君と落つ、空の中
1
一週間、何も起きずに過ぎていった。
俺は、それを安堵していいのか、警戒しなければならないのか、分からなかった。
彼女は、いつも通りのようにも感じられたが、その間隙に少しばかりの無理が見えていた。
そして、その間も、ずっと前から続いていた胸騒ぎは収まらなかった。
だが、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。
2
事は突如として起こる。
間抜け面して大きな欠伸をした。時計を見て、十分に時間があると判断して、俺は布団に包まって、二度寝を敢行しようとした。が、ベッドの傍に置いた携帯のLEDランプが緑色で点滅していた。
……誰だよ、こんな時間に。
すごく不機嫌な顔をしてメールの受信ボックスを開く。
from和泉 明香里
title無題
何なんだ、一体?
俺は起きていきなり来たメールを見て、怪訝に思いながらも決定ボタンを押す。
おいつはよっぽどのことがない限り、メールなんて寄越さない人なのに。
ありがとう。さようなら。
……は?
度肝を抜かれた。
次の瞬間、あいつが何をやろうとしているのか、予想がついた。
予想がついて、今度は肝が冷えた。
何時か、やるかもなんて思っていたが……まさかやるとはな……。あいつには、まだ、借りがあるし、何より何も言えてない。
事態の喫緊性を理解した俺は急ぐ。
適当に用意したパンを食べ終え、焦る気持ちをどうにか理性で押さえつつ、学校の準備をしていた。すると、不意に開いていた自室の扉から誰かが通りかかったのが見えた。寝間着姿の琴葉だった。彼女は欠伸をしながら、話しかけてきた。
「何かあった?」
彼女は俺の表情を見て訝しむ様な顔のまま、訊いた。
「……何にもない」
「嘘。それ、嘘。今日はおかしいわよ、悠哉。何かおかしなことでもあった?」
流石、十年以上の付き合いだ。俺がこんなにも焦っていることに気付いているのだろう。
でも、それを言葉にできなかった。
俺は誤魔化すように、何も無いということを再度、伝えた。
「……分かった、それじゃ」
と言って、琴葉は踵を返した。
「じゃあ」
俺は手を休めることなく、準備をしていった。
2
適当に教科書とノートを突っ込み、家を出た。
歩きながら、彼女のことを考え続ける。
何故、彼女はあんな行動をしようと思ったのか。
何が彼女をそこまで追い詰められてしまったのか。
いや、考え続けても答えなんて出来やしないのだけれど。
だって、答えなんてわかりきったことだもの。
大方、彼女の母親の所為だろう。
あいつの母親……利香さんは俗に言う教育ママだった。
それは赤の他人の俺から見て、やり過ぎな面があった。
一年中、事あるごとに夜中に金切り声が聞こえてきたり、物を投げているような音や酷い時には、彼女の部屋の窓ガラスが割ったりしていた。
彼女は母子家庭で一人っ子だ。加えて、自分で自分の部屋の窓ガラスを割るような狂ったやつでもないし、物を投げたり、怒鳴ったりするような短気なやつでもない。寧ろ、物は大事にするし、怒ったときは怒鳴るよりも冷静に相手の嫌がることを言うし……まあ、自爆したときは例外の様だが。
となると、やっているのは利香さんと言うことである。
流石に、これ以上は個人の家庭の問題だから詳しくは知らないが、どうも怒る理由は常にテストに関するものらしい。
俺からすると、テストなんて一元的な能力の見方だから、どうでもいいと思ってしまうのだが。まあ、多くの生徒はこれに怯えて、嫌い、やりたくないというのが一般的だと思う。そんなことを言っている自分もそんな一人だし。
確かに、テストの結果で成績は決まるし、将来の志望校も大きく変わってくるだろう。
けれど、それで大学に入って、卒業して、入社して、そこで人生のゴールなのか。そこで人生の勝ち負けが決まってしまうのか。そこで貴賤が決まってしまうのか。
いや、違う。
高々、二十二年ぽっちで自分たちの人生が確定するなんて、あり得ないし、あって堪るか。
しかし、やはり、視野の狭い人もいて、絶対に一流大学に進学しなければ、勝ち組になれないなんて言う人もいる。その勝ち組だって、どういう基準なのか分からないのに。
つまり、利香さんはその考えに囚われた人の一人、と言うことである。
まあ、そこら辺の考え方は個人の自由だし、俺がこういう風に思ったところで、その考えを押し付けてはならないし。
でも、この理屈は利香さんにも当て嵌まる訳で。だから、利香さんの思っていることを娘に押し付けるなと言うことだけは言いたかった。
……実際、言ったのだが、齢を重ねた多くの人は他人の、特に年下からの意見や忠告は唾棄する傾向が強い。つまり、結果として、利香さんに俺の意見は耳に届かなかった、と言うことである。
考え続けていたら、いつの間にか、学校の校門が目の前にあった。
よく車とかにぶつからなかったと内心、驚いてみたりする。
……これ、状況を考えたら、そんなところではない筈だが。まあ、いいか。
これは楽天的と言えるのか、ただの馬鹿なのかはさておいて、校門を潜る。
時間もあってか、校内は伽藍堂だった。
よくよく見ると、校務員や日直の先生がいるらしく、校務員室や教員室は電気が付いていた。
不意に風が通り過ぎる。
五月とはいえ、まだ、日も上がり切っていないこの時間帯はまだ、肌寒い。
ううむ、宵の月もなかなか乙だなあ。
頓珍漢な感想を抱きつつ、校舎に入った。
3
いつも通りのルートで自分の教室に向かう。
閉まっていた教室の扉を引いた。
そこにはこちらを見る制服姿の和泉がいた。
彼女が息を呑むのは分かった。だが、薄暗くてよく見えない。
近付くと、今度はこっちが息を呑んだ。
彼女は窓のサッシに手をかけていた。足元には数枚の便箋が見えた。
窓から入ってくる風が彼女の髪を揺らす。
「……あんたにしては早いじゃない」
彼女は窓の向こうを見続けて答える。
「……まあな。あんなメールを見たら、目が覚めて、二度寝する気も起きなくなったし」
彼女は振り返った。
先生にお前は理科を勉強するなと言われた俺だけれども、この時ばかりは、ああ……なんて綺麗なんだろう……と心の奥底から感じた。
「……ねえ……私の存在意義って何なのかな……」
微かに聴こえた一人呟く声。
彼女はまっすぐと俺を見た。その顔に気圧されるように俺は黙った。
そして、彼女は言った。
小さい声だけれども、俺の耳にはちゃんと一言一句聞こえていた。
「さようなら」と
徐に彼女はサッシに足を掛けた。
それを見た俺は脊髄反射で走り出していた。
焦り。胸騒ぎ。気怠さ。それら、全てが嵐の後の晴天みたいに、何もなくなる。
呼吸が止まる。時も止まる。残ったのは、走る俺の足音と微かに吹く夜風だけだった。
何もない空間を掻っ切るように走る。
たった、五メートルが遠い。
それは何の為?
誰の為?
彼女の為?
道徳的判断?
いや、違う。
それは、
――俺が、あいつに居なくなって欲しくないからだ。
なんて、自分勝手で身勝手な答えだろう。
でも、これでいい。
これが俺――赤城悠哉であることの証なのだから。
彼女の体はまだ、宙へ浮いていなかった。
だが、手擦りに掴まって引っ張ることはできない。
そう判断して、一か八かの賭けに出た。
走ってきた勢い、そのままにハードルの要領で手擦りを飛び越した。
左手を伸ばす。
彼女を死なせない手を。
その手は彼女の右腕を掴んだ。
彼女は目を丸くさせて、驚いていたが、その目は少し潤んでいた。
そして、俺は彼女と一緒に
落ちた。
俺は急いで彼女を抱きしめる。絶対失くさないように、死なせないように、強く強く抱きしめた。
何度も地平線が見える。
最後に見たのは、微かに残った下弦の月とその僅かな光と昇ってくる曙光を反射する数粒の滴だった。
そして――
俺たちは――
7
「……ねえ……。ねえ……。ねえっ! 起きてよ。悠哉ぁぁぁぁぁぁぁああああああ!」
そんなに叫ばなくても、聞こえてるって。
そう思いながら、俺は瞳を開く。
「……っ!?」
そこに見えたのは俺に傍で正座している和泉だった。
「……!」
俺が目を開いたのを見て、目に滴を溜める和泉。そして、震えた声で彼女は言った。
「……ごめんね…………ごめん……ごめん………………ごめんなさい…………うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
謝罪の声を言って謝る和泉。
その姿は神に懺悔する罪人の様で、その顔は端正な顔が崩れる程、泣いていた。
「……だい、じょう、ぶ」
俺は落ちた時の衝撃であまり大きな声の出ない口で言った。
「……和泉は、明香里は、悪くない。俺が恕す」
「…………ただ、ちょっと、 救急車呼んでくれないか」
俺の右腕はありえない方向へ曲がっていた。
「こりゃあ、複雑骨折かなあ」
痛すぎて、逆に脳がその痛みを遮断したようで、痛みも何にも感じない。
一人愚痴る俺を尻目に彼女は手早く連絡をしていた。焦っていても自分のなすべきことができる。
流石……と素直に思った。
戻ってきた和泉は、てきぱきとこの場で出来る応急処置をしていった。一頻り終わると、急に彼女は堪えていた涙から大粒の涙を出して泣いた。
何と言うか、この身代わりの速さは怖いわ。
ああ、眠くなってきた……。




