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堺面×共闘  作者: 葉月作哉
第一話
1/8

選んだ道

堺面×共闘

                             葉月 作哉

 

 人生を生きていくなかで幾つも決断しなければならない時がある。

 それがいつ、どこで、どんな状況で決断するのか。

 自分が生きていく道を。

 それを決めるのは誰なのだろう。

 親なのか。

 友人なのか。

 それとも得体の知れない者の声なのか。

 しかし最後に決めるのは自分自身に他ならない。

 例えその道が険しく、他人に理解されなくとも進まなければならない。

 進んだ先に何があるかはわからない。

 自分にしかわからないものを追い求めその道を選ぶ。


 ここは東京からほど近い、とある街。

 都心からそう離れず、通勤通学に事欠かないこの街では近年、人口の増加が著しい街である。

 駅を中心に開発が進み、ビル群が立ち並ぶ街の中心からはずれた、昔からの住宅街にある一軒家の庭から力のこもった声が聞こえてくる。

「八十九……九十」

 四月の朝は空気がまだ冷たく、吐く息は白い線を残す。

 木刀を持ち、素振りを続ける一人の少年。

 名は天宮(あまみや)十流(とおる)。中学3年生

 特技は剣道――ということにしている。

「百……っと」

 日課の素振りを終えると首を振り辺りをみまわす。

「いないな。よし、確か昨夜見たあれはこうやって」

 木刀を左手に持ち、剣先を後ろにして腰のあたりでとめる。

 右足を一歩踏み出し、中腰になって右手を木刀にのばし一気に抜き放つ。

 空気を裂ける音が鳴った。しかしそれだけである。

「やっぱアニメのようにはいかないか。これで壁とか切れたらいいのにな」

 木刀を振り回し、ありもしない願望を口にする。

 十流の趣味は漫画とアニメ観賞で、特にバトル物と呼ばれるものには目がない。

 剣道をはじめたのも親の意向もさることながら、どこぞの主人公のようにかっこよく相手を倒すことに魅力を感じていたからである。

「よし今度は……」

「何やっているのかしら、十流?」

 その聞き覚えのある声におそるおそる顔を向ける。

 庭を臨む縁側から、長い黒髪を首のあたりで結び、エプロン姿の女性が十流を呆れた様子で見ていた。

 女性の名は天宮(あまみや)刹那(せつな)。十流の母親である。

「か、母さん。まさか見てた?」

「全部見てました。そんなの剣道にはありませんよ。ましてや壁を切られたらたまったもんじゃあありません」

 刹那は十流の趣味など百も承知だった。そして、なにかと現実と仮想を混ぜてしまう十流の行動にいつも困惑していた。

「罰としてもう二十回素振りをしなさい。でないと朝ごはん抜きにしますから」

 刹那はそう言って縁側から居間の方へと向かう。

「なんでだ? 絶対さっきまではいなかったはずなのに。母さん気配を消したりできるのかな?」

 十流はいつも刹那の不可思議な行動に疑問を持っていた。

 いないと思ったらいきなり現れるし、そこにいると思ったらいないし、実のところ刹那は忍者の末裔ではないかと本気で考えたこともある。

 ただそんなことを聞く勇気は十流にない。

 聞いたら最後、ごはん抜きでは済まされない、もっとすごい罰が待っていると知っているからである。

 追加の素振りを終え汗をタオルでしっかりと拭き、縁側から居間に入るとテーブルには二人分の朝食が用意されていた。

 見計らったように置かれた御飯と味噌汁からおいしそうな湯気が伸びる。

 すでに座っていた刹那を目の前にしてイスに腰掛け一緒になって声を出す。

「いただきます」

 十流は母親と二人暮しで父親は幼いときに病気で亡くしている。

 十流が物心ついて間もない頃にいなくなったため、父親の顔は写真でしかわからない。

 だから十流にとって刹那が母親であり、父親なのである。

「う〜ん」

 十流は御飯を食べながら母親の細い腕を見る。

 彼女の趣味は剣道。ダイエットのためにと始めたがいつの間にか夢中になり、市内大会で優勝するほどの実力者となっていた。

 ゆえに刹那は母親であり、父親であり、そして剣道の師匠ということになる。

 小さい頃から手合いの相手だったためその強さは身に染みてわかっている。わかっているからこそ疑問が沸いてくる。

 どうしてあの細い腕からあれほど速く、そして力強い太刀筋が生まれるのかと。

「どうしたの? 母さんをじっと見て」

 そんな十流の気持ちを知ってかしらずか刹那が笑顔で問いかける。

「いや、母さんはどうして剣道がうまいのかなと思ってさ」

「ふふ、年の功ってやつかしらね。十流も真剣に練習すればもっとうまくなれるのに」

「それは……」

「いつの間にか練習にも身が入らなくなったじゃない。どうしてかしら? もしかして剣道嫌いになったとか」

 刹那の詰問に十流は答えに迷っていた。うまく言葉にできない。

「嫌いになったわけじゃあない。うまくなりたい気持ちはある。あるけどもっと違う力を身につけたいというか……守りたいというか……」

「守りたい? 何を?」

 刹那の不思議そうな顔を見て十流は手を振って否定する。

「それは言葉違いというかなんというかその……」

「まあ、十流も中学三年生なんだから色々、思うところはあるか。そろそろ本気で進路をきめないと」

「うん。五月に入れば担任の先生と面談とかあると思うしその時までには考えるよ」

 そう言ったものの十流はある程度の進路は決めている。地元の高校なら今の成績で十分だが、油断したらその道は断たれてしまう。

 十流は進路のことでなく、別の事で思い悩んでいた。

 御飯を箸で一口食べると、刹那の後ろに掛けてある時計に目をやる。

 いつもなら学校へ行く時間をとうに過ぎていた。

「まずい。もうこんな時間だ」

 十流はお椀と箸を無造作に置くとイスから立ち、急いで階段を上がり、自分の部屋へと入っていく。

 クローゼットを開け、練習用に着たジャージを乱暴に脱ぎ棄てて制服に着替える。

 髪を整えている時間も無く机に放り投げられた鞄を手にして階段を下ると、お弁当を持った刹那が待ち構えていた。

 十流はそれを受け取るとかばんに押し込む。

「今日は稽古の日よ。遅刻しないで道場にくるのよ」

「わかってるって」

「遅刻したらどうなるかわかるわね……」

 刹那の笑顔とその裏に隠された恐ろしさに十流は固唾を飲む。

「いってきます」

 その場を離れたい一心でそして学校に遅刻するという焦燥感から玄関をおもいっきり開け家をあとにする。


 十流の家の周りは古くからの住宅街が広がり、そこから街の中心地とを隔てる川を越えると商店街が見えてくる。

 その商店街を抜けると高台へ向かう坂があり、その坂の上に十流の通う学校がある。

 坂を舗装する道路には周りの木々から落ちだピンク色の花弁がこれでもかと敷き詰められている。

 その道を真新しい制服を着て新品の鞄を持って歩く者、年月を経てくたびれた鞄を持つ者、談笑する者、片手に本をもって読みながら歩く者。

 様々な人間模様が映し出されるこの坂を目指し十流はひた走る。


 なんとか遅刻を免れた十流は、ホームルームを終えて最初の授業を受けていた。

 新学期が始まり、そして中学校最後の学年ということもあってか、授業中はピリピリとして雰囲気がただよっている。

 なかには勉強などする気も無い者がいるが、十流は……。

「…………」

 黒板をせっせとノートに書き写していた。

 ただし教師が黒板に書くのを止め、話をはじめると目は教師ではなく虚空に向けられる。

 母親から『文武両道』の精神を叩き込まれているため、成績は悪くも無く、かといって優秀というほどでもない。

(このまま無理しなくても公立の学校にいけるだろうな。でもその先は……)

 周りが思っているほど十流は進路について悩むことはなかった。

 でもその先について青写真を描くことができないでいる。

 もしかしたらこのクラスで高校以上のこと、大学であり、またはその先のことも考えているものもいることだろう。

 でも十流には想像できなかった。

 みんなが思うような夢を見ることができない。

 自分はその時まで生きているかわからない。

 夢を見るなど自分は許されていないと思っている。

 窓際の席から見える青い空に鳥たちがせわしく飛んでいる。その姿は羨ましくもあり妬ましいとも思う。

 この鳥のように何も考えずに飛ぶことができたら、と十流は真剣に考えてしまった。


 昼休みになると教室の人数は半分くらいに減ってしまう。

 この学校では食堂があり、購買部もある、なおかつ教室で食べることを強要されていないため、今日のように晴れの日は外で食べる者も少なくない。ただし、ゴミ等の始末は厳格に行われており、どこぞに捨てようものなら教育的指導がはいる。当然、家から弁当を持参する者もいる。

 十流はいつものように自分の机に母親特製の弁当を広げ食べ始める。

 ちょうどタコ足ウインナーを口に放り込むと、一人の男子生徒が向かいに座ってきた。

「よう、十流君。今日も一人で弁当か?」

「そういうお前はまたコンビニパンじゃないか、川田さんよ」

 彼の名は川田(かわた)良夫(よしお)

 中学二年から同じクラスで成績はおせじにも良いとはいえずクラス順位を後ろから探した方が早い位置にいる。かといって体育会系でもない。

 取り立てて特徴がないように見えるが、そんな彼の異名は情報屋。

 彼にかかればこの街で起きた全ての事件、事柄、または人間関係まで知っているというものであった。

 ただし全て自称である。

「まあそんな一人さびしい十流君にとっておきの情報があるんだけどな」

 嫌味に聞こえる口調で喋る川田に十流は口を開く。

「聞きたくないからどっか行け」

「そう言わないでくれ。誰も聞いてくれなくてお前しかいないんだ」

 今にも泣きそうな顔で懇願する川田に十流は渋々、聞く耳を持つことにする。

「わかった聞くよ。でも手短にな」

「おっと、ようやくその気になってくれましたか。それでは……」

 すると川田はどこからともなく扇子を取り出し、妙なリズムをつけて話し始めた。

「え〜、この私がある事情で職員室へと行きましたところ……」

(また教師に呼びだしくらったな)

 十流の呆れ顔をよそに川田は言葉をつづける。

「それはそれは、可愛い娘がいまして、なんとウチのクラスに転校生として明日から来るのですよ」

「転校生?」

 握りこぶしを作りなにやら感慨にふける川田に十流はオウムがえしに問いかける。 

「それでその子の名前は?」

 そこで川田はさっきまでの流れるような口の動きに陰りができた。

「え〜と、たしか姫……」

「姫?」

「姫路城」

「それはお城の名前だろ」

「ひねった」

「なにをひねった?」

「昼と夜と私」

「もう人の名前じゃないでしょ? つまり名前を忘れたんだな」

「すまない。その後、教師の説教がはじまってしまいそれでそれで……」

 情けない顔をしながら自分の肩を揺する川田に名前以外の特徴を聞いてみる。

「そうそう確か髪を染めてたような――そうブラウンのような色だったな……」

「不良か?」

「違う違う」

「じゃあ、ハーフとか?」

「えっと、京都から来たみたいだな」

「京都から?」

 京都から来た女子生徒。

 はてどんな人物なのだろうか?

「まあ、明日にはわかるから楽しみにしておけ。じゃあな」

 そう言って川田はどこかへいってしまった。

「京都からの転校生か……」

 ポツリと言った言葉にある人物が頭をよぎる。

 小さい頃、よく遊んだあいつ。

 しかし、実家の京都へと戻ってしまい、忘れた頃に手紙がくる程度の知りあい。

 まさかあいつが転校してくるわけないか。

 十流は頭の中の想像を掻き消し、弁当に残っていた厚焼き卵を一口で食べてしまった。


 放課後、教室には一人の女子生徒が懸命に床を掃いていた。お世辞にも要領が良いとはいえない手つきで箒を使って黙々と掃除をしている。

 そこへ十流が教室へと入ってきた。

「あれ? 平泉。お前まだ残ってたのか」

 彼女、平泉(ひらいずみ)(きょう)()は十流の問いに眉をひそめて答える。

「天宮君こそどうして? まだ帰ってなかったの」

「ああ、俺はちょっと図書室に用事があったから。それよりも掃除当番、お前一人なのか?」

「ううん。みんな部活とか塾とかですぐにいなくなって、私の班、女の子一人だけだし……」

「なんて薄情な連中なんだ」

 平泉鏡香は、川田と同じ二年生からの付き合いである。それほど親しくはないが、勉強ができるため時々、宿題を写させてもらったこともある。また彼女は、生来から人見知りがひどくたびたび十流が面倒を見ていた。

 女子生徒との関係も希薄なため、男子との相手など大がつくほどの苦手意識を平泉は持っている。

 そんな平泉の心中を察してか十流は無造作に置かれた、もう一本の箒を手にして床を掃き始めた。

「え、あの天宮君。どうして……」

「一人でやるよりも二人でやったほうが早く終わるだろ。それに見かけてはい、さようならっていうわけにはいかないだろう」

 悪態をつきながら掃除する十流を見て、平泉は小さく笑った。

「ありがとう。天宮君」

 鳥のさえずりのような小さいお礼は、大袈裟に床を掃く音に消されてしまった。


 校舎の裏手へと続く道を、十流は大きいゴミ袋、平泉は小さいゴミ袋を持って、ゴミの集積場に向かって歩いていた。

「天宮君は図書室で何をしていたの?」

「何って、その……」

「天宮君っていつも一人で帰るよね。みんなより先か後か。どうして?」

 平泉の的確な指摘に十流は渋い顔になる。

 一人で帰る特別な理由を平泉に言うわけにはいかない。

「たまたまだよ。帰り道が同じやつがいないし、今日だって図書室にいたのも面白そうな本があったからだし……」

「本? 天宮君は本が好きなんだ。私も本は好き」

 無邪気な笑顔を向ける平泉に対して、

「うん、そうなんだ……」

 とてつもない罪悪感をもって肯定する。

 十流の言う本とは絵とセリフがほとんどを占めるものであり、平泉の言う本とは字しかないものを指している。

「今度、何冊か貸してあげるね」

 ほほ笑んで言う平泉に十流は、本は本でも漫画が好きですとは口が裂けても言えないと思った。


 ごみの集合場所は校舎の影に隠れるような所に設置してある。人気がなく、部活動に精を出す声もまばらに聞こえるだけ、低いブロック塀でしきられた一角は生活臭を濃厚にした空気が包んでいた。

「ここで良いんだよな?」

「うん」

 十流はまず自分の持っている大きなゴミ袋を腰を低くして置こうとした。

「……!」

 ゴミ袋が地に付いた途端、妙な違和感を感じた。

 誰かに見られているようなそんな気がする。しかし、いるのは小さなゴミ袋を両手で持つ平泉だけである。

 呆然と立ち尽くしている十流を平泉は怪訝な顔で見ていた。

「どうしたの?」

「い、いやなんでもない」

 振り向き心配そうにみる平泉に軽く手を振る。

(まさかこんな所に出てくるわけがない。アイツらが出てくるわけが……)

 一抹の不安を遮り、十流は平泉の持っているゴミ袋に手を伸ばす。

「ほら、それも」

平泉からごみ袋をもらい置こうとして、急に胸の辺りが苦しくなる。

(なんだこれ? まさかこの感じは……でもなんで?)

 胸の苦しみが強くなるとさっきの気配が大きくなってきた。

(まずい。平泉まで巻き込むことになる)

 十流は振り向き平泉の名前を叫ぼうとして、

「キャアッッ」

 平泉の叫び声が十流の発声を止める。振り向いて目に飛び込んできたのは、空中から伸ばされた異様に長く細いもので絡めとられている平泉の姿だった。

 平泉の顔は恐怖に怯え震える手を十流に差し出す。

「助けて……」

 十流は目の前の光景に身動きができないでいる。

 なす術もなく平泉は空中にできた穴のようなものに引きずり込まれていく。

「まずい!」

 頭から少しずつ吸い込まれ、最後に残った平泉の足に十流はかろうじてしがみ付くことができた。

「このはなせ……」

 力一杯引いてみるが向こうの引き込む力が強く、十流も穴へと入っていってしまった。1


「ここは……」

 十流はゆっくりと身を起こし、首を左右に振る。

 いつの間にか自分は倒れていたらしい。

「そうだ。平泉を助けようとして、それで自分もあの穴に入ってしまったんだ」

 ここはその穴の抜けた先ということだろうか。

 十流はあたりを見回し、その目に映る景色を注意深く見てる。

 まず、目の前には見慣れた学校の校舎がある。後ろを振り返ればブロック塀に囲まれたゴミの集合場所とさっき置いたゴミ袋が二つある。

 だが何故か違和感を感じる風景だった。

 見慣れた風景のはずなのに、ここには何故か生気を感じることができない。まるでただそこにものがあるだけの世界。

 気がつけば聞こえていたはずの学校帰りの生徒の声、または部活に精をだす声さえ聞こえなくなっていた。

 上空に目を向けると、先程まで晴れていた空は暗く重い雲が一面を覆っている。

「やっぱりここはそうなのか? でもなんで……。学校にいるときはこんな状況にならなかったのに」

 十流は焦りと恐怖でその身が震えていた。

 目を閉じもう一度、景色を一巡すると、先程から離れた位置に平泉が倒れていた。

 急いで駆け寄り体を揺らす。見た目には外傷が無く、静かに呼吸が続いている。

「おい。しっかりしろ……」

 何度も体を揺らし、頬を叩いたりしてもいっこうに目を開けない。

「くそ。なんで、なんでこうなる?」

 自責の念に駆られていた時、自身の身が揺れた。

 驚き顔をあげると異形な物の影が十流を包んでいた。

 細長い腕を左右に動かし、自分の胴体を三本の足が支える。

 目は黒く、口から出ている牙を使ってカチカチと音を出し見るものに威嚇する

 その姿はまさしく蜘蛛の形容そしている。

 ただし、そこにいる蜘蛛は手のひらサイズのかわいい? 蜘蛛ではなく、人を見下せるほどの大きさだった。

「うそだろ……」

 目の前にいるのは蜘蛛と認識できたが常識外れの大きさに十流は驚く。

 蜘蛛の視線はさっきから十流の姿をじっと捕らえている。

(あの細い足。あれはさっき平泉に絡まっていたものだ。でも平泉は無傷ということは……)

 平泉をゆっくりと地面に降ろし、数歩下がる。

 蜘蛛も十流の行動を注視していた。

(食事を邪魔した俺を敵と見ているわけか)

 十流は運よく側に置いてあった箒に手を伸ばす。

 柄の部分を竹刀のように持ち正眼の構えをとる。

 そして、十流は倒れている平泉に視線を送る。

(せめて平泉だけでも助けないと。できれば自分も……)

 正直な意見を心の中で吐露しつつ、十流は蜘蛛との間合いを計りながら徐々に平泉と蜘蛛を離すように動く。

 十流はズリ足でゴミの集合場所からそして平泉から遠ざかる。

 蜘蛛もまた、十流の動きに合わせるように動くがその間合いを不用意に詰めようとはしなかった。それなりの思考があるのか、それともただ単に獲物を捕らえようとする欲求を無理やり押し込んで様子見をしているのか。

 そして両者は互いに動きを止め、睨みあう。

(それにしても戦力差がありすぎだろう)

 十流は西部劇の一シーンを頭の中で思い描いていた。

 むこうは頑丈なもので作られ鉄の弾を発射するピストルなら、こちらは割りばしで作られ輪ゴムを発射するピストルぐらいの力関係がある。

 一斉に抜き放ったら最後、こちらの輪ゴムが届く前に自分は即死である。

 十流はうかつに仕掛けずただじっと蜘蛛の動きを見ていた。

 しかし、蜘蛛はとうとうしびれを切らし足に力を込める。

(来る!)

 十流もまた箒の柄に力を込める。

「業火招来」

 十流と蜘蛛との間に聞きなれない言葉と甲高い声が入る。

「……ぐっ」

 爆音とともに蜘蛛はオレンジ色の炎に一瞬にして包まれる。

 強烈な熱気と明るさに十流は目を細め腕で顔を隠す。

 蜘蛛の足は根元から炭となり崩れ去り、支えを無くした胴体は地面へと落ちる。

 十流は蜘蛛のあっけない最後を茫然と見ていた。

「なにが起きたんだ?」

 その言葉を待っていたかのように一つの影が蜘蛛の後ろから歩いてくる。

(人……?)

 蜘蛛のかがり火を横に受けているためあまりよく見えないが、しかしはっきりとそれが人間だとわかった。

 着ている服は十流と同じ学校の制服で、風になびく長い髪から女の子だというのがわかる。

 その凛とした大きな目はするどくあきらかな敵意を十流に向けていた。

(なんだろうこの子? なんでこんなところに……。それに左手に持っているのもしかして刀?)

 たしかにその子の左手からは柄のようなものが前へ突き出している。

 そしておそらくは先程の声の主がこの子であろうことは予測できた。

 刀を待ち、炎をあやつる女子生徒。

 不釣合いなその姿に十流は唾を飲み込む。

 しばらく続く沈黙に十流はどう言葉をかければよいか悩んでいた。

(でもこの場合、お礼を言うのが常識か)

「あの……」

 だがそのお礼の言葉を遮ったのは目の前にいる女の子の声だった。

「危ない!」

 放たれた声を理解する前に、後ろから鈍い音とともに左肩後方から衝撃を受ける。

「えっ……?」

 十流は恐怖をこらえ視線を下にうつせば、左肩を枝のようなものがつらぬいていた。おもわずその枝を右手で掴む。

 服を赤い血がじわじわと染めはじめる。

 恐る恐る後ろを振り返れば、そこには先ほど見た蜘蛛がいた。

 その細い足を十流の左肩に突き刺し、口を大きく空けている。

「もう一匹いたのか……」

 右手で蜘蛛の足を押さえどうにかしようにも力が入らない。

 十流は、ガックリと、膝から地面についてしまった。

(死ぬのか……)

 急に身体が冷えたとおもうと視界までもが揺らぎ全身に虚脱感が襲いかかってくる。

 今まで感じたことのない恐怖と脳裏に浮かぶ絶望の声に必死にもがく。

 目を閉じ、息を荒げ、

(死にたくない)

 心からの願いを声がでなくても叫んでいた。

 その願いを聞いたのか、一つの影が十流を横切っていく。

 驚き後ろを振り返れば、すさまじい跳躍を見せる少女とその少女に縦から一刀両断された蜘蛛の姿そこにあった。

 蜘蛛は声も出すこと無く、露となって消えていく。

 十流を貫いていた足もほどなく消えていった。

 しかし、十流は力なく倒れ、貫かれたところから血が漏れ徐々に地面を朱に染めていく。

 荒い息を吐きながら人生の走馬灯が頭をよぎっていく。

(俺の人生ってなんかあっけなかったな。でもここで死ぬのもありか。ああっ、でもあのアニメの最終回だけは見ておきたかったな……。そういえばあの漫画も……)

 十流は今までのこと、未来で起きようとしていたことを想いながらだんだんと意識は消えていきゆっくりと目を閉じていく。

 意識が無くなる寸前に見たのは、自分を心配そうに見つめる刀を持った少女の顔だった。

 

「うっ……ん」

 どれくらい目を閉じていたのだろう。

 耳に入る人の声や音に気づき十流はゆっくりと目を開ける。

(まだ生きている?)

 身を起こし、思わず手で左肩を摩った。

「あれ? 痛くない」

 左肩に目をやればそこには血の一滴も無く破れていたはずの制服も元通りになっていた。

(確かにあの大きな蜘蛛に自分の肩を貫かれたはずなのに)

 先程までの痛みと恐怖が夢ではないのは分かっている。

 自分が意識を無くしている間になにかがあったのは間違いなかった

 立ちあがり周囲を見渡せば、生徒の声がいたるところから聞こえてくる。

 さっきいた無音の世界とはあきらかにちがう。

「もしかして、元の世界にもどってきたってやつか……」

 今までと変わらない場所に自分は立っていることに十流は気づいた。

 5分くらいの出来事だったかもしれないが、その濃密な内容を一寸も忘れていない。平泉が蜘蛛に連れ去られて、ついでに自分も巻き込まれて、蜘蛛と対峙して、女の子に助けられて、自分は肩を貫かれて、そして何事もなかったように今、自分はここに立っている。

「そういえばあの子は?」

 もう一度あたりを見渡すが誰もいない。

 長い髪と左手に刀をもつ少女。

 自分の意識がなくなる寸前に見た、自分を心配そうに見つめる少女の顔。

「どうしてあの子はあの場所にいたんだ?」

 蜘蛛によって穴に吸い込まれたのは平泉と自分だけのはず。なのに自分を助けた少女は確かにあの場所におり蜘蛛を倒しそして、おそらくは自分が受けた傷もなんらかの方法で治してくれたのだろうと十流は勝手に解釈する。

「うっ……」

 十流が考えているうちに、平泉も目を覚ましたらしく、けだるそうに身を起こす。すかさず十流は彼女のもとへと駆け寄る。

「おい、大丈夫か?」

「わたし、一体……」

「え、……え〜と」

 さてどうしたものかと十流は思案する。自分が見たものをそのまま話すべきか、しかし怪物に襲われ、気絶していたことを平泉は信じてくれるだろうか。

 そして出した結論は、

「いきなり、平泉が倒れてしまってそれでその……。たぶん貧血だとは思うけど」

 とりあえず嘘を言ってみる。彼女はあの不思議な空間に飲み込まれてからずっと気絶していたのだから。自分を引きよせたのが蜘蛛の化け物だとは知る由もないはず。

「そうだったんだ。ごめんね、迷惑かけて……」

 搾り出すような声で返答する平泉だがその声に元気がない。もともと教室でも活発な子ではなく、ちょっとした事を話す時も周囲の声よりも幾分トーンが小さい。だが今の平泉はその事を差し引いてもあきらかに元気がない。目には覇気もなくただ虚空を見つめるだけ、さきほど見せた微かな笑顔はもうない。

「本当に大丈夫なのか?」

 これもさっきの蜘蛛に襲われた影響のなのだろうか。

 たった数分間の出来事でこうも人が変わったようになるなんて。

「えっとそれじゃわたし、かえるね……」

 十流の心配をよそにふらつきながら歩き出す平泉の背を見つめながら、十流は左肩に手を添えた。

(また俺が巻き込んでしまった。あれほど注意していたのに……。学校では起きないと思っていた。その考えが甘かったのか)

 自責の念にかられ、十流は空を見上げる。雲の帯が空に線を描き、まるで十流に青い空を見せたくないように雲は漂い続ける。

(学校にも俺の居場所がなくなってしまうのだろうか。いや、もとから俺にはこの世界で生きる資格なんてないのかもしれないな)


 その後、だいぶ遅れて道場へと入ってきた十流を待っていたのは、怒りを裏に隠した刹那の笑顔であった。なかなか良い理由を説明できないまま十流は、久方ぶりの親子水入らずの手合いをする運びとなり、周りの奥さま方が制止しなければ延々と続けられていたことだろう。

 家に帰るなり食事もそこそこに十流は部屋のベットへと潜り込んでしまった。

 怪物に、刀を持った少女に、貫かれ倒れてしまった自分……。そしてなによりも平泉に怖い思いをさせてしまったこと。

 誰にも言えない。

 自分があの化け物を生みだしてしまったかもしれないのだ。

(どうして俺の周りにだけ起きるんだ? どうして……)

 十流は小さい頃から化け物の姿を見るようになった。

 幽霊とかお化けとかそういう類のものではないし、おそらくは自分には霊感なるものなど備わってないと思っている。だが街中で歩いていると胸にのしかかるような、妙な気配を感じたと思うと放課後で起きたように変な空間へと入ってしまい、そして化け物に遭遇することが度々あるのだ。今回のように学校であらわれるのは初めての経験だった。

 そしてその化け物たちは自分の周りにだけ出現することを考えると、もしかしたら自分が生み出し人を襲わせていると十流は考えるようになった。

 どういう理屈で自分が生み出しているのかはわからないが、だが現実にあの化け物がいる。

 その証拠に何度もあの化け物に襲われ傷つき、今日は本当に死ぬかもしれないと思った。

 あの恐怖と痛みが幻のはずがないと十流は確信している。

 本当のようで嘘のような現実に十流は誰にも相談できず、ただ自分の中で自問自答を続けいていた。


 翌日の空は快晴、時折吹く風は春の香りを運んでくれる。

 そんな心地よい陽気とは裏腹に十流の心は空虚なものだった。学校には来たものの寝不足のためか、机に肘をつき、半眼になりながら黒板を見つめている。

 隣に座る平泉も自分と同じく元気がなかった。

 いつものように軽いあいさつをすると平泉は机に座りただ茫然としていた。

 自分に責任がないとはいえないこの状況で平泉にどう話しかければいいのか悩んでいた。

 自分があの蜘蛛を生みだして君を襲わせた。

 それを言って謝罪して、それで彼女は納得するだろうか。

 ただ彼女を困惑さえるだけじゃあないか。

 そんなやりとりを考えているうちにホームルームの鐘が鳴り、担任の先生が教室に入ってきた。

 朝のあいさつもそこそこに出席をとるとこう切り出した。

「え〜、今から転校生を紹介する」

 一瞬のうちに教室がざわめく。

(そういえば転校生がくるっていってたな……)

 十流と事情を知っている川田、そして平泉以外の全員がいいようのない期待感を教室に漂わせている。

「入ってきて」

 先生の言葉が終わるなり教室の入り口が開けられる。

 入ってきたのは一人の女子生徒。

 背丈は十流うよりやや低く、細身の体型で、真新しい鞄にはお守りが括りつけられている。特徴的なのが腰まで伸びる長いブラウン色の髪。つややかなその髪が歩くたびにきれいになびくため、男子からは感嘆の声が漏れる。

 先生の脇に立つと正面に向き直る。

 緊張しているのだろうか、顔がすこし引き締まっている。

 十流は興味なさげにその女子の顔をみる。

(髪長いな。目もなんとなく大きいし、ゴミとか入ったら痛そうだな)

 本人に対して失礼な感想を呟くと今度は足のほうから頭まで全身に目を通す。

 流れるような体躯をしており、運動部に所属していもなんら違和感がない。

 (どっかで見なかったけ……)

 十流の疑問をよそに先生は黒板に名前を書いていった。

「それじゃ自己紹介を」

「名前は『姫川(ひめかわ)(かおる)』です。京都から引越してきました。どうぞよろしくお願いします」

 そう言うと一礼をし、クラスからは拍手が起こった。

 ただ一人、十流を除いて。

「姫川薫……。京都から来た……」

 一人つぶやくと十流にはあるデジャブウがよみがえっていた。

「たしか前にもこんなことなかったか……」

 記憶の底でどうにも同じような情景があったのを思い出す。

そう、小さい頃に、母・刹那に手を引かれながら自分に自己紹介をした女の子。それ以来、ずっと遊び相手だった女の子。そして実家の京都に帰ってしまった女の子。

「確か天宮の後ろが空いてるんだったな。そこに座りなさい」

 姫川薫は先生が指した方角を見るとそこに名指しされた生徒がいた。

「天宮……?」

 珍しい性を名乗るその男子生徒の顔をまじまじと見つめる。

 肘をつき、覇気のなさを全身から放出する、男子生徒から好奇の目が注がれている。

 どこか似ている、幼い頃、一緒に遊んでくれた男の子に……。

「姫川……」

 十流もまた姫川の顔を見つめる。やはり見覚えのある顔だった。

「ちょうどいい。天宮。姫川の世話を頼むぞ」

 しかし十流には先生の言葉など耳には入っていない。

「おい、天宮、聞いているのか? 天宮十流!」

 先生の言葉をきっかけに十流と姫川の記憶が一致する。

『あ――』

 二人の声は見事にハモり教室にいた全員が十流と姫川を交互に見る。

「薫、なんでこんなところに?」

「十流こそなんでこんなところに?」

 お互いを指差し、同じ疑問を投げかける二人。

 この再会こそが自分の運命を大きく変えることになるとは十流は気づいていなかった。

 誰も通ることのない道。

 天宮十流にしか歩めない道。

 その道へと誘う、姫川薫。

 二人の出会いが互いの運命を大きく回していくことになる。


 天宮と姫川の運命的な再会。

 それが二人を除くクラス全員が思ったことだった。

 休み時間ともなれば、男子は十流のもとへ、女子は薫のもとへと集まってくる。

「二人はいつごろまで一緒だったの?」

「小学校3年くらいかな」

「文通とかは?」

「ほどほどに」

「髪すごくきれいだよね?」

「手入れをしっかりしていれば……」

 薫の人当たりのよさが自然と女子生徒の輪を作り話題に花を添えていた。対する十流はひじを突き男子生徒の質問をこともなげに切っていく。

「お二人の関係は?」

「友達からそれ以上もそれ以下もなし」

「デートの回数は?」

「まったくなし」

「彼女の身長・体重・スリーサイズは?」

「本人に聞け」

 そんなクラスの様子を楽しげに見つめていた川田は十流の肩をつかみささやく。

「当然、お前のほうから自己紹介ぐらいはしてくれるよな。いや情報屋の血が騒ぎますな」

「うるさい」

 とりあえず十流のパンチが川田の腹を叩いていた。


 昼休み。

 いつものようにクラスの大半が食堂に向かう中、十流は一人になりたくて席を立ったが後ろに座っていた薫も同時に席を立った。

「ちょっと十流……」

 おもむろに手を引っ張り二人は教室を後にする。

「落ち着いて話せるところ無い?」

 薫の表情から疲れが見て取れた。

(まあ、あれだけ質問攻めにあえばね)

 十流も薫の心情を察して提案する。

「それじゃあ、ついてこいよ」

 

 十流が案内したのは学校の屋上だった。

 面目上は屋上への侵入は禁止されていたが、それを咎める先生が常時いるわけもなく、生徒の間ではちょっとした憩いの場となっている。

 学校自体が坂の上にあり、金網越しに街の様子が一望できる。

 暑いくもなく寒くもない、心地よい空気が屋上に流れている。

「う〜ん、いい眺め」

 薫は背伸びをして感嘆の言葉をあげる。

 転落防止用の柵にもたれかかり、十流の正面に向き直る。

「色々質問されるとは思っていたけどあれじゃあね」

「ご愁傷様で」

 薫はコホンと咳払いをして、

「少し遅れたけど久しぶり」

 さきほどとは違って、明るい表情を見せる薫。

「そうだな、こうやって対面するのも久しぶりだな」

 十流もすこし表情を緩めた。

「でも驚いた。まさか十流と同じ学校で同じクラスなんて……」

「確かに出来すぎた話だよな」

「まあ、だいたい誰の差し金かは想像できるけど……」

「手紙にも書いてなかったし、いつからこっちにきたんだ」

「一週間ほどまえからよ。そのあと転校手続きとかで忙しかったけど」

 ときおり薫の髪が春の風に流れる。

 その姿が昨日の化け物を倒した女の子によく似ていた。

 そうは言っても十流はその女の子のことをはっきりと覚えておらず、ただ特徴でもある長い髪が引っかかっていた。

(あの子の髪はもっと金色だったような……)

 十流の考えをよそに薫は話を続ける。

「幼馴染が久しぶりに会ったんだから、もう少し言うことあるんじゃない?」

 薫の問いかけに十流は目線を薫の足元から顔まで動かした。

「大きくなったなあ?」

 確定とも疑問ともいえない十流の問いに薫は残念そうな顔になる。

「それが女の子に言うセリフ? まあ十流に気の利いたセリフが言えるわけもないか……」

 がっくりと肩を落とした薫に、十流は続けて質問をした。

「それよりもお前、髪の毛どうしたんだ? 前は黒だったはずだし」

 そう十流の記憶では薫の髪は黒で肩ぐらいの長さだったはずなのに。

「ああこれ……」

 薫は指で髪をくるんで見る。

「染めたわけじゃないのよ。だんだんと色がついてきて、お母さんなんて金髪だしね……。もちろん先生にはちゃんと説明してあるわよ」

 手をパタパタと振り、なんでもないことを表現したつもりだが十流は、

「お前も苦労したんだな」

 まるで田舎のおじいさんが言うようなセリフに、

「いや、ぜんぜん違うから」

 やはり薫の呆れた言葉が返ってきた。


 ありきたりな質問を二、三した後、妙な沈黙が流れていた。

 薫は屋上から見える街の景色に見とれている。

 しかし、十流は薫にもう一つだけ質問をしたかった。

 昨日の放課後、学校の裏庭にいなかったか。

 あの化け物から自分を助けてくれたのは薫なのか。

 だがあの現実とも違うあの光景をどう説明したらいいのか十流にはわからなかった。

 突拍子もなく化け物のこととか話しても薫は信じてくれるだろうか。

 どうせ、『馬鹿じゃないの』と言われるかもしれない。

 でも確かめたい。

 十流は意を決して薫に問いかける。

「なあ、薫……」

「なに?」

 薫は向き直り十流の顔をみる。そこにはいつになく真剣なまなざしがあった。

「お前さ……。昨日の放課後、学校の裏庭に……」

 と言いかけたとき胸の奥が締まる感じがした。

「……?」

 思わず十流は自分の胸のあたりを手で押さえる。

(これは昨日のあれと同じだ)

 妙な気配をするほうに目を向けると屋上の入り口からやはり気配を感じる。

 さっきまで通ってきた入り口なのに今は通りたくない。

 悪寒と恐怖感が入り口のほうから感じることができた。

 十流は薫のほうに目を向ける。

 薫は十流と同じように屋上の入り口に目をやっていた。

 しかしその表情は引き締まり、眼光が鋭くなっている。

(薫……?)

 十流は薫のさっきまでと違う固い表情に驚く。

 そして薫はおもむろに屋上の入り口へと走っていく。

「おい、薫!」

「十流はここにいて!」

 いつにない厳しい言葉に十流は息を呑む。

 薫が屋上の入り口へと消えた後、数秒間、十流はその場に立ち尽くしていたがやはり薫のあとを追う。

(これが昨日とおなじ感覚ならあの化け物がこの近くにいるということだ)

 薫の身を案じ、しかし薫が何故駆け出していったのかそれを確かめるべく屋上の入り口へと足を踏み入れる。

「またこれか……」

 入り口へと入った途端、昨日と同じような空間に自分をいることに気がついた。

 さっきまでと違う、生気もない無音の世界。

「やっぱり昨日の化け物がいるのか……」

 昨日を傷つけられた光景が鮮明に頭に蘇る。

 でも恐怖よりも薫の身を案じ歩を進める。

 屋上からの階段を降り、隣接する廊下へと出る。

 いつもと変わらない風景。

 しかし、違うのは廊下に横たわる数人の生徒の姿だった

 十流はそのうちの一人に駆けより体を揺らすが目を覚まさなかった。ただ呼吸だけは規則正しいためまた外傷もないことからひとまず安心する。

「平泉だけじゃあない。こんなにもたくさん……」

 自責の念に押しつぶされそうになりながら辺りを見渡すとその先、廊下の横にある窓ガラスが割られている。

 ガラスを踏み砕きながら外を覗き込むと校舎の裏側を一望できる。

 そして下をみると誰もいない筈の世界で動くものを発見した。

 一つは昨日の蜘蛛の化け物、そしてもう一つはその蜘蛛と対峙する人影。

「昨日の女の子?」

 高さがあるため、はっきりとわからないがその長い金髪は昨日の女の子に酷似していた。

 十流は一階にある下駄箱を目指し駆けだした。

 行く途中に蜘蛛の化け物が出るかもしれないという恐怖心があったがなによりもあの子に直接あって話したいと思った。

 あの子ならこのヘンテコな世界のことや化け物のことを知っているはず。

 そしてあの子が薫のなのかどうか。

 恐怖とはやる気持ちを押さえ、靴を履き替えると一気に外へと飛び出す。

 校舎をぐるりと回る形で校舎裏側へ、途中には昨日、蜘蛛に襲われたゴミの集積場もある。

「はあ、はあ」

 肩で息をしながらちょうど校舎から見ていた位置までたどり着いた十流は茫然とする。

「誰もいない」

 蜘蛛もそして金髪の女の子もその場にはいなかった。

 どこがへ移動したのだろうか。

 その辺りを探るべく駆けだそうとする十流の肩に手が置かれる。

「!」

 驚き振り向けばそこに薫の姿があった。

「なっ、なんでお前がここに?」

 おそるおそるたずねる十流に薫は怒った顔で答える。

「なんでじゃあないわよ。ちょっと待ってっていたでしょ。屋上に戻ったら十流はいないし。あんたこそこんな所で何しているのよ?」

「だってここで大きな蜘蛛と金髪の女の子が戦っていて、いやその前に廊下で生徒が何人も倒れていたんだ」

 十流のちぐはぐな説明に薫は口を半開きにした。

「はあ? 大きな蜘蛛? 女の子が戦ってる? あんた漫画の読みすぎじゃない」

「いやだって本当にこの目で見たし、ていうかなんでお前がこの変な世界にいるんだよ?」

「変な世界? どこが変なのよ。変なのは十流のほうだと思うけど」

「お前だって周囲の音が聞こえないだろう……。あれ? 聞こえる」

 いつの間にか十流は無音の世界から普通の世界へと戻ってきていた。

 生徒たちの他愛のない騒ぎ声が校舎の至るところから聞こえてくる。

「なんか悪い夢でも見たんじゃない? そろそろ教室に戻ろう」

「ああ……」

 夢じゃない。本当に起きていることなんだ。

 心から叫びそうになってしかし口に出る前に止まってしまった。

 十流は金髪の女の子を薫ではないかと推測していた。しかし、この会話で薫が蜘蛛のことも無音の世界のことも知らない様子であった。

 反論しても馬鹿にされるだけだと思い十流は先に歩く薫の後を付いていく。

「ああ、そうそう。今日の放課後、十流の家に行ってもいい?」

「俺の家?」

「刹那さんにあいさつしたいから。またお世話になるかもしれないし」

 十流の言葉を待たずに薫はすたすたと歩いて行ってしまった。

(やっぱり薫じゃないのか。じゃあ一体あの子は何者?)

 十流は後ろを振り返りさっきまでいたはずの女の子にもう一度会いたいと思った。

 会って話を聞きたい。ついでにお礼も兼ねて、色々聞きたい。何よりこの騒動を自分が起こしているのかどうかの真偽を聞きたい。もしそれが本当に自分が引き起こしている事象なら止めたい。

 止めるために自分が死ぬことになってもかまわない。

 それだけの罪を犯したのだから……。

 十流は悲壮な決意を胸にまた日常へと戻っていった。


 授業が終わると十流は約束通り薫を連れて家路についた。

 ただし薫を先頭に二・三歩あとに十流が付いていくというあべこべな位置で二人は歩いている。

 そんな状況に呆れたのか薫が後ろに振り返り十流に問いかける。

「ねえ、普通は案内人が前を歩かない? なんでそんなに離れて歩いているのよ」

「別にいいだろう。それに小さい頃何度も俺の家に来ていたんだし、今更案内なんて必要かよ」

 十流の態度にしかし、薫は目くじらを立てつずに言う。

「いいけどさ。でも十流なんか変わったよね。なんかよそよそしくなったっていうか。前はもっと前向きじゃなかった」

 薫の指摘に十流は視線をそらし答える。

「落ち着いて大人になったんだろう。そういうお前のほうこそ変わったよ。昔のお前は俺の後ろを付いてきて、よく転んで、その度に泣いて、俺が母さんに叱られたのは数知れないぞ」

「大人ね……。まあ否定はしないけど。泣き虫が直ったのも私が大人になった証拠ってことかしら?」

「さあね……」

 十流の素っ気なさに薫は溜息をついて、その後はお互いに話をせず黙々と十流の家へと向かっていった。


「ただいま」

「ごめんください」

 十流と薫の声に慌てて母・刹那が玄関に向かってきた。

「まあ、十流がガールフレンドをつれてくるなんて」

 刹那は薫の姿を見るなり変な方向へとテンションを上げてしまった。

「あの母さん?」

「これは明日は雨かもしれないわね。もしかして雪かも。ああどうしましょ。今から家の掃除をした方がいいわね。せっかく十流がガールフレンドをつれてきたんだから」

「いやだから違うって。薫だって。姫川薫」

 十流の制止の言葉に刹那はもう一度、薫の姿を見つめる。

「え? 薫ちゃん?」

「姫川薫です。お久しぶりです、刹那さん」

 お行儀よくお辞儀をする薫に刹那はおもいっきり抱きついた。

「本当に薫ちゃん? まあこんなに大きくなって。それに綺麗になって。お母さんにそっくり」

 感動のあまり薫をこれでもかと強く抱きしめる。

「自分の娘が帰ってきた気分だわ。まさかあの薫ちゃんだなんて。ホント信じられない」

「あの……刹那さん。苦しいです……」

 薫の抗議にようやく刹那は我に返り抱くのを止める。

 そんなやりとりを見ていた十流は靴を脱ぎ、さっさと家に上がった。

「俺、着替えてくるから」

 一言のこして十流は階段を昇っていく。


「さあ、上がって薫ちゃん。お茶を用意するわね」

 刹那に促されて薫は靴を脱ぎ、家に上がる。

 十流が部屋に入っていく音を確認した後、薫は神妙な面持ちで刹那にいう。

「あの刹那さん……。そのあの……」

 次の言葉を切り出せずにいる薫に刹那は優しく両手で薫の顔を包みこむ。

「本当に成長したわね。こんなに強くなるなんて思っていなかった」

「ううん。刹那さんほどじゃありません。私なんてまだまだです」

 急に涙がこみあげてきてそれでも薫はぐっと我慢した。

 そんな薫に刹那は首を振る。

「いいえ。よくここまで頑張ってこれたわね。つらかったでしょう? 本当に……」

 刹那も言葉を詰まらせて、言葉にできない想いを薫を抱き寄せることで表した。

 薫も嗚咽をもらしそうになりそれをなんとか制して再び刹那に顔を向ける。

「あの私、十流には絶対いいませんから。絶対に……」

 誓うようにいう薫に、刹那は困ったような顔をして答える。

「薫ちゃんが我慢することはないわ。おそらく十流は自分の周りで起きていることに気が付いているはず。それもおそらくは勝手な解釈をして。もし十流が問い詰めてきたのなら正直に話して構わないわ。もし私に問いかけてきたのなら私の方から説明する。もう知る時がきたのよ」

「でもそれじゃ……」

「本当のことを知ってその後の道を選ぶのは十流自身よ。私がどうのこうのと出来る問題じゃない。だから私に気をつかう必要なんてないから。ね?」

「刹那さん……」

 そしてとうとう薫はその涙を止めず刹那の胸の中で流した。

 本当は苦しく、泣きたくて、我慢していたもの全てを涙の形で溢れ出た。

 そんなかよわくそして娘のような存在の薫を刹那は優しく抱きしめてあげた。


 ジャージに着替えた十流が階段を降りると、そこには刹那に抱きしめられ胸のあたりで震えている薫の姿があった。

「おい、薫。泣いているのか?」

 驚き声をかける十流に刹那が答えた。

「目にゴミが入ったみたいなの。ねえ、薫ちゃん?」

「……」

 薫は何も言わず刹那の胸のなかで首を上下させた。

「あっち行って洗いましょうか」

 刹那に付き添われる形で洗面台へと向かう薫の姿に十流は胸を撫で下ろした。

「はあ……。あいつの泣いてる姿はどうも嫌なんだよな」

 昔から薫の泣いている様子を目の当たりにしてきた十流にとって、例え自分が悪いわけではないのに薫が泣いていると罪悪感を感じてしまう。

 気を取り直して居間にはいるとほどなくして刹那と薫が姿を見せる。

 だいぶ目を腫らした薫の姿にやはり十流は驚くがなんでもないとう薫の言葉に納得する。

 そして十流と刹那、そして薫はお茶を片手に昔話と今の近況に花をさかせた。


 外が夕焼けに染まる頃、薫はそろそろ帰るということで十流と刹那が玄関で送ることにした。

 十流の家まで送っていこうかの言葉に薫は、

 後ろからついてきても困るということで一蹴する。

 刹那の、

 今度一緒に食事でもしましょうの言葉には激しく同調した。

 二人の出迎えを背に薫は十流の家を後にしていく。

 十流の家が見えなくなったところで、そして人気の無くなったことを確認して薫はその場に立ち止まった。

 昼と夜の境目の時間。夕焼けの空は時には美しく、時には怪しく時間の流れをあらわしていく。薫の心はさっきまでの悶々としてものではなくむしろ清々しさえ感じることができた。

 表情も自然と緩んでいたが、それが一気に引き締まる。

「十流の道か……。どうなるかはわからないけど、私は……。私の道を進むだけよ」

 薫は足に力を溜めると一気に爆発させ、近くにあった家の屋根へと跳躍する。

 そしてそこから高台にある学校へと目をやる。

 夕焼けを受けて赤く色づく学校へ向けて薫は一路ひた走る。

 次の日、十流が教室に入るとその異様な光景に目を丸くした。

 クラスの半数以上の生徒がイスに座り、茫然としていた。

 目が虚ろのもの、頭を抱えうなだれるもの、毎朝繰り返されていた会話の渦がなく静かな教室へと変わっていた。

「おはよ―、十流」

 そんな中、川田は変りの無い元気なあいさつで十流を迎えた。

「おい、なんだよ。この状況は? みんなどうしたんだ?」

 十流の驚きに川田はポツリという。

「ああ、これね。ほとんどが運動部の連中だよ。朝きたらこんな感じでよ。まるで魂で取られたようなな状態でさ、こっちがどんなに言葉をかけてもてんで反応なし。お前も気がつかなかったか? どの部活も朝練やってないんだよ。普通は最後の大会に向けてこれでもかと練習するような連中なのによ。一体どうしたんだか……」

 さすがの川田もこの状況に胆を冷やしたらしい。

 しかし、十流にはこれと同じ状態になったものを知っている。

(昨日の平泉のような状態になっている)

 蜘蛛に襲われて以降、平泉は気力をなくし、昨日に至っては薫の事でみんなが騒いでいたのに一人じっとイスに座り、薫の話題には一切はいってこなかった。薫のように人づきあいが良いほうではないが、十流の隣で薫からは斜め前に座っているためあいさつぐらいはっと思っていたがそれすらなかったのである。

 そんな平泉の状況と今のクラスメイトの状況があまりにも酷似していた。

(まさかあの蜘蛛に襲われたのか。でも俺はすぐ薫と一緒に帰ったし、その後もずっと家で漫画読んだり、録り貯めた深夜アニメを見ていたし、じゃあこれは一体なんで……)

 今までにない静かな教室にまた一人、生徒が入ってきた。

「おはようございます」

 控え目な声で平泉があいさつをしてきた。

「おはよう……」

 十流もあいさつを返すが平泉の昨日とは違う様子に少し驚いた。

 昨日とはうって変わって声には明るさがもどり、目は虚ろではなくしっかりとした輝きがある。まるで遠くに行っていた魂がようやく元の場所へ戻ってきたような印象があった。

「みんなどうしちゃったの?」

 平泉もまたクラスの異変に驚きを隠せなかった。

「えっとじつは……」

「おはよ」

 薫が明るく元気なあいさつをしながら教室へと入ってきた。

「ああ。おほよう」

 昨日と変わらぬ薫の様子に十流は安堵し、そして事の顛末を話し始めた。

「というわけでみんな魂が抜かれたような状態になっているんだ」

 十流の説明に薫も平泉も不思議そうな顔をするだけである。

「魂ねえ……。確かにこれじゃお通夜みたいだわ」

「そうですね。みんなお疲れなんでしょうか?」

 薫の冗談と平泉の的外れの意見に十流は肩をすくめた。

 そんなやりとりの中、平泉が薫の姿に視線を投げる。

「あの〜天宮君。この方は?」

「薫だよ。姫川薫。昨日転校してきたでしょ」

 十流のツッコミに平泉は慌てて謝る。

「ごっこめんなさい。昨日はなんだかぼーっとしていて。転校生がきたことは知っていたんだけどなんだかよく覚えていなくて、でもなんでだろう」

 平泉の謝罪に、しかし薫は気にしていないと伝える。

「いいって。昨日はなんだか元気がなかったみたいだし。気分が悪いのに話をするのも失礼かなっと思ってたんだ。

 じゃあ改めて姫川薫です。よろしく」

 そう言って薫は手を差し伸べる。

「平泉鏡香といいます。よろしくお願いします」

 二人のほほえましい握手に十流はふうっと息をついた。

 そんなやりとりにも全く反応をしめさないクラスに十流は恐怖さえ感じていた。

(蜘蛛に襲われたのは確かだろうな。でもなんで蜘蛛は俺たちを襲うのか? 平泉やみんなの様子から特に外傷もないのにこの状況……。まさか本当に魂とかそんなものを奪っているのか……)

 推測でしか考える事が出来ないもどかしさに十流は苦悩していた。

 やっぱりあの金髪の女の子にもう一度会って、ちゃんと話を聞きたい。

 十流の切実な願いはやがて意外なところで叶えられようとしていた。


 放課後、十流は図書室にいた。

 図書室には数人の生徒と本の貸出管理を行う図書委員のみで静かな空間を作り出している。

 十流は本を読むわけでもなく、これまた勉強するのでもなくただ机に座ってただじっと待つのが日課になっている。帰り道に他の生徒と出来るだけ一緒に帰らないためのいわば事故防衛のためだった。

 十流が化け物と遭遇するのは昨日、今日の話ではなかった。

 小学生のころから何度も化け物と遭遇しその度になんとか逃げていた。

 だからこそ他人と交わるのに相当の抵抗感が十流にはある。

 下手に一緒に帰るなり、街中で遊ぶなりすれば十流だけではない、一緒にいるものまで化け物の被害にあってしまう。

 自分が化け物を生みだしているかもしれない。

 そして多くの人を襲っているのに自分は何もせずただ逃げ惑うばかり。

 そんな後悔と罪悪感を秘めて十流は日常を生きてきた。

 もし許されるのならこの事実を放送室に乗り込み、マイクの音量を最大限にして学校中にブチまけたい気持ちでいっぱいだった。

 だがそんなことを誰が信じるのだろうか。

 笑って恥をかくことなどなんとも思わない。

 ただ周りが理解してくれないことに十流は強い憤りを感じていた。

 そんな十流の心中など察することのない声が図書室に響く。

「ああ、やっぱりここにいた」

 転校生で十流の幼馴染でもある姫川薫の登場に十流を含むその場の生徒全員の目が丸くなる。

「薫? なんでお前がここに?」

「平泉さんに聞いたの。十流なら早めに帰ったか、図書室にいるだろうからって」

 十流は平泉に言ったことを心底、後悔した。

 そんな十流の腕を引き、薫はさっさと図書室を後にしていく。

「ちょっとまて、薫。俺をどこに連れていくんだ」

「どこって、昨日のおかえしで今日は私の家でお茶でもいかがかなと思って」

「いや、そのあの……」

「なあに? 女の子の誘いを断るつもり。誘われるうちが花なんだから文句言わずに付いてきなさい」

 もはや反論の余地などないと観念した十流はしぶしぶ薫の後を追うこにした。

 

 十流たちの通う学校には通用口が二つあり、一つは三階ある生徒たちの教室へと、もう一つは職員室から図書室・理科室などの専用の教室、食堂へとつながっている。そして互いを二階と三階の連絡通路を使うことで行き交うことができる。

 十流と薫は下駄箱へ向かうため二階の連絡通路を歩いていた。

「それにしても十流が図書室ねえ。ちょっと想像できないな」

「それどういう意味だよ」

 十流の言葉に薫はさも当然のように言い放つ。

「だって十流が読むのは漫画ぐらいでしょ。活字だらけの本なんて読むわけないしね」

 薫の勝ち誇った発言に十流も言い返す。

「俺だって活字だらけの本ぐらい読むぞ。最近はそっちの方が楽しい場合があるしな」

 十流のいう活字ばかりの本とは最近、アニメ化されその原作となったかわいい挿絵のつく本のことを指す。

「ふ〜ん……」

 しかし、薫は十流の言葉に生返事を返すだけである。

「薫のほうこそ本なんて柄じゃないとおもうけど……」

 十流の言葉に薫は足を止め、ものすごい形相でこちらを睨んできた。

「えっ、いやそのなんだ。別にお前を馬鹿にしたわけじゃあなくて……」

 薫の迫力に圧倒されそうになりながらなんとかフォローを入れようとするが薫の顔はますます厳しくなるだけである。

「そんな睨まなくてもだな。だから……?」

 ようやく十流も言いようのない気配に気がついた。

 さっきまで歩いていた方角へと振り返ると胸の閉まるような気配を感じることができた。

(まさか。またあの蜘蛛か)

 十流のわきを薫が走りぬける。

「ちょっと待ってて」

「おい、待て薫。そっちは」

 十流の呼びかけに応じることなく薫は走り去ってしまった。

「そうだ。もしかしたら金髪の女の子にあえるかも……」

 十流は恐怖を払い真実を知るために薫のあとを追いかける。


 十流が一階へと続く階段を降りるとまたあの無音の世界へと足を踏み入れていた。

「やっぱり。ということはこの近くに蜘蛛がいる」

 十流は周囲に目を配りながら歩を進めた。

 そして開け放たれた一室で足を止める。頭上の表札には職員室と書かれていた。

 唾を飲み込む、職員室へと十流は入っていきその光景を目にした。

 生徒が使う教室よりも二回ぐらい広い室内では大きな机が規則正しく並べらその上には大小さまざまな書類が山積みにされている。

 十流が見た異様な光景は二つある。

 一つはその机に向かっているはずの先生達は全員、うつぶせの状態になっており、何人かは床にころがっている。

 もう一つはその先生達を介助している薫の姿だった。

 介助といっても何するわけでもなく背中に手をあてて様子をみている。

「おい……、薫?」

 十流はおそるおそる薫に近づき声をかける。

 その声に薫は驚いて十流へと振り向く。

「――やっぱり来ちゃったか」

 薫のその態度に十流は怒りのようなものを感じ、薫の両肩に手をおき揺さぶった。

「なんで? なんでおまえがこの変な世界にいる?」

 薫は抵抗せずやがて重い口を開いた。

「変な世界ではないわ。ここは『境面世界』と呼ばれる世界。『闇喰い』が住まう世界よ」

「きょうめん世界? やみくい?」

 十流は意味不明な単語に当惑した。

 しかし薫の方は真剣な表情を崩さずに言葉を続けた。

「闇喰いとは闇に潜みて人を喰らう化け物の総称よ。十流も見たでしょ? 大きな蜘蛛の化け物を……。あれが闇喰いよ」

 蜘蛛が闇喰いと呼ばれるくらいは理解した。

 だが十流は一点だけ腑に落ちないものがあった。

 なぜ薫は蜘蛛のことを知っているのか。

「俺はお前に蜘蛛の話は一切していない。なのに、なんでお前は俺が蜘蛛を見たことを知っているんだ?」

「だって……」

 一瞬の間を置いて早口に言葉が出る。

「だって私が十流を助けたから。一昨日の放課後、倒れている平泉さんのために闇喰いと対峙している十流を見かけたからそれで……」

 俺を助けてくれたのは金髪の女の子だった。

 火を使い、そして一瞬の斬撃のもとに蜘蛛を倒した女の子。

 それが薫だっていうのか。

 十流は一昨日のことを思い出し何度も首を横に振った。

「いや、お前のはずがない。確かに体型は似ているけど、あの子はお前と違って金髪だったはず。だから……」

 次の言葉を待たずに薫は両肩に置かれた十流の手をそっとどけるとその長い髪を指でくるんでみせる。

「確かに今はこんな色だけど私の髪は戦いになると金色になるの」

 自虐のような笑みがかえって反論の余地を十流に与えなかった。

「お前は……」

 十流はまるで異質なものを見るような眼差しで薫を見ていた 。

 もう自分の知っている幼馴染はここにはいない。

 数歩退がってあえて尋ねる。

「お前は一体なんなんだ?」

 見たことのない十流の視線を受けながら、だが薫はその目に強い光を宿して言い放つ。

「私は闇喰いを退ける魔力を持つ者。

 人呼んで『退魔師』。

 その退魔師のうち剣を操る者を『退魔剣士』という。

 それが今の私」

 姫川薫の堂々とした姿に十流は驚きと戸惑いそして羨ましさが沸いてきた。

 小さい頃はいつも薫を引っ張っていた。何をするにしてもまず自分から行動してそのあとから薫が怖がりながら自分の真似をしていた。

 それがどうだ。

 大きくなって容姿はきれいの部類に入って、心はすっかり大人びた――いや戦士ともいうべき強さがある。

 ところが自分はどうだろうか。

 闇喰いの存在に怯え、逃げ惑い、いつしか周りの人を遠ざけるようになりその寂しさを埋めるように漫画やアニメなどの架空の人間に憧れるだけで自ら鍛えることを拒否し続きてきた。

 なんと浅ましく弱い心なのだろか。

 薫を直視することが、幼馴染と公言することさえ恥ずかしいと思えるようになっていた。

 それでも十流はなんとか声を絞りだした。

「……お前が退魔師というのはわかった。だったらあの蜘蛛はなんで俺の周りに現われる?

 いや、蜘蛛だけじゃない。俺は何度も化け物――闇喰いを見てきた。人を襲っているところを何度も見てきた。もしかして俺がその闇喰いを生みだしているんじゃないのか。お前が退魔師だっていうならわかるだろ? もし本当に俺に原因があるならその時は……、その時は……」

 最後の言葉は声が詰まって出てこなかった。

 その時は俺を殺してくれ。

 十流はそう叫びたかった。

 もちろん自分の命は惜しいに決まっている。それでも闇喰いを消せるなら。少しでもその事が贖罪になるのなら。

 十流の懇願するような眼差しを受けて薫は大きく息を吐いた。

「だからそんなに思い詰めていたのね……」

 薫は静かに歩きだした。

 表情を変えずにその目は今だ強い光を保ったまま十流との距離を縮める。

 十流はその様子を見て観念したのか棒立ちのままその場に立ちすくんだ。

 十流と薫の間があと一歩と迫ったところで薫の表情が変わる。

 それはなんともいえない笑顔であった。

「いいえ。あなたは闇喰いを生みだしてはいないわ」

「えっ?」

「闇喰いは人の心によって生み出される。怒りや憎しみ、またはこれが欲しいなどの欲求や幸福感、言ってみれば独りよがりの妄執が固まり、闇喰いとしてあらわれるの。だからもし……」

 そこで区切り薫は十流を見据える。

「だからもし十流が闇喰いを生み出したのなら――倒れている平泉さんのために、自分の命を顧みずに箒なんか持って闇喰いと戦おうとはしないはず。それに退魔師である私が近くにいるんだもの、気付かないわけないでしょ?」

 笑顔で答える薫を見て十流はつきものでも落ちたように胸をなでおろした。

 自分が闇喰いを生み出したわけではなかった。

 今回もそしていままでのことも原因がほかにあることに安堵した。

「よかった……。とは言ってられないか。俺が原因でないにしろ、今この学校は蜘蛛の化け物――じゃあなかった、闇喰いに狙われている」

 十流の問いかけに薫は頷く。

「薫、俺にもっと闇喰いやこの世界のことを詳しく教えてくれ」

「……わかってる。一応、刹那さんの許可はもらっているし……」

 伏し目がちになって言う薫に十流は怪訝な顔になる。

 そして突然、出てきた母・刹那の名前。

「なんで母さんの許可が必要なんだ?」

「それは……」

 しかし薫の言葉をすさまじい音がかき消す。

 職員室の外側の窓ガラスを盛大に割って踊りでてきたのは一匹の蜘蛛。

 蜘蛛は二人の姿を見るや前足二本を上にあげ獲物を捕える準備に入った。

「説明をしたいけどそんな時間は無いみたい」

 薫は蜘蛛の正面に立ち、十流を自分の背中側へと誘導する。

「どうするんだ?」

 十流の問いに薫は平然と答える。

「もちろん戦うわよ。言ったでしょ、私は退魔師よ」

「そうじゃなくて武器がないだろう?」

 一昨日、自分を助けてくれてのが薫ならあの時は左手に刀を持っていたはず。今はまったくの丸腰でありどこぞに刀を隠しているようには見えない。

 十流の心配をよそに薫は静かに左の手の平を天井にむけて掲げる。

「おいで『桜花』!」

 掛け声とともに現れたのは一振りの刀。

 鞘は純白で、長さは片腕ぐらいだろうか。鍔には金属で桜の花びらが描かれている。そして刀は鞘の中心より上のあたりでホルスターのようなものにつられており、そのホルスターからは腰に巻くこれまた白いベルトがあった。

 そしてどんな原理なのだろうかその白いベルトが勝手に動き薫の腰に巻きつく。

 薫は鞘から刀を抜き、構える。

 そしてほんのわずか髪が持ち上がると毛元から毛先まで金色の輝きを放つ金髪へと早変わりした。

「やっぱり薫だったんだ……」

 自分を助けてくれた金髪の女の子。それが今、自分を背にして屹立している。

「さあ、きなさい!」

 その声を合図に蜘蛛は薫に向けて前足を使って襲い掛かる。

「はあっ」

 しかし、その前足も横なぎの一撃に切り落とされた。

 そして間髪いれずに踏み込んだ突きが蜘蛛の眉間に刺さり、蜘蛛を霧散させる。

「すごい……」

 十流はその流れるような動きに見とれていた。

 だが薫の表情は厳しさを持ったまま十流のいる方向より先、廊下を見ていた。

 十流もつられて振り返ると数匹の蜘蛛が狭いドアにつっかえていた。

「いつの間に」

 われ先にと蜘蛛は職員室へ入ろうとするがいかんせんその巨体が災いしてなかなか踏み込めないでいる。

 そんな状況を好機と見た薫は刺突の構えのまま突進し、ドアに手こずる蜘蛛を一撃のもとに倒す。

 さらに踏み込んで順番を待っていたもう一匹の蜘蛛には下段からの斬撃で仕留める。

 薫のあとを追いドア越しに廊下をみると多くの蜘蛛が薫のまえに倒れていく。

 薫はただ闇雲に切るのではなく、自分の力量と相手の数、立ち位置、それら全て計算して無駄のない動きをしていた。

「きれいだ」

 きらめく剣閃、翻る金色の髪。

 戦うこともできず、ただ物陰に隠れることしかできない。男としては情けない状況だが、それでも薫の一挙手一投足は見とれる価値のあるものだった。

 あっという間に残っている蜘蛛の数は3匹といったところ。

 十流は安心して廊下に出てきた。その瞬間、悪寒が背中を走った。

 十流は本能のままに横に飛ぶと、自分がさっきまで立っていた位置に何かが振り落とされる。

 振り向けばどこから現れたのだろうか蜘蛛の姿があった。

「なんでこんなところに……」

 あたりを見回すが昨日のような武器となるものがない。

 蜘蛛は少しずつ十流との距離をつめていく。

「くっ……」

 とっさの判断で十流は右手を開いて前にかざした。

「頼む。今日は出てくれ!」

 叫ぶように、祈る気持ちで右手に力をこめる。

「……ドガアァァァ」

 蜘蛛は盛大に後ろに吹き飛ばされる。その衝撃は薫の注意も引きつけることになる。

 ちょうど最後の蜘蛛を倒して、衝撃音のしたほうに視線を向けた薫が見たのは吹き飛ばされ仰向けになった蜘蛛と、右手を突き出し荒い息をしている十流の姿だった。

「今日は出たか……」

 十流の視線の先、仰向けに倒れた蜘蛛は器用に足を使い、何事も無かったように宙返りをして十流に向き直る。

「やっぱり、効かないか」

 久しぶりに出た衝撃波も蜘蛛の前では無意味だった。

(もう駄目かもしれない)

「伏せて!」

 心の弱音を打ち消したのは薫の声だった。

 視線を薫に向けて十流は驚いた。

 彼女は器用に教室の壁と窓を交互に蹴りながらこちらに向かってくる。

「マジかよ」

 薫の言われたとおりに体を床に伏せた直後に、風が吹き抜けた。

 おそるおそる見上げると蜘蛛の横をすり抜けた薫の姿と一刀両断にされた蜘蛛の姿。

 蜘蛛は叫び声もなく消え失せる。

 十流はゆっくりと身を起こし、体についた汚れを落とす。

 薫がさっきまでいた場所と今の立ち位置を交互に見る。それから廊下と窓の両方を見比べるとくっきりと薫の蹴った後が穴になって残っている。

「人間技じゃあないな」

 ポツリと呟く十流を尻目に、薫は刀を鞘に納めると刀はベルトとホルスターごとどこかへと消え去ってしまった。

「ありがとな。助かったよ」

 とりあえず刀の行方を無視して十流は薫に感謝の言葉を伝える。薫も表情を緩めて答える。

「どういたしまして」

 十流は視線を床に移して、次の言葉を考えていた。

 色々聞きたいことがある。闇喰いのこと、この堺面世界のこと、そして何故、薫は母親の名前を出したのか。

 薫も十流の言葉を待っていたが、しかしここに長居するわけにはいかなかった。

「とりあえず行きましょう。ついてきて……」

 十流は自分の横をすり抜け歩く薫の手をおもわず掴んだ。

「待ってくれ。先生達はどうするんだ? このままにしておくのもなんだか……」

「大丈夫よ。そのうち元の世界に戻れるわ。何が起きたかもわからないうちに」

 薫の説得に妙に納得してしまった十流は袖を引っ張られるような気持でその場をあとにした。

 階段を上がり二階の踊り場に出た瞬間、

「うわ、うるさい」

 吹奏楽部による演奏が校舎全体に鳴り響いていた。

 そう十流と薫は元の世界へと戻ってきたのである。

「なあ、薫……」

「闇喰いが人を襲うと私達が住んでいる世界――つまり現実世界に歪みのようなものができて堺面世界への入り口ができてしまう。普通の人ならそのまま通り抜けてもなんともないけど私や十流のように退魔師としての力があると堺面世界に自分の意志とは関係なく入りこんでしまうの」

「そうなのか……」

 自分が無意識のうちにその堺面世界に入ったのもそういう理由だからか……。

 二階の連絡通路を歩きながら薫の説明を聞いていなんとか理解して、ふと足を止めた。

(今、薫は何って言った。退魔師の力があるから意志とは関係なく堺面世界に入る……?)

 さも当然のように言う薫に乗せられ納得してしまったがつまり薫は遠回しにこう言いたかったのか。

「俺に薫と同じように退魔師の力があるってことか?」

 その場に立ち止まり自分を見つめる十流に薫はしっかりとした声で答える。

「そうよ。あなたには退魔師としての力が備わっている。さっきも力の片鱗を使ったでしょ?」

 薫がいうのは十流が右の手の平から衝撃波を出して闇喰いを吹き飛ばしたこと。

 しかしあれは十流にとっては本当にたまたま出たものである。

 過去、闇喰いに襲われたときこの衝撃波を使って逃げ延びたことが何度かある。

 それも確実に出るわけではない。

 どういう原理なのかわからないまま運試しのように使っていただけである。

「それにあなたは刹那さんの息子なのよ。退魔師の素質は十分にあるわ」

 またしても母・刹那のことをもちだす薫に十流はある推測が湧き起こった。

 それはつまり母親もまた薫と同じように退魔師だということ。

 言葉を紡ぐため唾を飲み込んだ十流に、

「説明は私の家でするわ。ここで誰かに聞かれるのも面倒だから」

 二の句をあげるまもなく薫は歩き出した。

 十流も言おうとした言葉を溜息に変えて口から吐き出すと薫のあとを追って歩き出した。


 学校の帰り道は十流にとって足取りの重いものであった。

 薫が前を歩き、十流はその後ろを溜息まじりについていった。

 薫の背中を見ては溜息をつき、どう話を切り出していいものかと考えていた。

 急に薫の背中が大きくなったと思ったらちょうど信号が赤に変わっている。

 十流は横に並ぶと薫に声をかける。

「なあ、薫はずっと退魔師として戦い続けてきたのか?」

 周りに人は少ないがそれでも声を落して薫に問いかける。

「そうよ……」

 薫もまた小声で返す。

「俺と遊んでいたころから?」

「いいえ、京都に戻ってからほどなくしてね」

 その眼差しはどこかつらそうに見えた。

 闇喰いという化け物と戦う退魔師。

 それはどこぞに出てくるヒーローのようなものでかっこいいと十流は密かに思っていた。

 ついさっきの薫の戦いぶりを見て、まさしくかっこうよくそれにうつくしさも兼ね備えたものだった。ところが今の薫の様子を見る限りはそんなことは微塵も感じさせない。まるで退魔師になったことを後悔すらしているように見えた。

 神妙な面持ちの薫を見て十流はそれ以上の追求をやめた。

 そして信号は青に変わり十流はまた薫の背中を見ながら歩き出した。


 商店街を抜け駅に隣接する踏切を超えると、そこはまだ開発が進む一画に出る。

 真新しいビル群が並び、その先にはマンションが数棟ほど競うように建っていた。

 十流と薫はそのもっと先、街の北側に位置する場所まで歩いてきた。

「さあ、着いたわよ」

 そう言われて十流は顔を上げると、そこには一棟のマンションがあった。

 建物のまえには噴水と、左右には街灯が等間隔に並んでいる。

 白い石畳がきれいに道を舗装している。

「家って、これマンションだよな?」

「そう」

 さも当然のように答える薫に十流は絶句した。

 このマンションはつい先月にできたばかりで、新聞に混じっていた広告にはバカみたいな家賃が表示されていた。

「さあ、行くわよ」

 薫に促されるまま十流はこの高級マンションに足を踏み入れることとなった。


 このマンションの入り口は一つしかなく、自動ドアの横には暗証番号を求める機械が備え付けてある。しかもご丁寧に指紋認証付きに監視カメラが目を光らせる様はその辺にあるマンションとは一線を画すセキュリティになっていた。

 おそるおそる入っていくとエレベーターが二つ用意されている。しかも監視カメラ作動中のシールが目立つ場所に貼られている。

 薫が言うにはここ最近、物騒になってきたためこのようなセキュリティの強いマンションが増えてきたとのこと。

 エレベーターから降りてすぐ左手前が薫の部屋のようである。

 薫は一枚のカードを取り出すとドア付近をかざす。ガチャリと音がしてドアを開くことができた。

 十流は文明の利器に驚くばかりだった。

「おじゃまします」

 ドアの先、それほど狭くない廊下を歩くと、

「うわあ」

 リビングに通された十流はその広さに感嘆の声を漏らす。

 引っ越したばかりなのだろうそれほど物は置かれていない。

 リビングのちょうど中央にはテーブルとそれを囲んで一人用のイスと二人掛け用のソファが置かれ、ソファと向かい合わせに大きめの液晶テレビとそれを支えるラックが置かれている。

「適当に座ってて」

 そう言うと薫はキッチンのほうへと向かっていった。

 十流は言われるがままソファへと腰かけた。

 他人の部屋をじろじろ見るのはどうにも失礼なような気がするがそれでも部屋の清潔感と解放感にしばし浸っていた。

「でも家族で住むならこれくらいは必要か」

 すっかりくつろいだ様子で言う十流に薫は、

「両親はいないわよ。一人で住んでいるの」

 キッチンで湯呑を並べる音を鳴らしながら答えた。

「一人?」

「そのとおり」

 十流は驚いて薫に問い直すがやはり同じ返答だった。

「家賃とかどうしてるんだ? ここ高いだろう?」

 毎朝の新聞なんて見るとするればテレビ欄ぐらいなものである。しかし新聞にはさまっている広告はたとえ興味がなくとも一応は目を通す。

 もし記憶がたしかならこのマンションの家賃は相当高ったはずだと十流は思った。

 そんな十流の問いかけに薫はそばにあったテレビのリモコンを手にする。

「あんたから経済的な話がでるとは思わなかったけど心配いらないわ」

 そういうと薫はテレビをつける。

 テレビに映し出されたのは若い外国の女性。暗闇をバックに見ているものを誘うような眼差し送りづつける。

 カメラアングルが最初は目元、それから唇、胸元からくびれ、最後には細くながい足がながれるように映し出される。

 どうやらテレビコマーシャルらしい。

 女性をバックにいくつかの化粧品がならび最後に会社名が映った。

『姫川ブランド』

「は?」

 十流は口を大きく開けてその名を食い入るように見る。

「姫川ブランドってたしか、超有名な会社じゃあなかったか? まえに母さんがバックを買って見せびらかしてた……」

「そう、うちの会社。お父さんが社長でお母さんが会長なの」

 事もなげにいう薫がお茶をテーブルに置く。茶葉の匂いが湯気に乗って鼻につく。薫はテレビを消すと小さな丸イスを持ってきた十流と向かい合わせになるように座った。

「まってくれ。俺の記憶が正しければ、薫が前に住んでた家は俺の家とそう変わりないくらいの大きさだったはず」

「そうだったわね」

「お前のおじさんはどこにでもいるようなサラリーマンでおばさんは丸メガネをかけていてエプロン姿でやっぱりどこにでもいるような奥様って感じだと記憶しているんだけど……」

 十流は頭をかかえながら必死に昔の記憶を呼び起していた。

 どちらかというと薫がよく自分の家に遊びに来ていて、たまに薫の家に遊びにいくといつも笑顔で迎えてくれてお菓子もくれた優しいそうな薫の母親と休みのときには十流の父親がわりとして一緒に遊んでくれた薫の父親の姿が十流の記憶にはあった。

 しかし、そんな色鮮やかな記憶は薫の一言で砕かれることになる。

「ああ、あれはカモフラージュよ。東京で仕事があったから」

「カモフラージュ?」

「ちなみにこれが私のお母さん」

 そう言って薫は携帯の画面を見せる。

 その画像にはスーツに身をつつみ、レンズが細い縁なしメガネをかけた一人の女性。

 そこには一介の母親ではなく社会人としての女性の姿があった。

「これが薫のおばさん……」

 十流は今にも失神しそうになった。

 積み上げてきた人生そのものを否定されたような感覚さえあった。

「さて聞きたいことあるんでしょ」

 薫はお茶を一口飲むと切り出した。

 十流も出されたお茶を飲む。

「まずは『堺面世界』について詳しく教えてくれ……」

 本当は母・刹那のことを聞こうと思っていたが、いきなり核心を聞くのも正直、怖かったためとりあえずは堺面世界のこと、そして闇喰いことを聞くことにした。

 薫はポケットに手を入れると一枚の硬貨を取り出す。それを右の親指で弾くと手の甲で受け止め左手で押さえつける。

「表」

 そう言う薫に十流もとっさに答える。

「裏」

 左手をどけて、親指と人さし指でその硬貨をつまみ十流に見せる。

「残念。表でした」

 薫から見せられた硬貨は鳥の絵柄が描かれている面だった。

「それが一体なんだと?」

 訝しげに言う十流に薫は静かに語り始める。

「つまり『堺面世界』と私たちの住む世界――『現実世界』と呼んでいるんだけど、この二つの世界はこの硬貨のようにつながっている。全部じゃあなくて限られた形でね」

「限られた形で……」

「そう、具体的には現実世界で起きたことは堺面世界でも起きるけど、逆に堺面世界で起きたことは現実世界では起きないの」

「もっとわかりやすく説明して欲しいな……」

 話が見えない十流に薫は嫌な顔をせずもう少し噛み砕いて説明することにした。

「そうねえ。例えば私たちの世界で何か新しい建物が建つとするでしょ。そうすると堺面世界でもそれと同じ建物が建つのよ。それとは逆に堺面世界である建物を破壊したとしても現実世界ではその建物を破壊されてことにはならないのよ。学校がいい例じゃない。私、戦いの最中にあっちこち壊しているけどなんともないでしょ。もし壊したあとがあったら今頃、大騒ぎになっているだろうし」

「ああ、なるほどね。確かに薫だけじゃなくてあの蜘蛛も壊しまくっているのに誰も気にしないからおかしいとは思っていたけどそんなカラクリだとはね……。でもなんでそんな変わった法則になっているんだ?」

 しかし、その問いに薫は肩をすくめた。

「堺面世界のことは今だに解明されていないことがたくさんあるの。もっと根本的なことを言うとそもそも何故、堺面世界なるものが存在するかもよくわかっていないのよ。まあ、とりあえずはその法則に則って私たち退魔師はなるべく現実世界では戦わずに堺面世界で戦うようにしている。それに敵である闇喰いは堺面世界にいるわけだから」

 薫は一息つくと少し冷めてしまったお茶を口にする。

 その間に十流は薫の説明をまとめていた。

 自分たちが住んでいる世界と隣り合わせの世界を堺面世界と呼ぶこと。

 それが自分が意図せずに迷い込んでいた世界。

 そして同じような景色を見ているはずがどこか違和感を感じたのも堺面世界にあるものが現実世界にあるものと似て非なるものだからということ。

 十流は小さく何度も頷くと薫の顔を見る。

 薫は十流が理解するのを待って次の話へと進めた。


「次は『闇喰い』についてね。確か闇喰いは人の心から生まれるということは説明したと思うけど?」

 確認するように問う薫に十流は頷いて答える。

「ああ。心の妄執が固まって闇喰いになるんだろう? でもなんでその闇喰いは人を襲うんだ?」

「闇喰いは生み出したもの――これを『宿主』と呼ぶんだけど、その宿主と見えない糸のようなものでつながった状態で堺面世界に生まれるの。ただそのままだと宿主とつながっているために行動範囲がかなり限定されてしまう。自由に動くために一個の存在になるためには宿主の欲求を満たしその心を喰うか、または他の人の心を喰うことで自らを成長させる。来るべき『脱皮』のために……」

「脱皮ってまたグロテスクな表現だな」

「しょうがないのよ。他に言い表す言葉がないから。ともかく闇喰いはその脱皮のために普段は退魔師との接触を避けるようになるべく宿主の心の奥底に潜んで、いざ心を喰らうときには堺面世界に出てきて現実世界にいる人間を引き込んで心を喰らう。その名のとおり闇に潜んで人を喰らうそれが闇喰いなのよ」

「でも喰われた人はなんで闇喰いの存在に気がつかないんだ。平泉なんて蜘蛛の足にからまれて堺面世界に連れていかれたんだ。その時の恐怖が残っていてもおかしくないのに平泉はその辺りのこと全く覚えていないみたいだし……」

 闇喰いが堺面世界を介して人間を襲うことはわかった。だが襲われた人たちは何に襲われたのかましてやその前後の記憶すらない。

「本来、普通の人間は堺面世界にはいけない。それを無理やり連れ込むから、在るべき世界とは違う世界で起きたことは記憶として残らないし、そして都合がいいことにその前後の記憶も消えてしまう。だから平泉さんもそれから他の生徒、先生も襲われたけど記憶には残らない。私や十流のように退魔師の力があるものだけが堺面世界に行くことも、その中で動くこともできるし、記憶も残ったまま現実世界に帰ってこれる」

 なるほどと十流は頷いた。

 言われてみれば、もし闇喰いに襲われた人たちに記憶が残されているのならもっと世間が大騒ぎになってもおかしくはない。それこそニュースのトップに踊り出ててもおかしくない事柄なのだから。堺面世界の出来事を認識できる退魔師には常人にはない力があるという証拠でもある。

「退魔師の力か。薫が使っていた火の術といえばいいのかな、それもその一つか。そういえば刀はどうした? なんでもないところから出し入れしていたように見えたけど」

「そのとおり。退魔剣士の持つ魔力を使ってとある空間にあった剣を呼んだのよ。こんな風にね」

 そう言って右手をかざすとその手に先ほど見せてくれた白塗りの刀が一振り十流の眼前にあらわれる。

「この子は桜のように舞い、闇を切る剣だから『桜花』と呼ぶの。それじゃあね『桜花』」

 薫の言葉とともに剣はまた虚空の彼方へと消え去る。

 まるてなんでもポケットから出し入れする様はもはや現実離れしていると十流は思った。

「そんな力が俺にもあるってわけか。だから手から衝撃波みたいのが出るのもそういう理屈だから……」

 薫は軽く頷いて見せた。

 そしてしばらく沈黙が続いた。

 十流はソファに深く座り直し、すっかり冷めてしまったお茶をすする。湯呑に沈澱していた苦みが口いっぱいに広がる。

 テーブル越しに座る二人。

 少し動けば触れられる位置なのにその距離は思ったよりも遠く感じられた。

 真実を知っていたものと知らなかったもの。

 変わったものと変わらなかったもの。

 姫川薫と天宮十流。

 両者には年月以上に埋められないものがあった。

 目をつぶりそして一番聞きたかったことを口にする。

「闇喰いのこと退魔師のことはわかった。だけどなぜそこに母さんの名前が出てくるんだ? まるで母さんが全てを知ってるかのように」

 薫も一度目を閉じて、しばらく考えてからゆっくりと話し始めた。

「もう察していると思うけどあなたのお母さん、天宮刹那は昔、『退魔剣士』だったのよ。表向きは姫川ブランドの社員として裏では退魔師としての仕事をしていたのよ」

「母さんが『退魔剣士』か……。まあ、確かに俺には退魔師としての力が多少なりともあるのはわかったけど、それでもやっぱり信じられないな。確かに母さんは趣味で剣道をやっているしそれなりに強いと思うけどとてもあの闇喰いと戦っていたなんて信じられない」

 十流にとっての母、刹那はいつも優しくすこし抜けている部分があるけど剣道をやっている時はすごく強く格好いいと思っていた。

 その母が退魔剣士だというのはどうにも結びつかなかった。

「十流の言うとおり私も話を聞いたときは半信半疑だったし、それに映像とか残っているわけじゃないけど刹那さんの話はよく聞かされていたわ。

 ――強いなんてものじゃない。その輝ける紅い瞳に映る闇喰いは一瞬のうちに倒される。そしてつけられてあだ名が、

『紅き閃光の刹那』――。

 お母さんが言ってた。私の親友であり生涯のライバルだって……」

「まってくれ。紅い目って言われても母さんの目は赤くないし、剣道やっているって言ってもせいぜい市民大会で優勝するくらいだし、それにそれに……」

 ソファから立ち上がり必死に母が退魔剣士ではない理由を探していた。どれだけ事実を言われようとも心が納得できない。

 しかし、薫の表情から嘘ではないことが読み取れた。

「それじゃあ言うけど、刹那さんは仕事していないでしょ?」

「ああ……。昼間ちょっとしたパートの仕事をしているぐらい」

「それに十流のお父さんは幼い時に亡くなっている」

「ああ.……」

「じゃあ、今までどうやって生活費を工面していたの?」

「あ……!」

「パートの仕事っていってもたかがしれているわ。十流と今まで生活できたのも姫川家で退魔剣士として働いていたから。そして退魔剣士を辞めたことで退職金が支給されたから」

 たたみかける薫の言葉に今度こそ十流は弁解する余地がなかった。

 今まで生活費で困ったことはなかった。無論、十流自身は物をあまり欲しがらなかったし、お小遣いの上乗せも要求したことはない。たまに漫画とか欲しい場合はおねだりもしたことはある。もしかしたら自分の知らないところで刹那は生活に困窮していたかもしれない。でも自分は不自由に思ったことがなかった。

 ソファに力なく座った十流は深く息を吐いた。

 薫もそんな十流を見て押し黙ってしまった。

 外はいつの間に夕の紅に染まっていた。

 うなだれていた十流は立ち上がり鞄に手をかける。

「俺、もう帰るよ」

 そう言って玄関へと歩みだす。

 振り返るとそこには悲痛な顔した少女が立っていた。

「お茶、ごちそうさま。それに色々話をきかせてくれてありがとう」

 何を言っていいかわからず、とりあえずはお礼の言葉しかでなかった。

 薫もどう返答していいものかと思っていた。

「ううん。たいしたおもてなしができなくてごめん」

 どちらか切り出したかわからないが、別れのあいさつをかわし十流はマンションを後にしていった。


 薫は部屋のドアを閉めるとそのままドアに背を預けた。

 いつものように一人になったその部屋はいつにもまして静かすぎた。

「話てよかったのかな……」

 話している時はこんな風に思わなかった。

 もしかしたら何も知らない十流に真実を告げることで自分の荷を軽くしようとしていたのではないだろうか。黙ってもしくは嘘をついて闇喰いと戦うこともできたはずなのに。

 説明したことへの充実よりも罪悪感だけが心に残ってしまった。

「それでも私は……」

 薫は十流が真実を知って昔のことを思い出してくれればと淡い期待を持っていた。

 小さい頃、十流に自分が退魔師になることを言ってはならないと両親と約束をさせられていた。

 だが一度だけ薫はその禁を破り十流に自分が退魔師になることを告げた。

 それを聞いた十流の反応はこうである。


『それなにかのお菓子か?』

『そうじゃなくて正義のヒーローみたいなものよ』

『お前が正義のヒーロー? 大丈夫かよ?』

『大丈夫だもん。私だって十流のように強くなるの。それでできれば十流も一緒に……』

『お前だけじゃ心配だし、俺もタイマシになるか』

『本当?』

『ああ。本当さ』

『一緒に戦ってくれる?』

『もちろん』


 その当時の約束を薫をずっと覚えていた。刹那の事情は十分に理解していたし、十流の様子から約束を覚えているとは思えなかった。それでも十流と一緒に戦う日を夢見ていた。

 いつかきっと、いつかきっと一緒に……。

 それが薫が闇喰いと戦ううえでの支えにもなっていた。

「それでも私は十流と一緒に戦いたい」

 伝えたかった本当の想いが誰もいない部屋に響く。真実を知ったら拒まれるかもしれないと思いつつも心の中ではずっと叫び続けていた。

 薫は静かに目を閉じると一筋の涙が頬を伝って流れていく。


 家に帰る道は今までにない以上に重いものだった。

 薫のこと、闇喰いのこと、退魔師のこと、刹那のこと。

 知らなかったと言えば知らなかった。

 知らなかったらどれだけ楽だったのだろう。

 でも知ってしまった。

 それが今では重荷になっている。

 普通の人とは違う力があると知らされたらだれでも驚くしおそらく気持ちが高揚することだろう。実際、十流も自分に退魔師の力があると知ったとき正直に嬉しかった。

 だがふと考えてしまった。

 この力があれば薫ように闇喰いと戦うことができるだろう。クラスメイトを助けることも、いやこの街の人たちだって守ることができる。

 しかし、今更どの面下げて人々を守ると言えるのだろうか。

 闇喰いがどんなものか知らなかったとはいえ、生み出したのが自分ではないとはいえ、ずっと逃げ続けてきた自分に他人を守る資格があるのだろうか。

 ずっと自分の命を優先してきた自分に闇喰いと戦う資格などあろうはずがない。

「なにやってんだろうな俺は……」

 誰にいうでもない呟きはしかし、街の雑踏に消えていく。


「おかえりなさい。今日は遅かったのね」

「うん……。薫の家にいってお茶を頂いてきた。昨日のお返しとかいわれてさ……」

 十流は刹那の言葉に曖昧な返事で返す。

 いつもと違ってすぐ二階にある部屋にはいかず居間にあるイスへと腰かけた。それにはかまわずせっせと夕食の支度をするため刹那は台所につききりになっている。

 いつもと変わらない母の姿を見てどう言っていいものかと悩んでしまった。

 今すぐにでも真実を知りたい。

 でも軽く誤魔化されたら、それは違うと言われたら。

 今あるこの日常を壊したくないという思いが心の底から沸いてくる。

 料理を運ぶため幾度か暖簾をくぐり抜ける刹那の姿を見ては重い溜息をつく。

 そして最後の野菜炒めがテーブルに乗せられてところで十流はとうとう口を開いた。

「母さん!」

「どうしたのよ。いきなり大声を出して」

 十流の声量に目を丸くする刹那に十流は畳みかけるように言葉を出した。

「母さんは昔、本当に退魔剣士だったのか? それも凄腕の……」

 十流の問いかけに刹那は一瞬驚き、静かに目を閉じた。

「それは薫ちゃんから聞いたのかしら?」

「ああっ……」

「そう……」

 そう言うと、刹那は食卓を囲む椅子に座って大きく息を吐いた。

 数秒の沈黙がその場の空気を重いものにしていく。

 十流は刹那の次の言葉を待っていたがやはり我慢できずに再び問いかける。

「俺にはまだ信じられないんだ。退魔剣士だったことも、『紅き閃光の刹那』って呼ばれていたことも。第一、母さんの眼は紅くないし……」

 信じたくない、だから何か言って欲しい。

「それはこれのことかしら……」

 閉じていた瞼を開け、刹那の瞳が十流をみる。

「紅い眼……」

 思わず十流はイスから立ち上がり刹那の瞳を凝視するが刹那の瞳はまぎれもない紅い色。

 鮮血にも似た紅い瞳はさっきまでの優しい母のそれとは違っている。いつしか刹那の纏う気迫は自分が知っているの母のそれとはまったくの別物になっていた。

「これはね。殺気というか力を込めると瞳の色が変わるの。別に病気でもなんでもないわ。私が生まれもった体質とでもいうのかしら。普段はカラーコンタクトをして隠していたけどね」

 まるで悪戯がばれたような笑みをこぼす刹那だが、紅い眼に見つめられている十流にはその冗談を受け流す余裕などない。

「とりあえず座りなさい。十流」

 そう言われて十流はおもいっきり体重をかけてイスに腰掛ける。

 薫に言ったとおりに紅い瞳だった。ということは刹那は退魔師である証拠にほかならない。

「なんで……」

 一瞬、それでも爆発したように言葉を投げかける。

「なんで退魔師だったことを俺に黙っていたんだ。それにもう気が付いていたんだろう? 俺が何度も闇喰いに襲われそうになってたことも……。どうしてだよ、母さん」

 十流の言葉に刹那はもう一度、眼を閉じ開けると今度は元の黒色に戻っていた。

 そして十流に諭すように答えた。

「退魔師のことを黙っていたのはあなたのお父さん――翔との約束だったからなの」

「約束?」

「少し話してあげるね。何故、私が退魔師になったのか。何故、翔が死んだのか……」

 そして刹那は自身の過去を語り始めた。

「私の両親はごく普通の人だった。もちろん退魔師としての力は持ってなかったわ」

「両親が退魔師じゃあなくても退魔師になれるのか?」

「その辺は薫ちゃんから聞かされていなかったようね。たしかに血筋も関係あるけどごくたまに退魔師の力をもって生まれてくる人もいるのよ。才能ともいうけどね。でも子供のころ自分が退魔師の力をもっているなんて気がつかなかった。

 両親を闇喰いに殺されるまでは……」

「殺されったって……」

「心だけを喰われただけではなかった。本当に殺されてしまった。幼かった私はただその光景を震えながら見ているだけで、助けを呼ぶ声すらあげることが出来ないほどに恐怖に支配されていた。そして気付いた時には私だけが取り残された。闇喰いが両親を殺した痕も何もなくなっていた。それから紆余曲折を経て私は施設に預けられることになった」

「誰にも言わなかったのか。両親を闇喰いに殺されたって」

「言ったところでだれも信じてくれないと思っていた。私もはじめて闇喰いをみたのだから。

私の心に残ったのは両親を失った悲しみとその両親を殺した闇喰いへの憎悪だけだった。

 ただ両親を殺したのが闇喰いで私には退魔師の力があるとわかったのは当分あとのことよ。

 普通の学生生活を送るかたわら、闇喰いのことを調べて回る日々を過ごした。いくつもの本や文献を読んでそうして見つけた闇喰いの存在とそれに対抗する退魔師の存在を。

 そして高校一年のときに薫ちゃんのお母さん、姫川(ひめかわ)(しずく)に出会ったのよ。彼女はもうすでに退魔師だった。剣士とは違い術師だったけど。彼女の私に退魔師の素養があることを感じて一振りの剣を貸してくれた。 私はそれまで闇喰いのことを憎み、倒したいという想いはあったけどその手段がなかったから、貸してくれた武器と一緒に必死になって鍛錬をした。

 そしてみるみる上達して、いつしか雫と手を組んだ闇喰いと戦うようになっていき そのころついたあだ名が、紅い瞳をもち光のごとく闇喰いを倒すことから

『紅き閃光の刹那』と呼ぶようになった。

 それから雫のおかげもあって姫川ブランドの社員となって、表では会社員を裏では退魔剣士として仕事をするようになったのよ。

 それからあなたのお父さん 天宮(あまみや)(かける)に出会った」

 そこで刹那は息を吐くと背中をイスに預ける形で天を仰いだ。

 刹那の話はその心中を察するにはあまりにも重い話だった。

 両親を殺されてその憎しみから退魔師になった。

 自分も目の前の刹那が闇喰いに殺されたのならおそらくはいや絶対、退魔師になって復讐を果たそうとするだろう。

 復讐に燃えていた刹那の前に父・翔と出会ったということは、

「もしかして父さんも退魔剣士だったのか?」

「そうよ」

 母のみならず父までも退魔師だったとは……。

 だがますます自分に退魔師のことを隠していたのは腑に落ちなかった。

「会社員としても退魔師としても一緒にいることが多かったから、そのうち気が合うようになって、そして結婚してあなたが生まれた。本当にうれしかった。まさか自分が人並みの幸せを手にするとわ思っていなかったから」

 ずっと話し込んでいた刹那からこれ以上にない笑顔がこぼれた。

「でもね……」

 だがその笑顔も一瞬にして曇ってしまった。

「まさか。父さんは病死じゃあなくてもしかして……」

 十流は不吉な予感がした。今まで聞かされていた、父が病死だったことそれ事態が嘘で本当のことはもっと酷いものではないだろうかと。

「ある晩。あなたを寝かしつけて私と翔は仕事に出た。内容は簡単なものだった。ある場所で闇喰いが大量に発生しているためそこを叩くそれだけだった。あまりの数は私たちは二手に分かれ闇喰いたちを倒していった。

 私が担当したところはそれほど時間がかからずに終わって、でも翔はいつまで経っても待ち合わせ場所に現れなかったから心配になって見に行った。その時は妙に心臓が波打っていたのがわかったわ。不吉な予感というかとにかく早く翔を見つけなければとの思いしか沸かなかった。

 だけど私の予感は的中してしまい、私が見たのは血まみれになって横たわる翔の姿だった。

 それなりに私は治癒の術は使えたけどとても翔の傷を癒すことはできなかった。

 再び私の心が憎悪で満たされようとした時、翔は私の手を取って言ったの。

『どうか十流を普通の子に育てってやってくれ』と。

 泣きじゃくる私の紅い瞳を見つめながら、最後にそう言い残して息を引き取った」

 顔の前で組む刹那の腕が小刻みに震えている。

「普通の子に育ててくれ、それが父さんの望み……」

 コクリと刹那は頷く。

「私は翔の遺言に従ってあなたを普通の子に育てる決意をした。そのために私は姫川雫に頼んで私にある術を――呪いといっていいものをかけてもらったの」

「呪い……?」

「それは退魔師としての力を使えなくするもの。だから私はもう退魔剣士として戦うことはできない。それでもかまわないと思った。十流を立派に普通の子に育てることができるのならって。それ以来、私は退魔師のことや闇喰いのことを一切口にしなくなった。雫にも頼んで十流に話さないように念を押した」

「それで今日に至るわけか……」

 十流にとっては重く、刹那にとっては振り返ることさえ苦痛を生むあまりに残酷な過去の話。

「ずっと黙っていたのは謝るわ。でも時がきたらちゃんと話すつもりだった。その上であなたに選らばせるつもりだった」

「選ぶ? 何を?」

「ちょっと待ってなさい」

 刹那は立ち上がり居間を出ていく。

 残された十流は茫然と虚空を見つめていた。

 普段から刹那と二人暮らしのため家の中は静かだったが今日はやけに静まり返っている。

 母さんと父さんが退魔剣士だったなんて。

 母さんの両親も父さんも闇喰いに殺されていたなんて。

 どれだけつらかったんだろう。

 それなのに俺のために退魔剣士をやめて、家事をして俺を育ててくれて。

 いつも笑っていて。

 自分はその現状に甘えていただけじゃあないか。

 普通の子に育てることがどれだけ大変だったのか。

 そう思うと十流は胸のあたりが苦しくなってきた。

 ほどなくして戻ってきた刹那が手にしていたのはわずかに歪曲する黒い棒のようなもの。

 いや棒ではなく一振りの剣で黒色の鞘に収められている。

 腰に巻くベルトに剣を収めるホルダー。

 それらが一緒になって刹那の両手に抱えられている。

「これはね。翔が使っていた二振りの剣の一つ。彼は二刀流だったから」

「これが退魔の武器……」

 十流は刹那の持っている剣に手を伸ばしかけたがそれを刹那が制する。

「待って十流。これを手にするということは退魔剣士としての生き方を選ぶことになる」

「退魔剣士としての生き方?」

「退魔剣士となれば闇喰いとの戦いがまってる。一時平穏はあっても人間がいる限り闇喰いを生まれる。倒しても倒しても戦い続ける生き方。それが退魔師のいえ退魔剣士としての生き方なのよ」

 刹那の強い物言いに十流は激しく動揺した。

「今ならまだ普通の人としての生き方を選ぶこともできる。高校に通い、大学に行って、仕事に就いて、そんな普通の生き方を……」

 十流は絶句していた。

 退魔師としての人生は刹那の言葉から過酷なものだと想像はつく。

 それでも人並みの生活ぐらいはできると思っていた。

 そんな十流の甘い考えを刹那は一蹴したのだ。

「生き方を決める……」

 突き付けられた二択に十流は答えを出せずにいる。

 普通の子としての生き方を望む父の最後の言葉に背を向けることにならないだろうか。

 いやその前に退魔師として戦う資格が自分にあるだろうか。

 子の迷いを悟った刹那はくるりと踵を返した。

「今すぐに決めろとは言わないわ。よく考えて自分で決めなさい。でもこれだけは覚えておいて。母さんはあなたがどの生き方を選んでも今までと変わらずに応援するって」

「母さん……」

「さあ、もう御飯にしましょう」

 そう言う刹那の顔はいつもと変わらない笑顔になっていた。

 

(不味い……)

 今日の晩御飯もいつもと変わらない味なのに喉に通らない。

 話題もなくただ機械的に物を口に運ぶだけの食事がこんなにも味気ないものとは思っていなかった。

 十流は食事もそこそこに二階にある寝室へと上がっていた。

 寝巻用のジャージに着替えると貯めていた漫画を読むことなくさっさとベッドの中に入り込む。

 暗がりの中、布団に巻かれながら何度も何度も寝返りを打った。

 何気なく過ごしていた日常が崩れ去り、知ってしまった真実。

 そして突き付けられた二択の道。

(自分の意思で決めなさい)

 この言葉が十流に重くのしかかっていた。

(どうすればいい?)

 十流の問いかけに答えるものはいない。

(もし神様がいたらどちらの道を選んでくれるんだ?)

 なんでも示してくれる神などいないことはわかっている。

 それでも毎日見る、星座占いのようになにかにすがりたい一心だった。

(あの事から逃げ出した自分に薫みたいに戦えるわけがない)

 それは十流にとって誰にも話せなかったこと。

 はじめて自分が弱くちっぽけな存在だと認識できた事柄。

(あの時のようになったら俺は、俺は……)

 悩みながらも夜は深まり、やがて十流は眠りについた。


 十流は夢を見ていた。

 自分が闇雲に街を歩き、並ぶビル群の中を車も通らない道路中央を辺りを見渡しながら歩いていた。

 しばらくして見つけたのは通りを埋め尽くす倒れた人達。

 ある者は切り裂かれ、ある者は腹のあたりがそげ落ちている。

 反射的に手で口を押さえた。

 そして響き渡る女性の声。

 まっしぐらに声のした方へ駆けだす。

 視界に飛び込んできたのは化け物に腹を貫かれた女性の姿。

 その女性には見覚えがあった。

 流れる金髪とその顔だち。

 まぎれもなくその女性は薫だった。

 薫はうつろな目でこちらを見ると震える手を差し伸べる。

 口が上下に動き助けを呼んでいた。

 しかし、十流は身動きができずただ立ち尽くしていた。

 やがて化け物が止めの一撃を振り下ろす。


「やめろ――」

 叫び声とともに十流は起き上った。

 あたりを見渡すせばそこはカーテン越しに朝日を浴びる自分の部屋。

 シャツが汗で濡れて冷たい。

「どうしてまたあれを……。しかもよりによってなんで薫なんだよ……」

 夢ならば覚めれば終わる。

 しかし一昨日からみた闇喰いは実際に存在するもの。

 それが今もなお人の心を喰らうためにどこかに潜んでいることを考えると改めて恐怖と戦慄を感じる。自分は胸を貫かれただけだが(それでも現実離れしているが)、他の誰かは心を喰われ、それに気がつかずに普段の生活をかろうじて送っている。もうとっくに自分は人とは違う世界を見てきたんだな。

 十流は今までのこと、これからのことを考えると憂鬱な気持ちになっていく。刹那に言われた自分で今後の人生を決めることも、一晩だけでは答えがでようはずもなかった。

 この世に闇喰いがいようとそれでも自分は学生の身分なのでとりあえずは学校に行かなければならない。

 大きな溜息をつくとベッドから出てきて、いつもの制服に着替える。

 部屋を出て、階段を降り、いつも食事をする居間へと向かった。

 そこには母・刹那の姿。昨日のように瞳は赤くなくいつもどおりの黒い瞳と笑顔があった。

「おはよう十流。今日はお寝坊介さんね」

「寝坊って、そんなに遅くはないはずだけど」

「あらそう。いつもの占いもうはじまっているわよ」

 手を頬にあて困ったような顔をする刹那の視線にはテレビに映る今日の十二星座の占い。いつも十流はこれを見てから学校へと向かう。

「もうこんな時間なのか?」

「そうよ、御飯どうするの?」

「どうって。もう学校にいくよ」

 十流は恨めしそうに刹那を見るが返ってくるのは悪気のない笑顔なのでこれ以上、反論せず   さっさと靴を履いて玄関を勢いよく開けて学校へと向かっていった。


 十流はホームルーム直前に教室へと駆け込んだ。

 教室に入るとその異様なまでの静けさに身を固くした。

 いつもならホームルーム前に多くのクラスメイトが談笑に花を咲かせている、この場所がいまや人もまばらで空席が目立つ。ほとんどの生徒が自分の机に座り茫然としていた。

 自分の席の後ろに座る薫はすでにおり、平泉も何やら困惑したような顔で薫と一緒にいる。

 窓際まで歩を進めているとあることに気づく。

 あの騒がしい川田がいないのである。

 馬鹿は風邪を引かないの言葉どおり川田が風邪ごときでは休むことはない。

 だが川田の席はからっぽになっている。

「これは一体……」

 薫と平泉に朝の挨拶をすますとこう二人に問いかける。

「みんな朝からこんな感じなんです。欠席する人も今日に限って多いし……。変な病気でもはやっているんですかね?」

 平泉のごく自然な意見に十流はそうかもと答えるのが精一杯だった。

 薫のほうは肩をすくめるのみ。

 しかしその直前に強い視線を十流に投げかけたのがわかった。

(今は聞くなってことか……)

 十流はその後、何もいわずに自分の席へと座った。


 その日の授業はこれまた異様なものになっていた。

 一限目は自習。二限目も自習。

 さすがに変だと思った他の生徒が自習を通告してきた先生に問いかけた。

 なんでもほとんどの先生が体調不良のためお休みとなっているため、また他のクラスでは生徒全員が休みとなっているらしいとのことである。

 三限目も自習になったため、十流はいてもたってもいられずに立ち上がる。

「薫、ちょっといいか……」

 確認もとらず十流は教師を出ようとする。

 薫も無言のままた立つと十流の後を追うように教室をでる。

「……?」

 そんな事に気がついたのは教室の中で平泉ただ一人だけだった。

 昨日と同じルートで屋上へと向かう二人。

 授業中にも関わらず教室の外を歩く二人を咎めるものは全くの皆無だった。

 屋上への出入り口の扉を開ければそこはやはり昨日と変わりない街全体を一望できる。

 しかし、十流の目には明らかに違う景色が見えていた。

 金網越しに見なれた街がある。でもこの街のどこかで人を喰らう闇喰いは潜んでいる。

 いつ襲われるかわからない世界を人々はいつもの日常を暮らしている。

 そんなことを考えるだけで胸が詰まる思いがした。

 そして今、自分たちがいるこの学校に闇喰いは潜み生徒・先生の心を喰らっている。

 これほどまでに他のものに対して敵意をもつのは初めてかもしれない。

 だが自分には戦うことができない。

 どうしようもない想いを握りこぶしに込めていく。

「ねえ、十流……」

 薫が後から遠慮がちに言葉をかける。

「昨日のことだけど……」

「母さんから聞いたよ。薫の言ったことは全部本当だった。紅い瞳も見たよ。本当に紅い色をしていたよ」

 十流は薫に振り向かず言葉を紡いだ。

「母さんから言われた。これからのことは自分の意思で決めなさいって。でもどうしていいかわからなくて。昨日の晩からずっと悩んでいる……」

「わたしね。十流に闇喰いや退魔師の事を話したのは、その……十流を困らせるためじゃあなくて……、あの……嘘をつきたくなかったから」

「えっ?」

 十流は振り向き手を胸をあてる薫の姿をじっと見つめる。

「十流に嘘をつくのだけは嫌だったの。せめて十流だけでも自分が何をやっているか知ってもらいたくて」

 顔を伏せて話す薫の言葉には切実な思いが乗っている。

「それから出来れば昔の……昔の約束を思い出してほしかった。たぶん十流は覚えていないと思うけど……」

 薫は伏し目がちに十流の顔を覗くがその顔は怪訝な表情だった。

「なんの約束だ?」

 薫との約束など小さい頃には日常茶飯事の出来事である。明日、遊ぶ約束。一緒に帰る約束。お菓子を一緒に食べる約束。それこそきりのない約束を薫と交わした。

 しかし今、薫の言う約束とはそれとは違う。もっと重要なものだと推測することはできる。だが十流にはそれが何だったのか思い出すことが出来ない。

 薫は小さく息を吐くと、今にも泣きそうな顔を十流に向けた。

「いいの。覚えてなければそれで……。私が言いたいのは十流には二つの道が広がっているってこと。普通の人生か、退魔師の人生か。私がとやかく言えるものじゃあないわ。どの道を選ぶのか。それは誰でもない。十流自身が選らばなければいけないと思う」

 刹那に投げかけられた言葉と同じものを聞いて十流は激しく動揺した。

 自分で決めるのは分かっている。おそらくこの決断によって自分の人生が左右されることは容易に想像がつく。

 そうありたいと願う道を選びたいと思っている。

 だけど……。

「俺だって……」

 十流は絞り出すように声をあげた。

「俺だって、薫のように戦いたい。みんなを守りたい。だけど……」

 その言葉にかすかに表情を緩める薫だったが次の言葉に凍りついてしまう。

「だけど今更、俺に人を守る資格なんてない!」

 怒気を含んだ声に薫は声を出せないまま黙ってしまう。

「俺が何度も闇喰いと遭遇していることは話したよな」

「……ええ」

「俺が最初に闇喰いと出会ったのは薫が京都に戻った後だから――小学校3年生のときだ」

 近所の連中と遊んで一人で帰っている時だった。ちょうど夕暮れどきかな。なんとなしに街を歩いていたらいきなり景色が変わったんだ。いや変わったというよりもその雰囲気が変わったっと言っていいかもしれない。さっきまであったはずの人気がなくなり、まるで静止画のなかに取り残されたような感じだった。

 不思議に思いながら歩いた先に見つけたのは倒れている人々。

 最初は人形かと思った。

 でも人形じゃない、人のうめく声があたりに響いていたんだ。

 俺は怖くなってその人達を無視して走りだした。

 そして路地を曲がったところで俺はそいつを見た。

 大人の女性の腹を貫いて立つ闇喰いの姿を。

 傍らにはたぶんその人の子供なんだろうけどその子供も倒れていた。

 俺の視線にその人は気がついて、虚ろな目をして、震える手を俺に差し出したんだ。

 そして声にならないけど口を一生懸命に動かして、

『助けてくれ』

 俺は口がそういう風に動いたと思った。

 だけど俺はただただ震えるだけで何もできなかった。

 何かしようとする考えも沸かなかった。

 そうこうしているうちに闇喰いも俺に気付いてこっちに振り向いたんだ。

 そいつが頬を割くぐらいの笑みをこっちに見せたから俺は必死に逃げたよ。

 倒れている人のことよりも、助けを必要とした女性のことよりも、自分が助かりたいと思った。

 どれくらい走ったかわからないけどいつの間にか俺は自分の家に帰っていた。

 それ以来、俺は何度も闇喰いが人を襲うところに遭遇している。

 その度に俺は逃げていた。

「逃げることしかできない。習っていた剣道がなんの役にも立たないことを思い知らされた。それでも俺は、本当は、助けたかったんだ」

 十流の言葉を薫は静かに聞いている。

 時折、目をつむり何度も頷いて十流の言葉に耳を傾けた。

「俺が決めないといけないのはわかっている。でも俺には退魔師の道を選ぶ資格なんてはじめからないんだ!」

 力が抜けたように十流は膝を屋上のコンクリートについた。涙がこれでもかと溢れてくる。

 誰にも言えなかったことをようやく言えた安堵感。そして懺悔の気持ち。

 それが涙となって十流の顔を濡らしていく。

 これで薫に怒られるのも、罵られるのでも良いと思った。

 そんな様子を黙って見ていた薫は十流へと歩み寄る。

 しゃがんで膝を地につけて泣き崩れる十流の肩にそっと手を当てる。

「こんなこと言ったら誰かに怒られるかもしれないけど……」

 一区切りつけて、

「それでも私は十流を責めることはできないわ」

「えっ?」

 泣きはらした顔をあげ薫の顔を見る。

 怒っているわけではない、とても穏やかな顔だった。

「私がもし十流と同じ立場なら、たぶん私も逃げていたわ。退魔師としての力があるとっていもそれが使えなければ意味がない。自分の持てる以上の力を発揮して人を救うなんて並大抵じゃあできないわ。誰でもあなたのように自分の命を優先するわ」

「それでも……」

 頭を振り、薫の擁護を否定する。

「大抵の人は嫌なことからすぐ逃げだすわ。自分に責任があろうがなかろうが。十流はずっと助けられなかった想いを抱えていたんだね。原因が自分でないのにずっと自分を責めてきた。私は十流のことすごいと思う」

「それでも俺は逃げ出したんだ」

「でもそれは過去の話でしょう」

 そう言うと薫は立ち上がる。

「確かにあなたは逃げ出した。でも今は違う。闇喰いのこと、退魔師のことを理解したはず。その上で現在、十流はどうしたいかが問題でしょ?」

「現在をどうしたいか?」

「勇気を出して一歩を踏み出し、手を伸ばせば今度こそ人を守れるかもしれない。それでも怖くて逃げたいのなら退魔師ではなく普通の生活を送ることもできる。十流の心は何て言っているの?」

「俺の心……」

 心という目に見えないもの、胸のずっと奥にあるであろうものの声。

 それこそが自分の道を決めるもの。

「私はどちらを選んだとしても十流の意思を尊重するわ」

 どこかで感じた既視感だった。

(自分で決める)

 それは母、刹那にも言われたこと。

「俺は……」

 言いかけて妙な胸騒ぎに襲われる。

「これはまさか」

「闇喰いの登場ね……」

 一昨日と昨日感じたものよりも強い気配を十流は感じている。

 それは薫も同じだった。

「どうやら向こうは本格的に私を消そうとしているわね」

 その言葉に十流は胸が痛む。

 昨日の晩に見た夢を思い出す。

「戦うのか? 薫……」

「ええっ。もう私は選んだもの。退魔剣士として生きると。姫川家のためになったんじゃない。私は私の可能性に賭けたのよ。私の心に従ったのが今の私」

 薫の決心に十流は揺らぐ。

 薫は決めたじゃないか。

 なのに俺はなにをやっているんだ。

 俺はもう……。

 十流はゆっくりと立ち上がり涙を服の袖で拭う。

「俺はもう逃げたくない。

 手を差しのべられてそれを拒むことをしたくない。

 だから俺は」

 言いかける十流に薫は振り向いて笑顔で答える。

「そこまで言うならもうわかっているでしょう? 自分が何をすべきか」

「ああ!」

 十流は薫の横に並ぶ。お互いを見つめあい確かめる。

 もうその顔には迷いは無い。

「時間を稼いでくれるか?」

「何言ってるの。ぐずぐずしてたら私が終わらせちゃうわよ」

「頼む!」

 そう言って十流は屋上への出入り口へと走り去っていく。

 そんな様子を薫は嬉しそうにでもちょっと複雑な心境で見送っていた。

「変わんないわね、十流は。昔からそうだった。人を思いやるのがあなたの強さだったから……」

 薫は左の掌を上にして前に突き出す。

「私は……私の戦いをするだけ……。

 おいで『桜花』」

 そして左手に一振りの剣が収まる。


 十流は走る。

 校舎の階段を滑るように降り、下駄箱で靴に履き替え、外へのドアを壊さんばかりにおもいっきり開け放つ。

 その勢いのまま学校の外へと駆けだす。

 春の暖かさ、草木の匂いを全身に受け止めて、息も鼓動も聞こえるがそれでも目指すは新たな一歩を踏み出すための力。

 自分がしたかったこと。

 自分ができなかったこと。

 もう迷いはない。

 自分は戦うと決めたのだから。

 


 家の玄関前に立つとはやる気持ちを押さえ、深く深呼吸をする。

 新鮮な空気を体に入れて、いざ家に上がって開口一番、

「母さん、剣を俺にくれ」

 十流の出現と気合の入った言葉に刹那は絶句する。

「どうしたの? 十流。学校は?」

「それどころじゃあないって。また闇喰いが現れたんだ。今は薫一人で戦っているけど……。俺はもう決めたんだ――退魔師になるって。母さんのような退魔剣士になるって。だから俺に剣をくれ。父さんの剣を!」

「戦う意味がわかって言ってるんでしょうね」

 昨晩と同じ、真剣な眼差しで問いかける刹那に、十流も同じような眼差しで応える。

「俺はもう逃げないって決めたんだ。以前はできなかったこと、今度こそ手を差しのべている人を助けたいんだ」

「戦い続ける人生を送ることになっても?」

「ああっ、かまわない。助けることもできずただ逃げ回っている道を選ぶうよりも、戦って少しでも多くの人を守れる道を俺は選ぶ」

 十流の答えに、刹那は満足そうに頷く。

「わかった。十流がそこまで言うのならお父さんの剣をあなたに託します」

 刹那は居間を出てすぐ戻ってきた。

 鈍い黒色をした一振りの剣。

「……?」

 十流は刹那の持つ剣へと手を伸ばそうとするが、刹那は剣を両手で強く握りしめたまま動かない。

 唇を固く結んで震える身体で十流に語りかける。

「これを手にすれば、あなたも退魔剣士としての一歩を踏み出す」

「ああ」

「退魔師の武器を使う前に必ず契約の詩を交わすの」

「契約の詩?」

「この剣に、自分の覚悟と共に歩むことを誓う詩。それが何かはちゃんと教える。でもその前に……」

「その前に?」

「その前に私と約束して。必ず生きて戻ってくると」

「母さん……」

 刹那の目には涙が溜っている。

 今にも頬をつたいそうな涙をみて、十流は決意を新たにする。

「ああっ。約束する。必ず生きて戻ってくるって」

「もちろん薫ちゃんも一緒によ」

「当然。薫と一緒に戻ってくるよ」

 十流の答えを受け止めて刹那は持っていた剣を十流へと差し出す。

 十流は剣を強く握った。

 冷たい感触が指に伝わり、次に重さを感じる。

「これが退魔剣士の武器」

 新たな一歩を踏み出す力、父親が使っていた剣、母親の思い、剣の重さと一緒に込められたものを十流は強く、強く感じ取ることができた。


 十流の通う学校は、、校門を抜けてしばらく歩くと校舎があり、ある一画が吹き抜けとになっており向かって右側が生徒たちの下駄箱とそこから各教室へとつながっている。左側は教師と来賓の入り口、そこから教員室、理科室などの専用の教室が配置されている。

 吹き抜けを直進するとグランドが広がっている。

 手前には一周200メートルのランニング場、奥にはサッカーと野球ができるスペースが確保されている。

 そのグランドで授業中にも関わらず一人の生徒がいた。

 金髪を風になびかせ、両手にしっかりと握られた分不相応な剣が輝く。

 彼女の名前は姫川薫。一昨日の日に転校したばかりである。

 その彼女の姿を先生なり他の生徒が見ればきっと驚くことだろう。

 しかし、彼女のいる場所には人気は無い。

 それもそのはず彼女がいまいるのは普通の世界とは違う。

 境面世界と呼ばれるところ。

 人間が住むことのできない世界。

 代わりにいるのは闇に潜みて人を喰らう化け物『闇喰い』。

 今、彼女が戦っている闇喰いは巨大な蜘蛛である。

 その数は数十匹におよぶか。

 彼女の視界から見えるのは自分を捕らえようとする目と足だけだった。

「まったく、どれだけいるのよ」

 悪態をつきながら手前にいた蜘蛛を一振りで粉砕する。

 退魔師には闇喰いに対抗する力をその身に宿しており、それを武器なり、術の行使によって発現させて闇喰いと戦っている。彼女は退魔師のうち、退魔剣士と呼ばれる部類に入り、主に刀と同等の形状――すなわち退魔の剣を主にして戦うのを得意としている。しかし、彼女はそのほかにも術の行使もそつなくこなすことができる。小学校三年生から退魔師としての道を進み経験を積んできた。そんな薫でさえこの蜘蛛の大群には手を焼いていた。もはや何体の蜘蛛を倒したのか数える気にもならない。

 確実に疲労の色は濃くなってくる。

「来るならはやく来なさいよね」

 これは蜘蛛に対して言ったわけではない。

 自分と同じ退魔師の力を秘めた一人の少年に向けられた言葉である。

 薫は蜘蛛の振りあげられた足を後ろに飛んでかわすと、右手を引き、剣を腰のあたりに止め刺突の構えをとる。

 両足に力を溜めて踏み出そうとした瞬間、人影を横を通り過ぎる。

「うおりゃあああ」

 気合の声とともに蜘蛛の眉間に一撃を加え、その場に着地する。

 蜘蛛は不意の攻撃に二・三歩後ろへ退く。

 構えを解き、薫がその人物へと声をかける。

「遅かったわね、十流。道に迷ってるかと思ってた」

「迷うわけないだろう。でも遅れてごめん、薫」

 彼こそが今日、退魔師になることを決めた天宮十流。

 昔、退魔剣士だった母をもち、そして父の遺した剣を携えて自宅から戻ってきたのだ。

 得意気にその剣を持っている十流に薫が絶句する。

「あんた、剣と契約してないでしょ?」

 確かに十流の待つ剣は鞘に収められたまま、鞘も塗装がはがれている。剣を納めるホルスターも腰に巻くベルトもボロボロで相当の年季が入っていることがうかがえる。

 薫の持つ白塗りの鞘と桜の花びらを模した鍔、銀色に輝く剣と比べても十流の待つ剣が役目を果たせるのか疑問であった。

「契約って。契約の詩のことだろう?」

 本来、退魔の武器を初めて使用する際、持ち主と武器との間で契約をしなければならない。

 契約の詩を唱えることで退魔の武器はその効力は発揮する。

「その契約の詩よ。まだしてないの?」

 薫の叫びにも似た声に十流は頭を掻いて、

「母さんから教わったけど、来る途中で忘れた」

 その場に突っ伏したくなる気持ちを押さえ、薫は問いかける。

「剣の名前ぐらいは覚えているでしょうね」

「それは覚えている確か……」

「言わなくていい。今から私が契約の詩を言うから後に続いて」

「おう」

「でもその前に……」

 薫は剣を左手に持ち、右の掌を蜘蛛に向けて、口で術の詠唱をする。

「業火招来」

 右手より放たれた火球は前方にいた蜘蛛数匹を巻き込んで燃え上がる。

 ちょうど十流たちと蜘蛛の集団の間に火の壁が出来上がる。

 もうもうと燃え上がる炎があたりを朱に染める。

 そして響く契約の詩。

「我、光をもたらす者なり……」

「我、光をもたらす者なり」

 薫の言葉に続けて十流が力強く言葉を紡ぐ。

「汝、闇を祓うものなり。

 我が真名のもと

 汝とともに戦うことを誓わん、

 我が契約に応えし

 汝の名は……。

 闇を討ち砕き、切り裂く刃。

 『討牙』 」

 十流の叫びと連動するように剣から光が漏れ、黒塗りの鞘に光沢が宿る。

 腰に巻くベルト、そして剣を収めるホルダーから埃が一掃される。

 光が止むとベルトは勝手に十流の腰に巻かれる。

 十流は右手を柄に伸ばし強く握りしめ、一気に抜き放つ。

「おおっ」

 十流の感嘆と共に姿を現した、太刀『討牙』は一点の曇りもない見事な業ものだった。

「『討牙』。それがあなたの相棒の名前ね」

 薫が横目で討牙を見る。桜花よりも長い太刀、黒塗りの柄に、野獣を模した鍔、見ているだけで討牙の力強さが伝わってくる。

「それで剣は使えるようにしたけど、どうやって戦うんだ?」

 剣を身構える正面には蜘蛛のかがり火が消え、その後ろにいた蜘蛛たちが今にも襲いかかろうとしていた。

「色々、説明したいけどそんな時間がないから簡単に言うわよ。斬るときは……」

「斬るときは?」

「気合を入れて斬りなさい!」

 そう言って薫は蜘蛛の一団へと走り出す。

「的確なアドバイスで……」

 十流は呆れつつ、薫に追従する。

 校舎を背に十流は右から、薫は左から蜘蛛の一団へと斬り込んでいく。


 蜘蛛の攻撃は至ってシンプルで、その大きい足を振り下ろすか、薙ぎ払うかのどちらかである。蜘蛛のためか知能も低く、連携も統率も見られない。ただ獲物を捕らえる、それしかないようだった。

「おおおっ」

 十流の掛け声とともに上段からの一撃が見事に蜘蛛を真っ二つにする。

「本当に気合で斬れるんだな」

 薫の言うことを素直に実行してみると、昨日あれだけ苦戦していた蜘蛛をなんなく倒すことができる。

 優越感は少しだけ沸いてきたが状況が切迫しているため浸る余裕などない。

「うりぁぁぁあ」

 今度は横なぎの一閃で蜘蛛を仕留める。

 チラリと横にいる薫へと視線を向ける。

(綺麗だな……)

 薫の戦い方はとにかくその言葉に尽きた。

 女性ならではの身のこなしで蜘蛛の攻撃のことごとくを避け、剣を走らせる。

 蜘蛛の攻撃を予測しつつ、態勢を変えては攻撃をする。

 数多の戦いをくぐりぬけてきた経験が集約されていることに、退魔師としては素人の十流でもわかった。

 舞台で踊りを舞っているかのような身のこなし、そして揺れる金色の髪。和服を着ればさぞ映えることだろう。紅い色と桜の木を刺繍した羽衣を纏えば、本当に綺麗だろうな。

(いやいや。戦いの最中に何を考えているんだ)

 妄想を振り切り、十流は今一度、目の前の戦いに集中する。


 薫は十流よりは幾分、余裕があるため簡単に倒せる蜘蛛を深追いせずむしろ十流の行進速度に合わせた戦い方をしていた。

 いつでも十流のフォローに行けるように位置取りを確認する。

 そして薫から見た十流の戦い方は、

(鈍クサイ……)

 の一言である。

 敵の攻撃を避けるのに腰が引けているのが目に見えてわかるのである。

 避け方も危なっかしく、見ているこっちの胆が冷える。

 だが攻撃するときは言われたとおり気合を入れて、ついでに掛け声もつけているのでなんとか蜘蛛を倒すことができているようである。

 さすがに剣道をやっているだけあって、攻撃する時の踏み込みや瞬間的に剣を握るといった基本的な動作はしっかりしている。

 今は冷や冷やと嬉さとが半々の気持ちになっている。

 自分がずっと望んでいたことがひょんなところで叶っている。

 十流と一緒に戦いたい。

 その想い一心で今日まで一人で戦い続けたのである。

 本当はあきらめていたけど、十流は昔の約束など忘れているけど、それでも共闘していることがとても嬉しいと思っている。

 しかし、やっぱり素人臭さがどうしても目につく。

(後でちゃんと教えてあげますか)

 これからも一緒に戦うために、自分のパートナーとなってもらうために、薫は十流を鍛えることを決意した。


「はあっ」

 十流が何体目かの蜘蛛を倒すと急に視界が変わった。

 右にはゴールポストがあり、どうやらランニング場を一直線に突き進み奥にあるサッカーr場まで来てしまったようだ。

 頬に汗が流れ、十流はそれを拭って手の平を見ると、剣を強く握りしめていせいか手が真っ赤になっている。

(うわっ、剣道の練習でもこんなにはならなかったぞ)

 手をブラブラさせ、一息緊張を解く。

 するとさっきまで横で戦っていた薫の姿がないことに気がつく。

 左後方を見ると蜘蛛の一団が薫を囲っているのがわかった。

「たあああっ」

 威勢の良い薫の声が聞こえるのでとりあずは無事だとわかる。

「とりあず加勢しないと」

 再び剣を構え、斬り込む態勢を作る。

 右足を一歩踏み出そうとした瞬間、最初に聞こえたのは金属が何かに当たって反響する音、そして次に身を揺らす地響きだった。

「何だ?」

 音のした方向、ちょうどゴールポストのある方へ振り向くとそこにいたのは一体の闇喰い。

「蜘蛛……、じゃあないよな?」

 十流の疑問のとおり、顔は蜘蛛の形をしている、左右4本ずつの細い足、そして本来の蜘蛛にはないはずの太い二本の足がゴールポストの中央をくの字に曲げ地に付いている。

 直立不動の蜘蛛が十流を見て、左右の細い足を擦り合わせて音を鳴らす。

「いつから蜘蛛は二足歩行するようになったんだ」

 軽口は叩けるが体は正直で急に震えがこみ上げてくる。

 明らかにさっきまでの蜘蛛とは違う威圧感がその直立不動の蜘蛛にはある。

 手の震えを、剣を握りしめることで押さえ、足の震えは地を踏みしめることで押さえる。

「こいつを倒せばたぶん他の蜘蛛は消えるはず。

 それに薫は手一杯のはず。

 漫画の見せ場はやっぱり男の役目だから……。

 ここは俺がやるしかない」

 心の震えは根拠のない勇気でなんとか押し込める。

 十流と蜘蛛の距離は少しずつ縮まっていく。


 そんな様子を薫は蜘蛛の一団の隙間から見ていた。

 今、十流が対峙している蜘蛛はこいつらとは違うことがはっきりとわかる。

「なんでよりによって十流のところに現われるのよ」

 蜘蛛の一団の動きが最初のころと変わっていたのは気付いていた。

 明らかに自分のほうへ戦力を集中させて、逆に十流のほうへは蜘蛛が襲わなくなっていたことに。

 そのほうが初心者である十流の負担が減ると思い、一手に蜘蛛の集団を引き受けようと考えていたが、そのことが完全に裏目に出てしまった。

「邪魔よ!」

 早く十流と合流しなければという焦燥感が薫の余裕を奪っていく。


 先に動いたのは十流だった。

 蜘蛛の目の前まで駆けだし、左足を力一杯踏み込む。

「!……」

 しかしその一撃は蜘蛛の足によって止められる。

 蜘蛛は左右の足を交互に重ねそれを盾にしたのだ。

 そして一気に足を前方へと広げる。

「うわあ」

 吹き飛ばされ、地面を舐めるように転がる。

「くそっ」

 十流はよろめきながらもなんとか立ち上がる。

(さっきの蜘蛛は簡単に斬れたのに今度のはそうはうまくいかないか)

 もう一度、剣に握力をかける。

(それとも俺の気合が足りないのか? 掛け声を付けた方がいいのか?

気合斬りとか叫んでみるか)

 気合と本来の退魔師としての力を混同している十流には細かな作戦などない。

 とりあえず気合を込めて斬るしかないのである。

「いくぜ!」

 猛然と蜘蛛へと駆けだし、先ほどよりも遠くで地に足を踏みつける。

 薫のような軽やかとはいかないが、跳んだ勢いも付けて攻撃するのが十流の作戦だった。

「気合……」

 自身の限界まで跳躍したところで剣を上から一閃させる。

「斬り……。なっ?」

 今度こそ斬れると思っていた足が剣に絡みつく。

 そして先程までとは逆の方へと吹き飛ばされる。

 盛大に地面に打ち付けられてそれでも両手をつき、口から異物を吐きだす。

「ぺっ、ぺっ。砂を飲みこんじまった」

 奥歯を噛み締めると砂の苦さが口の中に伝わる。

 蜘蛛がゆっくりとこちらに近づいてくる。

(どうする、どうすれば)

 危機的な状況の中、しかし十流の頭は意外と冷静だった。

 上段からの攻撃が駄目なら横からは?

 でも足で止められる。下なら……。

 頭に状況と予測が幾つもの絵になってうかんでくる。

 しかし、その絵の中に薫の助けを求めるという選択肢は出てこなかった。

 自分一人で倒す。

 これが十流にとっての前提条件になっていた。

 考えがまとまらないうちに蜘蛛が距離を詰めてくる。

 左右4本の足をいったん後ろへ引く。

 そして勢いをつけて前へと押し出す。

 前へ押し出される際に、四本の足が互いに絡み合い先端を錐のように突き出す。

「!」

 かろうじて避けた先、足でできた錐が地面に突き刺さると蜘蛛はすぐに足を引いた。

 地面にはくっきりと穴が空いている。

「そういう使い方もするのか」

 当たればタダではすまないことはすぐにわかった。

 そしてその攻撃が何度も十流を襲う。

 十流は右に左に避けるものの、勢いに追い詰められていく。

(とにかくこの足だ。

 防御も攻撃もこの足が起点になっているんだ。

 だから足さえなんとかできれば……)

 簡単に斬れないことは実証済みだった。

 ならどうする……。

 ふと薫にいる方向に目を向けると今まさに最後の蜘蛛を倒そうとしている。

 十流はこの攻撃を掻い潜り、目の前にいる蜘蛛を倒す策が閃いた。

 しかし、

(痛いだろうな……)

 弱音を心の中で吐きつつ、蜘蛛の動きを注視していた。

 目に力を入れて剣で攻撃するでもなく、防御するでもなく、避けて動きを見ることに集中していた。

 その時がくるのを待っている。


 最後の蜘蛛を倒した薫の目に飛び込んできたのは、追い詰められている十流とその十流に止めを刺そうとしている直立した蜘蛛の姿。

「今、行くからね!」

 足に力を込め、地を爆発させる。

 常人を超える足力で十流の戦場へと駆ける薫の視界には刻一刻と十流の危機が映し出されていく

 蜘蛛の左右の足が引き、前方で錐の形になり十流を襲う。

 しかし、十流は避けるそぶりを見せない。

「なにを!」

 声が最後まで届かないうちに錐は十流をめがけて突き出される。

 瞬時に体が浮き上がり錐は十流の右腹部を貫通させる。

「あっ……あ……」

 薫は足を止め、信じられない様子で十流の姿を見ていた。

 十流は叫び声すらあげず、頭を垂れ、剣を左手で力なく持っていた。

 体が小刻みに震え、十流を貫いた錐には制服の切れ端が揺れている。

(なんで? なんでこんなことに)

 薫は足から崩れ、倒すべき敵が前方にいながらその場にしゃがんでしまった。

(私がいけないの? 私が十流に真実を話したから?)

 戦っているときは嬉しかった。

 幼馴染がその意思で自分と同じ退魔師としての道を選んでくれこと。

 退魔の剣と契約し、その太刀を構える姿はちょっぴりかっこよかったりして。

 いざ戦闘になると不慣れながら恐れず戦ってその勇気が逆に自分を励ましてくれた。

 だからこの戦いが終わったら退魔師の戦い方を教えるつもりだった。

 十流ならきっと良い退魔師になれる。

 自分と共闘するパートナーになってくれると思っていた。

 それなのに……。

(私が……、私が十流を殺した……)

 後悔の涙が薫の目に溜っていく。

「十流!」

 心の激情が叫び声となり、目を閉じると後悔の涙が一筋頬を濡らしていく。


「捕まえた」

 この緊迫した場に相応しくない声が薫に届いた。

 顔を上げ、その目に飛び込んできた光景に驚く。

「えっ、なんで?」

 声の主、十流の姿に薫は目を丸くする。

 十流のするどい眼光が蜘蛛の姿を、そして自分を貫いたはずだった蜘蛛の足を見る。

 蜘蛛の足は十流を貫いてはいなかった。

 十流の右脇腹をぎりぎりにかすめて、服をちぎり、脇腹の表面をわずかに裂いただけだった。

 そして十流は右腕で蜘蛛の足を抱えるように掴んでいる。

 蜘蛛は足を引こうとするが十流に強く握られ動きがとれないでいる。

 自分でも驚くほどに力が湧いてくる。がっしりと蜘蛛の足を右腕と脇腹で挟み撃ちにしている。

 だがこの膠着状態ではあきらかに十流に不利だった。いつ力が抜けてもおかしくはない状況のうえあの錐の攻撃を避ける自信はもうない。

(でも自分は一人じゃない。もう一人頼れる人物がいる)

 その頼れる人物、そして今は泣き顔をこちらに向けている姫川薫に十流は叫ぶ。

「薫!」

 自分を呼ぶ声に我を取り戻した薫は、左手で涙を無造作に拭うと十流の顔を見る。

 この状況で自分に何ができるのか。

 十流は何を求めているのか。

 そして薫は気がついた。十流の身に、ある異変が起きたことを。

 そして何をして欲しいのか。

 言葉は無くとも十流の意思が伝わってきたような気がした。

 右手で『桜花』を握り直し、駆け出す。

 狙いは闇喰い……、ではなく十流が必死になって持っている蜘蛛の足。

「はあああああっ」

 上段からの一閃が蜘蛛の足を両断する。

「……!」

 引っ張られていた足を失い、蜘蛛は急にバランスを崩して地につけた両足で体勢を立て直そうとする。

 十流と薫。

 二人はお互いを見るや同時に頷く。

 言葉はなくとも二人は次に何をするべきかはっきりとわかった。

 十流の考えはこうだった。

 蜘蛛を倒すうえでやはり邪魔だったのがその左右四本の足。

 攻撃にも防御にも使える、その足をなんとか剣で斬り、その後に攻撃をする。

 だが十流の未熟な斬撃では蜘蛛の足を切断することはできない。

 ならば薫の斬撃ならばどうだろうか。

 退魔剣士として経験の高い、薫の攻撃なら蜘蛛の足を一気に斬ることができると思った。

 だからまず自分が囮になって足が束になるのをじっと待っていた。

 それを自分が掴み、薫が両断する。

 薫が足ではなく、闇喰い本体を攻撃するという選択肢もあったが、果たして薫の一撃で闇喰いを倒せるかが疑問だった。

 倒せれば御の字、出来なければ足を失い、攻撃も防御もない蜘蛛を二人同時に攻撃すればいい。

 十流は左手に持っていた剣の先を左後方へ引き、右肩を突き出す格好で蜘蛛へと走る。

 その前を薫が駆け出している。

 蜘蛛は失った四本の足を再生させるべくその場を動かなかった。

 薫は地面を強く蹴って、高く跳躍するとそのまま蜘蛛の脳天に向けて剣を振り下ろす。

「たああああっっ」

 頭から足元まで剣の軌跡が走る。

 だが闇喰いは倒れない。

 そこへ十流が低い弾道で跳躍する。

「一閃!」

 蜘蛛の右脇腹に横薙ぎの一撃が走る。

 通り過ぎた十流の後方、蜘蛛の胴体は真っ二つに割れ地面に付く前に露と消え光の粒が天高く舞い上がる。


「ふう……」

 十流は剣を鞘に収め、安堵の一息をつく。

 急に脱力感に襲われ、さっきまではなんともなかった脇腹からは痛みが生じていた。

「イテテ、少し無理しすぎたかな……」

 今思えば、無謀ともいえる作戦だったかもしれない。一歩間違えば本当に串刺しになっていたのだから。

 実行する前には頭をよぎらなかった最悪の事態に身震いがした。

 すると薫がこちらへと歩み寄ってくる。

「よう薫。そっちも大丈夫だったか?」

 つとめて明るく振舞うがしかし、薫は答えない。

 顔を伏せ身体が震えている。

 その薫の様子に鈍感な十流は続けて問いかける。

「もしかしてお前もどこか怪我したのか? だったら早く治療しないと。俺もだんだん痛みが増してきたし……」

「この……」

「?」

「この馬鹿!」

 労りのつもりが返ってきたのは、骨の髄まで響きわたる薫の罵声に十流は驚く。

「なっ、なんで馬鹿なんだよ?」

「なんで、なんであんな無茶な事をしたのよ?」

「なんでって、あの蜘蛛を倒すのに足が邪魔だったからなんとか斬ろうとして一本一本じゃあ時間がかかるしまとめて斬った方が良いかなと思って……。わかる? あの左右に付いていた四本の足……」

 ジェスチャーを交えて状況を説明するが薫の様子が変わることはなく、逆に薫の感情を逆なでし、薫の目に涙が溜っていくのが目に見えて分かった。

 もはやいつ爆発してもおかしくない状況に十流はあせる。

「私が、私がどんな気持ちでいたかわかる? 私、私のせいで十流が死んだと思って……思って……」

「いや…だからあれは」

「十流の、十流の馬鹿!」

 そしてとうとう目の溜った涙が決壊し薫の顔を濡らしていく。

 泣き叫ぶ声があたりを包み込む。

 一般の人は決して入ってこれないこの境面世界に初めて十流は感謝した。

 こんな状況、もし他の誰かに見られたら学校のみんなに後ろ指を刺されるのは確かだ。

「おいもう泣くなよ」

「だって、だって十流が……」

 泣きやむどころか火に油を注いでしまう。

 そして十流はあることを思い出す。

(ああっ、そういえば薫は泣き始めるとなかなか止まらないんだよな。小さいころ何度これで手を焼いたことか)

 十流いわく、薫には笑いのツボならぬ泣きのツボがあるらしく、それがなんらかの刺激を受けることで薫が延々泣き続けるという。

 その刺激の原因のほとんどが十流自身にあることは全然、自覚していない。

 ただ小さい頃は自分が折れることで薫が泣きやむことはわかっていた。

 今回の場合、あんな無茶な戦いをした自分に非があるのでそこをどう謝罪するのかが問題だった。

 十流は泣きじゃくる薫の頭に手を添える。

 そしてゆっくりと語りかける。

「無茶してごめんな。

 もう薫が泣かないように俺、強くなるから。

 薫を守れるくらい強くなるから。

 だから……。

 だからもう泣くな。

 お前に泣かれるのが一番困るんだよ」

 最後の方は若干、声の声量が下がってしまったが、十流の言葉を聞いて薫が泣いて真っ赤にした顔を上げる。

「本当に強くなってくる?」

「ああ」

「守れるくらい?」

「ああ」

「私のパートナーになってくれる?」

「ああ……あっ?」

 発せられた言葉を理解するのに数秒かかり、

「パートナー? それってもしかして……」

 パートナーと聞いていすぐに、恋人もしくは将来を誓い合った仲などと甘い想像を描く十流に対して、薫は涙を拭いながら言いきる。

「何か勘違いしているようだけど、私の言ってるパートナーは、退魔師の言葉で共闘する者という意味よ。決してアンタの恋人になるとかそういうのじゃあないから」

「そうですか……」

 期待を裏切られ落胆の色を見せる十流に再び薫がたたみかける。

「これで十流は私のパートナーになったわけだけど、退魔師としてはひよこ中のひよこなんだし、これから私がビシバシと鍛えてあげるから覚悟するように」

 今だ涙を流す目にはするどい光を宿しており、まはや逃げることはできないことを十流は悟る。

「わかったよ。パートナーになればいいんでしょ。なれば」

 半ばなげやりに答えて、薫のほうも満足したかのように涙をハンカチで拭き始める。

(これで昔の約束が守られたことになるのかな? どうせ十流は覚えていないだろうけど……。いいわよ、また新しい約束ができたし。早く私を守れるくらい強くなってよね。私のパートナーになるんだから……)

 ずっと夢見ていたことが実現したのも束の間、十流を強くするという新たな使命を背負う事になった薫と不可思議な現象に悩み苦しみ、そして自らの意思で選び退魔師の道に踏み入れた十流。

 中学三年生の春、ほとんどの者が未来に向けてそれぞれの道を選ぼうとするなか、二人の退魔師の道は、ここ、異界ともいうべき堺面世界から始まろうとしている。


 闇喰いを倒し、薫の泣きのツボもようやく治まってきたところで、薫は十流の方を見てある事を指摘する。

「十流、目が赤いわよ」

「何言ってんだ。目が赤いのはさんざん泣いたお前のほうだ」

 呆れて言い返す十流に薫が反論する。

「違うってば。十流の目が赤いの」

 そう言うと薫がポケットからコンパクトを出し、中にある鏡で十流の顔を見せる。

 闇喰いとの戦いであちこち擦りむいた顔、疲労の色が濃い表情とは別に瞳だけが赤い。

「じゅっ充血してる?」

「違うわよ。たぶん刹那さんの血を引いてるからそうなったんじゃない? 刹那さんも戦いの時だけ瞳が赤くなるみたいだし」

「母さんの影響か?」

 昨日、母・刹那の赤い瞳を見たが自分のもそれに負けじと真っ赤になっていた。

 いつから自分の瞳が紅くなっていたのか見当がつかない。痛みは感じないし、真っ赤になっているとはいえ特段に視力が良くなったわけでもなく、特別な力が沸いてくるわけでもないので実感が全然沸いてこない。

「これ元に戻るんだよな?」

 しげしげと鏡の中の自分を見ながら問うが、

「知らない。勝手に戻るんじゃない」

 薫の素っ気ない答えに十流は肩を落とす。

「薫さん、ちょっと冷たい……」

 そんなこと気にせず薫は十流からコンパクトを取り上げる。

「さあ、とっとと傷の治療をするわよ。右手上げて」

 これは当分、機嫌が直らないと十流は思いつつ薫の荒い治療を受けることとなった。


「いやあ、本当にすごいな退魔師の術は」

 十流の顔についた擦り傷はなくなり、あの右脇腹も痛みはすっかりなくなっていた。腰を左右に動かすしても痛みは欠片も生じない。ついでに破れた制服も何事もなかったように元通りになっている。

「この術はね、本来の姿へと戻す術なのよ。だから服も直ったでしょ。ただ傷のほうは重傷だったらこの術では治せないわ。術師だったら治せるかもしれないけどね」

「俺にも使えるようになるのかな?」

「当然よ。これぐらいは自分で治せるようにならないと。

 ほらとっとと私たちの世界へ帰るわよ」

「現実世界へか……。でもどうやって?」

「ここじゃあまずいからついてきて」

 そう言うと薫は校舎の方へと歩きだしたので十流もその後へとついていく。

 さっきまで戦っていたグラウンドを抜け校舎の前に立つと薫は十流に手を差し出す。

「なにこの手?」

「なにって手を握って欲しいのよ」

 言葉とは裏腹なさっぱりとした物言いに十流の方が逆に戸惑いを見せる

「え〜といいのかな?」

 薫の申し出に若干緊張してきた十流はおそるおそる薫の手を握る。

「もっと強く握って。振り落とされるわよ」

「落とされる?」

「いくわよ!」

 十流が手を強く握りしめると薫は足に力を集中させ、一気に爆発させる。

「うわああああ」

 目の前の校舎がすさまじい速さで上から下へと流れていき、校舎の上、屋上にある金網を越える。

 重力に逆らい跳びあがった先、屋上へと二人は降り立つ。

「お前、どんぐらい跳んだんだ」

「いちいち驚かない。いっぱしの退魔師ならこれくらい朝飯前なの。そのうち十流もこれくらいはやってもらうんだから」

 これぐらい跳べるならスポーツ大会で確実に優勝できるなと俗な考えを巡らせてるいる間、薫はなにやら呪文を唱え始める。

「これから術を使って現実世界へと戻るわ。あまり離れないでね」

「ああ」

「展開! 出界式」

 すると二人の頭上に術式が展開し、それがゆっくりと二人のほうへ下がってくる。

 術式が下がりきってまわりの景色が一変する。

 いや自分たちが立っている場所そのものは変わらないが、そこにはさっきまでなかった澄み切った青い空と眩しいほどの太陽、そして街の喧騒があった。

「ずいぶん戦ってたような気がするけど、今何時なんだ?」

 十流の問いに、いつの間にか髪の色が元のブラウンに戻った薫が、左腕につけていた時計に目をやる。

「十二時過ぎたくらいかな。もうそろそろお昼でしょ」

「ええ? まだそんな時間か……。午後の授業もつかな」

 現実世界と境面世界は互いにリンクしている。

 そのため時間の経過も同じように進むのである。しかも怪我は術で直っても疲労までは回復しない。

「まあ、これも退魔師の宿命と思ってあきらめなさい。さて、教室に戻りますか」

 薫は意気揚々と十流は落ち込んで教室へと向かうこととなった。

 そしてその道中、

「なあ薫。さっきの闇喰い、この学校の誰かが生み出したんだよな。犯人――宿主を探さなくていいのか?」

「やるだけ無駄よ。闇喰いを生みだしたなんて当の本人は気付いてないだろうし。その人を責めてもどうにもならないわ」

「そんなもんですか」

「まあ、強いて言うならとてつもなく落ち込んでいる奴が犯人になるわ。闇喰いとのつながりが消えたからきっと脱力感に襲われているはずだから」

「ふ〜ん」

 薫が言うのだからというわけで十流もこのことには深く追求しないことにした。


 教室に戻る際、十流は何度か窓に映る自分の姿を見て、瞳の色が戻っていることを確認した。

(やっぱりこの瞳は戦いの間だけ変化するのか……。薫の髪も元に戻っているし。最初はどうしようかと思ったけどこれはこれでかっこいいな)

 母・刹那と同じ瞳の色、その事が十流にとって誇らしいものになっていた。

 教室に戻るとすでに昼休みに入っており、中には人もまばら。その中、平泉鏡香が入ってきた二人を見て心配そうに問い詰める。

「どこに行ってたんですか? なかなか戻ってこないし……。先生に理由を説明するのも苦労したんですから……」

 だが二人は事の真相を喋るわけにもいかなく、お互いを見つめる。

 そんな二人に平泉は、

「とりあえず先生には、『姫川さんが急に体調を崩したので、天宮君が保健室に連れて行きました。戻ってこないのはそのまま看病しているからです』って説明しておきましたから」

 とんでもない平泉の説明に二人は首を振って拒否を示す。

「いやいや、まずいでしょ」

「そうよ。もっとこう簡単な理由で良いと思うんだけど……」

 全く悪気のない二人に平泉も負けじと噛みつく。

「それじゃあ、本当はどこに行ってたんですか? 自習とはいえ勝手に教室に出て行くなんて……。何を考えているんですか?」

 平泉の予想外の押しの強さに根負けし、

「もうそれでいいです……」

「右に同じ……」

 二人は渋々、観念することにした。

「よう、御三方。今日も天気が良いね」

 どこにそんな元気があるのかわからない川田良夫が三人の輪に加わる。

「お前、今日は休みじゃあないのか?」

 川田は朝から教室に来ていないため、十流と薫は川田も闇喰いの心を喰われ体調を崩していたと思っていた。

 だが川田の様子は普段とそう変わりはない。

「ふふふっ、十流君。この情報屋、川田様をなめては困る。なんせ昨日のうちに生徒のみならず先生までも体調を崩したとの情報を得て、今日の授業は自習になると推測し、つまり重役出勤というものを敢行したのでありまして……」

 大げさな手振りで状況を説明する川田に十流はあきれ果てる。

(つまり、寝坊の口実に今回の件を使ったわけか……)

 薫は肩をすくめ、平泉は困った顔をする。

 そして誰が言ったがわからないが川田を残し、三人は教室を出て食堂へと向かう。

 

 食堂へ向かう途中、多くの生徒と出くわすが、その顔には晴れやかな表情がある。

 朝、あれほど暗い学校だったのに今では普段と変わりのないものになっている。あの闇喰いを倒したおかげかな、と思いつつ十流の顔は自然と緩む。

 その様子を見ていた薫もまた十流につられるように笑顔になる。

 これから先も退魔師として戦い続けなければならない。

 父と母がたどった道を自分も歩みだす。

 つらいことや苦しいことがたくさんあるだろう。

 自分で選んだ過酷な道かもしれない、

 でも願わくは……。

 この道が幸多い未来でありますように。


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