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社会の歪み


 お母さんは厳しかった。

 ちゃんとお片付けしなかったり、お洋服を泥んこ塗れになって帰ってきたとき、真っ先にお母さんがしたことは、いつも、お外にも聞こえるぐらい大きな金切り声で叱ることだった。

 でも、一番怖いのは小学校のテストで百点を取れなかったとき、その何倍もの金切り声と怒気で私のことを叱るお母さんの顔がとても怖かった。

 その度、私は逃げて、隅っこで泣いていた。お母さんはそれが気に食わなかったのか、私のことを見つけると、朱色に染まった外に出された。外に出された私は、いつも、公園のブランコに行って漕がずに、滝のように流れ出る涙を延々と腕で拭き続けていると、どんどん暗くなっていって、公園にいた子供たちも数を減らしていった。最後には一人ぽつんと闇に呑まれる小さな少女が残った。

 それで、そのままずっと待っていると、必死になって探すお母さんが私のことを見つけて駆け寄ってくる。

 お母さんが「ごめんね、ごめんね……」と泣きながら謝る。私はお母さんに「大丈夫だよ。」って慰める。

 そして、お母さんと一緒に暗し道を引き返した。

 そんなことが何度も続いた。叱っては謝って恕す、叱っては謝って恕すの繰り返しだった。


 そんなある日。

 塾の算数のテストで八十五点を取った。塾の皆の中では一番の点数だった。

 私は嬉しくて嬉しくて、お母さんに褒めてもらおうとして荒い息遣いで肩を揺らしながら報告した。

「ねーねー、お母さん。わたしね、塾のテストで一番だったんだよ。」

 嬉々とした私の顔を見るが、表情を変えず、お母さんは料理をしながら訊いた。

「何点だったの?」

「えっとね、八十五点だったんだ、よ?」

 八十と言ったところでお母さんの顔もオーラも包丁のリズムも一変した。

「満点を取りなさいって言ったでしょ!」

「っ!」

 余りの迫力に気が呑まれて、口を餌を食べる時の金魚のように口をパクパクさせるしかなかった。頭を殴られた後みたいに頭が真っ白になって、平衡感覚がなくなって床にへたり込みそうになるが、お母さんはそんな私を目で威嚇してそんなこともさせてくれず、庖丁をまな板に置いて金切り声で怒鳴った。

「なんでいつもいつもいつもいつも、完璧に出来ないの! 私はあなたをそんな風に育てたことはない!」

 微かに流れるキッチンの水道の音が聞こえる。その音はそんなに小さくないはずなのに、小さく聞こえてしまうくらい耳が狂っていた。どうにかこうにか、ふら付く足をふら付かないよう抑え込みながら立っていた。

「大体、あなたは……」

 お母さんは今度は悲観したような声で、ぶつぶつと私の過去の悪い出来事をこれでもかと言うほど論った。

 そんなお母さんの言動にずたずたに切り刻まれていった。

 お母さんは私のことをこんな風に思っていたんた……。

 幼い私はそのことを知った――と言うより理解したとき、頬に真珠が流れてきた。

 それは私の『希望』であり、『存在理由』であり、『自我』であり、『意志』であり、『欲望』だった。

 それら全てが詰まった真珠が、体の中から流れ出てきたら、私はどうなるのだろう。

 ――それは至極、簡単だ。

 私は空っぽになる。

 唯、それだけだ。

 そんな空っぽになった私を見て、更に苛ついたのか、お母さんは私に追い打ちをかけるように怒気を上げる。

「あぁぁぁんんんもう! 鬱陶しいわね! 泣かないでって言ってるでしょ! あんたなんかどっかに行きなさいよ!」

 最終宣告だった。

 私は声を押し殺して静かに泣きながら、靴を履き、家を出た。声を押し殺していたのは、単にお母さんの言いつけだった。

 そのまま、ずっと、歩き続けた。


 どのくらい経ったのだろう?

 果てしなく遠くまで歩いたような気がする。実際、この周りはその頃の私の活動圏外であったので、全く、現在地が分からなかった。

 出るときには、夏特有の高かった太陽が金色の斜陽を射している。

 私は少し休もうとしたら、丁度、公園があった。

 私はふらふらと公園に入り入口の傍に在った無人のブランコに座る。

 止め処と無く流れ出る涙を袖で延々と拭き続けていた。涙で袖が濡れるくらいに。

 周りの人間はそんな私のことを見て見ぬ振りをしていた。


 たった、一人を除いては。


「どうした?」

 彼は、いきなり、私に話しかけてきた。

私は酷く驚いた。それと同時に警戒もした。でも、やっぱり、嬉しかった。

いろんな色の絵の具を混ぜたようなカオス色で頭の中が一杯になって、喋れなかった私に彼はとても優しく語り掛けた。

「泣き止めよ」

「……うん。」私は半分、条件反射的に頷いた。

 それを聞きながら、彼はバッグの中を探っていた。そして、探り終えた彼は困った様子で顔を上げ周りを見渡していた。

そんな彼にコテッと頭を傾けた。

 彼は数秒間停止した。そして、涙を彼の簡単なプリント印刷がされたTシャツで拭っていた私に、彼は困ったような、驚いているような、でも、暖かい声音で言った。

「……何するんだよ」

 それを聞いて、私はすぐ謝った。

「……ぐずっ。ずっずぅうう。……ふぇ? ……あっ、ごめ、ひっきゅん、んなさい……。」

「そうゆーことじゃなくて、んーっと、あー、えーっと、もーどーでもいいや。いいよ、このまんま、泣いていても」

 正直、頭の中が真っ白になった。そして、この状況が呑み込めるにつれて、私はとても申し訳ないような気がして恐る恐る訊いた。

「…………いいの? お洋服が汚れちゃうよ?」

 彼は吹っ切れた様子で、あっさりと淡白に言った。

「どーせ、汚れたし、洗濯機だし大丈夫だろ」

「………………う、うん。」

 自然と私の視線が彼の横顔に引き付けられた。その後、再度、彼の腰に抱き着いた。


「そんで、何で泣いていたんだ?」

 私が泣き終わったのを見て、訊く。私は泣き腫らした赤い顔で、息も絶え絶えになりながらも必死に語った。

「……塾のテストでね、八十五点だったの。それをね、お母さんにね、見せたら、怒られたの。」

 唯々、静かに聞いていた彼は、最後の言葉を聞いたとき、目を大きく開いて私のことを見た。私は、なまじ勢いのままに、更に続けた。

「……それでね、結局、お母さんが『出て行きなさい!』って、怒鳴って、放り出されて、ドアを閉めたの。それでね、今、ここにいるの。」

「……それは、本当? お前のお母さん何様のつもりなんだよ。やり過ぎだろ、それ」

 目を大きく開いて聞いていた彼は、とても殺気立った声で一人呟いた。

 私はそんな彼に、とても怖く感じながらも、こんな私のためにそこまで怒ってくれることに嬉しくもあった。でも、これは私のせいなんだ……私の……。

「…………そうじゃないの」

「でも、」

 私はこんな優しさ触れちゃいけないんだ。

「――そうじゃない!」

親の言いつけを守れない子なんか。

「……ごめん」

「……………………ごめんなさい」

 私なんか――

「何で、謝るんだよ」

私は私の言葉で切り刻む。

「だって……こんなことになったのも、」

自分の精神も、

「全部、私が悪いから、」

彼の優しさも、

「……そう、全部全部、私のせいなんだ。」

何もかも。

「全部、全部……。」


 ――生まれてきちゃいけない子なんだから……。



 病院で語りだした和泉を静かに聞いていた俺は開口一番、馬鹿にしてやった。

「生まれてきちゃいけないとか、馬鹿だろ」

「……」

 黙り込む彼女に呆れて、溜息一つ、吐いた。

「お前が生まれてはならない存在なら、今まで俺に見せていたものはすべて、虚像なのか?」

 彼女は首を横に振る。

「だよな。お前だけだもん、俺にあんなに噛み付いてきたの。……まあ、馬鹿は俺の方だけど」

「……何で?」

「お前の言ってた、少年。俺だから」

「へ……?」

 あっけらかんと何でもなかったかのように言い放った俺とぽかんと口を僅かに空けて呆けてる和泉。

「信じられないなら、そのときのTシャツまだ持ってると思うから、見るか?」

 確かクローゼットの奥に適当に放ってある筈だ。

 けれど、彼女は静かに首を振り、慈しむ様な笑みを湛えながら言った。

「いい。私の記憶が私だけの記憶だけじゃないってことが分かったから」

……うっ、何だ、この甘ったるい雰囲気は?!

 この空気に耐えきれなくなって、布団を深く被り寝ようとしたとき、病室の引き戸が開く音がした。

「あかあああああぎいいいいいいいい!!」

「……ハア、君、少し静かにしようか」

 案の定、来たのは菅原と遠藤、宮島だった。

「複雑骨折ってホントですか?」

 宮島はすごく心配してるよう見えた。

「ああ……ん? お前ら、何か勘違いしてるか?」

「「「???」」」

 三人とも不思議そうな顔で見合わせる。

「多分、お前らが想像している複雑骨折は、一つの骨がいくつもばらける粉砕骨折だろ?」

 三人とも頷いた。

「複雑骨折はボルトを埋め込む様な大層な怪我じゃなくて、ただ単に折れた骨が皮膚突き破って骨が露出していたんだよ。……ってか、誰だ複雑なんて面倒な名前で遠藤たちに伝えたの? 俺とか、医者は勘違いしないように開放骨折って言っていたと思うんだけど?」

「……」

 和泉はあっちの方角に顔を向けた。

……お前か。

 正直、何故、彼女がそんな面倒な勘違いををさせたのか、いろいろと理由は推察が出来るけど、確証がないし、ぶっちゃけ、そんなことはどうでもいい。

「まあ、そんなことで、一応、外傷が治るまで病院だと」

 俺のあっけらかんとした答えで三人とも安堵の表情が見て取れた。

「そっかあ。よかったです」

 ずっと黙って立っていた遠藤が何でも無さそうに訊いた。

「……で、赤城。お前、その机の上どうしたんだ?」

 そう、今、ベッドの机の上には本と紙の山が出来ていた。

 その紙には走り書きした文字が埋め尽くされていた。それはもう、縦横無尽に。

「ん? ああ、暇だったから」

「暇だったからって、入院中に何か訳のわからん計算を普通しねえよ……」

 遠藤あたりが呆れと諦観で、あほだこいつ…… なんて今頃思っているだろう。

 まあ、いいか。微分方程式面白いし。

 傍で聞いてた宮島が不思議そうな顔した。

「え? でも、赤城くん、利き腕右ですよね?」

「ペンだけはね」

「それじゃあ、どうやって書いたのこれ」

「左で書いた」

「「「………………は?」」」

 遠藤は天を仰ぎ、菅原は首を振りながら呆れ、宮島は硬直した。

 何分そうしていたのだろう?

 一瞬かもしれないし、一分だったかもしれない。はたまた、一時間も経っていたかもしれない。

 そんな彼らを再起動させたのは、和泉だった。

「……で、宿題はどうするの」

 実際は、ほんの数秒だったけど。

「え? 宿題? こんな腕で出来るわけないなじゃんか。何言ってんの?」

「……その台詞は私たちの台詞です……」

「……お前が言うか、お前が」

「……ああ、もう、流石としか言えねえ……」

 三人とも三者三様の反応で、呆れ返るの通り越して、無反応。

「と言うより、遠藤、菅原。お前ら二人は俺がどれだけ理科馬鹿か知っていただろ」

「そりゃあ、知っていたけどさ……。こう、改めて見るとね……」

「んでもって、学校の勉強がどれだけ嫌いかも」

「うむ、よくわかっていたつもりだったのだが……」

 こうして出来上がる、何とも言い難い空間。

……逃げるか、この空気から。

「ちょっと――

「どこ行くの、赤城?」

 言おうとした言葉は和泉によって、キャンセルされた。

 うーん、和泉さん。睨まないでください。怖いです。

「すみませんでした」

 ハア、吐息を吐く彼女。その顔の口角は吊り上がっていた。

 宮島がバッグの中から、数冊のノートを取り出す。

「あ、そうです。今日の授業のノートです。一応、渡しとけと言われましたので。はい、これです」

「お、ありがとう」

 学校の勉強しなくていい丁度いい口実が出来たので、実は有難迷惑だったりするのだが、まあ、ここはを宮島の好意を一緒にありがたく受け取っておく。

「もう帰りますです」

「そうか。もういい時間だしな」

「じゃあ、俺も帰るわ」

「そうだな」

「それじゃあ、また」

「うん、それじゃあね」

「ではな、赤城」

「じゃあな、また今度」


「ふう」

 熱い甲子園の夏が終わったような寂寥感が俺らを襲った。

 夕焼けがそれを助長しているようで。

「……あんたのその怪我、骨折だけじゃないでしょ」

 そう、俺の怪我は骨折だけではなく、いろいろと広範囲にわたって、ガタがきている。

 まあ、あんな高さから落ちたのだから、当然か。

「まあな。別に気にすんな。俺がお前のことを助けようとして、結果、お前は怪我なく、無茶の代償として俺が怪我しただけだ。死ななかっただけ、ましだと思う」

「……奇跡的にね」

 ぽつりと誰かに聞かせる訳もなく彼女の口から零れ落ちた言葉は俺にはちょっと癪に障った。

「俺はあんまり奇跡っていう言葉、嫌いだな」

「なんで?」

「奇跡と言えば、過程を無視してもいいなんて感じるから」

「ちょっとよくわかんない」

「うーん、例えば、とある難病の子がいたとする。その子は医者に余命三ヶ月と診断されました。でも、その子は頑張って、治療を受けました。すると、十年経ってもその子は生き続けましたなんて話があると、みんな、奇跡って呼ぶ。でもさ、もしかしたら、その医者の見込みが甘かったのかもしれない。もしかしたら、その子は本当に頑張ったのかもしれない。もしかしたら、その子の遺伝子がその病気に対して何らかの耐性があったのかもしれない。それらを無視して、奇跡っていう言葉一つで片付いてしまう。それが俺は嫌なんだよ」

「つまり、結果も大事だけど、過程を伴わなければ意味がないと言うこと?」

「そう言うこと」

 俺が思うに世の中には偶然と必然、その二つしかないと思う。幸運も、不幸も、奇跡も何にもない、あるのは偶然と必然。たったそれだけ。

 夢も希望もへったくれもないが、でも、事実、そうなのだから仕方ない。

「はあ、あんたね、私のことじゃなくて、自分の心配をしなさいよ」

「自分のことを心配したって、しょうがないじゃないか。しかも、そもそも、これは和泉がこんなことをしようとしたことに原因があるんだから」

「……ごめん」

「じゃあ、もう自殺しようなんて思うなよ」

「うん」

 うーん、やけに今日は素直だな。やはり、今回の事故が原因か。

 何かやりずらいけど、まあ、時が解決するだろう。

「じゃあ、私も帰るわ。それじゃあ」

「ああ、じゃあな」

 と言ったころには、彼女は扉を引いて、出て行ってしまった。

 ふむ……。

 あいつが自殺するまで追い込まれていたのは事実。

 で、原因は母親による虐待。

 今、この現状で俺にとって一番いい状況はあいつとその母親を引き離すこと。

 となると……まず、あの手を打つしかないか……。

 さて、そのためにはどうするか。

「……あーあ、俺はいつから、あいつのことばかり考えるようになったんだ?」

 自分でも気付いているけど、知らないふりをした。

 そんな言葉が、黄昏に消える。



 結局のところ、俺が何も手を打たなくても、済んでしまった。


「元気?」

 今日の見舞いは琴葉達だった。

「怪我人に対して、元気っておかしいだろ、琴葉。お、ヒロ、お前も来たのか」

「先生に兄の見舞い行くって言ったら、許可貰えた」

「帰ったら、ゲームしよーぜ」

「ん? ああ、治ったらな」

「……一体、誰に似たんだか」

 弟といつも通りの会話をしていると、遅れて病室に入ってくる人がいた。

「母さんも来たのか。母さん、仕事は?」

「そんなの押し付けてきたに決まっているじゃない」

「おおう、流石」

 母さんは大学の准教授をやっている。研究室に泊まることもしょっちゅうある。

「そうそう、お父さんもこの週末見舞いに来るそうよ」

「あ、そう」

 さして興味もなさそうにあしらう。

「あ、後、孝之さん……和泉ちゃんのお父さんもこの後来るって言ってたわね……」

「っ!?」

 びっくりして、母さんの顔を思わず見る。

 大田孝之。

 そう、俺が策を弄して会いたかった人物は彼の人物だったからだ。

「そんな反応はないだろうに……」

 こっちにもいろいろと事情があるんだよ、琴葉。

「……にしても、先方から訪ねてくる理由が釈然としないんだけれど」

「うーん、確か、お詫びとだけ言っていたわね」

「お詫びか……」

 理解はできても、納得はできない答えだなあ。何と言うか、それはただの建前、若しくは、小さな理由の一つに過ぎないだけのような気がする。

 まあ、もし、大田さんの思惑が予想した通りなら、目標は一致しているだろうし、そうじゃないなら、利用させてもらうだけだ。


 適当に話をしていたら、三十分ほど経ったとき、紺のスーツに身を包んだ痩躯の男性がやってきた。

「あの、悠哉君は……」

「あっ、孝之さんこっちこっち」

 母さんが件の人物を手招きでこっちに呼ぶ。

「紹介するわね、これが私の息子の悠哉と広哉、娘の琴葉です」

「初めまして、大田孝之です。和泉明香里の実の父親です」

 三人とも会釈して、挨拶をする。

 身なりや仕草を見ても、分からなかったが、よくよく大田さんを見ると若干、やさぐれたような顔付きをしていた。

「あの……今回の件は本当に不幸でしたね」

 と言いつつ、高級チョコレートの箱詰めをこちらに見せてきた。

「いえ、別にそこまで重症ではありませんし……チョコレートありがとうございます。後で、おいしくいただきます。母さん、これ、冷蔵庫に入れておいて」

「分かったわ」

 チョコレートの箱を貰った母さんはテレビ台の下に設置してある冷蔵庫の中に入れた。

「……あの、和泉さんに会わなくてよかったんですか?」

 琴葉が大田さんに問い掛ける。

「ん、ああ、ちょっと、事情があってね……」

 と言ったっきり、大田さんは黙り込んでしまった。

 大田さんが僅かに見せた沈痛な表情を見た俺らは言葉を紡ぐことができなかった。


「……なあ、母さんとヒロ、琴葉。ちょっと席を外してくれないか?」

「なんでよ?」

 間髪入れず、琴葉が訊く。

「大田さんと二人きりで話したいことがある。ですよね、大田さん」

「え、ああ、まあ」

 ふうん、と言って琴葉たちは素直に俺の病室から退室した。


「ふう、大田さん。少し訊いてもいいですか」

「ああ、いいよ」

「何で、今日、俺のことを訪ねてきたんですか?」

「それは……君は気付いているようだね。今日、来たのお詫びだけじゃなくて、君に頼みたいことがあったからなんだ」

「で、頼みと言うのは?」

「娘を、明香里を取り戻してほしい」

 彼は真摯な顔で俺のことを見つめた。

 それはまるで、溺れる者は藁をも縋るようで。

 俺は思わず唾を飲み込んだ。

 そして、彼は過去のことについて語りだした。



 君のお母さんから聞いてはいるとは思うけど、彼女と僕は同じ大学の先輩後輩だったんだ。だから、利香とは後輩の友達ってことで知り合った。

 まあ、利香と恋に落ちるのにさほど時間はいらなかった。

 大学卒業後、就職し、程無くして、僕らは結婚したんだ。

 それで、そうして生まれてきた僕らの娘が明香里だ。

 僕らは娘を大事に育てた。

 それも若干、過保護ともいえるぐらいに。

 僕らの家庭は娘を中心に回っていたんだ。

 けれど、僕らはその生活が楽しくて仕方なかった。

 日々少しづつ育っていく明香里を見ていると、それまでの疲れがすくに飛んでしまった。

 あの頃はものすごく幸せだった。

 それも明香里が小学校に入学すると、徐々に崩れて行った。

 利香は今の様にテストのことばかり、言うようになっていった。

 僕が思うに彼女の根底には、学歴に対するコンプレックスがあったんだと思う。

 それからと言うものの、彼女は娘にテストで満点を取るよう強要した。

 学校のテストは勿論、塾のテストでも。

 明香里は健気にも、それに応え続けた。

 勿論、彼女にそれだけの能力があったからと言うのもあるのだけれど。

 それが余計に利香を暴走させる原因にもなったと僕は考えている。

 とある日、明香里は塾のテストであまりいい点数が取れなかった。

 その結果を見た彼女は、怒鳴ることもせず、ただ、何もしなくなった。

 洗濯、料理、掃除、その他もろもろ、すべて放り出して何もやらなくなった。

 僕が仕事から帰れば、僕の料理もなく、明香里に夕飯食べたかと訊くと、食べてないと泣きながら返ってきたときは、怒りと情けなさが湧き上がってきた。

 だから、僕は彼女に、ネグレクトを止めろと言ったんだ。

 そしたら、あなたに私の何が分かるの!? って、ヒステリックに叫んで逃げるように去って行った。

 一人残された僕は、娘を連れて、外に食べに行った。

 そんなに日が続いて、明香里も小学三年生になった。

 その時の流れと共に、利香による虐待はエスカレートし、僕がそれについて釘を刺したり、話し合ったりして繋いでいた。

 しかし、如何せん僕は仕事に出ていて、娘と触れ合う時間は母親の方が長くなってしまう。もしかしたら、僕の見えていないところでやっていたのかもしれない。そこのところは、当事者の二人じゃないとわからない。

 それでも、離婚と言うのは僕の考えにはなかった。明香里には母親が、父親が必要だという思い込みから、離婚と言う手段は考えの中から外していた。

……それが僕の最大の失敗だったのかもしれない。

 けれど、そんなだましだましの生活を決定的に崩壊させる事件が起こった。

 娘に、満点を要求する親だから、当然、通知表もオールAを取るように言ってくる。三年生の一学期の終わり、彼女は二つBの評価の付いた通知表を持って帰ってきた。

 一つは理科。もう一つは体育。

 勿論、利香は激高した。

 彼女は四十日間ある夏休みをすべて家の中に籠らせて、勉強を強要した。時には夜遅くまで部屋の電気が付いていた。

 その時、僕は仕事が忙しくなっていって、帰ってくるのも遅くなっていて、頻繁に会社に泊まることもあった。今となっては、もし、ここで早く帰れていれば、忙しくなければ、なんて考えてしまう。

 ご飯は簡単に取れるゼリーやビスケットのものばかり。

 当然、娘は体重が落ちていった。又、顔色も酷くなっていった。

 結果として、明香里は倒れて、病院へ行った。

 僕が娘を見た時には、身体は骨が浮き出てきて、顔は真っ青。

 医者によると、貧血、脱水、栄養失調だとのこと。

 僕は激しく後悔した。何故、気付いてあげられなかったのだろう。もっと、僕が娘と触れ合う時間を取っていれば。そんな際限ない後悔ばかりが僕の心の中を覆い尽くしたんだ。

 そして、僕は離婚を決意した。

 それから、僕は離婚届を利香に突き出した。

 彼女はそれに拒否を示した。

 だから、僕は民事裁判を起こした。

 離婚をするための。

 そして、娘を引き離すため。

 長い時間をかけて、裁判を進めて行った。

 そうして出た結果は、

 慰謝料を払うことで離婚は成立した。

 ただし、親権は認められず、養育費の支払いを義務付けられた。また、明香里が成人するまで、彼女に会うことを禁じられた。

 僕はその結果を受け入れられず、即日、控訴した。

 溺れる者は藁をも縋るように。

 けれど、現実はその最後の藁すら容易く切り裂く。

 控訴棄却。

 これが僕の目の前に降りかかった事実だった。

 理由は利香が母親だから。

 たったそれだけ、たったそれだけで、僕の努力は泡沫の如く消え去った。

 僕は何もする気になれなかった。

 僕は何のために戦ってきたのだろう。

 何のために働いてきたのだろう。

 何のために……

……生きているのだろう。

 その時、僕の頬に何か伝うものがあった。

 僕は壊れた。

 地面にそれを垂らしながら、手を真っ赤に染めながら、彼女たちは僕の目の前から去った。

 残ったのは僅かな金額の書かれた通帳と空虚な空間になった家、血で染まった剃刀だけだった。



 いつの間にか、空は姿を変えようとしていた。

 辛い話だった。

 大田さんは下唇を噛み締めながらゆっくりと話していた。

 俺は話を聞く前に大体、想像はできていた。

 それでも、あの話を聞くのは心を締め付けられるような気がした。

 誰にも八つ当たり出来ないやるせなさ、自分の無力さ、矮小さ、自分が信じていた正義が何の変哲もない石ころで砕かれる辛さ、すべてが綯い交ぜになっていく、そんな感情。

 俺には到底、耐え切れない。

 そう、この世界は生まれながらにして、不平等で、不公正で、不自由で、不文律だ。

 誰かが平等を謳っていても環境と言う名の不平等。

 誰かが信じていたものは、金で引っくり返る不公正。

 誰かが作った常識と言う檻から出れない不自由な鳥。

 誰しもが、それらのことに気付いているはずなのに誰も明言しない不文律。

 世界は歪んでいる。

 どうしようもなく、現実にあって、避けることができない。

 明香里がこんな状況になったのも、すべて司法のせいにしても、どうにもならない。

 世間に蔓延る、子供に母親だけが必要だ、と言う常識を打ち砕かない限りは好転はしない。

 男女平等にしても、生物学的な男女差別はしても、社会的な男女差別はしてはならない。

 今のこの日本と言う国はそこのところをごちゃまぜにして考えていて、国民自らの無自覚、無頓着、無知の所為で社会的に女尊男卑の傾向がある。

 司法において、母親だけの意見ばかりが採用されるのもおかしい。男では全く動かないのに女性が喚けば、動く警察。

 すべてが腐っている。

 僕はそれらも含めて、真面目に生きることを止めた。

 こんなくだらない世界なら、まともに生きる方が馬鹿らしい。

 でも、そんな不真面目な俺でも守りたいものの一つはある。

 そのために俺は……

「今日はありがとうございました」

「ああ、うん、いいんだよ。赤城君」

「……大田さん、あいつが笑えるようにしてやってください。あいつが笑ってやれるところを作ってやってください。あいつの未来を開けてやってください。その役目は……その役目は、俺じゃな……い…………」

「…………うん、分かった。引き受けたよ」

 そう言って、病室から出て行った。

 助けたかったなあ、明香里のこと。

 けれど、俺はヒーローじゃない。

 何かの物語の主人公でもない。

 俺はひねくれもので、天邪鬼で、悪戯好きで、人の不幸で笑う、ただの高校生だ。

 俺が誰かを助けたからって、それだけじゃあ、主人公にはなれない。

 物事の展開をうまく進めるのは誰がいいか、決まっている。

 今回はそれが大田さんだったというだけだ。

 この役目は俺じゃない。

 大田さんだった。

 たった、それだけだ。

 俺がここで無理して、でしゃばっても、社会的地位も、コネも、金もない俺では何も解決することができない。

 余計に話をこじらせるだけだ。

 だったら、ここは大田さんに任せるしかないじゃないか。

 助けたくても、助けられないとわかっているのなら、助けられる人間に頼むしかないじゃないか。

 そう、これはただの俺の言い訳で、恨み言で、羨望だ。

 俺は待つことしかできない。

 祈ることしかできない。

 想うことしかできない。

……ああ、悔しいなあ。

 空いていた窓から吹き抜ける風が、悲しみをばら撒いた夜空が、濡れた布団が、俺の身体を冷やした。


……ぷえっくしょん。あーさむさむ。


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