6秒間の自由落下
夢の中に居るのか、それが現実なのかよく分からない。
耳元では風を切っている音が聞こえている。目の前には青空が広がっているが、その青空が少しずつ遠ざかっているように見える。体を支えるものはどこにもない。足の裏には何の感触もないし、両腕両脚ともに空中を遊ぶように力なく伸びているだけだ。
重力というのは地球上にへばりついている生きとし生けるものに公平に課せられる枷のようなものだ。それに抗う方法などどこにもない。80年ほど前に液体燃料ロケットが実用化され、いくつもの国が総力を挙げて宇宙開発を始めた。それによって大量の燃料と大量の知識と予算を費やすことで地球の重力から逃れることはできるようになったが、まだまだ一個人がどうこうできるものではない。われら一人一人はまだ地球の重力に縛られ、それに従いながら生きているのだ。生まれるときは寝転んだ状態で生まれるし、死ぬときも寝転んだ状態で死ぬ。まるでガリバーが地面に紐で縛り付けられているかのごとく、重力は人体の前面にひとしく束縛のための紐を伸ばし、地面へと固定しようとするのだ。
「自由落下」と人は言う。難しく言うなら、ある物体が初速度0の状態から、重力の中心に向かって等加速度直線運動をすることを指す。それは言葉に反してまったく自由ではない。落下の最中は等しく重力がかかっている。束縛の紐からは逃れられていないからだ。
私が落下を始めてから少なくとも3秒が経過している。つまり40mは落下しているが、まだ到着のときはないようだ。40m以上の高さから人間が落下すれば確実に死ぬ。空気抵抗を入れても時速約95km/hで地面に激突し、みずみずしいスイカを落として割ってしまったときのような有様になるのだ。
しかし人間の一生というものは本質的にはこの自由落下と変わりない。誰もがある時間から空中を落下しはじめて、どこかでその落下が終わるのだ。40mを落下する3秒間と、天寿を全うする80年の時間はスケールが違うのみで、始まりと終わりがあることには変わりない。そして、自分の意志でそれを伸ばすことはできないし、終了の時に際してそこから逃れる方法などない。人によってその終了時刻は異なるが、自分の終了時刻をあらかじめ知ることは出来ない。すべてが終わった後にそれは確定するのだ。
自由落下は客観的に見て自由ではない。しかし、その物体だけを見れば自由である。急降下する航空機の中で無重力体験ができるように、物体に閉じた世界の中では擬似的に重力から解放される。ここも一生と同じようなもので、落ちていく間に限っては手足をどのようにも動かすことが出来る。生まれるときは手足をばたばたさせながら生まれ、死ぬときは終末に達した部分から順に動きを止める。客観的に見るなら、わずかな期間の自由を得た人間は最後には無情にも自由を取り上げられ、最後には重力によって永遠に捕縛されてしまうのだ。
だから、いま自分が風を切って落下しているということはたいした問題ではない。こうなった以上、もはやどうすることもできない。生まれた以上は確実に死ぬように、落下を始めた以上はどこかでクラッシュするしかないのだ。わずかな落下であればクラッシュというほどのダメージはないかも知れないが、もし40mも落ちたのならただではすまないだろう。
もう6秒が経過した。もう150m余は落ちているだろう。一生の最後の6秒は自由だったのだ。擬似的に感じる自由ではあるけれども、こうしてかけがえのない体験をすることができたのだ。さようなら。
やがて、鈍い音がして何も聞こえなくなった。




