堺面×共闘 第六話
堺面×共闘 第五話 「それぞれの夏休み」
葉月 作哉
東京から西へ五百キロ、新幹線で二時間弱にある都市。
遙か昔は政治の中心地であり、数々の動乱を描いてきた都市。
――京都。
歴史的建造物は数知れず、四季折々に見せる様々な京都の顔は一年を通して観光客を招き入れる。
だがそれは世界の二面性を知ること無く生きる者達が抱く幻想。
相反するもう一つの世界を知り、渡り歩くものたち――退魔師は京都という都をこう呼ぶ。
――魔都・京都。
その京都に一人の少女が戻ってきた。
夏休みの期間を魔都で過ごすために。
京都市中心の一画にあるオフィスビルに一人の少女が大きな荷物を肩にかけて歩いていた。
腰まであるブラウンの髪を揺らし、うだるような暑さの外とは正反対の快適なビルを警備品員に咎められること無く悠々と歩いている。
そして行き着いたドアの手前――『会長室』と書かれた前で止まり、ノックもせずに平然と入っていった。
開け放たれたドアの横手には一人の女性が恭しく立っている。
「お帰りなさいませ、薫様」
女性はそう言うと腰も深くお辞儀をする。
そのいつもと変わらない実直な仕草に安堵してか少女――姫川 薫はにっこりと微笑む。
「ただいま、紫穂さん」
紫穂と呼ばれた女性は、顔を上げると薫の言葉に小さな笑みで応える。
黒の髪を結い上げて、顔の化粧はほどほどに、耳に付けた小さな花のピアスが唯一のおしゃれポイントの紫穂は、薫をソファまで案内すると、部屋の奥手――給湯室に入っていく。
薫は荷物を無造作に置くと、旅の疲れと、暑さによる疲れを現すようにソファに背中を押しつけて座る。
「はあ〜、相も変わらず京都は暑いわね」
山々に囲まれた京都は盆地ということもあり、夏は異様に暑く、冬は異様に寒い、久方ぶりの故郷の暑さに薫はうんざりした顔になっていた。
そこへ盆に冷たい麦茶を乗せてきた紫穂がお行儀悪く座る薫に言う。
「申し訳ありません、薫様。使いの者を派遣すれば良かったのですが……」
日本有数のブランド会社――姫川ブランドの一人娘にして、日本最大の退魔師集団――姫川家のご息女という身分でありながら、薫は他人を駒使いにするのは大の苦手だった。
何より他人に頼って生きるというのは苦痛だった。
幼少の頃からある少年の背中を追い続けた自分が強くならなければならない。
そして横に並んで歩くことを望んでいるからこその選択だった。
だがしかし暑さには耐えられなくて、連絡すれば良かったと心中で叫んでいた。
「いいよ、いいよ。少しは京都の様子を見たかったし……」
と言ったものの、ほとんど下を向いて歩いていたことは黙っていた。
麦茶を差し出され、薫はそれを半分以上を飲んでしまう。
「どうでしたか? 東の都は」
落ち着くのを見計らって紫穂は問いかけると、薫はう〜んと唸ってから答える。
「まあまあ、良かったわ。元々、住み慣れた街だしね」
薫は小学校三年までは東京のある街に住んでいた。理由は姫川ブランドが本格的に東京進出するために会長及び社長が京都から離れ、東京での大仕事を完遂するために、もう一つの理由はある家族を守るために。その家族の息子――天宮十流とは幼馴染みの関係であり、そして同じ退魔師であり、パートナーでもある。
「そういう京都はどうなの?」
「それほど変わりません」
肩をすくめる紫穂に薫は窓から差し込む強烈な日差しを見ながら言う。
「魔都――なんて言う汚名はそのままか……」
自嘲気味に薫は変わり映えのしない世界を物憂げに眺める。
この建物の眼下には何一つ変わらず日々を過ごす人々で溢れている。今を生きる現実世界と表裏一体の堺面世界の存在を知らず、人間の心を捕食するために存在する――闇喰いの牙が常に狙っていることなど知らない。
誰の目に止まらなくても良い、ただ流れる日々を守る――それが退魔師。
私が選んだ道。
「そう言えばお母さんとお父さんは?」
この部屋の主がいないことを今さながらに気付いた薫は紫穂に問いかける。
「ただいま会議中です――」
ちらりと腕時計を見つつ、
「そろそろ終わる頃かと思いますが」
ふ〜んと天井を見やると同時に部屋のドアが勢いよく開け放たれる。
「薫!」
野太い声にびっくりして薫は体を強ばらせようとしたが、叫んだ中年の男は猛ダッシュでソファに近づき薫に抱きつく。
「うおおおお、心配したぞ。我が娘よ」
この男性は姫川ブランドの社長にして薫の父親――姫川豪太。娘である薫を一方的に溺愛し、この度の帰郷を心待ちにしていた。
「見ないうちに綺麗になったもんだ。雫にも負けないくらいにな」
「痛い、髭が当たって痛いし、っていうかこれ強制わいせつよ。訴えてやる!」
もみくちゃにされたのを無理矢理ほどき、乱れた髪を整えて、薫は興奮したように叫ぶ。
だが豪太は何故か親指を立てる。
「大丈夫だ、薫。何せ親子だからな」
「全然、大丈夫じゃない!」
感動の対面とはほど遠い剣幕に冷ややかな声がかかる。
「はいはい、そこまでにしておきなさい。あなたも薫に嫌われたくないでしょ」
二人が振り向いた先に、妙齢の女性が立っていた。輝く金髪に、細めの縁なし眼鏡、スーツに身を包んだその姿はモデルも逃げ出すほどに美しかった。
「お母さん……」
「雫……、イタタタッ」
この部屋の主にして、姫川ブランドの会長そして、姫川家の現当主――姫川雫は、夫である豪太の耳を引っ張って自分の後ろに下げると、薫と久しぶりに対面する。
薫もソファから立ち上がると少し緊張気味に帰ってきた旨を伝える。
「ただいま、お母さん」
「お帰りなさい、薫。東京はどうだった?」
覗き込むような視線に、一旦は逸らすがしかし大きな瞳で自信を持って返す。
「とても良かったわ。東京に行って教える事が多かったけど、教わることもあった。だからとても有意義だった」
目を細めて雫は満足したように頷いた。
「そう、だったら私もあなたを東京に行かせた甲斐があったわ」
嬉しくなって思わず薫の頭を撫でてやった。女の子から女性へと変わりつつあるが、親にとってはいつまでも子供だと思い知らされる。
薫も恥ずかしそうに、でも嫌がること無く親の温もりを感じていた。
雫は手を止めると、そう言えばと後ろに下がった夫を見やる。
「この人も結構、心配していたのよ。毎日、毎日、薫が心配だって叫んでいたんだから……」
言われた本人は恥ずかしげもなく拳を握って言う。
「だってそうだろう。東京と言えばどんな悪い奴がいるかわからないだろう。もしかしたら薫が危険な男にたぶらかされて、騙されるかもしれないだろう。そう思うと一睡も出来なくて……」
ハンカチを取り出して目頭を拭く父親に薫も雫もあきれ果てる。
雫は窓際にある自分の机に向かうと、高価な黒革のイスにもたれかかる。
「大丈夫よ、あなた。薫が男に関して異常な敵愾心を持っていることは知っているでしょう?」
「そうよ、古今東西、男は信用できないもん」
薫はある時期に男という生き物に強い関心を寄せていた。日増しに父親の愛情が疎ましく思うようになった時期と重なり、周りの――特に大人の女性から情報を得ていた。会長秘書を務める紫穂にも何度か聞いていた。さらに研究のためと見ていたドラマが女性を取り巻く三角関係という子供の養育として問題だが、それを熱心に見ていた薫は男に対して嫌悪感すら抱くようになっていた。本人による過大な誤解を多分に含んでいるが、とにもかくにも薫は男性に対して壁を作って接するようになる。
だがある少年に対しては例外を設けている節があるのだが。
その事を見透かしたように雫は言い放つ。
「それに東京には十流君がいるでしょ。薫に言い寄る男子なんていないわよ」
手をパタパタ振りながら何気に発した言葉に薫と豪太はぴくりと肩を揺らす。
「十流君か……」
低く呟いた豪太はすっと親指を立てる。
「なら父さんはオーケーだ。十流君なら薫を任せられる」
でしょう、という妻からの同意の言葉を娘が遮る。
「待って。何で十流なら良いのよ!」
「何でって、別に全くの他人でもあるまいし、小さい頃の彼とは何度か遊んだ仲だしな。もう息子のようなものだ。それに聞くところによると薫は十流君をパートナーにしたそうじゃないか」
「そうだけど、それは退魔師としてのパートナーであって、人生のパートナーにした覚えはないわよ」
堰を切って反論する薫に豪太は当然のように言い放つ。
「十流君ほど誠実な少年はいないだろう。父さん、薫が十流君と付き合うのなら応援するぞ」
「だ・か・ら、違うの! 第一、十流はお父さんが思うほど好青年じゃあないわよ。ネクラだし、ネガティブだし、オタクだし、悪い所ばかり目立つわよ」
遠い東の地で三回、咳をした少年をよそに薫はぶつぶつと文句を言い連ねる。
雫はそれが可笑しくて、目を細めて見ていたが、十流を気の毒に思い始めた。彼の威厳を助ける意味で雫は言う。
「でも薫――」
「何?」
「駄目な男も女にとっては魅力的に映る場合もあるのよ。ねえ、あなた……」
「はあ、そうですね……」
雫の凄みをきかせた視線に豪太は身も心も萎縮させてしまう。
薫もその含んだ嘲笑を浮かべる母親を凝視する。
「薫の言うように全く取り柄の無い十流君を見て、何とも思わない人もいるし、その逆に無いから引かれるという人も世の中にはいるものよ」
「そんな人いるわけ……」
先程の威勢はどこへやら薫は次第に神妙な顔つきになる。
「男が駄目だと逆に私がって燃える女性もいるのよ。私が支えるって人が現れるかも……」
「そんなの駄目!」
突然、薫は耳をつんざくような叫びを上げていた。ほんの少しばかり瞳を潤ませている。
「駄目よ、絶対に駄目! 十流は私が――」
途端に言葉が上手く出てこなかった。口籠もり視線を床に泳がせる。
場の空気が和やかなものから冷ややかなものに変わり、そして耐えかねて薫は部屋を出て行こうとする。
「どこへ行くの?」
「外に行く」
「夕方までには戻ってきなさい。久しぶりに家族で食事をしましょう」
薫は何も言わず首肯で返して、早足で部屋を出て行ってしまった。
しんと静まりかえった室内では紫穂が空になったカップを下げていた。
ややの沈黙を豪太が破る。
「君も案外、いじわるだな。薫が十流君のことをどう思っているのか知っているくせに」
問われた本人は眼鏡のつるを上げて、悪戯っぽく笑う。
「まあね。でも薫も煮え切らないところがあるからつい……ね。今の所は愛情というよりも親愛の方が強いかしら。それがどう転ぶかまた見物だけど」
「だから薫を十流君と同じ学校に通わせたのか。彼を退魔師にするために」
薫の前で緩んでいた顔が一転、引き締まった、そしてやや緊張を伴った顔で問いただすが、雫は肩をすくめるだけ。
「それは深読み過ぎよ。私だって十流君が退魔師になるとは思っていなかった。だけど可能性は大いにあった。なんせあの刹那の息子よ。退魔師の資質が無いこと自体が問題よ」
イスから立ち上がると豪太の元へと寄ってくる。
眼鏡越しからの視線を受けて豪太は身をよじる。
「退魔師の道を選んだのはあくまでも十流君の意思。丁度、あなたが私を選んでくれたようにね」
「むっ、それはそうだか……」
甘く、誘惑の香りが鼻をくすぐる。思わず顔を背けようとしたが雫の指が顎に当てられ無理矢理、顔を引き寄せる。
「今は二人を見守りましょう。そしてどんな未来を描くのか……。ふふっ、楽しみだわ」
豪太は雫の妖しい笑いにごくりと生唾を飲み込んだ。
京都中心街より外れた郊外に一棟の病院が建っている。
姫川家御用達の病院で負傷した退魔師がお世話になる。そして闇喰いに襲われ、心に重度の障害を持った人が収容されているのもこの病院。
一人の少女がリハビリのため、松葉杖無しで歩こうと、廊下の壁に寄りかかっている。
う〜んと小さく呻きながら、両足で立ち上がり、一歩、さらに一歩、足を踏み出していく。
だが震える足に力は入らなくなり、バランスを崩してしまう。
「あっ……」
廊下に打ち付ける覚悟をした途端、誰かの腕が体を支える。
「大丈夫? つぼみ……」
「あっ、薫……」
見知った顔に安堵して、つぼみは大きく息を吐く。
「ありがとう……」
「無理しないで」
姫川薫と野井原つぼみ――、久しぶりの対面に二人の顔は綻ぶ。
「いつ京都に戻ったん?」
「今日よ。厳密に言えば数時間前だけど」
二人は廊下に備え付けてあったソファに座ると、近況を話始める。
野井原つぼみ――、薫が幼い頃、東京から京都に戻ってきた時に親友となった少女。
だがその心には長年、闇喰いを抱え込み、あるきっかけでその闇喰いは野井原つばみから脱皮してしまう。以来、薫はつぼみを救うため、闇喰いを追いかけて、パートナである十流と共に討ち果たすことができた。
心を取り戻しても野井原つぼみは一年以上を病院のベッドで過ごしたため、日常生活を送るにはまだ準備が必要だった。先程の歩行訓練もその一つ、だが少しずつ彼女は日常を取り戻しつつあった、
「八月一杯で退院だっけ」
「せやけど、まだ遠いな。歩くのもやっとやし……」
力の入らない足をばたつかせてつぼみはぽつりと呟く。
「それに退魔師の事も全然……。ほんま才能あるのかな?」
野井原つぼみは退魔師の資格である魔力の発現は認められた。そのため九月の退院を機に退魔師になるための鍛錬があるのだが、本人はまだ実感が沸かない様子だった。
つぼみは顔を伏せて、それから少し顔を綻ばせて笑顔になる。
「でもあきらめへんよ。せっかく生まれ変わったんや。今は前を向いて歩くだけや」
太陽に向かって花開くひまわりのような笑顔に薫は意表を突かれた。
「どうしたの? 急に……」
「うちが意識を取り戻した後なあ。何だか暗く沈んでいた気持ちがすっ飛んでいったような感じがしたんよ。それ以外に、両親にも想いの丈をぶつけた影響かもしれへん。過去を振り返るのでは無く、前へ歩きださんといけへんと思ったんよ。それにうちには魔力っていう特別な力がある。神様が与えてくれた新しい道を歩く力のような気がしてなあ」
野井原つぼみはしっかりと前を向いて決意を話していた。今までの内気な女の子では無い。本来のつぼみはもっと前向きな子だったのではないかと薫は考えた。
「薫には助けて貰った恩がある。それを返していくためにうちは頑張らへんと」
「そんなこと……」
「それともう一つ。十流君にもちゃんとお礼言わなあかんと思ってるのよ」
「ええっ、十流にお礼? いらん、いらん、そんなんいらんって」
十流の名前に薫はぎょっとし、口調も地元モードになってしまった。
「何をそんなに驚くん? 薫の話だと一緒にうちを助けてくれたのは十流君なんやろ? 一度会うてお礼を言わんとなって思っているんよ」
「お礼なら私を通して言えば……」
「だって薫ったら、メールでよく十流君の話するやろ? どいう人か興味沸いてな……」
えっと、あの、と声にならないほど薫は詰まっていた。
これがてんぱっているっていうのかしら。何て言えばいいの。
「きっと優しい人なんやろな……。ほんに一度、会いたいわ」
つぼみの中で十流の評価が急上昇中――、どうしてこうなった?
顔を赤らめて言うつぼみに薫はしばし、言葉を失った。
薫は京都の街を憤慨しながら歩いていた。つぼみと別れた後、京都の街に戻ると薫はじっとりとした暑さに、額には汗がにじみ出ているがそんなことはお構いなしに人垣をかき分ていた。
(まったく。どうしてウチの両親は十流のこと過大評価するのかしら。それにつぼみまで……)
薫だとて春に再会するまでは希望に満ちあふれていた。母親に倣って剣道にうちこみ、なんだかんだで自分の手を引いてくれた幼馴染み。
だが実際に会ってみるとこれが幻滅レベルどころではなかった。
人付き合いは悪いし、友達もいないし、覚えが悪いし、退魔師としても半人前以下だしと悪い所を上げようと思えば切りが無かった。
(だけどお母さんの言う通り、十流にだって良いところあるんだから)
ここ最近になって十流も男の子から男へと変わりつつあると感じていた。
普段の十流よりも戦っているときの十流は何倍も生き生きしている。
正義感に燃え、必死に守るために戦う姿は見ているこっちも勇気づけられる。
ついこの間も自責の念に潰され戦えなくなった自分を十流は守ってくれた。そしてもう一度、剣を握る力をくれた。
(それに……それに……、おっ、お姫様抱っこまでしてくれたし……)
全くの不本意な形だが生まれて初めて異性にお姫様抱っこされた。常とは違う角度と近さで真剣な十流の表情を眺めているうちに心が揺さぶられたのは確かだった。
(でもあれは不可抗力よ。自分から望んだ訳じゃあなくて、仕方無く、そう仕方無く……)
思い返す度に頬が熱くなってくる。
人目もはばからず薫は首を振ると、ブラウンの髪は大きく揺れた。
「こういうイライラした時は甘いのが一番。でも暑いし、かき氷にしようかな」
などと想いを馳せつつ、奇妙な視線が自分を見ている事に気付く。
あれで隠れているつもりなのだろうか。薫はふうと一息、息を吐くと早足で歩き始める。
視線は薫の後を追ってくるが薫は気付かないふりのまま歩き続け、急に裏路地へと入る。
「せーのっ!」
誰もいないことを確認すると足裏を爆発させて跳躍し隣の雑居ビルの屋上へと降り立つ。
コンクリの床からは照り返しの暑さが体につきまとう。
薫は腕組みをして、来訪者を待っていた。
「来たわね……」
薫から遅れること一分後、ビルの屋上に一つの影が舞い降りた。
「薫様……、どうしたんですか? いっ、いきなり速く動かれると追いつけなくて……」
おどおどした物言いを裏付けるように、その女性は腰が引けたような体勢で薫に話しかける。
振り返る薫は重く、暑い吐息を漏らす。
「未穂……。あなた、私の護衛ならちゃんと付いてきてよ。っていうか気配が丸わかりよ。遠くで護衛するならせめて気配は消して」
自分よりも十歳は年上の未穂に対して、薫は容赦なくため口で話す。
「気配? 消したつもりですけど……」
「いやいや、消えてないから……」
右手をパタパタと振る。実は彼女の気配は姫川ブランドの社屋を出てから感じていた。なにより自分の挙動をつぶさに見ていた視線は、太陽の光より痛い。京都にいる際は、特に外出するときには遠巻きに護衛が付くきまりになっていたが、これではストーカーと何ら変わらない。
「あなたの祖先は確かくノ一だったかしら?」
「ええ、そうですよ。早乙女家は代々、くノ一の家系ですから」
早乙女未穂は大きめな胸を張り誇らしげに言うが薫は呆れ果てる。
「今頃、ご先祖さまがお天道様の上で泣いているわよ」
そうですか〜?、とまるで反省のない様子に肩はがっくりと落ちた。
「もういいわ。護衛するなら隠れなくて良い。むしろ側にいてくれた方が楽だわ」
「ええっ? 良いんですか。でもその方が私も護衛しやすいです。何しろ薫様は動きが速いから……」
論点はそこじゃあないんだけどなあ、薫は心中で呟き、やむなく護衛――早乙女未穂を連れて京都の街を歩くことにした。
薫は鴨川沿いに上流へ向けて歩いていた。
暑いですね〜。何か飲みませんか?」
チェニック姿の未穂は緊張感の無い声を出しながら薫を様子を伺う。
「そうね。どこか喫茶店でも入ろうか? 私、かき氷食べたいし……」
確か祇園の近くには落ち着けるカフェがあるはず。
「良いですね。私、宇治金時が食べたいです」
「私はイチゴかな……。でもメロン味も捨てがたいし」
未穂の護衛行動そのものには問題があるが、こういう人当たりの良い部分は薫にとってはむしろ心地よかった。これがただ無口で後ろから付いてくるだけだったら精神的にまいっていただろう。
辺りを見渡し、喫茶店を探して視線を上に上げた途端、妙な気配に動きが止まる。
「薫様。これは!」
未穂も感じ取ったのかやや緊張気味に辺りに視線を送り気配を探る。
「闇喰い……、それに闇の使いもいるわね。それにしてもこの辺りに充満するような気配……。嫌な予感がするわ」
「どうしましょう……?」
「どうもこうも防人隊が来るまで私達が応戦するわよ。位置からして私達が一番、近くにいる」
それ以上、続けるのも面倒で薫は一目散に駆け出していた。未穂も驚きながらも薫の後をついてくる。
「こっちか」
薫は急に建物の間にある細い道へと入る。二つの建物の影に遮られたその細い道には人の姿は皆無だった。そのことを確認し薫は右手を差し出すと異世界への門を開く。
くぐり抜けた先――堺面世界へと入ると走る速度を速めて道を進む。
人の波を気にする必要も無く、ひたすら走った先には四条通がある。ガードレールを跳び越え、普段なら四車線ある道路には車がひしめくがこの堺面世界に車はない。薫は堂々と道のど真ん中で仁王立ちする。
気配は依然として前方から押し寄せてくるが敵の姿は視認出来ない。
相貌が鋭くなり、戦いの気配を感じて総身に力が満ちてくる。
「薫様〜」
気の抜けた声を発しながらようやく到着した未穂は、薫と同様に気配のする方向へと視線を投げかける。
現実世界と異なり、暑い光を放っていた太陽は黒い雲に覆われ、街の喧騒は静寂に包まれて人の気配は無い。この堺面世界は退魔師と闇喰いが交錯する場所。日常から切り離された非日常がここにある。
「かっ、薫様。気配が増えているような……」
「わかってる。でも久々だわ。この感覚……。東京ではこんな大人数の気配は感じなかった」
薫達が感じていた気配は点ではなく辺りを包むようなものだった。すなわち闇喰いと大多数の闇の使いがこの京都に現れたことを指す。
「直前まで気配は感じなかった。潜んで準備をしていたか、もしくは姫川家の警備網をかいくぐるため……」
シャラーンと金具による音が辺りに反響した。
その音と共に現れたものに薫は緊張の面持ちで見つめる。
暗がりの道から現れたその姿はわらじを履き、真っ白な鈴懸を着て錫杖を手に、編み笠を深く被っている。
「山伏……」
隣で未穂が呟く。だが目の前にいるのは人間では無い。
また一つシャラーンと錫杖の鳴る音がするとさきほどの山伏の隣に同じ姿の山伏が現れる。
さらにもう一人、二人、三人と山伏の数は増えていく。
道路を埋め尽くすように山伏達は横に並び、縦には幾重にも列をなしている。
それはまるで白い壁のようであり、黒の世界を塗り替える白の集団ともいえる。
気配から闇喰いではなくその分身体――闇の使いであることはわかったがその数に薫の頬に冷たい汗が滴り落ちる。
「薫様〜、どうしましょう……」
この後に及んで何をと思いつつ、薫はひたすら冷静に状況と打開策を考える。
「この数に、気配に防人隊が気付かない理由が無い。私達だけではどうにもできないけど、時間は稼ぐ事は出来る。私とあなたとで何とかするしか無い」
「そっ、そうですね。防人隊が来るまで頑張ります」
ちらりと横顔を見れば、無理矢理に不安を押し殺したような顔をしている。現場慣れしてないのか、だが彼女もいっぱしの退魔師である、ここは本当に頑張ってもらうしかない。
薫は左腕はピンと横に伸ばし、そして叫ぶ。
「おいで! 桜花」
空間を超え、白塗りの鞘に納められた一振りの刀が現れる。それを左腰に当てるとホルスターからベルトが伸び、腰に巻き付く。
右手をうなじに持っていき、ブラウンの髪を掻き上げると、一瞬にして金色へと変わる。混沌の世界に咲く一輪の花のように、金色は鮮やかに映えていた。
右手を柄へと伸ばし、引き抜くとすっと中段に構えをとる。
その姿に未穂は声を上げる。
「薫様〜。かっこいいですぅ」
目をらんらんとさせる彼女に薫は叱責の言葉を送る。
「何みとれてんのよ! 早く武器を呼んで、そんで構えて」
「はっ、はいぃい」
そう言って未穂は左手をかざす。
「来て下さい。青燕!」
虚空より出てきた一振りの刀はホルスターに吊られ、自動的に腰に巻き付いていく。鞘は腰の位置で固定され、未穂は青燕を引き抜く。刀身は短く、脇差しに近い。青燕を逆手に持ち、緊張の面持ちで前方の山伏の集団を見やる。
薫達と山伏の集団の距離は百メートルあるかないか。薫は小さく口を動かし、術式発動の準備を整える。未穂はベルトに吊られているポーチを開けて中からクナイを取り出す。
一瞬の静寂に包まれて、その均衡を薫が破る。
「業火将来! 乱れ撃ち」
数十個の炎弾が一気に生み出されると、それらは狙いを定めないで解き放つ。
辺り一面に響く、着弾の音と、煙を引き裂いて、山伏の集団は一斉に薫達めがけて疾駆する。
「はっ!、たあっ!」
未穂の放ったクナイが見事に山伏の額に当たり数体が倒れ伏すが、しかし集団はかなり迫ってきていた。
「未穂。深追い厳禁だがらね」
「はい!」
注意を促し、薫は再び詠唱に入るが、山伏の一人が錫杖を上段に構えている。
「はっ!」
横薙ぎの一撃はがら空きの腹へと直線を描き、山伏は消滅する。
その後ろから、周りからの追撃をバック転で後方へ下がると術式を放つ。
「大地よ、氷結せよ!」
手を地面に付けると、灰色の道路に氷が伝っていき、その上にいた山伏達は足元から凍りづけにされて身動きがとれなくなる。
そこへ桜花による斬撃が敵を難なく沈めていく。
しかし、敵のうねりは止まる事を知らない。
「未穂は!」
視線を横手に移せば、未穂は山伏に囲まれながらも何とか立ち回りをして、一体ずつ確実に倒している。
だが、
「数が多すぎる!」
東京に居たときも、多数の敵と戦ってきたがこれほどの数はなかった。そしてこの数の闇の使いがどこに潜伏していたのか。
考えられるのは観光客の中に闇喰いを宿した者がいるということ。時を見計らって闇喰いは人を襲うことにした。人間という食料はこの都にはごまんといる。
魔都――、その名が示すとおり、この京都は闇喰いにとって最高の狩り場なのである。
姫川家は京都を守るため、防人隊と呼ばれる部隊を街に多数配置している。防人隊の目的は京都の警備ならびに闇喰いの討伐。故にこの混乱も彼等はすでに感づいているはずだが、その姿は今だに見えない。
薫は側にあったビルの外壁を駆け上ると、詠唱していた炎弾を放ち、爆砕させる。
着地と同時に群がる山伏達を回転による斬撃で一掃する。
靡く金髪を払って薫は周りを見渡す。
「きゃああああ!」
甲高い絶叫に、顔を向ければ未穂は地面に倒れ、武器は遠くに飛ばされている。
「しまった!」
すぐ側まで迫っていた攻撃を避けて薫は、全速力で走る。
「距離を空けすぎた」
うっかりというよりもまさか、という言葉が合っていた。深追い厳禁と言ったのに自分が敵に近寄りすぎたのだ。
ふと脳裏に東京にいるパートナーこと十流を思い出していた。
十流と一緒に戦っていた時は相手との距離感は感覚で掴むことが出来た。付かず離れず、その微妙な距離、ここにいるであろう、という考え、それは違和感なく出来た。
だから未穂は自分の近くで戦っているだろうと思い込んでいた。
ところが自分が先行しすぎてしまい、彼女を孤立させてしまった。
「間に合え――!」
振り下ろされる錫杖の網を掠らせながらも薫は必死に未穂の元へと駆ける。
未穂は牽制でもなんでもいい、クナイを投げようとするが持つ手が震えて思うように掴めない。
「あわわわ、何て、震えて――」
もたついている間にも山伏は眼前に立ち、影で未穂を覆う。
「あっ……ああ……」
錫杖が高く振り上げられ、そして死の一撃が振り落とされる。
ドガアッ、という鈍い音は道路を深く陥没させただけだった。
山伏が不審に思い、左右に首を振れば薫が未穂を抱いている。
「はっ」
薫は山伏の顔がこちらに向いた瞬間に桜花を走らせ、顔を横に両断する。
「あっ、ありがと……」
顔を強ばらせて未穂はお礼を言おうとするが、薫はそれを制する。
「お礼を言うのはまだ早い!」
怒鳴られて未穂は視線を薫から周囲に移すと、すでに山伏達に囲まれていた。
その上、薫は未穂を抱えたまま、座り込んだ状態になっていた。
(まずい! 退くにしても彼女を抱えては。ええい、やぶれかぶれの攻撃で……)
一斉に錫杖が振り下ろされる間際、薫は片腕でしかも姿勢がままならない攻撃を仕掛けようとする。
途端、
ビシャアアアアアアッ――。
一条の光が、目の前に降り注ぎ、一瞬の閃光の後、そして轟音。一体の山伏の体から小さな煙が上がっていた。着ていた服も至る所がこげており、やがてボロボロと体が崩れていく。
「この術式は……まさか?」
逡巡し、見つけた気配を頼りに振り返るとその人物は信号機の上に屹立していた。
黒の髪を結い上げて、顔の化粧はほどほどに、耳に付けた小さな花のピアスが唯一のおしゃれポイント。
「紫穂さん……」
姫川雫の秘書にして、
「お姉ちゃん……」
早乙女未穂の姉――早乙女紫穂は、公然と見下ろし、右手に術式を展開させる。
薫を守るように幾重の青白い光が天より降り注ぎ、闇の使いたちを灰にしていく。
怯んだ闇の使いは徐々に薫から距離を離していく。
すると――、
ふっと早乙女紫穂が薫と闇の使いとの間に割って入る。
(速い!)
薫が驚くのも無理はなかった。先程まで信号機の上にいたのに、何の前触れもなく紫穂は眼前に現れたのだ。
紫穂は背中にかけている一振りの刀を抜くと、すっと左から右に振る。たったそれだけで数体の山伏は消滅した。
「大丈夫ですか? 薫様」
肩越しに紫穂は薫に問いかける。感情も何も無い、事務的な言葉だか、常と変わらない物腰が逆に安心を与える。
「こっちは大丈夫。でも気を付けて、敵が多いわ」
予想外の救援にも薫は浮き足立つことなく、努めて冷静に状況を説明する。
自分と早乙女姉妹を入れても三人、どうする。
だが薫の考えを予期していたように紫穂は視線を前に向けたまま言う。
「ご安心を。すでに包囲は済んでおります」
「えっ?」
薫と未穂は思わず、頭を巡らせる。
そして見つけた。姫川家の防人隊とおぼしき人間が、道路の両脇の建物――屋上に陣取っている。
各々が武器を持ち、あるものは術式の詠唱に入っている。
紫穂は大きく息を吸い、辺りに木霊するような大声を出す。
「各員に告ぐ! 敵は残さず殲滅。薫様に指一本触れさすな!」
『はっ!』
そして数十の炎弾が建物の屋上から降り注ぐ。
炸裂音が響く中を、今度は手に武器を持った隊員が降り立ち、自分に近い山伏を次々に倒していく。
「すごいですねぇ〜」
緊張感の無い未穂の言葉に薫はさも当然と言った顔つきになる。
「さすが防人隊。連携がすごいわね……。唯一の不満はもっと早く来れなかったのかしら?」
憮然と見つめる中、敵の数は時間を負う毎に減ってきている。
「薫様、しばしお待ちを。すぐに片付けて参ります」
まるでカップを片付けるぐらい簡単だと言わんばかりに紫穂は前へと歩き出す。
自分も、と思い桜花を握りしめて、しかし行くのを止めた。
「悪いけど甘えさせて貰うわ」
未穂の事も心配だったが何より紫穂の戦いをこの目で見ることが出来る絶好の機会である。
普段の彼女は会長の秘書として日々をほとんどオフィスで過ごす。そのため前線で戦う姿は滅多に見ない。だが戦えば一騎当千の実力を発揮し、幾度の功績を挙げてる。
炎弾から、防人隊から逃れた闇の使いが紫穂を襲うとするが、その前に、横に二つの切れ目を入れられてしまう。仲間の消滅に怯んでいる隙にもう一体は、上と下から切り裂かれてしまう。
「女流剣士最強……か。刹那さんの元部下っていうのも頷けるわ」
薫のパートナー、天宮十流の母はその昔、『紅き閃光の刹那』と呼ばれ、退魔師の間では伝説上の人物として語られている。早乙女紫穂は刹那の部下で、その戦いをつぶさに見てきた生き証人でもある。
だがそんな紫穂でさせ、
――私が一回、斬っている間に、刹那様は五回は斬っています。
どれだけ速く、強かったのよ。
薫は紫穂の戦いを見ながら、自分が尊敬し、憧れる女性に思いを馳せていた。
私もいつかあの人のように。
もっと強くなりたいと願った。
紫穂を取り囲むべく山伏達は距離をじりじりと詰めているが、刀の間合いに入らないように慎重に距離を保っていた。
それならばと紫穂は右手を引き、刀を天にかざすように持つ。
「八相の構え、それにしても体から距離を離しているような。まさか?」
薫は紫穂の構えと、異様な気配からあることを連想する。
「魔技……。紫穂さんの魔技を見られるなんて」
薫は興奮を隠せずにはいられなかった。
魔技とは術式を使うのが不得手な剣士が使う、世に言う必殺技に位置する。薫は退魔師のうち剣士の部類になるが、才能ゆえか術式もそつなくこなすことが出来る。そのためか薫は術式の取得に傾倒し、魔技の習得をおろそかにしていた。京都に戻ってきたのはただの里帰りではない、この魔技を自分のものにするために戻ってきたのだ。
「我は雷……、主君に仇なす者を討つ!」
紫穂の待つ刀身にバチバチと音が鳴り、不規則な光の波が纏わり付く。周囲を照らすほどの光量になり、力の余波が紫穂の周りに拡散していく。
「紫電一閃!」
大きく振りかぶり、左から右へと一線を引くと、光の刃は敵をなぎ払い、まったく無警戒な闇の使いすらも刃の餌食としていく。当たったものは痛みすら感じることなくただ消滅していく。おそらく一撃で十体以上を倒しただろう。
紫穂はまだ帯電している刀を手に前へと前進していく。
「あれが魔技……。絶対に習得してみせる」
天宮十流は一つだけだが魔技を使うことができる。初めは十流の成長を喜んでいたが、次第に焦りが募り始めていた。
ようやく横に並び、追い越したのに、また追い抜かれるのではないか。
退魔師としての経験なら自分が上である。だがそんなものがいつまでも誇れるわけではない。 絶対に追いつかせない――。
もう背中だけを見るのは嫌だ。
肩を並べて歩いて行きたい。パートナーとして。
戦っている訳では無いのに桜花を握る手はより一層強くなっていた。
紫穂達が現れて十分足らずで闇の使い及びその親たる闇喰いは倒された。
負傷者はいないこと、現実世界における被害も無いことを防人隊から訊くと薫は安堵した様子で桜花を鞘に納める。
「良かったですぅ」
隣に立つ未穂も怪我もなく、同様に安堵した顔をしている。
そこへ紫穂が二人の元へと歩み寄ってくる。
戦いの後だというのに疲れを微塵も感じさせない。それでいて常の実直な顔をしている。
「紫穂さん」
「お姉ちゃん、ありが――」
パアアンという音に薫は何が起きたか理解することが出来なかった。音のした方、未穂を見れば、左頬を押さえ、きょとんとした目をしている。
「えっ?」
未穂はようやく自分が叩かれたことを実感する。
叩いた相手――紫穂は、目を吊り上げ、口元がわなわなと震えている。
「あなたは! あなたは何をしているの?」
穏やかなそして事務的な言葉では無く、感情の困った怒声に薫も未穂も呆然と立ち尽くした。
「薫様を守る立場にいながら、薫様に守られるとは」
怒りに満ちた紫穂に睨まれながら、未穂は恐怖を押さえ込んで何とか言葉を紡ごうとする。
「だって、私だって……、がんばって……」
「言い訳なんて聞きたくない。早乙女家の使命は主君たる姫川家を守ること。それが出来ないのなら退魔師を辞めて、里に帰りなさい」
それはちょっと言い過ぎでは、と薫は思い、口を開こうとして、横目で光る何かがぽたりと落ちたのを見た。
それは未穂の涙。
体全体が震え、ぎゅっと閉じていた口が一気に開く。
「お姉ちゃんなんて大っ嫌い!」
未穂は踵を返すと、全速力で紫穂の元から離れ、現実世界へと戻って行ってしまった。
「え〜と、あの、その」
一部始終を見ていた薫は紫穂と走り去った未穂の方角を交互に見てやがて踵を返す。
「紫穂さん、その、ありがとう。後は任せて」
「……」
どうすれば良いのか何て検討は付かないが、未穂を放っておく訳にはいかない。
(それに本当は紫穂さんも……)
別れ際に見た紫穂の顔は、困惑し、そして後悔しているような複雑な顔をしていた。
初めてかも知れない、紫穂さんが感情を誰かにぶつけるのを見るのは。
やがて薫は路地裏に入ると、現実世界へと戻っていく。
薫は未穂を探し、京都中心街を歩き回っていた。
人の多さと暑さと、かき氷を食べ損ねた三重苦に喘ぎながら薫は未穂の気配を探る。
「何で私が護衛の人を探すはめになるのよ。普通、逆じゃない」
ぶつぶつと文句を言いながら薫は、中心街を離れつつ、鴨川沿いへと出てきた。
建物が少なくなり、多少なりとも風通しが良く、薫はほっと一息入れる。近くの自動販売機でお茶を買うと、それを飲みつつ鴨川に沿って歩き出す。
「早乙女家の使命か……」
早乙女家は姫川家と同じように退魔師の家系にあたる。古くから姫川家に仕え、生活においても戦いにおいても姫川家を支えてきた。特に早乙女家の女性達はほとんどがくノ一と呼ばれる忍であり、隠密活動と情報伝達能力は優れたものがあり、現代のように携帯電話もインターネットも無い時代においては彼女たちの力は大いに重宝された。
時が移り、くノ一という存在が薄れても培われた技量や技術は受け継がれ、今もなお早乙女家は姫川家を支え続けている。
「姫川家だけでは京都は守れない。多くの人の助けが必要。もちろん未穂だって」
言いかけて次の言葉がまったく頭をよぎらなかった。
「未穂だって良いところがあるはずよ。あの十流だって良いところがあるんだから」
根拠の無いことを思いながら鴨川を眺めると、川辺に見知った人物が座り込んでいた。
「未穂……」
足を抱えて、ひっく、ひっくと体を震わせる彼女を現地の人及び観光客が好奇な顔で見て、だが何も言わずに去って行く。
「何だかシュールな画だわ。しかも人目に付きすげ居ているし――、ああっ、もう」
薫は今日、何度目かの悪態をついて未穂の元へと駆け寄った。
鴨川の土手に降りると、遠くでは川沿いのお店から川床が出ていて、多数のお客が川の景色を堪能している。
その鴨川沿いに座り込む早乙女未穂は足を抱き寄せて顔を伏せている。
「未穂……、未穂さん……。あのですね」
薫は覗き込むように未穂へと近づいていく。
瞬間、ガバッと振り返った顔にドン引きする。
「か……お……る様……」
未穂の顔は形容しがたいほどくしゃくしゃになっている。目尻は下がり、目から涙が滝のように流れ、頬は赤く腫れ上がっている。
「えっと、その」
酷い顔と心中で思いながら、ふと思った。
泣き虫な自分もきっとこんな顔になるんだろうなとしみじみ思う。
泣いてる時なんて自分がどんな顔をしているかんなんて考えもしない。こうやって他人を見て改めて思い知らされる。
(十流はいつもこんな顔を見ていたんだ。今なら十流の気持ちが分かる気がする……。十流、ごめん。この場に居ないけどとりあえず謝るわ)
十流のみならず他の人もこんな顔をされたら対応に困るだろう。
とりあえず薫は余分に買っておいたペットボトルを渡す。
「とりあえず飲んで、落ち着いて」
未穂はそれを受け取ると、ぐびぐびと半分以上を一気の飲み干してしまう。
「あいがとうごじゃいます。薫様……」
言語はまだおかしいため薫は未穂が落ち着くのを待つことにした。
いつの間にか太陽はだいぶ傾いているが、光はなおも厳しい。瞬間の吹き抜ける風は熱い体には心地よい。
やがて弱々しく未穂が口を開いた。
「本当にすいません。薫様。先程の戦いでも薫様の足を引っ張ることになってしまって」
「いいの。いいの。私だってまさかあんなに闇の使いがいると思わなかったし。ポジション取りも甘かった私にも責任があるわ」
あの戦闘での誤算は、敵の規模と二人の連携にあった。闇喰い達が出現した時点でろくな情報も無しに戦闘に飛び込んでしまった。時間をかければあるいはもっと対策を講じることは出来たはず。もう一つは未穂との連携不足だった。これは東京にいたころの癖としか言いようが無い。戦況を見なくても感覚で戦っていたこと、それ自体は悪いことでは無いが今のパートナーは未穂なのである。十流と同じような感覚で望めば彼女が孤立するのは自明の理だった。
「でもお姉ちゃんの言う通り、私は退魔師に向いていないんです。ドジっていうか、何て言うか、頑張っているのに周りの人に迷惑かけてばかり。この前も小隊長に怒られました、鈍くさいって」
虚ろな瞳で語る未穂に薫は何も言い返せないでいた。
確かに彼女の戦績はあまり良くない。この性格のため、自分がという意識はなく、周りに何とか付いていくのが精一杯なのである。故に集団の中では生きることは出来なくて、今は防人隊の中でも前線部隊ではなく、補給や情報集めなどの雑務係となっている。
(それで何で私の護衛役なのかは不思議なんだけど。もしかしてこれもお母さんの計らいってやつかしら)
正直に言って薫は未穂のことを嫌いでは無い。むしろ好感すら持っている。彼女の屈託の無い接し方、上下関係を感じさせない言葉使い、紫穂とは対極にいると思っている。
「私、夏が終わったら、薫様が東京に戻ったら、里に帰ります。その方が良いです」
「ちょっと、それはいくらなんでも」
抗議の声に未穂は首を振る。
「良いんです。お姉ちゃんもそれを望んでいるはずだから……」
その言葉に薫はかちんときた。
お姉ちゃんが望んでいるから。
じゃあ、あなたはどうなのよ。
「未穂……」
薫はすうっと立ち上がり、ものすごい形相で未穂を見下ろす。
「薫様……」
何をされるのか想像するだけでも恐ろしく未穂は身を強ばらせる。
「未穂! 私と特訓よ」
「へっ、えええ?」
薫は未穂の片手を握り、強制的に立たせる。
「人間誰しも、いいえ、古今東西――人間には悪い所もあれば、良いところもあるのよ。未穂だって紫穂さんに負けない部分があるはず。ううん、絶対にある」
何の因果だろうか。
東京では十流の世話をし、京都では未穂の世話をしなくてはいけないとは。
ただこのまま黙って見過ごすことも出来ない。
「実は私が京都に戻ってきたのは退魔剣士として必須の魔技を習得するためだったのよ。だからあなたも私と一緒に特訓して紫穂さんに良いところを見せてあげなさい。『お姉ちゃん、私は強いんだ』、って言えるように二人で頑張ろう」
「お姉ちゃんに見てもらう?」
薫は首肯で返す。未穂のがんばりの成果を見て貰えれば紫穂の考えも変わるはず。
「いくわよ。『アカデミー』へ!」
八月の初旬を迎え、まだまだ暑さが厳しい京都。
中心地より北側、山沿いに向かって一台の車が暑いアスファルトの上を疾走していく。
「というわけなんだよ」
「はあっ……」
剣呑とした声と、半ば呆れた顔で、パソコンの画面を見る一人の男性。仕事柄、夏でもスーツを着込み、歳を感じさせない整った顔、細い目で、甘いマスクを要した男性は、画面越しに浴び競られる言葉に辟易していた。
「どう思う? 藤原君」
「どうと言われましても……」
藤原 辰也――、姫川家にある多数の部隊の中で、主に京都全域の警備及び闇喰いの討伐を任されている――防人隊の隊長。有事の際には前線で指揮をする権限を持つ。ちなみに既婚で幼い娘持ちである。
画面には自分の上司たる、姫川豪太がつばをかけるがごとく、話し続けている。このままパソコンを閉じても良いのだが、そこは非礼にあたると渋々、小言に耳を傾けていた。
「薫が京都に戻ってから、すぐにアカデミーに籠もってしまった。これはどういうことだ?」
「薫様にも行動の自由があると思いますが……」
一応の助言にも豪太は聞く耳をもたない。
「まさかこれが反抗期というやつか。薫が非行に走る前段階と考えられないかね?」
「あの〜、薫様に限ってそれは無いかと」
自分も子持ちである。子に好かれたい気持ちはわかるが、これはもう親ばかのレベルを超えている。
自分は絶対にこうならないと辰也は心に誓った瞬間だった。
「は〜い、どいてね。あなた。藤原君が困っているでしょ」
「イタタタッ、待って、話の途中……」
急に画面がぶれたと思ったら、次の瞬間には妙齢の女性が画面に現れていた。
「おはよう、藤原君」
「おはようございます。雫会長」
辰也は、ずれていた服装は整えると、顔を仕事モードに切り替え、目元もきりっとさせる。
画面の奥で豪太が何かに全身を縛れているのを無視して雫会長に向き直る。
「この人の言う通りで薫がアカデミーからなかなか帰らないのよ。あの娘ことだから心配してないけど、親の心、子知らずってとこかしらね」
苦笑まじりに言う雫に、辰也も薄く笑う。
「薫様なら大丈夫でしょう。でも丁度良いです。私も東京から戻ってきた薫様を一目、見たいと思っていましたから」
「あの娘に会ったら少しぐらい本家に戻るように伝えて。でないとこの人が迎えに来るかもってね」
ウインク一つ、雫は画面をから消えてしまった。
辰也はパソコンを閉じると、窓越しにアカデミーの建物を見やる。
「さて、どれほど成長なされたのか。楽しみだ」
やがて車は守衛付きの検問の前で停まった。
京都市、北側の山間に姫川ブランドの研究施設がある。山間に入る手前には守衛とゲートが設けられ、許可証が無ければ通行は出来ない。さらに奥に入ると、建物の周囲はコンクリートと金網によって囲まれ、所々に設置された防犯カメラが逐一、侵入者に目を光らせている。
唯一の正門を抜けると、多くの建物が乱立した研究施設――、だがそれは仮の姿であり、ここは退魔師の養成所及び闇喰いの対策研究を行う場所となっている。通称「アカデミー」と呼ばれ、退魔師に成り立ての子供達は定期的にアカデミーに通う。宿泊施設も兼ねているため、長期休みには多くの学生が集い、一際、活気づく。
「はあっ」
「やあああ」
アカデミーにある一棟の建物。室内訓練場では姫川薫が一人、凜とした声と共に打撃音を響き渡らせる。
中学・高校の混成で組み手が行われているが、薫は一時間以上も交代無しで、次々に迫る相手を倒していく。
指導を勤める女性教官も、固唾を飲んで見守る生徒達も、半ば呆然と薫の戦う姿を眺めていた。
「次!」
追い立てられるように出てきたのは薙刀を手に持つ女の子。歳なら薫の上を行くが、鬼気迫る薫の前に萎縮してしまっている。
だがそこは一日の長なのだろう、なんとか自分を落ち着かせて、薙刀というリーチを生かした攻撃を繰り出してくる。縦に横に、さらに突きまで薫を寄せ付けないように攻撃を仕掛けるが、どれも紙一重で躱されていく。
薫は無理に反撃するのではなく、持ち前の華麗なステップで攻撃をいなしながら隙を伺う。
「はああああっ」
高速の突きを連発してきた相手に、すっと体をねじりながら、懐へと入り込み、
「はあっ!」
肩へと重い一撃を落とす。
がっくりと膝をついた相手を尻目に次の挑戦者を呼ぼうとしたところで、気配に気付き、持っていた木刀から力を抜く。
「全員整列!」
女性教官も気付いたのだろう、ホイッスルを吹くと生徒達に号令する。縦、横に整列した生徒達も突然の来訪者に目を見開く。
室内練習の出口付近にいた、スーツに身を纏った男性が近づいてくる。
列から漏れていた薫がその男性を見て言う。
「あら、来ていたんですか。防人隊長」
「お久しぶりです。薫様」
爽やかな笑顔をしながら、藤原辰也は、薫をしみじみと見て、その後、整列し緊張の面持ちで見ている生徒達に向き直る。
「少しばかり見せて貰ったが、まだまだ精進が足りない。せめて薫様のお相手をするぐらい力を付けるように」
『はい!』
激励とも奮起せよともとれる言葉を残し、辰也はまた薫に向き直る。
「薫様はだいぶ成長なされたようで、安心しました」
率直な感想に薫は肩をすくめる。
「だったら、防人隊長。私の相手をして下さる」
挑発的な笑みに、辰也は頭を掻きながら困惑する。
「いや、しかし……」
「女性の誘いを断るほど野暮な男じゃあ無いでしょ?」
その物言いは雫会長に似ていると思い、女性教官に促して木刀を手にする。
薫も構えつつ、生徒の列から遠ざかるように、辰也との距離を測るように立ち位置を変えていく。
両者とも向かい合って構えると、その場の空気が張り詰めたものへと変わっていく。
誰も彼もが二人の動きを凝視する。
ダッと駆け出したのは薫の方だった。振りかぶってからの打ち落としを放つが難なく防がれてしまう。構わず逆胴を決めるべく木刀を走らせるが、見透かされたように止められてしまう。
薫は微笑を浮かべながら、さらなる追撃に入る。
辰也は薫の連続攻撃を受けながら、だが次第に攻撃に転ずるようになる。
清流のような受け流しから、激流のような攻撃へと辰也の木刀の軌跡は薫に迫りつつある。
一進一退の攻防は、永遠に続くかと思われたが、一瞬の隙をついて、薫の木刀が辰也の首元にぴったりと付く。
「お見事」
「そちらこそ」
薫の首元には辰也の木刀が後数ミリの位置で留まっている。
小さなどよめきが起こる中、薫と辰也の同じタイミングで木刀を引くと、お互いに礼をして訓練場を後にした。
残った生徒達は、薫の健闘と防人隊長の姿を見ることが出来た喜びに、しばらく騒然としていた。
「いや〜、本当に腕を上げましたね。薫様」
お世辞でも何でも無い、率直な感想に薫はタオルで顔を拭きながら答える。
「どういたしまして。でも今日こそ一撃は入れようと思っていたのになあ」
悔しそうに言う薫に反して辰也は嬉しそうな顔をしていた。
薫が退魔師に成り立ての頃、薫の指導役だったのが辰也だった。最初は竹刀を振るう事さえ困難だった子が、今では自分に肉薄するほどの実力をつけた。
今度は、訓練ではなく真剣勝負をしてみたいと辰也は立場を超えて本気でそう思った。
適度に冷房が効いた建物を歩きながら二人はしばらく談笑する。
「薫様が一人で東京に行かれると訊いたときは不安でしたが、どうやら杞憂でした」
「まあ、東京には遊びにいったわけじゃあないし。それに不出来なパートナがいるしね」
「不出来なパートナー?」
一瞬、訝しげに思い、そしてはたと気付く。
「ああっ、天宮十流様のことですか。噂は聞き及んでいますよ」
辰也の何気ない単語に薫は吊り目になる。
「十流さ・ま? 様なんて付けなくて良いわよ」
パタパタと手を降る薫に辰也は困惑する。
「失礼ながら、十流様はかの『紅き閃光』のご子息です。様を付けてもなんら差し支えは無いかと」
「本人にそれぐらいの実力があればねえ。見たら幻滅間違い無しだから」
辰也は薫の言葉を鵜呑みにはしなかった。十流は確かに退魔師になって半年足らずだが、薫が長年追いかけていた闇喰いを共に倒したことはすでに知っている。それにもし本当に不出来ならパートナーとは呼ばないだろう。実力云々はともかく、信頼を寄せていることは言葉の端端から読むことが出来る。
「ぜひとも会ってみたいですね」
さりげなく言ったのに、薫は妙に不機嫌になっていた。
室内訓練場の先にある、休憩及び食事処となっているラウンジに差し掛かると、辰也は歩みを止めて薫に問いかける。
「あの、薫様。あそこで横になっているのはもしかして……」
二人の視線の先には、ラウンジの席を繋げて、さらに額に氷袋を押し当てている人間がいる。
「そう、早乙女未穂よ」
未穂も薫と同様、自らを鍛えるためにアカデミーに来たのだが、先刻、集団戦闘に慣れるため、多数の敵を想定した訓練をしていたのだが、額に一撃を喰らい、あえなくダウンしてしまった。しかもその相手が年下の生徒達なのだから薫も頭を抱えるしかない。
「まっ、まあ。頑張っているじゃあないか。うん」
その妙な言い回しに薫は何も言えなかった。
ラウンジを抜け、建物のエントランスへと来たところで辰也は振り返る。
「私はこれで失礼しますが、薫様はいつまでここに?」
「う〜んと。夏休みが終わる一週間前まではここにいるつもり。その後、東京に帰るわ」
「そうですか。後、会長及び社長から伝言です。たまには本家に顔を出すようにと」
「気が向いたらね」
一応、伝言を伝えると辰也は深くお辞儀をして建物から出てくる。
待機させておいた車に乗ると運転手に行き先を伝える。
「市中警備に戻る。出してくれ」
車はアカデミーを後にし、京都に向かって走り出す。車中、辰也はパソコンを開くと、とある人物の情報を検索する。
「天宮十流……か」
正式には姫川家の退魔師では無いため、主だった成績は何一つ、記録されていない。
その中で一際目立つのがやはり、紅き閃光の息子という肩書き。
それだけで何故か期待せずにはいられなかった。
「やはりこの目で見ておきたいな」
辰也の願いがそう遠くないうちに叶うとはまだ誰も知らなかった。
薫がアカデミーに来てから一週間。
修行の成果は芳しくなかった。当初の目的である魔技の習得には至らず、未穂もこれと言った成長が見られない。
アカデミーの敷地内、山側にある人工的に造った滝を望みながら、薫は桜花を手前に置いて、ずっと物思いにふけっていた。
「魔技……」
その存在は随分前から知っていた。だが魔技は術式とは違い、習得が難しい。
術式は構築式が要となっている。極端な話、構築式さえ出来れば、剣士でも術は使える。だが中位や上位の術式となると構築式そのものが難しくなる。例えるなら数学のようにいくつもの方程式を組み込み、術式という一つの解を求めるようなものなのである。
剣士はその計算が出来ないのである。これは努力でどうにか出来るものではなく、術士故の特性ともいえる。
そんな剣士にも使える必殺技が魔技なのである。
魔技とは己の体を使って、イメージを体現し、不思議を起こす。言い換えれば、下位の術式を元に、自らの身体能力で威力を底上げする技術と言える。ただし術式と違うのは、イメージつまり具現化能力、そして己の技量が技の威力を決定すること。
紫穂の使った『紫電一閃』を薫が真似しようと思えば出来るが、それは所詮、真似でしか無い。
本来の意味での紫電一閃には成り得ない。恐らく威力は本家本元の二割もいかないだろう。
「そのイメージが掴めないのよね」
過去の戦いを振り返りながら、自分に合った魔技を模索し、もやもやしたものはあるのだがどうにも具体的なイメージにならない。
紫穂の魔技は雷をイメージしている。そして十流の使う光の槍――レイスティングランスも雷をイメージしたと訊いた。
「十流……。あの馬鹿……」
薫はポケットに手を突っ込むと携帯を取り出す。そしてメールの受信フォルダに新着メールが無いことを確認する。
すると不機嫌二百パーセントの顔になり、携帯を強く握り締める。
十流には夏休みの宿題を置いてきた。そして進捗具合を確認するために定期的にメールする旨も伝えてある。最初の頃はメールは返してくれたのだが、八月に入ってから返信が無い。おまけに携帯に電話しても出ない。耐えかねて自宅に電話しても出ない。
「どうなっているのよ!」
声を荒げて薫は叫んだ。
まあ、恋人でも何でも無いし、頻繁にメールされたら困るけど。
でも一応は私のパートナーなのだから連絡するくらいは普通でしょ。
それなのに私からのメールはスルーってどういうことよ。
「まさか……」
十流に、あの十流に恋人が出来たって言うの。
――取り柄の無い十流君を見て惹かれる人が――。
「……ないない。絶対に無い。十流に限ってそんな」
第一、十流が誰と付き合おうと知ったことじゃあ無い。
でも……。
何だか嫌だ。
十流は、私の知ってる十流は、ネガティブで、ネクラで、ちょっとオタクで、人付き合い悪くて、覚えも悪いし、いつも遅刻ギリギリに登校するし、悪いことしか目に付かないかも知れないけど、本当はとても正義感が強くて、音を上げながらでもちゃんと退魔師の鍛錬はするし、妙な所に気が回るし、優しいところもある。
何より私を守ってくれる。
十流の良いところも悪い所も知っているのは自分だけ。
それを横から取られるのはたまらなく嫌だ。
「……私のパートナーだもん……」
たまらず込み上げてくるものを薫は何とか飲み込んだ。
「薫様〜」
気の抜けた声を上げながら未穂は汗だくになりながら、薫の元へと駆け寄る。
「敷地内をぐるっと走ってきました〜」
「随分、時間がかかったわね」
悟られまいと顔を背けて言う薫を訝しげに見て、その片手に携帯が握られているのを見つける。
「あっ、十流様からまだ連絡ないんですかあ?」
「ぎくり」
胸の詰まる思いがして、静まりかえっていた怒りがぶり返してくる。
「十流様も女心がわかってないですよね。あんまり頻繁にメールが来るのも嫌だけど、来ないと何というか不安といいますか、適度にメールが欲しいですよねえ?」
ねっ、ねっ、と返答を待っている未穂に薫は顔を向ける。
「み・ほ〜」
「ひゃい!」
未穂は卒倒するのを寸前で押し止める。今目の前にある薫の顔はまさに阿修羅のごとく怒りに満ちていた。
「次はクナイの練習ね。良いって言うまで休み無しよ」
「はい……」
未穂は薫の言われるまま、クナイの投擲練習を繰り返していた。的から十メートル以上離れての練習はもう一時間以上、経過している。その間、薫は自分に背を向けて、滝を眺めながら物思いにふけっている。
「やっぱり恋は難しいですね」
勘違い未穂のことは忘れて、薫は心を静めて魔技について考えていた。
京都に戻る前には、十流の母・刹那にも相談したが、明確な答えは得られなかった。
だがヒントはやはり自分自身の中に、戦い方にあるということ。
(私は十流みたいに一撃の重みは無い。その分を手数で稼ぐ攻め方をする。相手の攻撃を避けて、そして反撃する。舞うように……)
目の前に置かれた白塗りの鞘に納められた退魔師の剣――名を桜花と呼び、持ち手である自分は踊り子のように舞う。
連想されるのは満開に咲く桜からひらひらと舞い落ちる花弁。
花弁――、強くイメージは出来るのだが、魔技には結び付かない。
「ふう……」
深く息を吐き、目を開く。
「はあっ、やあっ」
声に気付いて後ろを振り返れば、未穂は懸命にクナイを投げていた。
「そう言えば……」
桜花を手にして、薫は未穂の元へと歩み寄る。
丁度、クナイは的のど真ん中を射抜いた。
「すごいじゃない。剣はイマイチだけど、クナイはなかなかよね」
「へへっ、そうですかあ〜」
謙遜する未穂とは裏腹に、板で出来た的の中央は何度もクナイが刺さったことにより、木片がえぐれて飛び散っていた。
「どれどれ、私も」
気休めにと落ちていたクナイを拾い上げ、力任せに投げてみる。
クナイはやや放物線を描き、的の下へと刺さる。
「以外に難しいわね」
「薫様。それじゃあ、駄目ですよ。腕を振るっていうよりも、腕を引いて、矢のように放つのがこつなんですよ」
こうやって、と言いつつ放ったクナイはこれまた中央を射抜いた。
「こうやって見るとくノ一の子孫って感じよね。そう言えば紫穂さんもクナイを使うの?」
姉の名前に、未穂は一瞬、目を落とすがすぐさま明るく言う。
「いいえ。お姉ちゃんはクナイ投げはあまり得意じゃあないんです。でもクナイ投げはあまり必要ありません。退魔師の武器で投擲武器はレアですし、一般の、私みたいな退魔師には支給されませんから」
退魔師の武器のうち、投擲武器はブーメランやフリスビー、チャクラムといったものまであるが、数量は剣などに比べて極端に少ない。さらに攻撃力といった観点から見れば剣と比べて弱い。扱いも難しく、使い手が限定されるため、退魔師の間でも敬遠されがちである。
「でもすごいと思うな。これも立派な才能だと思うけど……」
薫はもう一度、クナイ投げに挑戦してみるが、今度は的の上へと突き刺さる。
「クナイ投げを褒めてくれたのは二人目です。薫様」
そう言って未穂は視線を落とした。
「もしかして一人目って、紫穂さん?」
未穂は静かに頷いた。
「お姉ちゃんは、小さい頃から剣術も術式も上手で、早乙女家の誇りだって周りから言われていました。私はそんなお姉ちゃんを今でも尊敬しています。そんなお姉ちゃんに私が勝てるものは唯一、クナイ投げだったんです。何度も的を射抜く度に頭を撫でられて、褒められました」
恥ずかしげに笑う未穂を見て、薫は自分にもそういう経験があると思った。
初めて術式が出来たとき、雫と豪太に頭を撫でられ、抱きしめられたことを。
「でも、実践では役に立ちません。出来て牽制ぐらいで、それでは意味が無いんです。お姉ちゃんのように一人で闇喰いに立ち向かえるようにならなきゃいけない」
まるで自分を戒めるように未穂は言うが薫は違うと思った。
紫穂は紫穂で、未穂は未穂なのである。姉妹といえど全てが同じでは無い。性格も話し方も、戦い方も違って然るべきである。
第一、未穂がそう考えるのであれば、クナイ投げではなく、もっと剣術を磨けば良い。そうしないのは暗にわかっているのだ。自分はどうやっても剣に向いていない。姉に少しでも近づくためには自分の長所を伸ばすしか無いことを。
なんとか未穂の思いを汲み上げることは出来ないだろうか。
薫はひょいっとクナイをつまみ上げる。
「そうね。せめてクナイに魔力をもっと込めるとか、もしくは術式をかけるとか出来れば良いのに」
「出来ますよ」
「へ?」
「えっ〜と、出来ますよ。クナイに術式を組み込むことは……」
きょとんとする薫を尻目に未穂はしっかりと答えた。
「ちょっ、ちょっとやって見せて」
薫にせかされる形で未穂はクナイ投げの構えに入る。
「だったら薫様に良いものを見せちゃいます。人に見せるのはこれが初めてなんですよ」
そう言って、未穂は三本のクナイを取り出し、両手に持つ。
「まずは一つ、赤」
投げられたクナイは的の右側に刺さり、途端、小さな炎が起こる。
「これは!」
「次、黄色」
二本目のクナイは的の中央に刺さり、バチバチと放電を始める。
「最後、青」
三本目のクナイは的の左側に刺さり、的の表面は氷が纏わり付く。
「どうです? 三色パンを食べながら思いついたんです」
指をブイの字にして、笑顔を作る未穂を無視して薫は呆然と的を見ていた。
そして未穂の肩をがたがたと揺らし始める。
「ちょっと、すごいじゃない。どうして黙っていたの? これは本当にすごいわよ」
興奮冷めやらぬ薫に未穂は驚く。
「そっ、そうですかああああ?」
肩を揺らしながら薫は未穂の隠れた力を賞賛する。
「これをもっと、実戦で使えるようにしなきゃ。自信を持って」
「はい」
明るく返事をする未穂に満足して、薫はもう一度的の方角を見る。
的の右側は燃やされ、木片が火の粉を散らしながら地面へと落下した。続いて凍らされた左側は暑さによって、すでに溶けかかっている。力の余波で出来た氷柱からは水が滴り落ちる。
――これだ。
続いて未穂の顔を見る。
――両極端な姉妹。
「そうよ。これこれ。見つけたあ!」
未穂を置き去りに大はしゃぎする薫のもやもやは解消された。
その日の夜。
京都市内の喧噪から外れた場所に、古ぼけた酒場がある。旅行雑誌にも載らない、古めかしい佇まいで周囲も静かである。
店内は薄暗く、オレンジ色の淡い光が哀愁をもたらす。もっぱら酒の味を楽しむことを主としている客は、騒ぐことはなく、酒とそれを勧める料理に舌鼓を打っている。
客の一人、早乙女紫穂は焼酎を片手に一人、酒を飲んでいた。
出される酒はいつもと変わらないのに、酷くまずく感じる。
「いらっしゃい……」
「お邪魔するわ」
店主の渋い声に反応した、女性の声に紫穂は、はっとして顔を上げると、横に自分の上司であり、主君でもある姫川雫が立っていた。
紫穂は焦って席を立ち、うろたえる。
「会長……、どうしてここに?」
狼狽する彼女を雫は手で制する。
「今はオフでしょ。もっとフランクにいきましょう」
そう言って雫は紫穂の隣に座ると、適当な酒を注文する。
紫穂も渋々、座るとやけになったのか、残っていた酒を飲み干して追加の注文をした。
しばらく雫と紫穂はお酒と魚の煮付けに箸を走らせながら互いに口をきかずに時間だけが過ぎていった。
やがて、
「姉妹喧嘩でもしたのかしら? 最近のあなた元気がなかったから……」
心配そうに顔を向ける雫に対して紫穂は顔を背けながら首肯で返事をした。
今でも悔やまれる。何故、叩いてしまったのだろうか。
「未穂は薫と一緒にアカデミーにいるわ。薫ってば結構、お世話焼きだからね。放っておけなかったってとこかしら」
知っていた。でも会いに行こうと思えなかった。仕事がいそがしいとかではない。どんな顔をして会えば良いのかわからないのだ。
頬を酒で赤くし、目は遠くを見るように覇気が無い。
紫穂はここに至ってようやく胸中を吐露しようと思った。
「未穂は、本当は退魔師になる必要がなかったんです」
「……」
「私は早乙女家の長女として生まれ、魔力の発現があり、それで小さい頃から退魔師としての教育を受けてきました。ゆくは立派な退魔師に、そして姫川家を支える退魔師になるようにといつも言われて育ちました」
紫穂にとって、それは名誉であり、誇りでもあった。父母に言われたように、自分が望んだように、今ではすっかり立派な退魔師になり、主君の側に置いてもらっている。
「でも未穂は違います。絶対、退魔師になる必要は無い。普通の人としての人生を歩むこともできたんです。なのにあの娘ったら、『お姉ちゃんと離れたくないから』、と言って退魔師になったんです。本当、無茶苦茶ですよ」
軽く笑って、それから一口酒を飲む。
「嬉しかった……。本当に。あの娘、不器用だし、退魔師の修行も何度も失敗して、でもめげずに頑張って、それだけじゃあ無い。あの娘には周囲を明るくする力がある。誰とでもすぐに仲良くなるのは天性のものかもしれません」
笑みを浮かべて語る彼女から未穂に対する愛情がひしひしと伝わってくる。
雫は自分が薫を想う気持ちと相違無いと思った。
「でも現実はそう甘くありません。失敗は即、自分の死につながる。この間も私が駆けつけなければあの娘は……。そればかりか薫様まで。あの時、最悪の状況が何度も頭を過ぎりました。戦い終わった後、傷ついた未穂を私は叩いた。本当は労を労おうと思ったのに。嫌いと言われても仕方ありませんね。姉、失格です……」
紫穂の目からは一粒涙が零れた。
あえぎを必死に止めるように唇はきつく結ばれている。
ずっと話を訊いていた雫はようやく重い口を開く。
「早乙女未穂……か。確かに戦績は良くない。防人隊には数ヶ月程度、在籍していたけど、今は雑務係。だけど評判は良いのよね……」
「えっ?」
「雑務係って、日の目が当たらないから、そこに配属される人は大抵、勤労意欲が失せる。そんな中にありながら未穂は懸命に頑張っているらしいわ。腐っていく周りの人を鼓舞して、与えられた仕事をこなしていく。この間、面接した未穂の上司が言っていたわ。未穂のおかげで雑務係の雰囲気が変わったって」
それは初耳だと言わんばかりに紫穂は驚きを隠せない。
「未穂はわかっているんじゃないのかしら。自分の不器用なところ。どうあっても姉であるあなたには敵わないこと。それでも退魔師でいるのは、あなたが言った――お姉ちゃんと離れたくない、その想いからじゃあないのかしら」
雫は酒を飲んで喉を潤すと続きを話す。
「姉妹と言っても、全て似るわけじゃあない。あなたは強いかもしれないけど、未穂は違う。違うとわかって未穂は己の出来る事を精一杯がんばっている。薫もそうだから……」
想いを馳せた目には薫の姿が浮かぶ。
「薫は、適正で退魔師のうち剣士と診断された。私はちょっとがっかりした。同じ術士だったら良かったのにって。それから私は薫には自分を真似なくて良いと言ってきた。なのにあの子の動きは私に似ている。舞うように動く様は、私とそっくり。きっと黙って私の戦いをモニターしたビデオでも見てたのかしら」
ふふっと笑って、また酒をあおる。
「紫穂……。未穂はあなたと同じ場所には立てないかも知れない。でもその影で未穂はあなたを支えている。それをわかれば、未穂もあなたの想いを受け止めてくれる。姉妹ですもの、お互いの気持ちは理解できるでしょう?」
にっこりと微笑む様は、主君では無く、母性に満ちた優しいものだった。その優しさが身に染みて紫穂の体が震え出す。
「会長……。うっ……、えっ……」
子供のように泣き始めた紫穂を雫は優しく抱いてあげた。
それから一週間後。
紫穂の元に未穂からのメールが届いた。
『今晩、見せたいものがあります。ぜひ来て下さい』と未穂らしからぬ文言に眉をひそめつつ、紫穂は言われた場所――京都市北側の下鴨神社へと向かっていた。
「一体、何を……」
紫穂は戸惑いばかりだった。どういう顔をして会えば良いのだろう。
ごめんと言って許してくれるだろうか。
それでは唐突過ぎる。
重い足取りで向かう中、不意に気配を感じる。
「闇喰い……、この方角は」
間違いない。未穂との待ち合わせ場所と同じである。
急ぎ、彼女は堺面世界に入ると、一足飛びで現場へと向かう。
よりにもよってこんな時に。
恨めしい思いを顔に出しながら、木々が生い茂る糺の森を駆け抜ける。参道の先、朱色の桜門が見えて、戦いがすでに始まっていることを知る。。
「未穂、それに薫様?」
薫と未穂の相手は、まさしく鬼だった。体長二メートルにのぼり、お腹がぽっこり出ている筋肉隆々の鬼が闇喰い、取り巻きがやや細めの鬼――、手には金棒ではなく、剣や槍を持っている。
二人を取り囲むように陣取る鬼達を前にして薫が叫ぶ。
「計画よりも早いけどやるわよ、未穂!」
「はい!」
計画――何のことだろう?
それにあの未穂の顔つき、今まで見たことが無い。
紫穂は加勢すべきか逡巡し、未穂の真剣な顔をもう一度見て、加勢に行くのをためらってしまった。
本来なら助けにいかなくてはならない。未穂の事も当然、心配だし、何より我が主君たる姫川家のご息女が前線で戦っているのだ。従者である自分が加勢しなくてどうするのか。
なのに……。
使命と感情の狭間で紫穂は揺れ動いていた。
(薫様には何か考えがあるのだろうか。それとも……)
もう一度、未穂の顔を見て、かぶりを振ると紫穂は物陰に隠れてしまう。
様子を見よう。今、自分が出て行けば未穂に動揺を与えてしまう。
ここは薫様と未穂を信じよう。
紫穂は胸元でぎゅっと手を握りしめた。
「はあっ」
相も変わらず薫の剣閃は夜の闇に光を走らせる。
目の前の鬼を倒すと薫はすかさず、後退し、未穂との距離を常に保とうとしていた。薫のやや後方に位置した未穂はただじっと戦況を見つめているだけだった。
(何をやっているの!)
紫穂は声にならない叫びを上げていた。未穂は中腰のまま、前を見据えている。
後退を機に鬼達は薫に迫ってくる。
「今よ!」
合図と共に未穂は左手に用意していたクナイを三本同時に投げ放つ。
三本とも距離を詰めていた鬼の眉間に当たり、と同時に鬼の顔が炎上する。
(あれは魔技? でも未穂にあんな技があるなんて知らなかった……)
紫穂が目を見開く間、
「はあああっ」
桜花の一撃が難なく鬼を沈めていく。
そしてすぐさま体を屈めると、後方からのクナイが横にいた鬼に当たり、今度は振り上げていた武器と腕が凍り付く。
うろたえる鬼に薫の容赦ない一撃が襲いかかる。
紫穂は見事な連携に声を漏らす。
「どうして未穂は前に出てこないのか――これが答えだったのね。確かに理に適っているわ」
未穂は敵との距離が近すぎると緊張してしまうのか、落ち着きがなくなる。だが今は薫が未穂の前に立つことで敵との距離を空け、未穂はクナイで敵を牽制、薫の支援に回っている。
「もしかして、未穂は周りを生かすことが上手なのかもしれない」
退魔剣士はもっぱら、前衛で戦う事が多いし、後方に位置する術士の詠唱を稼ぐ意味合いもある。薫や紫穂のように戦況を自分で有利にしていくのが剣士の特性とも言える。だが未穂は剣士のように前衛に行くのではなく、また術士のように後方に位置するには敵との距離が空きすぎてしまう。
「支援型。それが未穂のいるべき場所だったのね……」
いつもそうだった。私の後ろにはあなたが必ずいた。不器用で、ちょっと目を離すと泣いて、不安になって後ろを振り返ると、あなたは笑顔で私を安心させてくれた。
同じ場所には立てないかも知れない。でも同じ戦場にはいられる。
「会長、あなたの言う通りですね」
不思議と紫穂の顔から笑みが溢れていた。
「はあっ、たあっ」
未穂は正確無比なクナイ投げで薫の後ろから闇喰い達を追い詰めていく。
「あともう少し……」
頭二個分、出ている大柄な鬼まであと少しのところであることに気付く。
「……あれ? あれれれ?」
腰にあるポーチの中を探るがクナイが一本も無い。
「こうなったら……」
落ちていたクナイを拾い上げようと身を屈める。
「未穂! 危ない」
「えっ?」
薫の叫びに、顔を上げると、横合いから鬼が武器を振り下ろそうとしている。
「くっ」
持っていた脇差し――青燕で迎撃しようとして、
「ぎゃあああああああ」
突然の悲鳴と共に鬼は上から両断されてしまった。
「お姉ちゃん!」
早乙女紫穂は抜き身の剣をひっさげて、真剣な眼差しで未穂に歩み寄る。未穂はまた怒られるのかと視線を落とすと、じゃらっと金属音がして顔を上げる。
「えっ? これは……」
未穂が目を見開く先には、紫穂がクナイの入ったポーチを未穂に渡そうとしていた。
「クナイは必要以上に持っていなさい。それと空間からいつでも呼び出せるようにすること。いいわね」
声には厳しさを纏っていたが、顔は穏やかそのものだった。
紫穂は妹を庇うように、前へと歩き出す。
「……一緒に闘いましょう、未穂」
背中越しに紫穂は声をかけると、未穂は元気よく頷く。
「うん、お姉ちゃんと一緒に!」
早乙女姉妹の共闘が鬼達は滅していく。
その様子を遠くで見ていた薫はこれで一安心と正面を向き直る。
地鳴りのような足音を鳴らしながら歩いてくる大鬼に不敵な笑みを浮かべる。
「あんたは私の相手をして貰いましょうか。見せてあげる修行の成果を」
暗がりの戦場に花弁が舞ったのはこの後の出来事だった。
早乙女姉妹を仲直りさせ、自身の修行の成果を確認することが出来、意気揚々と京都から帰ってきた薫だが、一つだけ不満があった。
九月、始業式を控えた教室で薫は机を指で叩きながらその仏頂面を窓の外へと向けていた。
(どういうことよ。十流の奴。結局、夏休み中は連絡無いし、心配になって家まで行ったのに誰もいない。何やっているわけ?)
机に穴が空くぐらい薫の怒りは収まる気配は無い。
右横前に座る薫の親友こと平泉鏡香ならびにクラス全員はまた十流と喧嘩したとしか認識していない。さわる神になんとやらで近寄る者はいなかった。
「よーし、出席を取るぞ」
男性教師は教室に入ってくるなり、出席を取り始める。
「天宮……。むっ、天宮はいないのか?」
薫以下、誰も答えないので教師は次の者を呼ぼうとして、
「おほよございます……」
ガラッと教室の扉が開くと同時に、教師が見たものはまさに死にかけのような声と共に登校してきた天宮十流だった。
目尻は落ち、肩の線は下がり、鞄を引きずるように持っている。九月に入っても暑さは続いているため熱中症ではないかと勘違いするほど十流は憔悴しきっていた。
「おう、天宮。遅刻と言いたいが、その、なんだ、まあセーフとしよう」
温情の言葉を訊いて教室の中へと入ってきた十流は、足がもつれんばかりの歩き方で、ヨタヨタしながら自分の机にようやく座る。
目と目が合った薫には小さく声をかける程度だった。
(何? 何なのそれ? もっと話すこととかあるんじゃあないの? それより肌が焼けてるし、何か疲れてるみたいだし、一体これはどういうことよ?)
この場に誰もいなければ、十流と二人っきりなら、桜花をすぐさま呼び出して、事の次第を問いただすところだが、いかんせん一般人を巻き込むわけにはいかない。
ぐぐっと薫は自重の念に堪えなければならなかった。
その後、体育館での始業式、終わった後の教室に戻る時、十流はまさに魂の抜け殻のような死に体の様相を呈していた。
さすがの薫も詰問する気も失せてしまい、下校時間になってもピクリと動かない十流を逆に心配するようになってしまった。
「ほら十流、帰ろう。今日は授業無いから……」
「んっ? そうだっけ……」
立ち上がる姿は弱々しく、見ているこっちが不憫に思えてきた。
昼下がり、陽の光は強く、うだる暑さの中を薫は十流の腕を組んで肩を貸す形で歩いていた。
(これじゃあ、恋人みたいじゃあない)
決して違うと心で叫びつつ、薫は十流の顔をしげしげと見る。約一ヶ月ぶりの幼馴染みは何だか頼りない存在になっていた。
(もっと訊きたいことがあるのに……)
夏休み何してた?
どこに行っていたの?
私からの宿題は出来た?
怒っていないと言ったら嘘になる。だけど十流と話をするのを心待ちにしていたのだ。
それを端から砕かれて、薫は心底、残念に思った。
ようやく十流の家に着くなり、発した第一声は、
「あれ、薫。なんで家まで付いてきたんだ?」
こめかみに怒りマークが何個も点灯し、殴ってやろうかと思った。
「あんたがへろへろだから付いてきたのよ。下校途中で倒れたら目も当てられないわ」
憎まれ口を叩いたにもかかわらず十流からの返答は素っ気ないものだった。
ドアには鍵がかかっており、十流は一人ごちる。
「あれ、母さんはまだ戻ってきていないのか」
とりあえず薫は十流を玄関まで送る。
「ありがとな、薫。何か飲むか?」
「いいわよ。十流はもう休んだ方が良いわ。明日も学校あるし」
「そうする。じゃあ……」
と言って十流は階段を昇っていった。
十流の姿が見なくなって積もり積もった不満が胸の底から噴出してきた。
「っていうか何で私が十流の心配しなきゃいけないのよ」
たまらず文句を言って薫は玄関を壊さんばかりに閉めた。
翌日も十流の体たらくは続いていた。
授業中にも関わらず、頭は沈み、肩は上下に規則正しく動いている。
(この馬鹿……。居眠りしてる)
後ろから、桜花で突き刺してやろうかと薫は何度も考えた。
昼休み、十流を屋上に連れてくると我慢に我慢を重ねたものが一気に吹き出した。
「十流! 夏休み何やってたの?」
「何を……と言われましても」
怒りに顔を紅潮させ、詰問する薫に、何故、自分が怒られているのか全くわからないと言った感じで十流は首を捻る。
「全然、連絡寄越さないし。家に行ったら誰もいないし、全くどこ行ってたのよ!」
詰め寄られ困惑する十流だが、隠すことでもないため答える。
「えっと、ちょっと山に……」
「山?」
「そう山……」
十流としては正直に居た場所を答えたつもりだった。
だがその馬鹿正直過ぎる答えに薫はさらに憤慨する。
「山ってことは、キャンプしてたってこと?」
「キャンプ? まあ確かにテント張って暮らしていたことは事実だしな」
ドンと薫はその場で地団駄を踏んだ。
「私が京都で退魔師の鍛錬をしている間、十流は山で遊んでいたってわけ。川に入って魚とか釣って、夜は天体観測ってとこかしら?」
「確かに魚は捕ったし、星空は綺麗だったけど、それ以外に……」
「私の出した宿題は?」
「……ほとんど出来ませんでした」
十流は包み隠さずに返答したつもりが、逆に薫の怒りに火を付けてしまった。
薫は後ずさりするなり、目を吊り上げ吠えた。
「十流が夏休みをどう過ごすかなんて十流の勝手だけど、私は十流が一人で頑張ってるって思ってた。連絡をしないのはそれなりの訳があったって思ってた」
「薫……?」
「でもその理由が遊んでたなんて……。私がどんな気持ちでいたか……」
何故か悔しくて薫は涙ぐんだ。
「十流なんて知らない。勝手にすれば!」
一気にまくし立てると薫は振り返ること無く屋上から去って行った。
生暖かい風を受けながら十流はただ唖然とするしかなかった。
何をそんなに怒る必要があったのか。
たしかに薫からの宿題をしなかったのは申し訳ない。
「え〜と、少し言い方を変えれば良かったかな……」
頭を掻きながらそうぼつりと呟く。
「遊んでいたか……。あれは言い換えれば地獄だ」
十流の脳裏に夏休みにおきたことがフラッシュバックされ寒気で身震いしてしまう。
おそらく生まれて初めて濃密な夏休みを過ごしたはずである。だが薫は完全に誤解しているし、怒らせた今、話しても曲解されてさらに怒らせるだろう。
はあっとため息一つ、疲れの残る体を引きずるように十流は屋上を後にした。
夕方、憂鬱な気持ちで十流は家に帰宅してきた。普段なら薫と退魔師の鍛錬をするところだが、昼休みの一件以来、話すどころか顔すら向けられないという事態になり、渋々、家に帰ってきた。
「ただいま……」
剣呑な声に、優しい声が応える。
「あら、おかえりなさい。今日は薫ちゃんと鍛錬は?」
母・刹那の問いに十流は苦々しく言う。
「今日は休み。明日もどうなるか……」
皆まで訊かなくてもわかった刹那は納得の表情をする。
「めし食って、もう寝る……」
疲れはまだある。だがそれ以上に薫を怒らせてしまったことをひどく後悔していた。
ギシギシと階段を昇る音が悲哀を漂わせていた。
「そろそろかしらね……。明日が楽しみ」
全ての事情を知る刹那だけはやけに嬉しそうだった。
翌日。
カーテン越しから強い光を浴びて、十流は目を覚ました。
昨日までの疲れという重しは無くなったものの、心にずんとめり込むようなものが刺さっていた。
「はあっ、薫の奴、少しは機嫌良くなれば良いのだけど……」
だが幼馴染み故か薫の機嫌が即日良くなるなど滅多に無い。
「いつもの素振りでもするか……」
テキパキと半袖、半パンに着替えると、階段を降り、居間を通って縁側から外へと出る。
十流は毎朝の素振りを欠かしたことは無い。いや、さぼるとこの世で最強の母親に何をされるか分かったものではない。
「……一、……二……」
そもそも俺が悪いんだよな。夏休み中、全然、連絡しなかったし。でもあれは電波が届かないところにいたし、何より充電する場所もなかったし、いやいや、それでも一回か二回は連絡できただろう。
口では素振りの回数を、頭の中は薫の機嫌をどう直すかを考えていた。
ここは少ないおこづかいを使って甘い物を献上すれば。いかん。物で懐柔しては。
「……百。終わり……」
考えがまとまらないうちに素振りも終わり、十流は居間へと上がると、母・刹那がせわしなく台所と居間を行ったり来たりしていた。
「あら、十流。ごめんね、まだ朝食の支度が出来ていないの。もう少し待って」
「そう……」
いつもなら素振りが終了すると同時に朝食がテーブルに並んでいるが今日は食器だけである。
珍しい事があるものだと、首を傾げて時計を見れば、まだ七時をまわっていない。
「あれ? 時間がおかしい。それとも素振りの回数を間違えたかな?」
速い、あまりにも速い。
薫の事ばかり考えて回数をすっ飛ばしてしまったか。
十流は焦って、外へ出ると素振りを始める。
「……? でも間違えたら母さんが叱りに来るはずだけど」
恐る恐る居間の方向を見るが母・刹那の姿は見えない。
「……まあ、いいか」
十流はとりあえず三十回ほど素振りをした。
通学路を歩きながら、十流はぼんやりと昨日の薫とのやり取りを思い出す。
――夏休み中、ずっと遊んでいたのね。
「遊んでいたと言うより、無我夢中だったよな。滝を斬ったり、野山を走り回ったり」
――私がどんな気持ちでいたか。
「どういう気持ちで? 京都には家族がいるし、寂しいとかそういうのでは無いだろうし、難しいな。そもそも何であんなに目くじらを立てるのか」
十流の悪い癖であるネガティブ思考が、これでもかと十流を悩ませる。
だが悩んでも解決の糸口が見つからないまま十流は教室へと入った。
「おっす」
軽く挨拶したところで十流の目が点になる。
「少ない……」
教室にいる生徒がまばらなのである。これまで十流は遅刻ぎりぎりで教室に入るため、生徒のほとんどが教室にいる光景しか思い浮かばない。
なのに今日に限って、人がいないのである。
慌てて時計に目を向けると、ホームルームまで二十分以上ある。
どうなってるの?
家を出る時間も歩く速度もいつもと変わらないはずである。たしかに悩みながら歩いてきたとはいえ、これは一体どういうことだろうか。
――もしかして時間停止? 俺にそんな特殊能力が。
と思いつつ頭を振る。
(そんなチート能力が備わったら何でもありになるだろう。俺には、物事をスローに見る目と人の感情を視る目があるんだぞ。おまけに時間停止? ないない。そんなものない)
十流は自分の席に座ると呆けた顔で空を眺めた。
しばらくして薫と平泉鏡香がそろって登校してきたが、席に座っていた十流に対して一様に驚き、平泉は丁寧に挨拶してくれたが、薫は何も言わず顔を背けてしまう。
(駄目だ。これは相当、機嫌が悪い)
頭を抱える悩みとはこういうことかと十流はしみじみ思った。
お昼前の外は焼けるように暑いが生憎、今日の体育は男子は野球で女子はソフトボールとあいなった。
ただし、近年の熱中症対策として、体育教師は冷たいスポーツドリンクを用意していた。
グランドを二分割してそれぞれ野球とソフトボールが行われ、男子からは威勢の良いかけ声が、女子からは黄色い声援が飛び交う。
「うっっしゃ〜、打ったれ!」
「押さえろよ!」
「やあっ」
「姫川さん。素敵〜」
誰だ、今の声援。
十流は外野で守備をしながら、女子のソフトボールの様子を眺めていた。
ピッチャーボックスにいるのは薫。
下投げとはいえ、空気を唸らす剛速球に相手のバットは空を切るばかり。
(あれで手加減しているつもりか。相当、目立っているぞ)
退魔師の体は常人に比べて運動能力が高く、本気を出せばオリンピック選手が束になっても勝てないとも言われている。そのため体育の時間では手加減するように言われているのだが、いかんせん薫は目立ってしまっている。
(まあ、良いか。薫はそういうので有頂天になる奴じゃあないし……)
そう思っている最中、叫ぶような声に驚く。
「天宮! ボール!」
はっと気付いて見れば、ボールが空高く、そして自分の所へと落ちてくる軌道を描いている。
慌てて、ミットを構えてボールをキャッチする。
「バックホーム!」
安心する間もなく誰かの声に、視線を前へと向けると、走者がホームに帰ろうとする。
「誰か中継してやれ!」
味方が自分とホームの間に割り込もうとしている。
だが十流はホームに投げることしか頭になかった。
届くか?
思いっきり、手を振り、離れていったボールは、弾道が低く、誰もが途中で地面に着くだろうと予想した。
だがボールは中継役の生徒の脇を掠めて、さらに伸びてキャッチャーのミットに収まる。
「アウト!」
審判役の生徒が高らかに宣言する。
『うおおおおっ』
そして怒号のような声がグランドを包む。
「おい、今のレーザービームじゃねえ?」
「どうなってんだよ」
声は女子の方角からも聞こえる。
「今の見た?」
「端っこからあそこまで。天宮君ってけっこうすごいね」
周りの賞賛の声に恐縮しながら十流は自軍ベンチへと戻ってくる。
たまたま、と言い訳しながら、チームメイトからはもみくちゃにされる。
その様子を幼馴染みは遠くから目を点にして眺めていた。
彼女は十流がボールをキャッチしてから投げるまでの一部始終を余すこと無く見ていた。
十流のチームが攻撃の番となり、得点の機運が高まるが、それを砕く剛速球がキャッチャーのミットに収まる。相手のピッチャーは鼻で笑うほど余裕をかましている。
「あいつ、都大会でも活躍したんだろう?」
誰かが囁き、一同は頷く。
「なんでも高校は推薦入学って噂だぜ」
素人相手でも力は抜かないという崇高な考えではなく、単に自分の実力を見せびらかしたいと邪な考えがありありと窺える。しかも投げ終わる度に意地悪そうな笑顔を向けるため、チームの面々は歯ぎしりするしかない。
ただ一人、十流だけは平然とした顔をしていた。
(そんなに速いか? 母さんや薫の斬撃の方が速いぞ)
バットが空を切る度に落胆の声が混じる中、十流は首を傾げる。
(そうかこれがチェンジアップってやつか。速い球を投げた後に遅い球を投げるとタイミングがずれるというあの。でもさっきから遅い球を投げてたら意味ないんじゃあ……)
などと考えていると自分の番になったため、十流はバッターボックスに立った。
ピッチャーが足を上げて、大きく振りかぶった球は十流の頭すれすれを通過していった。
誰もが危ないと声を上げたが十流だけは瞬き一つせずに立っている。
(わざとだろ)
球の軌道が明らかに頭を狙って投げたことを十流はその目でしっかりと見ていた。
一応、相手のピッチャーは謝ったが、次に来た球は速球のストレートだった。
(いや、もうこれ飽きたよ)
素人相手なら一球目で萎縮してしまい、バットを振れなくなるが十流はいつでも振ることができた。しなかったのはあまり目立ちたく無かったから。
(まあ、外野フライに倒れれば一応は格好がつくか……)
続いて三球目。球はど真ん中、一般人から見れば剛速球――、十流から見ればスローボールにしか見えない。
腰を捻り、バットに当たったボールの行方は、内野を軽々越え、外野の元へと落ちなかった。
遙か先、フェンスが無いため、あらかじめ決めた線を越えた。すなわちホームラン。
「はっ?」
「へっ?」
一瞬、誰もが呆気に取られた。十流自身も半ば信じられないといった顔をしている。
そして巻き起こった歓声。
「ホームランだあ」
「天宮、走れ」
ようやく我に返った十流はグランドをゆっくりと走り始める。横目にはピッチャーが悔しさのあまりうなだれている。そして遠くから女子の黄色い声が上がる。
「すごい、今の天宮君だよねぇ」
「やだ、何か格好良くない」
女子達の視線を浴び、恐縮する十流は、その中に目を大きく見開いて視線を送る人物にぎょっとする。
(薫……。まさか怒ってる。やばい完全にやばい)
だがそれは十流の勘違いだった。
薫は誰よりも驚き、十流の勇姿をじっと見つめていた。
「何やってるの?」
昼休み、学校の屋上で薫の目の前には、土下座した十流の姿があった。
日陰になっているとはいえ、コンクリの床は熱を帯びている。
だが十流は敢えて頭を下げて、薫の許しを乞おうと思った。
「いや、体育の時間で俺、魔力を使ったかも知れないのでまずはお詫びと思いまして」
魔力とは退魔師のエネルギー源。退魔師の体は元々、強靱なものなのだが魔力を帯びることによってさらに強くなる。しかし、魔力の使用は緊急時を抜きにして戦いにのみ使用を許されている。もし他人の前で使えば厳罰である。
「それに昨日は、怒らせてしまったのでそれも兼ねての土下座です……」
十流は薫の顔を見るのが怖くて顔を上げる事が出来ない。十流の脳裏には角を生やした薫の形相しか思い浮かばない。
「……」
長きの沈黙の果てに薫は嘆息を漏らす。
「あのね。十流は魔力を使っていないわよ」
「へっ?」
驚きのあまり顔を上げると、薫の顔は呆れたような顔をしている。
そして人差し指を立てて言う。
「私、十流が不正をしてないかいつも監視してるもん。特に体育の時間はね。離れていても十流の魔力を感知することが出来る。そして今日、十流のことを見ていたけどその兆候はなかった。だから、まあ潔白ってとこかしら」
薫の言葉に十流は解放されたように顔を緩ませ、すくっと立ち上がる。
「何だ、俺の勘違いか……」
「でも目立ち過ぎよ。あれじゃみんなに変な目で見られる」
薫は十分に目立ってますけど。
と口に出しかけて喉の奥で止めた。
ふと見ると薫の機嫌も良くなっているような気がして、そのまま話を続ける。
「でもさ。おかしくないか。いつものように加減したつもりが、ボールは遠くまで届くし、ホームランになるし、朝もおかしかったんだ」
「朝?」
「いつものように素振りをしてたらいつも以上に速く終わったし、夏休み前と同じ時間帯に家を出たつもりが早めに学校に着いちゃうし、何か俺の体おかしくないか?」
問われて薫は顎に手を乗せて、しみじみと十流の体を見る。
腕や顔は日に焼けているが、たいした変化は無い。強いて言うなら一昨日から比べて、覇気があるというか、元気になったというか、見た目だけならそれぐらいしか思い当たらない。
「ねえ、十流。夏休みは本当に何をしていたの? 遊んでいたってわけじゃあないでしょ?」
昨日とは違い、薫の声には怒気は無い。
「いや、それは……」
「昨日は、私も言い過ぎたわ。かっとなってしまって……。ちゃんと訊くから教えて」
申し訳なさそうに顔を背ける薫に拍子抜けしたが、今度こそ説明しようと十流は思った。
十流と薫は陽に当たらないように日陰でそれぞれハンカチを敷き、隣り合って座る。
そして十流はゆっくりと夏休みに何をしていたのか話始めた。
「事の起こりは八月に入ってからなんだけど、母さんに連れられて遠くの山岳地帯まで行ったんだ。俺は着くまでキャンプでもやるのかと本気で考えていた」
二人が行き着いた場所は、川が穏やかに流れる河川敷。山々に囲まれ、空気は澄んでおり、湿気もほとんど無い。まさにキャンプにもってこいの場所だった。
「テントを張って、さてこれからどうしようって時に母さんがおもむろに言ったんだ。
『これから一ヶ月間、十流を鍛えます』だって。
それが地獄の始まりだった」
曰く、母・刹那が十流に与えた試練はまず、滝を斬ること。その次は、遠くにある大木まで――おそらく十キロ以上だろう、どんな方法でも良いから最短でたどり着くこと。
刹那はこの二つのみを十流に課して、自分は地元の子に剣道を教えるとのことでその場を立ち去ってしまった。故に十流は二つの課題をやりつつ、食料調達から自炊までしなければならなくなった。
「あのさ、滝を斬るのと、大木まで走るってどんな修行よ……」
ぽつりと呟く薫に十流は激しく同意した。
「まあ、俺も最初の内は訳が分からなかったが、いなくなる前に母さんが趣旨を説明してくれたんだ。
滝を斬る――、これは一撃の重み、意識の集中力を高めるためだと言っていた。
大木まで走る――、これは自分で状況判断を下し、最善の手で結果を残すことを目的にしている。
と言われても半信半疑だったけど」
苦笑する十流をよそに薫は大きく目を開いていた。
(それって、今まで十流に足りなかったものを補おうとする試練じゃない)
十流が退魔師になったのは春先。ある程度までは退魔師として動きは出来はじめていたがそれでは足りない。
滝を斬るという、意識を集中させて放つ一撃は、十流の長所たる重い一撃をさらに深化させ、大木まで走るは、十流になかった自分自身による判断力を身につけさせる。
「それだけ……じゃあないでしょ?」
「二週間ぐらいは自分一人でやって、その後は、戻ってきた母さんと組み手だよ。まあ、最初の課題は継続したままだったけど」
「刹那さんと戦ったの?」
「一撃も入れられなかったけど……」
それはもう最高の練習相手だろう。彼女はかの紅き閃光であり、魔力を使えなくなっても剣の腕はまだ衰えていない。そんな相手とずっと剣を交えていたのなら、十流の剣の腕はますます上達したはず。
「止めは始業式の前日になって、走って東京まで戻れだったかな。迷子にならなかったのが不思議だ」
「走って戻ってきたの?」
これには薫も心底、驚いた様子を見せる。聞けばフルマラソンの倍以上の距離を走ったというのだから、いかに十流の肉体が強化されたのかが窺える。
「どおりで……。でもこれでわかったわ」
「何が?」
夏休みの苦い思い出を話してげんなりしている十流に薫は確信を持って言う。
「十流の体はより退魔師に適応出来るようになったのよ」
「俺の体が?」
十流は自分の体をしげしげと見つめるがたいして変わった様子は無い。まあ、多少なりとも痩せたかなといった具合である。
「今までの十流は例えば、燃費の悪い車だったのよ。でも夏休みの鍛錬のおかげで持っているエネルギー、つまり魔力を効率よく使えるようになった。力の伝わり方が良くなったともいうわね」
薫の力説に十流は曖昧に頷くことしかできない。
言われてみれば朝も体育の時間も使う力は同じなのに、より速く、より力強くなっている。
だが如何せん実感が沸かないのが正直な感想だった。
「戦いの時は問題なしでも、普段はもっと力を押さえた方が良いわ。でないと今日みたいに目立つし……」
「っていうか、薫はどうなんだよ。ずいぶん目立ってるぞ」
「私はちゃんと押さえています。もし加減しなかったら、金属バットだってへし折れるもん」
豪語する薫に十流は閉口してしまう。
本気の薫なら出来るだろうな。ただのボールで金属バットを折るぐらい。
それにしても薫の言う通りなら、自分はより薫に近づきつつあるということではないか。
薫を守れるくらい強くなる――、この壮大な目的に少しは近づけたのかな。
ふと薫の顔を見ると、向こうも気付いたらしく優しく微笑む。それが言いようもないほど可愛く、一瞬、ドギマギする。何か言わないとこっちの考えが悟られそうで十流はとっさに言葉を紡ぎ出す。
「薫は……、そのなんだ。夏休みどうだったんだよ」
「私は――」
次の言葉を出そうとしてただならぬ気配を薫は肌で感じ取る。
立ち上がり厳しい表情で気配のした方を見る。
これは闇の使い?
新学期そうそうだというのに。
「十流!」
呼びかけられた十流はすでに立ち上がり、薫と同じ方向を向いている。
「気配が小さい……。闇の使いか。方角はプールサイドかな?」
一人、呟く十流の顔を薫は驚きで見つめる。
以前の十流だと狭い範囲でしか、闇喰いや闇の使いの気配を察知することが出来なかった。だが今はその範囲が格段に広くなっている。
「どこか間違っていたか?」
薫の視線に十流は訝しげに訊く。
「いいえ。概ね合っているわ」
気配の位置から規模まで的確に把握している。これも修行のおかげかと薫は納得する。
「行くわよ、十流」
「ああ」
そう言って二人は同時に駆けだした。
「うん?」
「あれ?」
だが十流と薫は全く逆方向へと走り出そうとしていた。
「十流、屋上の出口はこっちよ」
諫めるように顔をしかめた薫に対して十流は当然のように言い放つ。
「だって向こうの端から飛び降りれば最短でプールサイドに行けるだろう?」
十流が指さす方角は確かに気配のした方向であり、プールサイドもある。
だが屋上から飛び降りるという発想は薫にも、以前の十流にも無かったことだ。
(言ってることは的を射ている。まあ、私達――退魔師なら屋上から飛び降りても怪我しないから大丈夫か)
薫は微笑すると、十流の肩に手を置く。
「わかったわ。十流の言った方法でいきましょう」
薫は言うとすでに走り出し、十流はその後を追いかける。
屋上の端に向かう途中で、二人は堺面世界へと飛び込み、勢いそのままに屋上の端から飛び降りた。
難なく着地すると、さらに加速してプールサイドに向かう。
学校のプールはその周りを金網で囲まれており、授業や部活で使用する以外は、唯一の出入り口は南京錠で施錠されている。
やや先行した十流は、その出入り口を問答無用で蹴破り、中へと入るなり十流は絶句する。
「げっ」
その目に映り込んだものは魚。だが大きさの尺度がまるで違う。ご飯のお供に出てくる焼き魚のサイズでは無く、ゆうに五・六人前はあろうかというサイズ。大きな黒光りする瞳、腹の部分からは本来ならありえない手があり、三叉の槍を携帯し、さらに足があり、地面に立っている姿は珍妙でしかない。魚の姿をした闇の使いはざっと見て五匹、プールサイドを隔てて二匹ずつ、奥の中央に一匹。
異形な姿に驚く素振りも見せず薫は言う。
「十流、アンタは――」
薫の声がかかる前に、十流は自分の武器――討牙を呼び出し、自分たちに気付いていない手前の魚を一刀両断にする。
(速い!)
攻撃の速さもそうだが、そこに至る判断力が速かった。以前なら自分の指示を待ち、攻撃に転じていたが、現在の十流は指示がなくても自分の判断で対処した。
成長の証をまざまざと見せられて薫は内心で、寂しい想いをしつつ、十流が退魔師として成長してくれたことに喜んでいた。
負けていられない。
反対側に回った薫は、桜花を呼び出して、仲間がやられたことに驚く魚を一撃で沈める。
「おおおおっ」
「たあああっ」
続けて十流と薫は三匹目、四匹目を難なく滅してしまう。
取り残された最後の一匹は、体毎右往左往し、左右から迫る二人を凝視する。
「ギョギョギョ? ギョオオオウ」
突然の襲撃者ならびに仲間が次々と倒されて驚いたのか突然の奇声を出して、魚は大きく跳躍すると、金網を超えて、プールサイドから逃げ出す。
「待ちなさい!」
薫が追いかけようとすると、十流は手でそれを制する。
「どうしたの? 早く追いかけないと!」
「いいや、たぶん無駄足になる。それに深追いは厳禁だろ?」
「……何か考えがあるの?」
十流の妙な落ち着きに薫は眉を寄せながら、桜花を鞘へと納める。十流も討牙を鞘に納めると今し方、考えた事を話す。
「見たところ、このプールサイドに人はいない。たぶんまだ襲っていないと思う」
十流が振り向くと同時に薫も無人のプールサイドを見やる。水面には二人の姿が揺らめきながら映るだけ。水中に人がいる気配はないし、更衣室ならびに、機械室にも人がいる様子はない。
たいてい闇喰いは人を襲う場合、堺面世界へと引きずり込む。その方が証拠はほとんど残らないし、天敵たる退魔師に発見されるリスクも回避することが出来る。
「あの闇の使いはただの索敵が目的だったのか、それとも待ち伏せていたのか、そこまではわからないが、少なくとも闇の使いの親である闇喰いに俺たちの存在がばれたはず。だとしたら闇喰いはもう動きを見せないし、俺たちがどんなに血眼に探しても見つからない」
真剣な眼差しで話す十流を見ながら薫は思った。
随分と理路整然と話すようになったな。なんだか説得力もあるし。
薫も冷静になって状況を考えれば十流の言うことは一理ある思った。
「……と言ってみたけど大丈夫かな?」
最後の詰めの部分で十流の弱気な声が、さっきまでの論説をぶち壊した。
「あのね……」
こめかみに手をやりつつ、薫も一考する。
「でも十流の言う通りだわ。私もついかっとなってしまった。ここは様子を見ましょう」
踵を返し、歩き出す薫に十流はさらに弱々しく言う。
「なあ、薫。俺に考えがあるんだけど……」
「?」
先程のかっこいい十流はどこへやら。
そこに立っていたのはネガティブ思考の十流だった。
「ほらよ、薫」
「どうも」
放課後、太陽が西に傾きつつ、強い光を発し学校の隣にある公園を照らす。
高台にある学校に併設された公園は、森林に囲まれ、時折拭く風は、熱風では無く、むしろ心地よい。
とんがり帽子のような木製の屋根の下、二つのベンチに十流と薫は向かい合うように座っていた。十流が買ってきた緑茶をすすりつつ、薫は向かいに座る十流をじっと見ながら言う。
「十流にしてはずいぶん考えたんじゃなあい」
「まるでいつもは考えていないように聞こえるんですけどね」
憮然とする十流に薫は軽く笑う。
十流の提案した案は、闇喰いの宿主は学校の関係者であることは間違いない。生徒か先生か、どちらにしても授業が終わるまで行動を起こさないであろうということ。ならば次に闇喰いが動き出すのは放課後かもしくは夜。場所は学校か街の中。だとするなら学校に居続けるよりも、街で闇喰いが暴れても対処出来るように外で待機していた方が良いというものだった。
「私は嬉しいな。十流がそこまで考えるようになって。育てる甲斐があるというものよ」
声音は確かに嬉々が含まれており、冗談で言っていないことはわかる。
「そうは言ってもまだ自信が無いんだよな。違ったらどうしようかと……」
「良いわよ。私が全力でサポートするから。第一、十流の意見に賛同したのも私だし」
よくよく考えて薫も十流と同じ結論に至った。おそらくは最善の方法だし、例え失敗しても十流を責めるつもりもない。
とはいえ、今のところは闇喰いの気配は感じることが出来ず、時間を持て余していた。
「う〜ん、そうだ。夏休みの話してなかったね」
「ああ、そう言えば。薫は京都に帰省していたんだろう? どうだった?」
「え〜とね……」
薫は過ごしてきた夏休みについて、十流に一部を隠して話をした。帰ってきた早々、姫川豪太の親ばかに辟易したこと。野井原つみぼに会って、彼女がリハビリを頑張っていること。大群の闇の使いと戦ったこと。早乙女姉妹との仲を取り持ったこと。アカデミーで夏休みのほとんどを過ごしたこと。手振り身振りを交えて薫は楽しそうに語った。訊いていた十流も自然と笑みが溢れた。
「そっか。おじさんも、おばさんも元気そうで良かったよ。それに早乙女紫穂か……。母さんの元部下で今は会長の秘書でしかも退魔剣士。母さんに話したらびっくりするだろうな」
ひとしきり話終えて喉を潤すようために薫はペットボトルに口を付ける。
「薫も夏休み中は頑張っていたんだな。これじゃますます差は拡がるばかりだな」
頭を掻きながら苦笑する十流に、薫は目を伏せた。
「そうでもないよ……」
突然、低く呟いた声に十流は目を丸くする。薫の表情は暗く沈んでいる。
「どうかしたのか?」
ただらぬ雰囲気を感じて十流は姿勢を正して真面目に訊く。
薫は一度、十流を見てから、茜色に染まる空を物憂げに見る。
「確かに頑張った……。でもね、その脇で何やってるんだろうっていう私がいたの」
今度は視線を地面に向けて、薫はため息をつく。
「私達、中学三年でしょ。今頃だったら受験に向けて勉強とかするじゃない。まあ、私はそこまで勉強しなくても高校は受かるし、十流もそうでしょ?」
十流は首肯で返す。十流も薫もこの街の同じ公立高校を受けることになっており、薫はほぼ確実で十流は今の成績を落とさなければ受かると担任の教師から言われている。
「勉強以外にも、私達と同年代の子達は、海行ったり、山に行ったり、花火とか祭りとか行ったりしてさ。楽しんでいると思う。なのに私は退魔師のことばかり……。私だって少しは夏休みを楽しんでも良いんじゃないかと思って。中学三年の夏はこれ一回きりなんだしって思ったり……」
どうしてこんなに思ったことが滑るように出るのかな。
薫は口を動かしながらふと考えた。
京都にいる頃は考えても口に出さなかった。聞いてくれる相手は山ほどいるのに、話すことはなかった。それは返ってくる答えが分かりきっていたからかもしれない。
でも目の前の少年なら、ちゃんとした答えを言ってくれるような気がした。
賛成でも反対でも、屈託無く自分の意見を言ってくれる幼馴染みなら、心の隅に追いやった想いを受け止めてくれると考えた。
「やっぱり駄目だよね。そんな風に考えるの。私は退魔師なんだからさ……」
顔を上げて、上目遣いに十流を見やると、口をきつく閉めて十流がこちらを見返している。
う〜ん、不謹慎だよね。
半ばあきらめていた薫に十流は首を傾げる。
「そんなに駄目なことか? 退魔師以外のことを考えるの?」
「えっ?」
腕を組み、十流は自分が思ったことを口にする。
「俺だって夏休み中、山籠もりしていたけど、頭の中は、テレビ見たいとか、漫画見たいとか邪な事ばかり考えていたぞ。そういえば定番のスイカや梨すら食べていない」
悔しそうに拳を握り、その後、目を見開く薫に言う。
「俺も薫とは違うけど思うところがあってさ。俺が退魔師になったのは春先だろう? どうしてもっと早く退魔師にならなかったんだろうって思って、そのことを母さんに話したんだ。
そうしたら、
『確かに退魔師にならなかった時間は、人様から見たら無駄に見えるかも知れない。でもその時間があったから今の十流がいるんでしょう? 人生に無駄な時間なんて無い。全ての時間がその人を作りあげていく』ってさ。
それを訊いて思ったんだ」
遠いあの日、全てを絶望した事を思い出す。
「闇喰いに襲われた人々を見ながら何も出来なかった自分がいたからこそ、今の俺は頑張ることが出来る。どんなにつらい修行でも乗り越えなくっちゃって思う。そんな心境になれるのも退魔師になれなかった時間があったからなんだ。だから無駄だと思うことも今の自分を作る要素だと思うんだ」
向かいに座る幼馴染みに、十流は笑って言う。
「薫は退魔師以外のことをやって良いと思う。花火をするも良し、祭りに行くも良し、それは無駄な時間じゃ無い。薫という人物を作る大事な時間だと思う」
聞き終えて薫は心がすっとするような気がした。
これだ。この十流の言葉を訊きたかったんだ。
夏休み中、連絡もなく、イライラしていたのは、寂しいのもあるが何より単純に十流の声を、言葉を訊きたかったから。
京都では、みんなに意見を求めればそれなりの答えが返ってくる。
でもそれは配慮を重ねた通り一遍の答えでしか無い。
自分が求めたのは十流のような真理を突くような答え。
嬉しくて薫は目を細めて、十流を見る。
十流はそうだと言って立ち上がる。
「週末、大型プール園に行かないか? 夏休み、頑張ったってことでさ。九月だけどまだやってるはずだし、なんなら平泉も連れていこうぜ。川田も一応、誘ってみるか」
子供のようにはしゃぐ十流を薫は微笑んで見ていた。
そして自分も行く旨を伝えようとして、
「なんだ薫。もしかして水着を持っていないのか。いわゆるスク水しか持っていないとか?」
がくんと肩が落ちそうになった。
「あのね! 私だって水着ぐらい持っているわよ。それもビキニよ、ビキニ。私の水着姿を見たら十流、鼻血出して卒倒するわよ」
鼻を鳴らして豪語する薫の姿を十流は凝視してみる。
足の先から、スカートの先から決して太くない腿が見えて、夏場のため薄いシャツを着ているせいか体のラインがいつも以上に見える。甘い物好きなのにお腹は出て無くて、さらにその先は曲線を描き、開かれた胸元はほんのり日に焼けている。洪水のように雫を流す目は大きく、長い髪はブラウンに染まっている。口さえ開かなければ恐らく世の男性がほっとかないほど、可愛い女の子である。
十流の視線が再び胸の辺りへと移り、そして首を捻った。
「なっ、なによ、その反応。しかも私の胸を見ての反応。侮辱にもほどがあるわ」
薫は立ち上がり抗議の声を上げる。
「だって薫のビキニ姿なんて想像できなくてさ」
十流の正直な感想に薫は憤慨する。
「こう見えても胸は少しずつ大きくなっているんだから。この前、ブラのサイズ一段階上げたし」
「たいして変わっていないような……」
「それじゃあ何? ここで脱いで見せろって言うの。十流のどスケベ。ど変態」
「言ったのはそっちだろうが!」
額と額が合わさるぐらい顔を近づけて、互いの怒っている顔を見るなり、二人は笑った。
「ははっ」
「ふふっ」
どちらが先に吹き出したのか分からないけど、二人は腹の底から笑った。いつ以来だろうか、こんなにも馬鹿みたいに笑ったのは。
「――ふう。いいわよ。週末、プールに行きましょう。でも楽しい時間を過ごすために……」
「闇喰いを倒さなきゃな」
十流と薫はがっちりと拳を重ね合わせた。
夜の八時過ぎ。堺面世界――学校の屋上に異形なる集団が占拠していた。
贋物の月光に照らされた鱗は眩しく、黒光りする瞳は上下左右、けたたましく動く。
体は魚、えらの下からは腕が生え、三叉の槍を持ち、腰から足が伸び、コンクリの床を歩く。 魚の群れは、薪を組み立て炎を吹き上げるかがり火を囲んで、二重、三重に練り歩く。
その様子を一際高い祭壇から見つめる二匹の魚――この群れの親たる闇喰い。
一匹は青々とした色の魚で、ひょろりと長い髭が左右に伸びる。
もう一匹は鯛のように赤く、目から睫毛が伸びている。
やがて青色の魚は腕を天に高く掲げ、注目する子達に宣言する。
「我々は魚!」
『ギョ!』
「我々は川も海も泳ぐことが出来る」
『ギョ!』
「しかああし、唯一、泳げない場所がある」
瞳を閉じ、拳をぎゅっと握る。
「それは――空だ!」
『ギョギョギョオオオオ』
一際、盛大に声が上がり、青色の魚は静まるの待った。
「だああが、我々が進化すれば空も克服できる。故に我が子らよ。人間の心を刈り取るのだ。そしてさらなる高みを泳ぐのだあああ」
『ギョオオオオオオオ』
「そうはいかないわ!」
ここ一番の盛り上がりを凜とした声が遮る。
魚の群れが声のした方角を一斉に見やる。
そこは貯水塔の上、二人の男女が月光の下、魚達を見下ろす。
腕を組み、鋭い視線を投げかける――姫川薫と魚の群れにげんなりとした天宮十流。
突然の来訪者、そして天敵に魚達は狼狽える。
「うへえ、魚が一杯……」
最早、見るのでさえ嫌な魚の姿に十流は弱気になる。
「どうしたのよ。これから戦いだって言うのに」
「だって、夏休み中、食べてたの主に焼き魚だぞ。背筋が凍るとはこのことだ」
よりによって何故、魚の形なのか。
化けて出てきたんじゃ無いだろうか。
十流の様子に薫はため息をつき、鼻息荒く言い放つ。
「魚が何だって言うのよ。こいつ等全員、三枚おろしにしてあげる」
ニヤリと笑った顔を向けられて魚たちは一層、慌ただしく動く。
「静まれえ! 我が子らよ」
青色の魚と赤色の魚が一同の前に立つ。
「あいつらは私達の天敵よ!」
『ギョ!』
赤色の魚が奇声のごとく声を張り上げる。
「狩りの前に奴らを串刺しにして、丸焼きにするのだあ!」
『ギョオオオオ』
親の叱責に子供達は気勢を上げ、手に持つ槍を振り回し十流と薫に殺気を放ち始める。
「丸焼きだって。どうするの、十流」
「さすがに自分が丸焼きにされるのはゴメンだな。それに勝たないと週末の楽しみが無くなるからな……。やるぞ、薫!」
「ええ!」
二人同時に左手を前に突き出し叫ぶ。
「来い! 討牙」
「おいで! 桜花」
空間を裂くように現れた二振りの剣。黒鞘に納められた討牙と白鞘に納められた桜花が各々の主の手に握られる。
そして左腰にあてられると剣を吊ったホルダーからベルトが伸びて腰に巻き付く。
柄に手を伸ばし、剣を抜くと、十流の瞳は紅くなり、薫の髪は金髪へと変わる。
すっと剣先を魚の群れに向けて宣言する。
「闇を打ち砕き、切り裂くこの討牙の名において――」
「桜舞散り闇を切り裂くこの桜花の名において――」
『お前達を討つ!』
二つの影が舞い降りて魚の群れへと突っ込んでいく。
「おおおおっ」
「やあああっ」
闇夜に踊る光は、目の前の敵を切り倒す。
魚達は最初のうちは動揺を見せていたが、仲間がやられていくのに憤慨したのか、手に持つ槍で応戦してくる。
だがそんな物に怯む事無く十流と薫は肉薄していく。
「よっと」
不意に十流はしゃがみ込むと、手をかざした薫の姿が現れた。
「業火将来!」
炎弾は群れの中心へと放たれて数匹を巻き添えに炎上していく。
さらに、
「業火将来!」
続け様に十流が炎弾をぶち込み、魚達の悲鳴が辺りを包む。
(申し合わせた訳では無いのに……)
薫は心の内で驚いていた。
十流は自分が思ったとおりに動いてくれる。前々から動きのレクチャーをしたわけでは無し、口裏どころか、ああしろ、こうしろとは逐一、言っていない。なのに十流は居て欲しい場所に、やって欲しい攻撃をしてくれる。
トンっと背中に何かが当たり、それがすぐに十流の背中だと気付いた。
なんて安心できる背中なんだろう。
目の前の戦いにだけ集中出来る。見た目は毅然としていても私だってあきらめたり、駄目になりそうになる。十流という支えが自分を奮い立たせてくれる。
自分がそう思うように十流も同じように思ってくれているのかな。
そっと肩越しに十流の顔を見れば、紅い瞳がまっすぐに敵を射抜いている。
(口うるさいだけの幼馴染みと思われているのかな。ううん。そんなこと無い。十流は私のパートナー。そうだよね?)
十流の斬撃が敵を滅していく中、また薫と背中合わせになる。
(むう、今日の薫は動きがキレてるな。せめて薫の邪魔にならないようにしないと)
薫が全然、思っていないことを十流はネガティブに考えていた。
そして山籠もりする前、母親に言われたことを思い出す。
――このままでは薫ちゃんの足手まといになる。
それすなわち自分は弱いと言うこと。
(絶対に嫌だ。薫を守れるくらい強くなるって決めたんだ。あいつのパートナーで居続けるたに。俺は立ち止まらない)
肩越しに薫の顔を見れば、凜々しい顔立ちが一層眩しく映る。
薫が退魔師になった頃、自分の力の無さにふてくされて、強くなることをあきらめた。家に閉じこもり、目の前の悲劇から逃げていた。忘れたくても忘れられない情けない自分。
ちょっと、いいや大いに寄り道したかもしれない。
だがもう迷わない。
共に戦う少女を守れるように、願い、誓いを込めて、十流の紅い瞳はさらに輝く。
十流と薫はその場で回転すると、向かってきた敵を十流は討牙を振り落としで、薫は桜花を振り上げて倒す。
加速を増して敵の数は減り、とうとう二匹の闇喰いが残るのみ。
髭の長い青色の魚と睫毛の長い赤色の魚。
三叉の槍を構え、ふるふるとその身を揺らす。
「よくもおおお、私達の息子を――」
「きぃぃぃぃ、許さなああい」
二匹の脅し文句に二人は肩をすくめる。
「闇喰いに許さないって言われてもな」
「まあ、私達――退魔師は闇喰いに恨まれてなんぼの世界ですから」
十流と薫はそれぞれの敵に向かい合い、十流は青い魚を薫は赤い魚を目指して疾駆する。
十流の横凪の斬撃が空を裂くように青い魚に迫るが槍で防御する気配がない。
何か企んでいるのか。
一瞬、考えてしかし攻撃は止める事が出来ない。
討牙が魚を斬る寸前――水色の四角い物体が攻撃を受け止める。
「これは?」
水色というより半透明に近い物体は固く、力を込めても剣で斬る事が出来ない。
「水圧と言うのをご存じかな?」
驚く十流を嘲るように青色の魚はその大きな目を向けて話始める。
「水というのは結構、固いのだよ。これは術式で自然の法則を曲げて作ったものだがね。簡単には破れぞ」
なるほど高い場所から水面に飛び降りると、コンクリート並の強度となる場合がある。
テレビでやっていた実験模様を思い浮かべながら十流は、二度三度、角度を変えて斬撃を加えるが水の壁はそれを難なく防ぐ。
「死ねえええ!」
大きく振りかぶった槍の先端を受けつつ、十流は大きく後退した。
「ほほほほ」
「厄介な術式を作ったわね」
薫の斬撃も水の壁によって阻まれてしまう。
それならばと数回、速度を速めた斬撃を繰り出すが水の壁は四方八方から発生して防いでしまう。
内心、舌打ちしたのも束の間、赤色の魚は大きくのけぞる。
「!」
反射的に顔を逸らした瞬間、赤色の魚は口から何かを吐き出し、薫の横をギリギリ通過していく。
はらりと薫の髪の毛が舞い、とっさに頬に付いたものを拭う。
「それも術式? 穴まで空けるなんて」
ちらりと見ればコンクリの床に小さな穴が空いている。
「ほほ。魚の私達には造作も無いこと」
高笑いする魚に薫は緊張度を増す。
原理は水圧カッターのようなものだろうか。いくら退魔師でもまともに受ければひとたまりも無い。
再び体を大きく仰け反らせた魚の間隙をついて、薫は大きく跳躍して間合いを開ける。
水は再びコンクリの床に穴を空けた。
二匹の魚は形勢逆転を確信してか、手を取り合いその場で回転しながら踊り始める。
某博士を彷彿させる笑い声に薫は頭を痛くする。
「ああっ、もう。うざすぎ。でも水の使い方はさすがね」
相手を褒めつつ、強かに勝利への方程式を組み立ている薫の傍ら、十流はじっと魚の方を見ている。
「こういう厄介な奴は各個撃破がセオリーだけど……」
横目でちらりと見ると、十流はやや沈黙した後、かぶりを振る。
「いいや。これぐらい一人で何とか出来ないなら、俺はもう一度、山籠もりするよ」
「あら、だったら私もご一緒しようかしら?」
かすかに微笑を込めた台詞に十流は驚く。
「いいや、薫は辞めた方が良い。ていうかお前には必要無いだろう」
薫の実力なら山籠もりする必要が無いとの主旨だが、薫は十流の言葉にむすっとした顔になる。
「ホント、十流って女心がわからないのね」
「……女心?」
山籠もりするしないに女心が関係するのだろうかと本気で悩む十流をよそに薫はすたすたと歩き始める。
「それじゃあ、あっちはよろしく」
薫に促されて、自分の標的たる青色の魚を見る。
「水の壁か……。丁度いいや」
そう言って十流は討牙を鞘に納めて歩き始めた。
「おやあ、武器を納めるとはもう諦めたのかな?」
踊りを止めた青色の魚は十流に向き直り、意味も無く持っていた槍をぶんぶん振り回す。
十流は挑発は訊かずに歩みを止めない。
――本来は鞘に納めなくても良い。だが力を解き放つイメージを持つために鞘に納める必要があった。
十流から発せられる隠れた殺気に気付いたのは薫のみ。
(力を集中して溜めている……。私でも受け止める勇気は無いわ)
薫は人知れず生唾を飲み込んでいた。
「今から穴だらけにしてやる」
青色の魚は上体を反らし、口から水の弾丸を放つ。
「遅い……」
十流の紅い瞳は弾丸の射線を見抜き、ほんの少し体を動かしてやり過ごす。
「ギョギョ?」
目をぐるぐる回転させて驚く魚に呆れることさえ面倒くさかった。
たしかに威力はある。だが予備動作が大きすぎるし、どんなに口をすぼめても元が大きいから簡単に水が吐き出される位置がわかる。
これだったら『止まる景色』は必要無いな。
見える現象をスローにする能力は夏休みの鍛錬のおかげなのか、自分の意思で発動するまでに至っている。ほんの数秒たらずだがそれで十分。だが今回は活躍しなさそうだ。
だんだんと近づいてくる十流に青い魚は何発も水の弾丸を放つがどれも当たらない。代わりに後方の床に穴が空くだけ。
「ギョ、ギョ、ギョオオオオ?」
何故、当たらない。
本気で思っているその顔が間近に見えるほど、十流と青色の魚の間合いは近づいていた。
十流の左指はすでに鍔にかかり、いつでも抜ける状態にある。
「斬るのか? でも出来るのかなああ」
半透明のブロックが大きくなり、壁となって闇喰いを守る。
「ギョギョ。無理無理、絶対――」
自分の体に何かがすり抜けた感触があった。目の前の少年の右手には刀が握られている。
ずるりと景色が横斜めにずれた。
「ギョ?」
ずれた原因が自分の体が斬られたと気付いたのは目の前にあった水の壁が崩れ落ちたから。
「どうやって――?」
「五光閃――初手の一撃。俺が出来るのはここまで。母さんなら後四回は斬ってるぜ」
言葉の意味を訊こうにも口はぱくぱく動くだけ。
やがて青色の魚は闇の露になって霧散した。
「あんた!」
赤色の魚から悲痛な声が発せられるが答えは返ってこない。
夫婦だったんだ、と薫は今さながら驚きつつ、冷淡に言い放つ。
「よそ見をしている暇があるのかしら?」
魚はぎっと睨み、その後、にやりと大きな口を歪ませる。
「ほほ。武器を押さえつけられている奴の言う台詞では無いわね」
薫の武器――桜花は三叉の槍にがっちりと押さえ込まれている状態。当然、相手も槍で薫を突くことが出来ないが、切り札は両手が塞がっても使う事が出来る。
「このまま、あなたの体に穴を空けてやる。その後にあいつも穴だらけにしてやる」
瞳を悲しみと怒りで充血させながら、上体を反らしていく。
水の弾丸か。
確かにこの近距離で受ければただではすまない。
だが、
「ちゃんと桜花を押せえておくことね。でないと……切り刻むわよ」
言われなくてもと思い、魚は水の弾丸を発射しようとする。
「……冷たい」
異変にすぐに気がついた。だがその理由が思いつかない。
左手から急に寒気が押し寄せてきたのである。
体の防衛本能だろう、体を元に戻し、左手に持っていた槍を落としてしまう。
手が小刻みに震え、麻痺したように動かない。
「……何が?」
はっとして薫を見れば、右手に持つ桜花がきらきらと光を放ち、刃には透明な物が貼りついている。
それが氷だと気付いたのは、薫の周囲が冷気に包まれていたからだった。
「あなたは冬に咲く桜を知っているかしら?」
薄い笑みを浮かべ、闇喰いに問いかけるが返答は無い。
「魔技――寒桜。氷の刃、その身で味わってみなさい」
上段に構えて、振り下ろすと、氷の粒がまるで花弁のように宙を舞う。
「ひぃぃぃ」
寸前のところで水の壁が出現し、攻撃を止めるが、瞬間に凍り付いて、氷の塊となって床に落ちる。
「私の斬撃と、あなたの術式での防御。どちらが速いかしら?」
鋭く、速い氷の刃が何度も襲いかかり、魚は何とか水の壁で防ぐが、ことごとく氷と化し、盾の役割を果たせない。
氷の刃が体を掠める度に、切り裂かれた皮膚は凍り付き、周りは青く変色していく。
「つ……冷たい……」
もはや術式すら発動できないほど、体は震え、何度か後ずさりする。
「あら、そんなに冷たかったかしら……。だったら――」
悠然と歩く薫の片手には氷の刃を宿した桜花が握られている。それが突如、ぼっとくぐもった破裂音と共に炎が吹き上がる。
「魔技――蓮華……」
桜花に今度は揺らめく炎が纏い、周囲の気温が一気に跳ね上がる。
「ヒィ……ヒィ……」
オレンジ色の炎をその目に焼き付けて、魚はあまりの恐怖に身動きが出来ない。
そして容赦ない斬撃が体を切り裂く。
「灼熱の炎と共に――舞い上がれ!」
闇喰いの体から炎が噴き出し、柱のように上空へと昇っていく。
空から落ちる火の粉はまるで闇夜に映える花弁のようだった。
乾いた金属音を響かせて薫は桜花を鞘へと納める。そこへ紅い瞳が黒へと戻った十流が声をかける。
「薫……、お前。いつの間に魔技を? しかも二つ」
夏休みの間に習得したのはわかるが、一つ使えるようになるまで自分は相当、苦労をした。
二つ目はまだ完成形にほど遠く、足踏みしているというのに。
「だって十流が魔技を使えて私が使えないのは不公平でしょ」
なんじゃそりゃ、とひっくり返りそうになりながら、薫の立っている場所を見つめる。
床は焦げて黒くなり、闇喰いがいたという痕跡すら残していない。
「まだよ……」
十流の視線に気付いてか、薫は遠くを見ながら言う。
「まだ威力が足りない。寒桜、そして蓮華……。さらに昇華させないと。それにもっと魔技を使えるようにならなきゃ」
どこもでその瞳は強く、前を向いていた。
これは敵わないな。
十流は軽くため息をつくと、薫の横に並んで暫し感傷に浸っていた。
現実世界へと戻ってきた二人は、どこからともなく鳴り響く虫の鳴き声を背に夜道を歩いていた。一人は釈然としない気持ちで、一人は悠々と歩く。
十流は思った。
夏休みの間、自分は相当、頑張ったはずだ。薫の横とは言わない。せめて足元ぐらいは強くなったと自負していた。ところが蓋を開けてみれば、薫はさらに遠くに行ってしまった。
いつになったら薫に追いつけるのだろうか。
いつになったら胸を張って薫のパートナーといえるのだろうか。
「はあ……。うえあ!」
哀愁漂うため息をついた先、薫の顔が視界に飛び込んできた。
「何、ため息ついているのよ? またネガティブモード?」
顔を覗き込む薫から視線を外して、何度か口を開閉するがなかなか言葉にならない。
「もしかして私が魔技を使えるようになったから凹んでいるとか?」
「ぐっ……」
核心を思いっきり突かれて、十流はますます口籠もる。
やがて消沈しながら十流は口を開く。
「いや、正直言えば薫の足元ぐらいは強くなったかなと思ったのにさ。なかなか差が縮まらないし、薫の横に歩くのはいつの日かと思いにふけっていて……」
肩がずいぶんと落ちた十流を見て、薫はわずかに眉をひそめる。
「十流……。私がね、私が必死になって魔技を覚えたのは十流に追いつかせないため。私はずっと十流の目標で在り続けたい。そうすれば十流はずっと私を追いかけてくれるでしょ?」
はにかむような笑顔で言った言葉に十流はしばし絶句した。
ずっと追いかける。それってどいう意味?
「それにほら――」
薫はすっと十流の手を取ると自分の手でがっちり握りしめる。
「こうすれば一緒に歩けるでしょ。肩を並べて歩くなんて簡単なんだから」
手から伝わる温かさ、風に乗って鼻孔をつく、薫の香り。心臓が飛び跳ねるぐらい高鳴る中、薫は十流の手を引っ張っていく。
「えっと……、なんか恥ずかしいな」
「そう言わないの。これも夏休みのご褒美だと思いなさい」
これは私自身のご褒美でもあるけど。
薫は嬉しくてたまらなかった。十流が強くなってくれたこと。成長し、パートナーにふさわしい人物へと変わりつつある。
そして何よりまた一緒にいられることが嬉しかった。
「今日の晩ご飯、私の部屋で食べましょう」
「ええっ? それって、その、あの……」
「実は素麺が余って仕方無いんだよね。十流、たくさん食べて」
「何だ、そりゃあ!」
宵闇の道を歩く二人の退魔師。
それぞれの夏休みを経て、再びその手を取り合う。
妄執の闇が牙を研ぎ澄ましていることには気付かないまま。