「何もしなくていい」と言った夫は、何もしなくていい家を用意していた
「何もしなくていい」
初夜に夫から渡されたのは、宝石ではなく当番表だった。
そこに、私の名前だけがなかった。
朝食の支度。食材の注文。掃除。洗濯。
来客への返事と、使用人たちの休みの調整。
仕事の横には、担当者と、その人がいない日の代わりが書いてある。
どれも私が、前の婚家でしていたことだ。
「……こちらには、妻の欄がないようですが」
「ない。あなたがいなくても回るようにした」
私は紙の端を揃えた。
もう十分、揃っていた。
「では、私は何をすればよろしいのでしょう」
「まず、座ってほしい。式のあとから立ったままだ」
アーヴィン様は、私の後ろへ回り、椅子を引いた。
三十二歳の子爵。灰色の瞳と、少し曲がった襟元。
今日から私の夫になった人だ。
椅子へ腰を下ろすと、彼もやっと座った。
私が茶器に手を伸ばすより早く、湯を注ぎ始める。
「薄いのと濃いのなら?」
「どちらでも」
「では、薄くなった。私が淹れると大抵こうなる」
私の前へ置かれた茶は、確かに色が淡かった。
彼は自分の茶を一口飲み、眉間を寄せた。
「湯だな」
「そこまででは……」
「少し、茶を通った湯だ」
笑いかけて、口元を押さえる。
彼は私の顔を見ると、もう一度飲んだ。
私は二十六歳で、二度目の結婚をした。
最初の結婚は四年で終わった。
前の夫から最後に言われたのは、家にいるだけなのに、どうしていつも疲れた顔をしているのか、という言葉だった。
今日はその顔をしないようにしたつもりだ。
白粉を薄く重ね、口紅も塗り直した。
けれど新しい夫にも、早々に仕事を外されてしまった。
「申し訳ございません。そんなに、頼りなく見えますか」
アーヴィン様がカップを置いた。
「リゼット。明日の朝、何時に厨房へ行けばいいかと聞いたね」
「はい」
「それへの返事だった。あなたの働きぶりを見て決めたのではない」
彼は、当番表の一番上を指した。
明日の朝食には、料理人の名前がある。
「厨房へ行かなくても、朝食は出る。起きられなければ、あとで温めてもらえる」
「その分、誰かを待たせるのでは」
「冷めた皿を温める魔具がある。夜中まで人を立たせておく必要はない」
言われてみれば、普通のことだ。
この国では、町の食堂でも使っている。
「夜に急なお客様がいらしたら?」
「門番が用件を聞く。火事や怪我なら私を起こす。それ以外は朝だ」
「朝まで待てないと、おっしゃった場合は」
「では、私が聞く」
表の一番下に、彼自身の名前があった。
「妻を経由しないと、家の用事が私に届かない仕組みにはしない」
私はそこを二度読んだ。
前の家でも、夫には相談していた。
すると、お前に任せる、という返事が来た。
その任せるは、間違えてよいという意味ではなかった。
夫は、紙の隣へ小さな鍵を置いた。
「あなたの部屋の鍵だ。廊下を挟んだ向かいが私の部屋になる」
「……寝室も、別々ですか」
「当面は。変えたくなったら、二人で決めたい」
彼の指が、鍵から離れる。
「結婚式を終えたから、今夜から全部変えなくてはとは思っていない」
私は鍵を手に取った。
軽かった。
食料庫も銀器棚も開かない、自分の部屋だけの鍵だった。
◇ ◇ ◇
翌朝、私は五時に目を覚ました。
寝室はまだ暗い。
廊下に足音はなく、呼び鈴も鳴っていない。
だからこそ、何かを忘れている気がした。
掛け布団をめくり、足を床につける。
今日の来客。食材の残り。洗濯を頼む順番。
頭の中では、誰にも渡されていない仕事が始まっていた。
(……あの表に、書き忘れがあるのでは)
私は髪を結んだ。
こういう癖は、今世だけのものではない。
前世の私は、日本という国で総務の仕事をしていた。
誰がするか決まっていない用事を拾っているうちに、私の仕事になる。
断れば、前はしてくれたのにと言われる。
死後の窓口には、星柄のマントを着た神様がいた。
ツクヨと名乗ったその人は、私の希望を聞いてくれた。
「特別な魔法などは、いらないんですか」
「夜、ちゃんと寝られれば、それで」
「……ずいぶん現実的ですね」
とんがり帽子を直す彼に、私は頷いた。
大きな願いを言うことにも、慣れていなかった。
娘として生まれ直し、育ち、結婚した。
今度は貴族の奥様なのだから、少しは違うと思った。
実際に違ったのは、提出する書類に紋章がついていることくらいだ。
前の婚家は、客を招くのが好きだった。
料理の手配も、贈り物の返礼も、お義母様が急に増やす客席も、私が取りまとめた。
料理人が病気になれば、代わりを探す。
代わりがいなければ、私が厨房へ入る。
食材が足りなければ、私が買いに行く。
費用がかかれば、お義母様は夫の許可を取るように言い、夫は母に聞けと言った。
「疲れたなら、休めばいいだろう」
夫は何度もそう言った。
けれど私が部屋へ戻ると、すぐに戸が叩かれた。
どの皿を使うか。誰へ返事をするか。代金を払ってよいか。
答えるだけでいいから、と。
答えるためには、全部を覚えていなければならない。
ある晩、私は夕食を温め直すのを諦めた。
椅子に座った途端、また呼ばれたからだ。
翌朝、冷えた皿を下げながら、もうここでは暮らせないと夫に告げた。
すぐには話が通らなかった。
叔母に相談し、持参した財産と住む場所を確かめた。
別々に暮らし始めてから、正式に離縁するまで三か月かかった。
離縁の書類を受け取った日も、夜中に一度目が覚めた。
新しい家の廊下を歩きながら、私は自分の袖を握った。
今もまだ、その頃と同じように早足になっている。
厨房の扉から、明かりが漏れていた。
中では家政婦長のベルタが、料理人と籠を数えていた。
「奥様。お早いですね」
「何か、お手伝いすることは」
「ありません」
返事に迷いがなかった。
ベルタは五十歳くらいの、背筋の伸びた女性だ。
夫の母の代から、この家で働いていると聞いていた。
「まだお休みいただけます。お湯だけ、お持ちしましょうか」
「でも、ベルタはもう働いているでしょう」
「今日は早番です。昼の片づけが済んだら帰ります」
「帰る?」
「町に家がありますので」
彼女は扉の脇に貼られた表を指した。
確かに昼からは別の名前になっている。
「ごめんなさい。ずっと屋敷にいる方なのかと」
「いえ。こちらに泊まる日もあります。ですが今日は、孫が初めてパンを焼くそうで」
「それは、楽しみですね」
「成功すれば夕食です。失敗したときの夕食は、帰りに買います」
私は思わず笑った。
ベルタは籠の確認を終え、料理人へ引き継ぐ。
「それで、昼からの方がお休みになったら?」
「代わりを決めるのは私の仕事です。私もいなければ、旦那様へ連絡します」
「では、お二人とも手が離せないときは」
言いながら、いつまで続けるつもりだろうと思った。
ベルタは笑わなかった。
「そのときには、しないことを決めます」
布巾を畳んでから、私を見る。
「銀器を磨くのは明日にします。お客様も、急でなければ別の日へ。人が足りないのに、いつもどおり全部はできません」
私は開きかけた口を閉じた。
前の家では、その全部の最後に、私がいた。
廊下の奥で扉が開いた。
上着を腕に掛けたアーヴィン様が、こちらへ来る。
「おはよう。寒くなかったか」
「はい。あの、早く目が覚めてしまって」
「そうか。私もだ。今日はまだ、少し緊張している」
彼は襟元を気にしていた。
昨日と違って、今日は真っ直ぐだ。
直す必要のない襟を、彼の指がもう一度なぞる。
「せっかくだから、一緒に朝食にしないか」
ベルタが、予定より早められるか料理人へ確かめた。
出来ているものならすぐ出せるという。
食卓には、パンと卵と温かいスープが並んだ。
私が給仕の人の動きを目で追っていると、夫がパン籠を寄せる。
「固い端は好きか?」
「はい」
「では、よかった。私は柔らかい方がいい」
好物を譲られたのだと思って、彼の顔を見た。
アーヴィン様は、真ん中の柔らかいところを既に食べていた。
(本当に、柔らかい方がいいだけらしい)
私は温かいうちに、端の一切れを取った。
◇ ◇ ◇
それから十日ほどが過ぎた。
私はまだ、朝早く目を覚ます。
けれど毎朝厨房へ行くことはなくなった。
行ってもベルタの人数確認が一つ増えるだけだと、分かってきたからだ。
新しい家は、前の屋敷より小さい。
廊下に見せるためだけの花瓶が並んでいない。
アーヴィン様は、町の魔具の整備を請け負う工房を経営している。
子爵という肩書はあるが、お金が無限に出てくる人ではなかった。
ある晩、私は家の収支を見せてもらった。
出てきたのは未処理の書類の束ではなく、前の月まで記入された帳面だった。
「この人数で、交代のお休みまで取れるのですね」
「毎週の晩餐会をやめた。客室も、使う部屋だけ開けている」
「お付き合いに、差し障りは?」
「少し。酒を飲みに来られなくなった人から、寂しいと言われた」
夫はその寂しさに、あまり困っていなさそうだった。
「客を呼ばない日にも給金は要るが、呼ぶとさらに費用がかかる。その分を、交代できる人に払っている」
「私が代われば、お一人分は……」
「リゼット」
少しだけ強く名前を呼ばれ、指が止まる。
夫は、私が触れていた給金の欄を見た。
「あなたが来る前から、雇っている人だ」
その人にも家があり、予定がある。
私は会ったことのある顔を思い浮かべた。
「妻が来たので仕事をなくす、と私は言いたくない」
「……はい」
「あなたが何か始めたくなったら、それは別に相談しよう」
彼は帳面を取り上げなかった。
私は残りを読み、自分で閉じた。
私が結婚前から持っているお金は、私の名で預けてある。
家の支出とは分けて、自由に使う額も決めた。
買った本の題名まで、夫に報告する必要はない。
それでも私は、最初に注文した小説を見せに行った。
「新刊か」
「はい。あの船長が、ようやく港へ戻るそうです」
「三巻も帰れなかったな」
「寄り道しすぎなのです」
アーヴィン様と知り合ったのは、叔母の家だった。
離縁してから半年ほどたった頃だ。
客間で皆が政変の話をしている間、私は端の椅子で本を読んでいた。
主人公は、海賊にさらわれた貴族の娘だ。
自分で船を奪って船長に収まったのに、なかなか家へ帰れない。
ちょうど、その巻を読んだばかりの彼が来た。
「島へ戻るところがいいね。恩人に礼を言うために、嵐の中を引き返す」
「そこは読み間違いです。船長は焼菓子を買いに戻ったのです」
「命懸けで?」
「一巻の終わりから、また食べたいと言っています」
彼は隣に座り、本を覗き込んだ。
私は挿絵の中の、小さな店を指さす。
「礼を言ってから、買ったのかもしれない」
「では、もう一袋買っておけば、次の巻は帰れますね」
「そんなに早く帰ってほしい?」
「いいえ。五巻くらいは寄り道してほしいです」
彼は一度私を見て、声を立てて笑った。
私も笑った拍子に頁を閉じてしまい、二人でさっきの店を探し直した。
気づけば私は、皿を下げに来た人へ渡しもせず、両手で本を開いていた。
次の訪問でも、彼は続きを持ってきた。
それから何度も会った。
私の離縁の事情も、彼は聞いている。
返事を急かされなかったことが、もう一度結婚してみたいと思えた理由の一つだった。
「読み終わったら、私にも貸してほしい」
「もちろんです」
私は頷き、それから急いで付け足した。
「では、明日までには読みます」
夫が、こちらを見た。
私も自分で、おかしいと分かった。
好きな本にまで、提出期限をつけていた。
「いつでもいい。先に読みたいなら、私も買う」
「いえ、同じものを二冊も」
「工房で使う魔具は、予備も含めてもっと買っている」
「これは部品ではありません」
「では、一冊で待とう。ただし、結末を先に話さないでくれ」
私は本を胸に抱え直した。
「……待てなくなったら、おっしゃってください」
「ああ」
その夜、読み始めて数頁で眠くなった。
私はしおりを挟み、灯りを落とした。
閉じた本の表紙を一度撫でて、枕へ頬を預けた。
◇ ◇ ◇
休むことに慣れたかと聞かれたら、まだ、と答えたと思う。
夕食前には鏡を見る。
顔色を確かめ、夫に話すことを一つ考える。
楽しく過ごしたと、伝えられるように。
ある朝、部屋へ花と菓子が届いた。
庭の見頃を書いた紙と、町の演奏会の案内も添えてある。
どれもアーヴィン様が用意してくれたものだった。
私は紙を並べ、時刻を計算した。
庭を回って、昼食を取って、馬車で町へ行く。
戻ってから菓子を食べ、本の続きを読めば、夕食の話題も足りる。
そこへ夫が顔を出した。
「演奏会が好きか分からなかったので、いくつか……何を書いている?」
「今日の予定です。全部、間に合いそうです」
彼は私の紙を見下ろした。
指が、ぎっしり書き込んだ時刻の上で止まった。
私は慌てて笑おうとした。
「ありがとうございます。とても、楽しみです」
「全部、行きたい?」
私は頷きかけた。
夫の目が、紙ではなく私を見ていた。
「……今日は、外へ出る支度が少し面倒です」
言ったあと、膝の上で手を重ねる。
せっかく選んでくれた物へ、なんて言い方だろう。
「ああ。……そうか」
アーヴィン様は案内と私の予定表を見比べた。
口を開きかけ、指で案内の角をなぞる。
「これは、しまっていいか」
「はい」
私の返事を聞いて、案内を脇へ寄せた。
それから、椅子を引く。
「私もここで、菓子を食べていていい?」
「はい。それがいいです」
私は小さく息を吐いた。
夫は、菓子の箱を二人の間に置く。
「これは、私が食べたかった」
「私への贈り物では」
「そうだ。できれば、一つ分けてもらいたかった」
私は箱を開けた。
半分ずつ、と言いそうになって、やめた。
「二つでもいいですよ。私は今、一つで」
「では、そうする」
夫は遠慮の演技をしなかった。
二つ目の焼菓子へ手を伸ばす彼を見ていると、私も背もたれへ少し寄りかかれた。
「アーヴィン様は、私と何をなさりたいのですか」
彼の指が止まった。
「あの、家の仕事ではなくて。私がここに来て、どうお過ごしになりたかったのかと」
「今のように」
「菓子を分けることですか」
「それもある」
彼は食べかけを皿へ戻した。
さっきまでは、迷わず食べていたのに。
「一緒に本を読んで、あの船長の間違いを指摘したり。市場で違う物を買おうと言い合ったり」
「随分、揉めていますね」
「あなたは、本の話になると遠慮しなかったから」
私は叔母の客間を思い出した。
初めて会った相手へ、そこは読み間違いです、と言ったのだ。
「失礼を……」
「していない。私が気づかなかったところを話してくれた」
夫の目が少し細くなる。
「次に会ったときには、もう一冊持っていこうと思った。結婚しても、あれを続けたかった」
私は菓子の欠片を見ていた。
うまく顔を上げられない。
話に夢中になって、皿を片づけなかった日の私を、覚えていた。
「でも、毎日面白い話はできません」
「私もできない」
「今日は特に、何も」
「では、今日は菓子がある」
残りの一つを、彼が私の皿へ寄せた。
今度は私も、いらないと言わなかった。
◇ ◇ ◇
その週の水曜日、ベルタは昼の支度を終えると、淡い緑の上着に着替えてきた。
いつもと違う銀の留め具が、襟元についている。
「よくお似合いです」
「ありがとうございます。妹と芝居を観に行ってまいります」
「そうでしたか。では、お戻りは」
そこまで言って、私は口を閉じた。
「明日の朝です」
ベルタは普通に答えた。
私も頷いた。
午後からの家事は、別の者が担当する。
夕食は料理人が帰る前に用意され、食器は翌朝まとめて洗う。
分かっている。
昨夜、アーヴィン様と確認したばかりだ。
「楽しんできてください」
「はい。奥様も」
扉が閉まってから、私は玄関に少し立っていた。
誰も引き止めず、ベルタは門を出ていった。
その日の夕方、夫が小さな盆を持って居間に入ってきた。
パンと冷たい肉、それに野菜の酢漬けが載っている。
「ここで食べてもいいか。食堂まで行くのが面倒になった」
「もちろんです。お皿を用意します」
「持ってきた」
盆の下から、二枚出てきた。
「では、飲み物を」
「それは頼もうかな。私はこの机を少し寄せる」
私は水差しを持ち上げた。
持ち上げたまま、少し止まる。
「どうした?」
「何でもありません」
私が水を注いでいる間、夫は机を動かしている。
注ぎ終わったら、私の手は空いた。
椅子を並べ、二人で簡単な夕食を取った。
食後に夫が淹れた茶は、初夜より少しだけ濃かった。
「昨日、ベルタに教わった」
「お湯を減らしたのですね」
「そこが大きかったらしい」
私はカップを両手で包んだ。
彼は上着を脱ぎ、隣で本を開いた。
膝の近くに、夫の手があった。
細い傷の残った指が、頁の角を押さえている。
工房で、まだ時々自分でも道具を使う手だった。
その手に触れてみたいと思った。
何かを渡すためでなく。
私が動くより先に、廊下で小さな鐘が鳴った。
椅子から腰が浮いた。
夫が顔を上げる。
「門だ。受取り当番がいる」
「でも、ベルタが」
「ベルタでなくても、受け取れる」
私は扉を見たまま座り直した。
ほどなくして、廊下を荷車の小さな車輪が通った。
当番の人と門番が短く言葉を交わす。
私たちの部屋の前は、そのまま通り過ぎた。
誰も、私の判断を求めなかった。
アーヴィン様は、本へ目を戻した。
私も倣おうとして、同じ行を三度読んだ。
(本当に、終わった)
その晩、私は彼の手に触れなかった。
けれど、部屋へ戻るまでの間に、本を七頁読めた。
◇ ◇ ◇
前の義母から手紙が来たのは、結婚して一か月ほどたった頃だった。
封を切る前に、筆跡が分かった。
いつも、私に用事を頼むために書かれた字だった。
しばらく控えていた、大きな晩餐会を秋に再開するという。
招待客と出入りの商人について確認したい。
久しぶりに私の顔も見たいので、都合のよい日を知らせてほしい。
便箋の最後には、ほんの少しで済むことです、とあった。
私はすぐに、以前の出入り業者を思い出していた。
何日前に頼むか。支払日はいつか。
大皿を貸す商人には、先に運送料を確認しなくてはいけない。
そこまで考えて、ペンを置いた。
帰ってきた夫へ手紙を見せると、彼は読み終えて私へ返した。
「会いたい?」
「会いたくは、ありません」
前より早く言葉が出た。
夫が頷く。
「でも、一度はお断りしておきたいのです」
「手紙でもできる」
「はい。それでも、私が休んでいるところを、見られるのが怖いままなので」
働いていれば、何も言われない。
役に立てば、ここにいてもよい。
離縁したあとも、相手の家にはそんな私を残してきてしまった。
アーヴィン様はしばらく考えた。
「では、ここで会おう。私も同席していいだろうか」
「お願いします。でも、返事は私から」
「分かった」
訪問は、次の火曜日の午後になった。
茶は一種類。滞在は半刻ほど。
前の婚家で私が準備していた接待より、ずっと少なかった。
義母は客間に入ると、棚の上とテーブルを見た。
贈答用の銀器も、季節の花を盛った大きな器もない。
「すっかり、落ち着いた暮らしになったのね」
「はい」
「お顔の色もよいこと。やはり、無理をさせないお家が合っていたのね」
夫が口を開きかけた。
私は膝の上で握っていた手をほどき、先に言った。
「よく休めるようになりました」
義母の笑みが、少し深くなった。
「それはよかったわ。だったら、お願いしやすいわね」
鞄から出てきたのは、招待客の一覧だった。
名前の横に空欄が並んでいる。
返事、同伴者、食事の希望、贈り物。
私が昔、作った書式だった。
「若い者がどうにも慣れなくて。最初の一度だけ、見てやってほしいの」
「お引き受けできません」
言ってから、茶に手を伸ばした。
まだ熱い。カップを持ち上げずに手を引く。
「全部とは言っていないでしょう。分かるところに書いてくれるだけで」
「そのために、皆様へ連絡をして確かめる必要があります」
「昔のお付き合いなのだから、気軽に聞けるわよ」
「聞いたら、お返事を待つことになります」
義母は紙を押さえた。
私はその上へ手を伸ばさなかった。
「担当の方に、お任せください」
「あなたが教えてくれれば早いのに」
「手順と連絡先は、離縁のときにお渡ししています」
義母は小さく息をついた。
「リゼット。困っているのは、あの家であなたのお世話もした人たちなのよ」
私はかつての料理人の顔を思い出した。
晩餐会のあと、残った料理を小皿に分けてくれた人だ。
その皿を、私は最後まで食べられなかった。
あの人にも仕事の終わりはあったのだろうか。
「人数が足りなければ、人を雇ってください」
「たった一晩のために?」
「一晩の会のために、その前から何日も働きます」
義母はアーヴィン様へ目を向けた。
「こちらにご迷惑をお掛けするつもりはありませんの。お忙しいならともかく、ゆっくりなさっていると聞きましたから」
夫は、私を見た。
黙って、私の言葉を待っていた。
私は息を吸った。
「忙しくはありません」
手のひらが、膝の上で熱くなった。
「こちらの家の用事は、担当の方がしています。私は今日も、午後に本を読むつもりでした」
「でしたら、その前に少し――」
「その時間を、お渡しするつもりはないのです」
義母が口を閉じた。
私は続けて理由を並べようとした。
まだ体が戻っていないから。
新しい家に慣れていないから。
夫が困るから。
どれも、今日は使わなかった。
「前の家には戻りません。仕事も、お受けしません」
言い切ってから、夫を見た。
彼が静かに頷く。
義母はしばらく紙を見下ろしていた。
やがて、鞄へしまう。
「子爵様も、お困りになるわよ。何もなさらない奥様では」
アーヴィン様が、背もたれから体を起こした。
「私に確認したいことでしたら、お答えします」
声は大きくなかった。
「妻の午後を空けるために、誰かの休みを取り上げたわけではありません。人手も費用も、先に確保しています」
「そういうお話では……」
「彼女が空いていることを、手配済みの人手として数えないでいただきたい」
「今後のご連絡は、私どもの家の書記が受け取ります。妻の返事は、今お伝えしたとおりです」
義母は私を見た。
私は目を伏せなかった。
この人の満足する顔を見るまで、話を終えてはいけない。
ずっと、そうしてきた。
今日は満足してもらえないまま、ベルタを呼んだ。
義母が帰ると、客間にはカップが三つ残った。
私はそのまま座っていた。
自分が使った一つへ、ようやく手を伸ばす。
茶はもう、熱すぎなかった。
◇ ◇ ◇
「手が、まだ震えています」
夫と居間へ移ってから、私はそう言った。
アーヴィン様は、私の持つカップを見た。
「預かろうか」
「はい。お願いします」
彼は受け取り、近くの机へ置いた。
それから隣の椅子に座る。
私は礼を言おうとして、うまく息が出なかった。
彼は急がせなかった。私の呼吸が落ち着くまで、隣で待っていた。
「大丈夫だと思っていたのです。もう離縁して、家も違うのだから」
「うん」
「少し書くだけと言われたら、何を確かめるか、すぐに考えてしまいました」
私は両手を見た。
「断っている間も、あちらの料理人が困ると思っていました」
夫は自分の膝に肘をついた。
真正面からこちらを見つめず、私と同じ窓の方を向いた。
「その人を困らせないように決めるのは、会を開く人だ」
「……はい」
「あなたが戻れば、誰を雇うかを決めずに済んでしまう」
分かっている。
仕事としてなら、説明もできる。
それでも、自分一人が手を動かせば済むことが、目の前に見えてしまう。
夫の袖に、一本だけ糸が出ていた。
私はそこを見つけ、手を伸ばしかけた。
アーヴィン様も気づいた。
「これは、直しを頼んである。さっき工房から戻って、そのままだった」
自分の袖を引っ張り、糸を眺める。
「見苦しかった?」
「いいえ」
「なら、今日はこのままで」
私は、ようやく少し笑えた。
夫もこちらを向く。
「リゼット。ひとつ、言っておきたいことがある」
私は背を伸ばした。
彼はそれを見て、困ったように眉を上げた。
「そんなに身構えなくていい。私も、うまく話せるか分からない」
彼の手が膝の上で組まれた。
指に残る小さな傷を、私はまた見ていた。
「結婚した夜、あの表を見て謝っただろう」
「はい」
「私がどう言えばよかったのか、まだ考えている」
あの夜は、紙の端を揃えることしかできなかった。
私は少し迷ってから、口を開いた。
「私がいなくてもよい家なら、私はなぜ、ここにいるのだろうと思いました」
夫の指がほどけた。
「いてほしいからだ」
私は顔を上げた。
「家の仕事をしてほしいからではなく、私があなたと暮らしたい」
「……疲れた顔をしていても?」
「それもあなたの顔だろう」
言ったあと、彼は少し焦った。
「いや、疲れさせたいわけではなくて」
「分かります」
今度は、口元を押さえずに笑えた。
夫は息をつき、私の方へ手のひらを向けた。
触れない距離で止まった、その手を見る。
「初めて会ったとき、もう少し話したかった。帰ってからも、続きを聞きたいと思っていた」
私は彼の手に、自分の指を重ねた。
「次の巻のことですか」
「本の話だけではない」
彼の指が、私の指を包む。
掌の硬いところが、私の指の腹に触れた。
「あなたが何を好きで、何を嫌いで、今日は何を考えたのか。聞けるところにいたかった」
私は俯いた。
繋いだ手は、離さなかった。
「今日は、何を考えたか。お話ししても?」
「聞かせてほしい」
私は少し間を置いた。
「お義母様が帰ったら、アーヴィン様の隣に座りたいと思っていました」
彼の親指が止まった。
「隣に?」
「はい。慰めていただくためではなくて……いえ、それも、少しあります」
うまく言えず、私は首を振る。
きれいな言い方を選ぶのをやめた。
「あなたといるときの私が、好きです。今日は、何を頼まれたわけでもなく、手に触りたいと思いました」
夫が私を見る。
その耳が赤かった。
私はその赤さを、初めて近くで見た。
「もう、触っている」
「これだけでは足りないと言ったら、困りますか」
今度は彼が、言葉を探した。
「困らない。……むしろ、かなり嬉しい」
もう少し近づこうとして、椅子の肘掛けに肘が当たった。
「……こちらでは、無理ですね」
窓際の長椅子を見て、二人で少し笑った。
一度手を離し、そちらへ移って並んで座り直す。
ようやく肩が触れたとき、夫が私の頬へ手を添えた。
近づいてよいかと聞かれ、私は頷く。
唇が触れたのは、ほんの短い間だった。
離れたあと、夫が私の顔を確かめる。
私は、触れたばかりの袖をつまんだ。
「もう一度、お願いします」
アーヴィン様が笑って、もう一度顔を寄せた。
◇ ◇ ◇
前の婚家から、先日の依頼を取り下げる連絡が来た。
書記を通じて届いた手紙には、晩餐会の人数を減らしたとあった。
必要な人も、給金を出して雇ったという。
私はその手紙をしまい、返事を書かなかった。
そのあとも、朝早く目の覚める日はあった。
呼び鈴が鳴ると、今でも扉を見てしまう。
けれど、見るだけで終わることが増えた。
私は髪飾りを自分の好みで注文した。
夫が勧めた本を一冊、途中で読むのをやめた。
面白かったかと聞かれて、主人公が好きになれなかったと答えると、どの辺りでと返ってきた。
それで、一度も喧嘩にならなかった。
ただし、その主人公が悪人かどうかでは、まだ意見が合わない。
結婚して二か月目の水曜日。
アーヴィンが、午後の予定を尋ねた。
様をつけずに呼ぶようになったのは、つい先日のことだ。
最初の一度は、彼が返事を忘れた。
聞こえなかったのかと呼び直したら、二度聞けた、と笑った。
「午後は、本を読もうかと思っています」
「私は早く仕事が終わる。邪魔でなければ一緒にいても?」
「邪魔ではありません。いてください」
私はそう答え、少しだけ迷ってから付け足した。
「何も用意しないつもりですが」
「では、私も手ぶらで」
昼過ぎ、夫は本を一冊だけ持ってきた。
あの船長の話だ。
私は先に長椅子に座り、窓を少し開けていた。
ベルタは今日は休みで、家にも来ていない。
交代の人が花瓶の水を替え、夕方までには帰る。
夕食は温めればよいし、足りなければ二人で戸棚を開ける。
夫が隣へ腰を下ろした。
背もたれへ体を預け、大きく息を吐く。
「疲れたのですか」
「少し。今日は、職人と同じ箇所を三度測った」
「お昼寝をなさいます?」
「それもいいな。あなたは?」
私には、疲れるほどの仕事がなかった。
朝食を食べ、庭へ出て、本を少し読んだ。
誰かに褒められるようなことは、一つもしていない。
私は隣の肩を見た。
「寄りかかっても、いいですか」
アーヴィンが本を持つ腕をずらした。
私はそこへ肩を寄せる。
服越しの体温が、ゆっくり伝わってきた。
夫は声に出して、本を読み始めた。
船長はまた、寄り道をしようとしている。
「この人、今度は何を忘れたのですか」
「大事な手紙だそうだ」
「もう、港へ送ってもらえばいいのに」
「それだと、話が終わってしまう」
私が笑うと、夫の肩も揺れた。
声を聞いているうちに、まぶたが重くなった。
頁の先が気になるのに、文字を追うのが難しい。
私は片手で口元を隠し、小さく欠伸をした。
「眠い?」
「……はい」
廊下で、呼び鈴が鳴った。
足が少しだけ動いた。
けれど腰を上げる前に、足音が通り過ぎる。
受取り当番の声がして、ほどなく玄関の扉が閉まった。
アーヴィンも本を置かなかった。
私の肩に触れたまま、続きを読んでいる。
私はもう一度、夫へ体重を預けた。
「続きを、覚えておいてください」
「しおりを挟もう」
「あとで、読んでくださいますか」
「ああ」
本の閉じる音がした。
夫の手が、私の手に重なる。
「おやすみ、リゼット」
今日はまだ、何もしていなかった。
そのまま私は、夫の肩で眠った。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
評価やリアクション、感想など、お好きな形でお気持ちをいただけましたら励みになります。




