乙女達と干しリンゴのケーキ
読みやすい文章を心がけつつ、「読み返したくなる物語」を目指します。
「嵐の前触れたる稲妻が西へ走る」
少女は呟くようにそう言った。金髪の、十五、六歳と見える少女だった。
がらんとした部屋には、もうひとり女がいるだけだった。やはり金髪で、少女よりは年長だが、まだ若い。背の高いその女は、少女の声が四囲の壁に吸い込まれるのを待ってから、口を開いた。
「それが、この度の星々のお告げですか、殿下」
「そう、それをわたくしなりにどうにか言葉にしたもの」
直立していた少女は、くたびれた様子で長椅子にかけた。少し離れて立っていた長身の女も、そばの椅子に座る。少女がくたりと長椅子の背にもたれているのに対して、こちらは背筋を伸ばしていた。
「どういった意味なのでしょうか」
「解らないわ」
長身の女の問いに、長椅子の少女が答える。
「駄目ね、漠然としてて、まだまだものの役には立たない。勉強してはいるけど、母上が亡くなる前にもっと教わっておきたかったわね、感覚的な部分を」
「しかし、よい兆しか悪い兆しか、部分的に解るところもあるかと存じます。たとえば嵐というのが吉兆とは思えません。一応、国王陛下にお伝えするのがよろしいのでは」
「……いえ、兄様には伝えないでおきましょう。先生がおっしゃるには、お告げは、それを信じない者にはあまり伝えるべきでないそうなの。特に、漠然としたものは。……兄様はもっと合理的な政治を行おうとしていて、それは意義のあることだと思う。わたくしのこの力は、政治に役立てる機会はないかもね」
「ローレア様の託宣は、王国を大いに支えたと聞いておりますが」
「母上は特に力の強い巫女だったそうよ。その意味でも、わたくしは巫女の力で世に出る人間ではなさそうだわ」
少女の表情に影が差した。
「そのようなつもりで申し上げたのでは――」
「いいのよ。凡庸な王族で終わるなら、それはそれで。そのほうが、却ってあなたには面倒をかけずに済むかもしれない」
「いかなることになろうと、わたしは一命をかけて殿下をお守りするまでです」
「ええ、ゲルデイ」
ゲルデイと呼ばれた女の腰には、一振りの剣があった。
少女は長椅子の上で、さらに姿勢を崩した。
「少し疲れたわ。もうちょっと休んでから、部屋に戻りましょう。その後は魔法の勉強ね」
「部屋といえば、殿下」
ゲルデイの目つきが少し鋭くなった。
「棚に置いてあったケーキが、綺麗になくなっていたのですが」
「……へえ」
「棚に置いてあった干しリンゴのケーキが、わたしの分まで綺麗になくなっていたのですが」
「それは不思議ね」
「殿下。わたしは殿下の教育というお役目も仰せつかっています。そのことを大変な名誉と思っております」
ゲルデイにじっと見つめられて、国王の妹は降参した。
「ごめん、わたくしが食べました」
従者にして護衛にして教育係のゲルデイは、ひとつ頷いてからゆっくりと言った。
「わたしは殿下に、ひとつだけ秘密にしていたことがあります」
「秘密?」
「わたしは干しリンゴのケーキが大好物なのです」
「うわ、ほんとごめん。けど、それが唯一の秘密? なんていい従者なの!」
「わたしは干しリンゴのケーキを、殿下と同じくらい大事に思っています」
「マジで!? なんという従者なの!」
「別に殿下を軽んじているわけではありません。ケーキを重んじているのです」
「にわかには承服しかねる理屈ね……」
「ちなみに、干しブドウがちょっと加わると重要度はさらに増します」
「わたくしを超えた!?」
「ほのかな酸味で、味が引き締まりますからね」
「いや、待て待て。はい、では質問です。わたくしと、干しブドウ入り干しリンゴケーキが大ピンチです。どちらかしか助けられません。さあ、どちらを助ける?」
主の問いに、ゲルデイはしばし考えた後、目を見開いた。
「はっ、そうか……! どちらも守ってみせる!!」
「いやいやいや、なに『ようやく大事なことに気づけた!』みたいな顔してんのよ。この際、諦めろや」
「殿下……お守りできず、申し訳ありません……!」
「こっち諦めちゃった!?」
「これよりは、干しブドウ入り干しリンゴケーキを全力で守っていきます」
「そんなにケーキが大事か!」
「わたしも乙女ですので」
「こんな情の薄い人を、乙女とは呼びたくない」
「というわけで、殿下。厨房で、新しいケーキを作るよう、お言いつけください」
「まあ、いいけど……そんなに食べたいなら、あなたが頼んできたら?」
「そんな恥ずかしいまねはできません。一方、殿下がおっしゃるのなら『いつものわがまま』ということになります」
「はあ……この調子じゃ、またみんなから……」
「悪いのは殿下です」
「分かったわよ、行くわよ」
少女はますますぐったりして、長椅子の肘掛けに寄りかかった。それから、ふと顔を上げる。
「ところでゲルデイ、さっきのお告げのことだけど」
「はい」
「兄様だけでなく、誰にも話しては駄目よ。不完全なお告げは災いのもとなの」
「お告げの扱いに注意が必要なことは、承知しております。ですが、わたしがお聴きしたことは問題ないのでしょうか」
「それは大丈夫。わたくしとの間に信頼関係があれば――二人きりの時なら、お告げの内容について話しても構わないわ」
ゲルデイは、少し考えてから切り出した。
「それならば、殿下の中で印象が新鮮なうちに伺っておくのがよろしいかと存じます。嵐の前触れたる稲妻が西へ走る――やはり、注意を払うべき凶兆のように思えます。嵐もそうですが、稲妻もまた人をおびやかすものです」
すると今度は、少女が口をつぐんで考え込んだ。
「……いえ、稲妻は悪いものじゃないわ。お告げの印象が、少しはっきりしてきた。これはわたくしの知っている人……ゲルデイ、〈迅雷の剣〉って何のことか解る?」
「もちろんです。〈迅雷の剣〉といえば、当代きっての剣士、ゼイン卿。何度かお目にかかったことがあります。お告げの中の稲妻とは、あの方のことなのですか?」
「うん……うん、この感じ、多分間違いないわ」
少女は目をつむり、何かを確かめるような様子を見せた。
一方のゲルデイは怪訝な顔になる。
「ゼイン卿は救国の英雄です。嵐と結びつくというのは、どういうわけでしょうか」
「どうも駄目ね……嵐のほうは、イメージが固まらないわ。でも、必ずしも悪いものとは限らないのかも。嵐は人の営みの破壊。でも、嵐は空を清める。そちらが嵐の本質だとしたら……」
「ゼイン卿が近いうちに何かをなさるということでしょうか」
「そうね、少なくとも何かのきっかけとなることを……でも、全てはこの王宮の外の話。城壁の中のわたくしは、結局何も見極められないんだわ」
少女は陰鬱な表情で、長椅子の肘掛けをさすった。
「お告げの実現を見届けられない巫女……」
「恐れながら、殿下には修めなければならない事柄がまだまだおありです」
「ええ、本当にね……待って、これは……!」
少女の顔に、恐怖とも興奮ともつかないものがよぎった。
「そういうことなの? 嵐はわたくしの……」
何事か呟いてから、少女は長椅子の上で姿勢を正した。その真剣な表情に、ゲルデイも改めて背筋を伸ばす。
ゲルデイの目もまた真摯なものだったが、どこか妹をいつくしむような色が差していた。人が見たら、金髪の乙女達を姉妹と思ったかもしれない。
「ゲルデイ」
「はい」
「もしわたくしが嵐に呑まれても、そばにいてくれる?」
ゲルデイは、少女の前で片膝をついた。そして主君の右手を取り、手の甲にキスをした。
「もちろんです、アンフローネ様」