第二十話 ‡ Malice
混沌の天使
ユースティア、その名は正義であり秩序を意味するもの、今は黒い羽根の者達、黒の天使に支配されている。だが、ここを治めているのは白い羽根のジークリンデだ。
「こちらです、ティアリス」
地下牢獄の最下層、その更に下へ続く隠された通路、薄暗い通路の先にある部屋に案内された。
「灯りを」
兵士が壁に掛けられたランプに火を点けていく、部屋の中心には十字架が立てられていた。影が揺れている、人…、だがその背には白い羽根、天使だった。ティアリスは彼女を知っていた。
「憐れだな、ルシア」
「私を…葬りに来たのですか…」
「私がそれほど無慈悲に見えるか、共に戦った仲であろう」
ティアリスは縛り付けられた天使を見上げた。
「降ろしてくれませんか、どうも力がでないのです…」
「助けるかわりに…と言うのもあれですが、私のために力を貸してくれませんか」
「私を利用するつもりだろう…」
ティアリスはルシアを縛っている鎖に手を翳した
「利用などしませんよ、手伝ってもらうのです。解除します…『ヴェルカ』」
ルシアを縛っていた鎖は全て外れ、ルシアはティアリスの方へと倒れるように落ちた。ぶつかると思った瞬間、身体はティアリスに受け止められていた。用意された椅子に座り、力なく凭れ掛かった。
「いきなり危ないでしょ…貴女と違うんだから」
「ああ、すまないね。」
ティアリスの言葉は素っ気無い、それなのに不快には思わなかった。彼女らしいと言えば良いのだろうか、内心彼女は笑っているのだろう、昔からそうだ。
「私はどうしたら良いですか」
「ジークリンデと共にこの地を守れと言いたいところですが、嫌でしょう。」
「元々私が守るべき場所、ここでは私に従っていただけると助かります。」
ティアリスがジークリンデの方を見ると彼女は黙って頷いた。
「ルシアは守護天使としてジークリンデに従いなさい。」
ルシアは不服そうにティアリスを見る、表情は窺い知れない。ジークリンデは何も言わずにこちらを見ていた。
「ここは私のいるべき場所、守るのが使命、服従させたければ私を倒せ」
ルシアはふらふらと立ち上がると剣を召喚した。到底体力が回復しているようには見えない、ティアも今の彼女をそれほど脅威とは考えていなかった。ルシアがティアに斬りかかるとジークリンデがその剣を弾いた。ジークリンデの手にはソードが握られていた。その切先はルシアの喉元を狙っている。
「今の貴女では抵抗するだけ無駄です。」
ルシアは黙って剣を収め、ティアは不敵に微笑んだ。
フレイ王国王都親衛隊、エルダとリンは都のはずれの深い森の中で剣を交えていた。二人の持つ剣は模造などではない、一歩間違えれば怪我ではすまない訓練だった。リンは自らその訓練をさせて欲しいとエルダに願い出たのだ。フレイ王国はエルフの国であり、重役は皆エルフだ、その中でも人間であるエルダが騎士団を仕切っているのは実力以外の何物でもなかった。
「疲れてきましたか、少し休憩しましょう」
「平気です」
リンは即答した。エルダは剣を握りなおすとリンに斬りかかった。突然目の前を何かが横切る、一瞬の事で分からなかった。
「風が…」
その直後、革製の鎧を着たエルフの兵士が息を切らせて走ってきた。
「エルダ、エルフを見なかったか、侵入者だ」
「あっちだ」
迷わず指差したのは先ほど風が通り抜けていった方向だった。兵士は敬礼して走っていった。
「追わないので?」
「追いつけんよ、特に森の中ではね」
確かにエルダの言うことは間違っていないが、侵入者を見逃したことにならないのだろうか、そんなリンの心配をよそにエルダは剣を構えた。
「あの兵士の仕事だ、我々騎士団の職務は敵を攻め、敵から守ること、侵入者は守備隊に任せておけば良い。それに逃げてる奴は傷を負った。」
エルダは剣先をリンに見せた。そこには先ほどまでついていなかった血がついていた。
「あの一瞬で…何を」
「もう少し気配と言うものに敏感になりなさい、目隠ししてやってみるかい?」
エルダはクスクス笑っていた。
「やめておきます」
その時、十二時を告げる鐘の音が響いた。
「あら、もう時間ですか」
リンはホッとした。この後、王宮で客人を迎えることになっていた。誰が来るかリンには知らされていない、お楽しみだそうだ。二人は剣を収めると王宮へと戻っていく…
「シュヴァルトアールヴ、出て行け、我らの領域を侵している」
深緑のエルフの戦士が叫ぶ、その視線の先にいる者、褐色の肌のエルフ、銀色の長い髪を靡かせて木々の間を疾走している、闇のエルフの暗殺者だった。暗殺用の短剣を左手に持ち、右手には細身の剣を持っていた。
追いかける戦士は弓を構えて矢を三本手にとると、すかさず矢を一本ずつ素早く放った。三本の矢は的確に闇のエルフを狙っていた。一本目は暗殺者のやや右側を掠めて木に刺さり、二本目は左側へ、そして三本目は逃げ場を失った相手の背に当たるはずだった。
「消えた?!」
思わず声を出してしまった。周囲を見渡したが相手が見えない、木々の揺れる音は相手の動く音を隠していた。その瞬間、背後に妙な気配を感じて振り向こうとすると「こちらを見ないで下さい。」先ほどの闇のエルフらしき者が背後にいた。
逆手に持った短剣を戦士の首に当て、右手の剣はその剣先を背中に突き立てていた。その動きは素早く、反撃の余地もない、身体を密着させて動きを封じていた。戦士は背に剣以外の感触を感じた。
「貴様、女か」
「それがどうした?」
クスッと笑うと言葉を続けた。エルフもそうだが闇のエルフも美麗な容姿であり、一目見ただけでは男女の区別はつきにくい、戦士も相手が女である事など予想していなかった。
「なかなかいい腕ですね、流石です。でも私、男の人に抱きついている趣味はございませんので、死んで下さいね。」
暗殺者は右手の剣をゆっくりと背中に刺していく、血が気道を塞いで声も出せず、エルフの戦士いは血を吐きながら倒れた。その笑顔は殺す事を楽しんでいるように見える、だが、この暗殺者は今まで目的以外での殺しをした事は無く、これが初めての事だった。
「それじゃ、お仕事の続きをしましょうか」
暗殺者は身なりを整えると再び森の中へ姿を消した。
「遅かったな、調子はどうだい」
「はい、極めて良好です」
エルダは凛として王の問いかけに答え、リンと共に壁際に避けた。王宮に入ってしまうとエルダは決して笑顔を見せない、騎士としてのエルダがそこにいるのだ。
「陛下、神聖皇国の使いが参りました。」
神聖皇国、豊かさと栄光、星を統べる者の名を冠するアスタルテ皇国のことだ。
「通せ」
使いと聞いて相応の権限を持った者が来ると思ったが、国王の前に姿を見せたのは女皇その人だった。フードを外した彼女は長い髪を軽く結った。
「女皇陛下でしたか、相変わらずお美しい、下級天使が来るのかと思いましたよ」
王の前に跪いた彼女は麗しく、エルフにはない優美な姿に目を奪われた。
「私はいつでも自ら出向くように致しております。」
「リムも大変ですね」
当のリムは後ろに立って沈黙を保っていた。
「早速ですが、用件をうかがいましょうか」
「単刀直入に申し上げます。ルセリア一帯の砂漠地帯に皇国の兵が入ることをお許し願いたく存じます」
「ルセリアか…」
フレイ王国のえ南西、今では砂漠に囲まれた小さなオアシスがあるくらいだ。昔は緑豊かな森に囲まれた都があったが、今ではその名残である廃墟となった街がある、その片隅にまだ小さな街がある。囚人や奴隷を使い復興させようとしたが出来ず、放棄されて盗賊の巣窟になっていた。王国にとって不名誉な地であり、価値など無い場所だった。
「何をするつもりかね」
「彼の地が不浄であるがゆえに貴国にとっても一利もないでしょう、復興するのです。」
「面白そうですね、私たちにも復興できなかったものを…、貴女ならできそうですね。私達にあの地は救えなかった。外交官を一人つけましょう、仮にも我が国の領地、揉め事でも起こされた日には目も当てられませんからね。」
「感謝致します、数日のうちに準備はできるでしょう。」
「外交官ラヴィスはいるか?」
国王が呼ぶと一人のエルフの女性が高官達の間を抜けて前に出てきた。銀色の髪を持つ彼女は水のアールヴだろうか、彼らは守護する領域によって髪の色が違う、あくまで傾向なので例外もある。
「話は聞いた通りです、彼女達に同行するように、すぐに仕度をなさい。」
「かしこまりました。」
ラヴィスと呼ばれた外交官は一礼して一歩下がると、静かに王の間を後にした。
「彼女の仕度が済むまで時間が要るでしょう、二日ほど泊まっていかれてはどうですか」
「そうさせていただきましょう。」
「部屋を用意させます、それまで宮殿の中でお待ち下さい。」
ユリュシアは立って国王に礼をした。彼女が振り返った時、リンは彼女と目が合って俯くようににして目を閉じた。彼女と目が合ったのはほんの一瞬だったはずなのに、なんだか時間が長く感じた。リンが知っている天使といえば元の世界の四人の天使くらいだ、目の前にいる天使を当てはめるなら誰だろうか、そんなことを考えていると足音が近づいてきた。
「私に何か…?」
その声に顔を上げると、目の前には彼女が立っていて、思わず後ずさってしまう。
「い、いいえ…何も…」
「リン」
隣にいたエルダに名前を呼ばれて姿勢を正した。エルダは女皇に一言「ご無礼をお許し下さい」と言って頭を下げた。国王はその光景を見てクスクスと笑っていた。
「あまり私の手の者を困らせないで下さいな、ユリュシア」
「そんなつもりでは…」
「分かっていますよ」
フレイ国王は優しく微笑みながらそう言った。エルダも緊張が解けたのか肩の力を抜いているように見えた。目の前の天使は間近で見るとやはり背が高く美しい、思わず見惚れてしまうほどだ。リムという天使は表情一つ変えることなく女皇に従っている、任務中のエルダがそうであるように、普段の彼女はどうなのだろう。
「お部屋のご用意ができました。」
「またいつもの部屋かな」
ユリュシアがそう呟きながらリンに手を振って謁見の間を後にした。
「リンに警護を任せる。」
「陛下、リンにはまだ早いのでは」
「エルダと遣り合えるなら十分だ、それに、リムがついているから問題ないでしょう。それに、この国はそんなに物騒な国ですか?」
国王はエルダに問いかけるが、エルダは「私がいるから大丈夫です」とだけ言った。エルダの指揮する騎士団は国の守りの要となっている。リンがそれなりに力をつければ、エルダと別に任務を与えた方が彼女が動きやすくなると踏んでの計らいだった。
夜になり、リムはユリュシアと共にテーブルについた。いつもとは違いどこか落ち着かない、そんなリムを見てユリュシアはクスクスと笑っていた。いつもなら警護の為にユリュシアと同じ席につくことなど皆無に等しく、この状況が落ち着かないのだ。ユリュシアは席を立つとリムの後ろに立って髪をそっと撫でた。赤みがかった髪はさらりと指の間をすり抜けていった。リムは髪を撫でられているのが心地よくて目を閉じた。
「陛下は…、ジュエルにもこうしているのですか」
リムは囁くような声でユリュシアに尋ねると彼女の手が止まった。ユリュシアは何も言わず背後からリムを抱きしめた。突然の事に動揺し、彼女の腕を掴んでいた。
「イリスが…いつも私をこうして慰めてくれたのです…」
リムはイリスの下に仕えていた事がある、だがそれはユリュシアが来る前の事だ。その頃のイリスはリムにそのようなことはしなかった。もっとも、命令に忠実なリムには必要のないことだった。