねぇ、エアーリア。わたくしに忠実な侍女であるお前は、わたくしのどんな命令にも従ってくれるわね?」
私は額に汗を浮かべながら、数秒考えた。ここで否と言えば、私は侍女という仕事を失う事になるだろうか。
いや、職を解かれるだけならまだいい。権力者である王妃様の不興を買えば、この後の私の人生は終ったも同然となるかもしれないし、家にまで影響が行くかも。
(父たちに迷惑をかけるのはまずいわ……)
私はハンカチで軽く汗を拭ってから、ぎこちないほほ笑みを浮かべて言った。
「よ、喜んで従います、王妃様……」
内心では王妃様のこの計画には無理があると思ったし、聡明な王妃様らしくない、非常に馬鹿らし……いやいや、少しだけ短慮な計画だと考えていたけれど、この女王様……じゃない王妃様の前でそれを口に出す事は、我が身が可愛い私にはできなかったのである。