カナシキオモイ
つい数日前まで戦場だった辺りは、濃い血と微かにすえた匂いと重い空気と静寂が支配していた。
そんな中をガラガラと車輪が音を立てて、漆黒の馬車は進む。
中には簡素な綿の寝間着姿で厳重に両手首を戒められた年若い女と、フルメタルアーマーを纏い、剣を抱えた三人の男。
聞かれるままに知る全てを語った後の全く会話の無い車内で、女はただ目を閉じていた。
女の願いはただ一つ。
どこまでも報われる事の無いこの想いを昇華する事のみ。
女の生まれは、とある王国の軍人として名高き名門の家。
だがその名声は遠い昔の物であり、今や王国全体が腐敗していた。
一部の特権階級の人間の欲はどこまでも膨らみ、民を苦しめるだけでは飽きたらず、遂には隣国に手を伸ばす有り様。
最初から勝敗の分かりきった戦を止めようとした僅な有識者は全て切り捨てられ、遂に開戦に至った。
男兄弟の居なかった女は、家名故に戦場へ引き摺り出された。
剣術は身に付けていたが、本当に人を殺す事は勿論、傷付けた事すら無かった女には地獄の始まりだった。
ただ生への本能と、己の部下として預かった者達の為に、必死に様々な感情と衝動を押し殺して戦い続けた。
血に染まり、脂にまみれる己の剣と手。
圧し殺す内に失われていく人間らしい感情と表情。
眠れね夜と止まぬ吐き気を抱え、それでも女は戦場に立って戦い続けた。
そうして女はいつしか『死神の姫』として敵国に恐れられ、自国の象徴として知られる様になっていった。
有名になれば、女の身の回りは危険が増した。
敵国には常にマークされ、味方さえ若い女という事もあって信用など出来なかった。
そんな中、戦場で出逢いを果たした。
『金獅子』と呼ばれていた敵国の将軍。
通り名の通り、見事な金髪を持った男は誰よりも女と部下を苦しめた。
初めての回合以来、戦場に出れば男は必ず女の前に立ちはだかった。
苦しめられ、逆に苦しめ、互いの身を削る様に戦う日々。
互いの感覚がリンクする様な錯覚さえ覚える一進一退の攻防が続いた。
いつしか、男の鋭い蒼の瞳に見据えられると女の凍り付いた心臓が熱く脈打つ様になった。
それは時間を経て、決して口にする事の赦されぬ想いへと変化していった。
戦況はどんどん悪化していく。
自国の負けは時間が経つ程に色濃く浮き彫りになっても決して降参しようとしない上層部に、兵達の疲労も確実に蓄積していく。
女が他の数少なくなった将と状況を訴えても、上層部は全て切り捨てる。
同時に、女へのすがる様な周囲の期待は膨らみ続けた。
気付けば女の体は傷だらけだった。
女は特別な人間などでは無いのだから当然だが、その事に気付くのは女の側にいる者達だけだった。
「相討ちを仕掛けようと思う」
そんな中、己の限界を感じ取った女が部下に告げた最後の作戦に動揺が走った。
「これ以上、私は持たない。だから、将を失った隙に逃げなさい」
静かにそう締め括った女に、部下達は同じく静かに泣いた。
男に立ち向かう勇気がありもしない部下達の誰にも女を止める事など出来なかった。
そして決戦が始まると、女はひたすら攻め続けた。その後に部下達が死に物狂いで続く。
明らかにいつもと違う女に、男も全力でぶつかって来る。
右に、左に切り結び、突き、受け流し、避け、可能な限りの攻防を交わす。
間合いを一切切る事無く、ひたすら男の懐に入り込む様にして勢い良く攻め込む。
間合いが切れた瞬間、男とのリーチの違いが不利に働いて女は間違い無く負けるだろう。
たった一度の機会を信じて、決して逃がすまいと恐ろしく長く感じる一秒一秒を集中して戦い続けた。
機会は、唐突に訪れた。
女の胸を男が刺し貫いた一瞬。
女は男の首を深く切り付けた。
間違い無く、互いに致命傷だった。
視界が闇に飲み込まれるで、互いに真っ直ぐ見詰め合っていた。
女はこの時、確かに幸せを感じていた。
これでただ戦うだけの日々が終わるのだ。
何より、愛した男の手で静かに眠れる。
今世では決して叶わぬ男への想いが、来世に繋がるかもしれないとさえ夢見て。
「目覚めよ」
だが、そんな女をしゃがれた声が叩き起こした。
失われた筈の人体蘇生の禁呪が使われたと知ったのは、歓喜に湧く周囲の上層部の人間達の声からだった。
「実験は成功です」
「良くやった!」
「ですが、蘇生者は理を外れた存在。術者の魔力を失えばその身も魂も残らず消え失せるのみ」
「『死神の姫』を失う訳にはゆかぬ。些末な事だ」
自分勝手な理論を振りかざす上層部の人間達に、死ぬ前に感じた幸せは跡形も無く消えた。
同時に、怒りや憎しみ、恨みも、会話を理解してしまった時の絶望に全て飲み込まれた。
女の左目から、一筋だけ涙が流れた。
女に残されたモノは『カナシさ』のみ。
共に逝ける筈だった男が愛しく、二度と男と出会う事が叶わなくなった己の運命が哀しかった。
女が蘇生した所で、戦況はもうどうにもならない所まで来ていた。
女の受けた傷も消えた訳ではなく、大きな損傷を受けた身体はまともに動く事さえままならない。
そんな中、遂に戦場は自国の陣になり、王や上層部が纏めて討たれる事で戦は終わる事となった。
陣に戦場が及んだ事で、当然女は敵将に引き摺り出された。
両手首を厳重に戒められ、剣を突き付けらる。
死んだ筈の女は存在の理由を問われるままに答える。
ズタズタのボロボロになった女の姿が話が真実である事を相手に伝え、処分された魔術師に引き合わされて確かにこの者であると頷く。
後はただ消えるだけの運命にある女に漸く追及の手が緩んだ時、逆に女が問うた。
男の事、部下の事。
自軍では聞けなかった状況を聞き、女は再び一筋だけ涙を流した。
「貴女の知る王国の情報を全て話す気はあるか」
最後にと言われた言葉に、女が少し考える。
どうせ、国はその姿を全て変えるだろう。女が話して困る事など無かった。
「…あの方の側で消え失せる事を赦して下さるのならば、語れる事は全て語りましょう」
恐る恐る、震える声でそう告げた。
馬車で連れて行かれた敵陣の中、完全武装の三人に陣の外れのテントへ案内された。
中に入ると、そこには見知った顔が幾つもあった。
戦場で相対していた男の部下達だった。
女を見るなり男達が殺気立ったが、女を連れて来た三人が制した事で特に何も無く女が先へと進む。
テントの奥の寝台には、清められた男が寝かされていた。
そこまでたどり着くと、厳重に戒められていた両手首が解放された。
ふらつく体で寝台の側に跪く様に座ると、眠る男を見詰める。
初めて触れた頬も、自身の指も、酷く冷たかった。
「…何故、だったのでしょうね?
何故、戦場で命懸けで戦った貴方に惹かれたのでしょうか」
答などありはしない。そう分かっていても聞きたかった。
「何度己の出生を呪ったでしょう。…でも、こうならなければ貴方には決して出逢えませんでした」
決して長くはない人生を振り返り、女が呟く。
「貴方と共に逝ける幸せな最期は、私には赦されませんでした。禁呪で理を外れた私はもう少しで体も、魂も跡形も無く消えてしまうそうです。私に、来世は無い」
そっと男の頬を撫でて声を掛けると、後ろで息を飲む音が聞こえた。
「禁呪は私から殆どを奪っていったけれど、この想いだけは消せなかった。
だから…貴方に伝えて消えますね」
精一杯の笑顔を凍り付いた顔で作り、男の唇に己のそれを重ねた。
「アイシテル」
言葉にすれば、たった一言。
今の今まで、言う事さえ叶わなかった想い。
「貴方の来世での幸せを、誰よりも願っています。幸せになって……」
どうにか言い終えると、男の頬に触れていた指先が音も無く消え始めている事に女が気付いた。
どうやら、時間切れらしい。
そっと後ろを振り返ると、男達が見守っていた。中には唇を噛み締めている者もいる。
「…如何した?」
「…時間切れみたいです」
それでも警戒して問う声に、手を翳して女が告げると、重い沈黙が落ちた。
サラサラと砂が崩れる様に少しずつ消えていく女の身体。
「私の無理な願いを聞いて下さって、ありがとう」
男達に心からの感謝を告げ、女が眠る男へ視線を戻す。
「−−−…愛してる」
残る僅な刻の中、もう一度だけ女が想いを呟いた。
女の姿が完全に消え去ると、遣る瀬無さが場を支配した。
涙を流す者さえいる。
男達にとって女は、数多くの味方を屠った誰よりも憎い敵国の将だった。
けれど、女の余りにも残酷な最期の在り方に決して心は晴れなかった。
様々な感情が各々の心中を渦巻く。
女を連れて来た三人にとって旧友であり、部下達にとって敬愛していた将である男もまた愛した女でもあった。
そして、祖国に良い様に人生を翻弄された憐れな少女でもあった。
恐らく、歴史には決して残らない出来事。
だが、その悲恋は確かに彼等の目の前にあった−−−−−−