1話 迷子
問題が起きた。
一つは異世界に来てしまったこと。召喚したらしい人物も周りには見当たらないし、いきなり放り出されて何をすればいいのか見当がつかない。
もう一つは、空腹である。
人間もやはり生き物であるからして、一定以上のカロリーを摂取し続けないと活動に限界が来る。頭がもうろうとし、まともな思考すら危うくなる。
何も口にしないで生きていけるのは、水があれば一週間、なければ三日と聞く。
森という環境からして水に困ることは無い、と思ったが、むしろ逆。雨水は川に注がれる前に地面に吸収され、それを植物が吸い取る。俺の介入できる場所が一つもない。今まで森をさまよってきて、雨が降ったことは一度もなかった。
果物とかをつけた木を探したものの、別にここは品種改良された果樹園ではない。そんなに都合よく食べ物は見つかってくれない。
いきなりこの世界に放り出されたのを一日目の昼とすると、今は三日目。
限界はもう、すぐそこにある。
「……」
いい加減、独り言をつぶやく気力すら湧いてこない。
食べ物。
水。
地球には、もと居た日本には、それらが十分にあった。学校帰りにコンビニによってパンを買い、家に帰ったら牛乳を飲む。
飽きるほどに食べ物のある、まさに飽食の世界。
餓死なんてするはずないと思っていたが、このままではありうる。
ぼーっとしながら足を踏み出すと、地面に出ていた木の根っこに引っかかってしまった。受け身も取れず、顔面から地面に突っ伏す。半開きになった口からひゅうひゅうと呼吸が漏れ、土のにおいが乾いた鼻孔を突く。
死ぬんだろうか。
このまま。
異世界転生の神様がいるんだったら、なんでこんなことするんだ。
どうせならそのご都合主義、今ここで発揮してくれたっていい。もう毛嫌いなんてしない。本当だ。
そんな薄っぺらい誠意を見せたところで、状況が改善されるわけもなく。
力の入らない四肢に鞭打って、無理矢理に身体を持ち上げる。平衡感覚も薄れたらしく、視界がゆらゆらと動く。近くの樹木に手をついて自重を支える。
ぴちゃり、と。
ほんの少しだけ手に、水の感覚が触れた。
見ると、苔だ。湿った苔。ほんのりとだが確かに、水を含む苔。
一心不乱に片手いっぱいになるまでそれをむしり、口の上であらん限りの力で絞る。
一滴、また一滴と、口内に水が落ちた。
「ぁ、ぁあぁ」
うれしいが、涙は出てこない。ただただ身体が震えるばかりだった。まさか自分が苔から絞った水で感動する日が来るとは予想していなかった。
しばらくして、とうとう何も出てこなくなった苔を捨てる。
見あげると、木々の隙間から見える空の色は、まだ青い。夜は結構冷えるから、日が暮れるまでに何とかしなければヤバい。確実に死ぬ。
一歩一歩、確実に足を進める。
大丈夫、なんたってここは異世界。今に可愛い女の子に会うとか不思議な力に目覚めるとかして、この窮地を脱することができる。
ご都合主義を遺憾なく発揮していただきたい。
そんなことをぼんやり考えて、ひたすらに森の中をさまよう。
どこを見ても、木、木、木。人影の一つも見えない。
明るかった空が茜色に染まり、段々と夜が近づく。徐々に冷えてきた外気が体温を奪い、体の芯から震える。すでに動くこともままならない。
座ったらそのまま起きれないだろうから、歩きっぱなし。いい加減足の感覚も薄れてきた。
死なない。
絶対死なない。
「ぉ、ぅげっう」
腹が揺れ、口から胃液が垂れる。唾液と混じって地面に滴り、服に染みを作る。空腹によじれる胃袋に与えられる物は、何もない。
死なない。
死なない。
死ねない。
「■■■■ ■■ ■■■■■!」
遠くから、誰かの声が響く。
幻聴だろうか。女の子の、何かを呼ぶような声。
とうとう気が触れたか。
視界も霞み、暗くなったことくらいしかわからない。
体が揺れた。
「ぁ」
倒れる。
それをきっかけに、はりつめていた意識の糸が切れた。
手離された操り人形のように地面に崩れ、手足を投げ出す。一瞬、鋭い痛みを覚えた。
下がる瞼の隙間から最後に見えたのは、胸に刺さった一本の矢だった。