その1
お前もとうとう還暦か、と杯を差し向けられた。
むっとすればいいのか、ありがたく頂戴すればいいのか。
高遠慎一郎は躊躇する。
相手が相手だからだ。そう自分に納得させて、おちょこを差しだした。
差し向かいに座るのは慎一郎の兄、尾上政だ。政の隣には彼の妻、加奈江が小鉢を並べている。
今日、慎一郎は60歳の節目を迎えた。
祝ってやろう! と珍しく政がはしゃいで宴の話を持ちかけてきた。
絶対、祝うのではなく、人を肴にちくちく言いたい放題するつもりだ、慎一郎は謹んでお断りするつもりだった。
年末で何かと忙しく予定がいっぱい入っていたこともあるが、立場が正規教員から嘱託に移る。何かと考えることが多かった、気が滅入った。
この気分の落ち込みはどこからくるのだろう。
まだまだ心は若い頃と変わらないのだ、しかし、世間は自分の時間軸とは絡まず動いていくもの。
この思いを共有できるのは、同時期に切磋琢磨した立場の者か、まったく関係ない位置にいた者。たとえば、今目の前に座る肉親である兄ぐらいだと気付いて、何度もせっつくように来る打診を受ける事にした。
と言っても、やはり年末12月は忙しい。なんとか都合をつけて週末の昼間、世間で言うところのブランチという時間帯に兄の家へ出向いた。
直前になって行く気になったものだから、話を向けられた妻・秋良は渋い顔をした。
「もっと早く言って下さればいいのに!」と顔をしかめる。
「以前お伝えしましたでしょ、その日は双葉を職場の知人に会わせる約束をした、って」
もちろん、知っていた。
秋良は航空会社勤務だ。今は一線を退いているが、かつて客室乗務員として長く国内外を飛び回っていた。双葉とは彼らの三人いる息子の次男。母親就いていた職業の影響とは関係なく、パイロットになるのだと息巻いている高校生。その彼がどうしても現役の操縦士と話がしたいと言って滅多にしない頼み事を母親にした。長男や末っ子なら流せたことも、次男だと無下にもできず、秋良は知り合いの操縦士の幾人かに話をつけた。普通の時間軸では生活していない彼らとの面談はなかなか都合がつかず、やっとひとり、週末の昼間に都合がついたその日が、夫の誕生日と重なったわけだ。
「一時間ぐらいで終わるでしょうから、後で合流しましょう」と言って、妻は夫に落ち合う先と時間を指定した。秋良の実家に近い場所にあるシティホテルだった。
「そうそう」政は言う。「さっきまでお前の息子がいたぞ」
「いつもすみません」
「いや、かまわんさ。最初の頃と比べると随分上達したなあ」
「そうですか」
「今じゃお前より上手い字を書く」
「……そりゃどうも」
政は書道家として名を馳せている。息子は伯父が主催する教室へ週に一回通っている。三日で投げ出すかと思いきや長続きし、もうすぐ1年になろうとしている。
「いつもはかあさんの昼飯食ってから帰るのに、今日は大急ぎで飛び出していったなあ、ありゃデートか何かか?」
「デートねえ……そうとも言えなくもないです」
「ほうー」
「秋良と待ち合わせてるんですよ」
「秋良ちゃんか」
妻は兄の妻である加奈江の姉の娘。つまり政にとっては姪にあたるというややこしい関係だ。
「どうりでな、いつもお前にくっついてくるはずなのに変だと思った。お前、振られたな」
政は大笑いした。
何かというと、弟相手にいじるのが好きな兄に、新たな燃料を灯火するようなことはしたくなかったのだが、まるで子供のようなことをする、と慎一郎は自分に苦笑する。
我らは似たもの同士だ、残念ながら、血の繋がりはあると自覚する。
彼らは同じ父親を持つ紛れもない血縁の兄弟だが、それぞれ母親と立場が違う。
長男の政は正妻の息子、対する慎一郎は内縁関係にあった愛人を母に持つ。
ふたりの女の間を都合良く渡りをつけた父は、あらゆるやっかいごとに蓋をしてさっさとあの世へ旅立った。
それに先だって慎一郎の母も、そして夫を追うように政の母もぽっくりあの世へ行ってしまった。もしあの世が本当にあったとしたら、この三人にとって彼の地は「天国」なのだろうか? 慎一郎は時々思ってしまう。
今、兄を目の前にして、ついそのことに思い当たり、慎一郎は微笑する。
「何笑ってるんだ」
「いえ、大したことじゃありません」
「の割には、嫌らしい顔していたぞ」
「天国を」
「てんごくう?」
銚子を持つ手を止め、政は片眉を上げた。
「あの世はどんな世界だと思いますか」
「還暦だからって、随分とぶっとんだところまで行くんだな。もう死んだ先の心配か?」
「いえ、僕ではなくあの人たちはどうしているだろうかと」
皆まで言わずとも伝わる。兄はやはり兄だ。
「あらゆる苦しみや煩悩から解放される世界なのだとしたら、仲良く過ごしているんだろうさ」
「三人ともですか?」
「多分な……。いや。煩悩が抜けたついでにお互いの興味もなくしてるんじゃないかね」
「文字通り、生まれ変わった自分というやつですね」
「そうだなあ。俺はいやだけどな」
箸の先で豆をつまみ、口に運びながら政は言った。
「いやですか」
「そりゃ、そうだろう。俺はあの世でも母さんに会いたい」
な、と政は妻に語りかける。まあ、という形に口を開け、加奈江は嘆息する。
「いやですよ、人前で何口走ってるんですか」
「いいじゃないか。母さんはどうなんだ」
細い目を引き絞り、ほぼ線になった眼差しで加奈江は言う。
「世の男性陣は、奥方と来世も、と願うそうですね」
「おおーーい、天国から生まれ変わった世界へ飛ぶのか!」
「私は世間様の話をしてるんです」
「じゃ、奥様方はどうなんだ」
「あら」
にこりと笑った顔が、こわいと慎一郎は思う。義姉の笑顔は時として緊張感を孕む。兄がこの方面で鈍感なのが信じられないくらいだ。
「ま、あなたは知らない方が幸せかもしれません」
「母さんはどうなんだ」
「……知りたいですか?」
さすがに、鈍感な兄も感じるところがあったらしく、箸を運ぶ手を止めた。
「慎一郎さんもお気を付け遊ばせ。あなたにも言えることですよ」
「自分がですか?」
「ええ。秋良ちゃんだけ例外だとは思わない事です」
はははは、と彼は笑う、「まさか」と。
「亭主族はうちのかみさんだけは、と思うっていうからなあ」
妻の言葉尻を取り、弟を叩く材料を得て、兄は活気づく。が。
「人の振りみて我が振り直せ、ですよ」と加奈江はすぱっと言い渡した。
自分の夫か、義弟へ向けた言葉なのかどうかは、彼女だけしかわからない。