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「何もしなくていい」と言った夫は、何もしなくていい家を用意していた

掲載日:2026/09/11

「何もしなくていい」


 初夜に夫から渡されたのは、宝石ではなく当番表だった。

 そこに、私の名前だけがなかった。


 朝食の支度。食材の注文。掃除。洗濯。

 来客への返事と、使用人たちの休みの調整。

 仕事の横には、担当者と、その人がいない日の代わりが書いてある。


 どれも私が、前の婚家でしていたことだ。


「……こちらには、妻の欄がないようですが」

「ない。あなたがいなくても回るようにした」


 私は紙の端を揃えた。

 もう十分、揃っていた。


「では、私は何をすればよろしいのでしょう」

「まず、座ってほしい。式のあとから立ったままだ」


 アーヴィン様は、私の後ろへ回り、椅子を引いた。

 三十二歳の子爵。灰色の瞳と、少し曲がった襟元。

 今日から私の夫になった人だ。


 椅子へ腰を下ろすと、彼もやっと座った。

 私が茶器に手を伸ばすより早く、湯を注ぎ始める。


「薄いのと濃いのなら?」

「どちらでも」

「では、薄くなった。私が淹れると大抵こうなる」


 私の前へ置かれた茶は、確かに色が淡かった。

 彼は自分の茶を一口飲み、眉間を寄せた。


「湯だな」

「そこまででは……」

「少し、茶を通った湯だ」


 笑いかけて、口元を押さえる。

 彼は私の顔を見ると、もう一度飲んだ。


 私は二十六歳で、二度目の結婚をした。

 最初の結婚は四年で終わった。


 前の夫から最後に言われたのは、家にいるだけなのに、どうしていつも疲れた顔をしているのか、という言葉だった。


 今日はその顔をしないようにしたつもりだ。

 白粉を薄く重ね、口紅も塗り直した。

 けれど新しい夫にも、早々に仕事を外されてしまった。


「申し訳ございません。そんなに、頼りなく見えますか」


 アーヴィン様がカップを置いた。


「リゼット。明日の朝、何時に厨房へ行けばいいかと聞いたね」

「はい」

「それへの返事だった。あなたの働きぶりを見て決めたのではない」


 彼は、当番表の一番上を指した。

 明日の朝食には、料理人の名前がある。


「厨房へ行かなくても、朝食は出る。起きられなければ、あとで温めてもらえる」

「その分、誰かを待たせるのでは」

「冷めた皿を温める魔具がある。夜中まで人を立たせておく必要はない」


 言われてみれば、普通のことだ。

 この国では、町の食堂でも使っている。


「夜に急なお客様がいらしたら?」

「門番が用件を聞く。火事や怪我なら私を起こす。それ以外は朝だ」

「朝まで待てないと、おっしゃった場合は」

「では、私が聞く」


 表の一番下に、彼自身の名前があった。


「妻を経由しないと、家の用事が私に届かない仕組みにはしない」


 私はそこを二度読んだ。


 前の家でも、夫には相談していた。

 すると、お前に任せる、という返事が来た。

 その任せるは、間違えてよいという意味ではなかった。


 夫は、紙の隣へ小さな鍵を置いた。


「あなたの部屋の鍵だ。廊下を挟んだ向かいが私の部屋になる」

「……寝室も、別々ですか」

「当面は。変えたくなったら、二人で決めたい」


 彼の指が、鍵から離れる。


「結婚式を終えたから、今夜から全部変えなくてはとは思っていない」


 私は鍵を手に取った。

 軽かった。

 食料庫も銀器棚も開かない、自分の部屋だけの鍵だった。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、私は五時に目を覚ました。


 寝室はまだ暗い。

 廊下に足音はなく、呼び鈴も鳴っていない。

 だからこそ、何かを忘れている気がした。


 掛け布団をめくり、足を床につける。

 今日の来客。食材の残り。洗濯を頼む順番。

 頭の中では、誰にも渡されていない仕事が始まっていた。


(……あの表に、書き忘れがあるのでは)


 私は髪を結んだ。


 こういう癖は、今世だけのものではない。

 前世の私は、日本という国で総務の仕事をしていた。


 誰がするか決まっていない用事を拾っているうちに、私の仕事になる。

 断れば、前はしてくれたのにと言われる。


 死後の窓口には、星柄のマントを着た神様がいた。

 ツクヨと名乗ったその人は、私の希望を聞いてくれた。


「特別な魔法などは、いらないんですか」

「夜、ちゃんと寝られれば、それで」

「……ずいぶん現実的ですね」


 とんがり帽子を直す彼に、私は頷いた。

 大きな願いを言うことにも、慣れていなかった。


 娘として生まれ直し、育ち、結婚した。

 今度は貴族の奥様なのだから、少しは違うと思った。

 実際に違ったのは、提出する書類に紋章がついていることくらいだ。


 前の婚家は、客を招くのが好きだった。

 料理の手配も、贈り物の返礼も、お義母様が急に増やす客席も、私が取りまとめた。


 料理人が病気になれば、代わりを探す。

 代わりがいなければ、私が厨房へ入る。

 食材が足りなければ、私が買いに行く。


 費用がかかれば、お義母様は夫の許可を取るように言い、夫は母に聞けと言った。


「疲れたなら、休めばいいだろう」


 夫は何度もそう言った。


 けれど私が部屋へ戻ると、すぐに戸が叩かれた。

 どの皿を使うか。誰へ返事をするか。代金を払ってよいか。

 答えるだけでいいから、と。


 答えるためには、全部を覚えていなければならない。


 ある晩、私は夕食を温め直すのを諦めた。

 椅子に座った途端、また呼ばれたからだ。


 翌朝、冷えた皿を下げながら、もうここでは暮らせないと夫に告げた。


 すぐには話が通らなかった。

 叔母に相談し、持参した財産と住む場所を確かめた。

 別々に暮らし始めてから、正式に離縁するまで三か月かかった。


 離縁の書類を受け取った日も、夜中に一度目が覚めた。


 新しい家の廊下を歩きながら、私は自分の袖を握った。

 今もまだ、その頃と同じように早足になっている。


 厨房の扉から、明かりが漏れていた。

 中では家政婦長のベルタが、料理人と籠を数えていた。


「奥様。お早いですね」

「何か、お手伝いすることは」

「ありません」


 返事に迷いがなかった。


 ベルタは五十歳くらいの、背筋の伸びた女性だ。

 夫の母の代から、この家で働いていると聞いていた。


「まだお休みいただけます。お湯だけ、お持ちしましょうか」

「でも、ベルタはもう働いているでしょう」

「今日は早番です。昼の片づけが済んだら帰ります」

「帰る?」

「町に家がありますので」


 彼女は扉の脇に貼られた表を指した。

 確かに昼からは別の名前になっている。


「ごめんなさい。ずっと屋敷にいる方なのかと」

「いえ。こちらに泊まる日もあります。ですが今日は、孫が初めてパンを焼くそうで」

「それは、楽しみですね」

「成功すれば夕食です。失敗したときの夕食は、帰りに買います」


 私は思わず笑った。

 ベルタは籠の確認を終え、料理人へ引き継ぐ。


「それで、昼からの方がお休みになったら?」

「代わりを決めるのは私の仕事です。私もいなければ、旦那様へ連絡します」

「では、お二人とも手が離せないときは」


 言いながら、いつまで続けるつもりだろうと思った。

 ベルタは笑わなかった。


「そのときには、しないことを決めます」


 布巾を畳んでから、私を見る。


「銀器を磨くのは明日にします。お客様も、急でなければ別の日へ。人が足りないのに、いつもどおり全部はできません」


 私は開きかけた口を閉じた。

 前の家では、その全部の最後に、私がいた。


 廊下の奥で扉が開いた。

 上着を腕に掛けたアーヴィン様が、こちらへ来る。


「おはよう。寒くなかったか」

「はい。あの、早く目が覚めてしまって」

「そうか。私もだ。今日はまだ、少し緊張している」


 彼は襟元を気にしていた。

 昨日と違って、今日は真っ直ぐだ。

 直す必要のない襟を、彼の指がもう一度なぞる。


「せっかくだから、一緒に朝食にしないか」


 ベルタが、予定より早められるか料理人へ確かめた。

 出来ているものならすぐ出せるという。


 食卓には、パンと卵と温かいスープが並んだ。

 私が給仕の人の動きを目で追っていると、夫がパン籠を寄せる。


「固い端は好きか?」

「はい」

「では、よかった。私は柔らかい方がいい」


 好物を譲られたのだと思って、彼の顔を見た。

 アーヴィン様は、真ん中の柔らかいところを既に食べていた。


(本当に、柔らかい方がいいだけらしい)


 私は温かいうちに、端の一切れを取った。


 ◇ ◇ ◇


 それから十日ほどが過ぎた。


 私はまだ、朝早く目を覚ます。

 けれど毎朝厨房へ行くことはなくなった。

 行ってもベルタの人数確認が一つ増えるだけだと、分かってきたからだ。


 新しい家は、前の屋敷より小さい。

 廊下に見せるためだけの花瓶が並んでいない。


 アーヴィン様は、町の魔具の整備を請け負う工房を経営している。

 子爵という肩書はあるが、お金が無限に出てくる人ではなかった。


 ある晩、私は家の収支を見せてもらった。

 出てきたのは未処理の書類の束ではなく、前の月まで記入された帳面だった。


「この人数で、交代のお休みまで取れるのですね」

「毎週の晩餐会をやめた。客室も、使う部屋だけ開けている」

「お付き合いに、差し障りは?」

「少し。酒を飲みに来られなくなった人から、寂しいと言われた」


 夫はその寂しさに、あまり困っていなさそうだった。


「客を呼ばない日にも給金は要るが、呼ぶとさらに費用がかかる。その分を、交代できる人に払っている」

「私が代われば、お一人分は……」

「リゼット」


 少しだけ強く名前を呼ばれ、指が止まる。

 夫は、私が触れていた給金の欄を見た。


「あなたが来る前から、雇っている人だ」


 その人にも家があり、予定がある。

 私は会ったことのある顔を思い浮かべた。


「妻が来たので仕事をなくす、と私は言いたくない」

「……はい」

「あなたが何か始めたくなったら、それは別に相談しよう」


 彼は帳面を取り上げなかった。

 私は残りを読み、自分で閉じた。


 私が結婚前から持っているお金は、私の名で預けてある。

 家の支出とは分けて、自由に使う額も決めた。

 買った本の題名まで、夫に報告する必要はない。


 それでも私は、最初に注文した小説を見せに行った。


「新刊か」

「はい。あの船長が、ようやく港へ戻るそうです」

「三巻も帰れなかったな」

「寄り道しすぎなのです」


 アーヴィン様と知り合ったのは、叔母の家だった。

 離縁してから半年ほどたった頃だ。


 客間で皆が政変の話をしている間、私は端の椅子で本を読んでいた。

 主人公は、海賊にさらわれた貴族の娘だ。

 自分で船を奪って船長に収まったのに、なかなか家へ帰れない。


 ちょうど、その巻を読んだばかりの彼が来た。


「島へ戻るところがいいね。恩人に礼を言うために、嵐の中を引き返す」

「そこは読み間違いです。船長は焼菓子を買いに戻ったのです」

「命懸けで?」

「一巻の終わりから、また食べたいと言っています」


 彼は隣に座り、本を覗き込んだ。

 私は挿絵の中の、小さな店を指さす。


「礼を言ってから、買ったのかもしれない」

「では、もう一袋買っておけば、次の巻は帰れますね」

「そんなに早く帰ってほしい?」

「いいえ。五巻くらいは寄り道してほしいです」


 彼は一度私を見て、声を立てて笑った。

 私も笑った拍子に頁を閉じてしまい、二人でさっきの店を探し直した。


 気づけば私は、皿を下げに来た人へ渡しもせず、両手で本を開いていた。

 次の訪問でも、彼は続きを持ってきた。


 それから何度も会った。

 私の離縁の事情も、彼は聞いている。

 返事を急かされなかったことが、もう一度結婚してみたいと思えた理由の一つだった。


「読み終わったら、私にも貸してほしい」

「もちろんです」


 私は頷き、それから急いで付け足した。


「では、明日までには読みます」


 夫が、こちらを見た。

 私も自分で、おかしいと分かった。


 好きな本にまで、提出期限をつけていた。


「いつでもいい。先に読みたいなら、私も買う」

「いえ、同じものを二冊も」

「工房で使う魔具は、予備も含めてもっと買っている」

「これは部品ではありません」

「では、一冊で待とう。ただし、結末を先に話さないでくれ」


 私は本を胸に抱え直した。


「……待てなくなったら、おっしゃってください」

「ああ」


 その夜、読み始めて数頁で眠くなった。

 私はしおりを挟み、灯りを落とした。

 閉じた本の表紙を一度撫でて、枕へ頬を預けた。


 ◇ ◇ ◇


 休むことに慣れたかと聞かれたら、まだ、と答えたと思う。


 夕食前には鏡を見る。

 顔色を確かめ、夫に話すことを一つ考える。

 楽しく過ごしたと、伝えられるように。


 ある朝、部屋へ花と菓子が届いた。

 庭の見頃を書いた紙と、町の演奏会の案内も添えてある。

 どれもアーヴィン様が用意してくれたものだった。


 私は紙を並べ、時刻を計算した。


 庭を回って、昼食を取って、馬車で町へ行く。

 戻ってから菓子を食べ、本の続きを読めば、夕食の話題も足りる。


 そこへ夫が顔を出した。


「演奏会が好きか分からなかったので、いくつか……何を書いている?」

「今日の予定です。全部、間に合いそうです」


 彼は私の紙を見下ろした。

 指が、ぎっしり書き込んだ時刻の上で止まった。


 私は慌てて笑おうとした。


「ありがとうございます。とても、楽しみです」

「全部、行きたい?」


 私は頷きかけた。

 夫の目が、紙ではなく私を見ていた。


「……今日は、外へ出る支度が少し面倒です」


 言ったあと、膝の上で手を重ねる。

 せっかく選んでくれた物へ、なんて言い方だろう。


「ああ。……そうか」


 アーヴィン様は案内と私の予定表を見比べた。

 口を開きかけ、指で案内の角をなぞる。


「これは、しまっていいか」

「はい」


 私の返事を聞いて、案内を脇へ寄せた。

 それから、椅子を引く。


「私もここで、菓子を食べていていい?」

「はい。それがいいです」


 私は小さく息を吐いた。

 夫は、菓子の箱を二人の間に置く。


「これは、私が食べたかった」

「私への贈り物では」

「そうだ。できれば、一つ分けてもらいたかった」


 私は箱を開けた。

 半分ずつ、と言いそうになって、やめた。


「二つでもいいですよ。私は今、一つで」

「では、そうする」


 夫は遠慮の演技をしなかった。

 二つ目の焼菓子へ手を伸ばす彼を見ていると、私も背もたれへ少し寄りかかれた。


「アーヴィン様は、私と何をなさりたいのですか」


 彼の指が止まった。


「あの、家の仕事ではなくて。私がここに来て、どうお過ごしになりたかったのかと」

「今のように」

「菓子を分けることですか」

「それもある」


 彼は食べかけを皿へ戻した。

 さっきまでは、迷わず食べていたのに。


「一緒に本を読んで、あの船長の間違いを指摘したり。市場で違う物を買おうと言い合ったり」

「随分、揉めていますね」

「あなたは、本の話になると遠慮しなかったから」


 私は叔母の客間を思い出した。

 初めて会った相手へ、そこは読み間違いです、と言ったのだ。


「失礼を……」

「していない。私が気づかなかったところを話してくれた」


 夫の目が少し細くなる。


「次に会ったときには、もう一冊持っていこうと思った。結婚しても、あれを続けたかった」


 私は菓子の欠片を見ていた。

 うまく顔を上げられない。


 話に夢中になって、皿を片づけなかった日の私を、覚えていた。


「でも、毎日面白い話はできません」

「私もできない」

「今日は特に、何も」

「では、今日は菓子がある」


 残りの一つを、彼が私の皿へ寄せた。

 今度は私も、いらないと言わなかった。


 ◇ ◇ ◇


 その週の水曜日、ベルタは昼の支度を終えると、淡い緑の上着に着替えてきた。

 いつもと違う銀の留め具が、襟元についている。


「よくお似合いです」

「ありがとうございます。妹と芝居を観に行ってまいります」

「そうでしたか。では、お戻りは」


 そこまで言って、私は口を閉じた。


「明日の朝です」


 ベルタは普通に答えた。

 私も頷いた。


 午後からの家事は、別の者が担当する。

 夕食は料理人が帰る前に用意され、食器は翌朝まとめて洗う。


 分かっている。

 昨夜、アーヴィン様と確認したばかりだ。


「楽しんできてください」

「はい。奥様も」


 扉が閉まってから、私は玄関に少し立っていた。

 誰も引き止めず、ベルタは門を出ていった。


 その日の夕方、夫が小さな盆を持って居間に入ってきた。

 パンと冷たい肉、それに野菜の酢漬けが載っている。


「ここで食べてもいいか。食堂まで行くのが面倒になった」

「もちろんです。お皿を用意します」

「持ってきた」


 盆の下から、二枚出てきた。


「では、飲み物を」

「それは頼もうかな。私はこの机を少し寄せる」


 私は水差しを持ち上げた。

 持ち上げたまま、少し止まる。


「どうした?」

「何でもありません」


 私が水を注いでいる間、夫は机を動かしている。

 注ぎ終わったら、私の手は空いた。


 椅子を並べ、二人で簡単な夕食を取った。

 食後に夫が淹れた茶は、初夜より少しだけ濃かった。


「昨日、ベルタに教わった」

「お湯を減らしたのですね」

「そこが大きかったらしい」


 私はカップを両手で包んだ。

 彼は上着を脱ぎ、隣で本を開いた。


 膝の近くに、夫の手があった。

 細い傷の残った指が、頁の角を押さえている。

 工房で、まだ時々自分でも道具を使う手だった。


 その手に触れてみたいと思った。

 何かを渡すためでなく。


 私が動くより先に、廊下で小さな鐘が鳴った。


 椅子から腰が浮いた。

 夫が顔を上げる。


「門だ。受取り当番がいる」

「でも、ベルタが」

「ベルタでなくても、受け取れる」


 私は扉を見たまま座り直した。


 ほどなくして、廊下を荷車の小さな車輪が通った。

 当番の人と門番が短く言葉を交わす。

 私たちの部屋の前は、そのまま通り過ぎた。


 誰も、私の判断を求めなかった。


 アーヴィン様は、本へ目を戻した。

 私も倣おうとして、同じ行を三度読んだ。


(本当に、終わった)


 その晩、私は彼の手に触れなかった。

 けれど、部屋へ戻るまでの間に、本を七頁読めた。


 ◇ ◇ ◇


 前の義母から手紙が来たのは、結婚して一か月ほどたった頃だった。


 封を切る前に、筆跡が分かった。

 いつも、私に用事を頼むために書かれた字だった。


 しばらく控えていた、大きな晩餐会を秋に再開するという。

 招待客と出入りの商人について確認したい。

 久しぶりに私の顔も見たいので、都合のよい日を知らせてほしい。


 便箋の最後には、ほんの少しで済むことです、とあった。


 私はすぐに、以前の出入り業者を思い出していた。

 何日前に頼むか。支払日はいつか。

 大皿を貸す商人には、先に運送料を確認しなくてはいけない。


 そこまで考えて、ペンを置いた。


 帰ってきた夫へ手紙を見せると、彼は読み終えて私へ返した。


「会いたい?」

「会いたくは、ありません」


 前より早く言葉が出た。

 夫が頷く。


「でも、一度はお断りしておきたいのです」

「手紙でもできる」

「はい。それでも、私が休んでいるところを、見られるのが怖いままなので」


 働いていれば、何も言われない。

 役に立てば、ここにいてもよい。

 離縁したあとも、相手の家にはそんな私を残してきてしまった。


 アーヴィン様はしばらく考えた。


「では、ここで会おう。私も同席していいだろうか」

「お願いします。でも、返事は私から」

「分かった」


 訪問は、次の火曜日の午後になった。

 茶は一種類。滞在は半刻ほど。

 前の婚家で私が準備していた接待より、ずっと少なかった。


 義母は客間に入ると、棚の上とテーブルを見た。

 贈答用の銀器も、季節の花を盛った大きな器もない。


「すっかり、落ち着いた暮らしになったのね」

「はい」

「お顔の色もよいこと。やはり、無理をさせないお家が合っていたのね」


 夫が口を開きかけた。

 私は膝の上で握っていた手をほどき、先に言った。


「よく休めるようになりました」


 義母の笑みが、少し深くなった。


「それはよかったわ。だったら、お願いしやすいわね」


 鞄から出てきたのは、招待客の一覧だった。

 名前の横に空欄が並んでいる。

 返事、同伴者、食事の希望、贈り物。

 私が昔、作った書式だった。


「若い者がどうにも慣れなくて。最初の一度だけ、見てやってほしいの」

「お引き受けできません」


 言ってから、茶に手を伸ばした。

 まだ熱い。カップを持ち上げずに手を引く。


「全部とは言っていないでしょう。分かるところに書いてくれるだけで」

「そのために、皆様へ連絡をして確かめる必要があります」

「昔のお付き合いなのだから、気軽に聞けるわよ」

「聞いたら、お返事を待つことになります」


 義母は紙を押さえた。

 私はその上へ手を伸ばさなかった。


「担当の方に、お任せください」

「あなたが教えてくれれば早いのに」

「手順と連絡先は、離縁のときにお渡ししています」


 義母は小さく息をついた。


「リゼット。困っているのは、あの家であなたのお世話もした人たちなのよ」


 私はかつての料理人の顔を思い出した。

 晩餐会のあと、残った料理を小皿に分けてくれた人だ。

 その皿を、私は最後まで食べられなかった。


 あの人にも仕事の終わりはあったのだろうか。


「人数が足りなければ、人を雇ってください」

「たった一晩のために?」

「一晩の会のために、その前から何日も働きます」


 義母はアーヴィン様へ目を向けた。


「こちらにご迷惑をお掛けするつもりはありませんの。お忙しいならともかく、ゆっくりなさっていると聞きましたから」


 夫は、私を見た。

 黙って、私の言葉を待っていた。


 私は息を吸った。


「忙しくはありません」


 手のひらが、膝の上で熱くなった。


「こちらの家の用事は、担当の方がしています。私は今日も、午後に本を読むつもりでした」

「でしたら、その前に少し――」

「その時間を、お渡しするつもりはないのです」


 義母が口を閉じた。


 私は続けて理由を並べようとした。

 まだ体が戻っていないから。

 新しい家に慣れていないから。

 夫が困るから。


 どれも、今日は使わなかった。


「前の家には戻りません。仕事も、お受けしません」


 言い切ってから、夫を見た。

 彼が静かに頷く。


 義母はしばらく紙を見下ろしていた。

 やがて、鞄へしまう。


「子爵様も、お困りになるわよ。何もなさらない奥様では」


 アーヴィン様が、背もたれから体を起こした。


「私に確認したいことでしたら、お答えします」


 声は大きくなかった。


「妻の午後を空けるために、誰かの休みを取り上げたわけではありません。人手も費用も、先に確保しています」

「そういうお話では……」

「彼女が空いていることを、手配済みの人手として数えないでいただきたい」


「今後のご連絡は、私どもの家の書記が受け取ります。妻の返事は、今お伝えしたとおりです」


 義母は私を見た。

 私は目を伏せなかった。


 この人の満足する顔を見るまで、話を終えてはいけない。

 ずっと、そうしてきた。


 今日は満足してもらえないまま、ベルタを呼んだ。


 義母が帰ると、客間にはカップが三つ残った。

 私はそのまま座っていた。

 自分が使った一つへ、ようやく手を伸ばす。


 茶はもう、熱すぎなかった。


 ◇ ◇ ◇


「手が、まだ震えています」


 夫と居間へ移ってから、私はそう言った。

 アーヴィン様は、私の持つカップを見た。


「預かろうか」

「はい。お願いします」


 彼は受け取り、近くの机へ置いた。

 それから隣の椅子に座る。


 私は礼を言おうとして、うまく息が出なかった。

 彼は急がせなかった。私の呼吸が落ち着くまで、隣で待っていた。


「大丈夫だと思っていたのです。もう離縁して、家も違うのだから」

「うん」

「少し書くだけと言われたら、何を確かめるか、すぐに考えてしまいました」


 私は両手を見た。


「断っている間も、あちらの料理人が困ると思っていました」


 夫は自分の膝に肘をついた。

 真正面からこちらを見つめず、私と同じ窓の方を向いた。


「その人を困らせないように決めるのは、会を開く人だ」

「……はい」

「あなたが戻れば、誰を雇うかを決めずに済んでしまう」


 分かっている。

 仕事としてなら、説明もできる。

 それでも、自分一人が手を動かせば済むことが、目の前に見えてしまう。


 夫の袖に、一本だけ糸が出ていた。

 私はそこを見つけ、手を伸ばしかけた。


 アーヴィン様も気づいた。


「これは、直しを頼んである。さっき工房から戻って、そのままだった」


 自分の袖を引っ張り、糸を眺める。


「見苦しかった?」

「いいえ」

「なら、今日はこのままで」


 私は、ようやく少し笑えた。

 夫もこちらを向く。


「リゼット。ひとつ、言っておきたいことがある」


 私は背を伸ばした。

 彼はそれを見て、困ったように眉を上げた。


「そんなに身構えなくていい。私も、うまく話せるか分からない」


 彼の手が膝の上で組まれた。

 指に残る小さな傷を、私はまた見ていた。


「結婚した夜、あの表を見て謝っただろう」

「はい」

「私がどう言えばよかったのか、まだ考えている」


 あの夜は、紙の端を揃えることしかできなかった。

 私は少し迷ってから、口を開いた。


「私がいなくてもよい家なら、私はなぜ、ここにいるのだろうと思いました」


 夫の指がほどけた。


「いてほしいからだ」


 私は顔を上げた。


「家の仕事をしてほしいからではなく、私があなたと暮らしたい」

「……疲れた顔をしていても?」

「それもあなたの顔だろう」


 言ったあと、彼は少し焦った。


「いや、疲れさせたいわけではなくて」

「分かります」


 今度は、口元を押さえずに笑えた。


 夫は息をつき、私の方へ手のひらを向けた。

 触れない距離で止まった、その手を見る。


「初めて会ったとき、もう少し話したかった。帰ってからも、続きを聞きたいと思っていた」


 私は彼の手に、自分の指を重ねた。


「次の巻のことですか」

「本の話だけではない」


 彼の指が、私の指を包む。

 掌の硬いところが、私の指の腹に触れた。


「あなたが何を好きで、何を嫌いで、今日は何を考えたのか。聞けるところにいたかった」


 私は俯いた。

 繋いだ手は、離さなかった。


「今日は、何を考えたか。お話ししても?」

「聞かせてほしい」


 私は少し間を置いた。


「お義母様が帰ったら、アーヴィン様の隣に座りたいと思っていました」


 彼の親指が止まった。


「隣に?」

「はい。慰めていただくためではなくて……いえ、それも、少しあります」


 うまく言えず、私は首を振る。

 きれいな言い方を選ぶのをやめた。


「あなたといるときの私が、好きです。今日は、何を頼まれたわけでもなく、手に触りたいと思いました」


 夫が私を見る。

 その耳が赤かった。


 私はその赤さを、初めて近くで見た。


「もう、触っている」

「これだけでは足りないと言ったら、困りますか」


 今度は彼が、言葉を探した。


「困らない。……むしろ、かなり嬉しい」


 もう少し近づこうとして、椅子の肘掛けに肘が当たった。


「……こちらでは、無理ですね」


 窓際の長椅子を見て、二人で少し笑った。

 一度手を離し、そちらへ移って並んで座り直す。


 ようやく肩が触れたとき、夫が私の頬へ手を添えた。

 近づいてよいかと聞かれ、私は頷く。


 唇が触れたのは、ほんの短い間だった。


 離れたあと、夫が私の顔を確かめる。

 私は、触れたばかりの袖をつまんだ。


「もう一度、お願いします」


 アーヴィン様が笑って、もう一度顔を寄せた。


 ◇ ◇ ◇


 前の婚家から、先日の依頼を取り下げる連絡が来た。

 書記を通じて届いた手紙には、晩餐会の人数を減らしたとあった。

 必要な人も、給金を出して雇ったという。


 私はその手紙をしまい、返事を書かなかった。


 そのあとも、朝早く目の覚める日はあった。

 呼び鈴が鳴ると、今でも扉を見てしまう。

 けれど、見るだけで終わることが増えた。


 私は髪飾りを自分の好みで注文した。

 夫が勧めた本を一冊、途中で読むのをやめた。

 面白かったかと聞かれて、主人公が好きになれなかったと答えると、どの辺りでと返ってきた。


 それで、一度も喧嘩にならなかった。

 ただし、その主人公が悪人かどうかでは、まだ意見が合わない。


 結婚して二か月目の水曜日。

 アーヴィンが、午後の予定を尋ねた。


 様をつけずに呼ぶようになったのは、つい先日のことだ。

 最初の一度は、彼が返事を忘れた。

 聞こえなかったのかと呼び直したら、二度聞けた、と笑った。


「午後は、本を読もうかと思っています」

「私は早く仕事が終わる。邪魔でなければ一緒にいても?」

「邪魔ではありません。いてください」


 私はそう答え、少しだけ迷ってから付け足した。


「何も用意しないつもりですが」

「では、私も手ぶらで」


 昼過ぎ、夫は本を一冊だけ持ってきた。

 あの船長の話だ。

 私は先に長椅子に座り、窓を少し開けていた。


 ベルタは今日は休みで、家にも来ていない。

 交代の人が花瓶の水を替え、夕方までには帰る。

 夕食は温めればよいし、足りなければ二人で戸棚を開ける。


 夫が隣へ腰を下ろした。

 背もたれへ体を預け、大きく息を吐く。


「疲れたのですか」

「少し。今日は、職人と同じ箇所を三度測った」

「お昼寝をなさいます?」

「それもいいな。あなたは?」


 私には、疲れるほどの仕事がなかった。

 朝食を食べ、庭へ出て、本を少し読んだ。

 誰かに褒められるようなことは、一つもしていない。


 私は隣の肩を見た。


「寄りかかっても、いいですか」


 アーヴィンが本を持つ腕をずらした。

 私はそこへ肩を寄せる。

 服越しの体温が、ゆっくり伝わってきた。


 夫は声に出して、本を読み始めた。

 船長はまた、寄り道をしようとしている。


「この人、今度は何を忘れたのですか」

「大事な手紙だそうだ」

「もう、港へ送ってもらえばいいのに」

「それだと、話が終わってしまう」


 私が笑うと、夫の肩も揺れた。


 声を聞いているうちに、まぶたが重くなった。

 頁の先が気になるのに、文字を追うのが難しい。

 私は片手で口元を隠し、小さく欠伸をした。


「眠い?」

「……はい」


 廊下で、呼び鈴が鳴った。


 足が少しだけ動いた。

 けれど腰を上げる前に、足音が通り過ぎる。

 受取り当番の声がして、ほどなく玄関の扉が閉まった。


 アーヴィンも本を置かなかった。

 私の肩に触れたまま、続きを読んでいる。


 私はもう一度、夫へ体重を預けた。


「続きを、覚えておいてください」

「しおりを挟もう」

「あとで、読んでくださいますか」

「ああ」


 本の閉じる音がした。

 夫の手が、私の手に重なる。


「おやすみ、リゼット」


 今日はまだ、何もしていなかった。

 そのまま私は、夫の肩で眠った。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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