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第2部 復讐編

*更新履歴

 2026/3/10 登場人物のひとりが実在の人物とかぶっていたため名前を変更しました。

 東京の空を焼き尽くしたあの狂乱から、数時間。夜明けの光は、勝利の凱歌ではなく、言葉を失った人々の当惑を照らし出していた。

 テレビ各局は、いまだ火の粉が舞う鉄塔周辺から、断続的に速報を流し続けている。画面の下には「緊急特報」の赤い文字が躍り、アナウンサーの早口な声が緊迫した現場の空気を伝えていた。


 『――先ほど入った情報です。都心を恐怖に陥れていた、翼を持つ少女による大規模テロは、現在、事実上の制圧状態にある模様です。当局の突入を前に、現場にいた一般の少年が少女の暴走を食い止めたとの目撃情報が相次いでいます』


 画面に映し出されたのは、崩落した瓦礫の山を、一歩、また一歩と踏みしめて下りてくる少年の姿だった。佐藤のジャージは至る所が焼け焦げ、額からは血が流れている。しかし、彼は誰の肩を借りることも、何かを杖にすることもなく、自らの足でしっかりと地面を捉えて歩いていた。手には折れた刀が握られているが、その立ち姿には、恐怖に打ち勝った者だけが持つ静かな強さが宿っている。


 少年が自力で日常の淵へと歩みを進める一方で、小春の身柄は、ヘリコプターによって世間の目から完全に遮断された場所へと運び込まれていた。東京郊外、深い森の奥に位置する「国立特殊生物・環境研究センター」。そこは、医学と科学の名を借りた、窓のない白い聖域だった。




 角と翼 ―ツノとツバサ― 第2部 復讐編




 小春は、清潔すぎるベッドの上で、体中に無数のチューブを繋がれたまま深い眠りに落ちていた。一定間隔で鳴るバイタルモニターの無機質な電子音だけが、静まり返った室内に響いている。

 その部屋は、音さえも白く塗りつぶされているようだった。小春が重い(まぶた)を押し上げると、最初に目に飛び込んできたのは、網膜を刺すような無機質なLEDの光だった。意識が混濁する中、全身を火であぶられるような激痛が、遅れて波のように押し寄せる。


 「……あ、……っ……」


 乾いた喉から漏れたのは、声にもならない掠れた吐息だった。視線を落とせば、そこにあるのは無数の赤黒い火傷の跡に覆われた、無惨な自身の肌だ。いくつものチューブが皮膚を這うように繋がれ、自由を奪われたその姿は、自分という存在がバラバラに分解されていくかのようだった。


 (……痛い、痛い……っ! 体中が、焼けてるみたい……)


 指先一つ動かそうとするだけで、全身の皮膚が引き千切られるような激痛が走り、思考が真っ白に塗りつぶされる。呼吸をすることさえ、肺に鋭利な刃物を突き立てられるような苦痛を伴った。

 自由自在に空を舞ったあの翼は、今は穴だらけのボロ布のように背中にへばりつき、シーツに擦れるたびに絶叫したくなるほどの痛みが神経を突き刺す。左の額からは、あの佐藤との戦いで失ったツノの重みが消え、欠落した部分がズキズキと鈍く疼いていた。


 不意に、視界の端で何かが動いた。厚い強化ガラスの向こう側。そこには、数人の研究員たちが立ち並び、表情のない顔でこちらを凝視していた。彼らの視線は小春という一人の少女を見てはいない。手元のモニターに映し出される波形や、数値の羅列を見ているのだ。


 「被検体、意識の回復を確認」

 「バイタル、安定。エネルギー放射、依然として未検出。」


 スピーカー越しに聞こえる声は、まるで壊れた機械の部品を点検するかのように冷ややかだった。彼らにとって、小春の力は解明すべき「未知のエネルギー」や「特異な生体反応」という、記号的なデータでしかなかった。ガラスに隔てられた彼らにとって、小春はもう一人の人間ではなく、ただの観察対象に過ぎない。


 (……私は、どうなるの? ずっと、このまま……?)


 かつて「魔王」として世界を塗り替えようとした万能感は、粉々に砕け散っていた。あるのは、逃げ場のない痛みと、自分を物のように扱う冷たい視線への底知れない恐怖。そして、もうどこにも戻れないという、冷徹なまでの絶望だった。

 小春の瞳から、一筋の涙が耳元へと流れていく。




 暫くして、白い天井の一部が機械音を立ててスライドし、四角い穴が開いた。そこからワイヤーに吊るされた簡易的なテーブルが、小春のベッドのすぐ脇へと音もなく下りてくる。載せられていたのは、プラスチックの容器に入った鮭の塩焼きと、具のない味噌汁、そして冷え切った白米だった。


 (……ごはん……?)


 小春は震える腕を動かそうとした。全身を走る「痛み」が鋭い牙を剥いて神経を焼き、指先がわずかに痙攣する。脂汗を流しながらようやく割り箸を手に取り、鮭の身を一口だけ口に運んだ。


 「……つめたい」


 鮭は石のように硬く、味噌汁からは湯気一つ上がっていない。冷蔵庫から出したばかりのような冷たさが、弱り切った小春の胃を重く沈ませる。もし自分が「魔王」として君臨していたなら、こんな屈辱的な食事は一瞬で灰にしていただろう。


 (温めなきゃ。……火を、出して……)


 小春は目を閉じ、自身の奥底にあるはずの「魔力」を探した。しかし、かつては無尽蔵に溢れていたあの熱いエネルギーは、砂漠の底で干からびた水溜まりのように、どこを掘っても見当たらない。魔力が枯渇している。全身の火傷が熱を奪い、翼を焼かれた衝撃が力の根源を破壊してしまったかのようだった。


 (出てよ……お願い……!)


 小春は歯を食いしばり、残された全神経を右手の指先に集中させた。火傷の跡がひきつり、激痛で意識が飛びそうになるのを、執念だけで繋ぎ止める。


 「……っ……ぁ……!」


 数分におよぶ格闘の末。パチリ、と静電気のような小さな音がした。小春の人差し指の先に、マッチの火よりも頼りない、今にも消えそうな豆粒ほどの小さな「火」が灯った。

 その瞬間、強化ガラスの向こう側で静まり返っていた研究員たちが、弾かれたように身を乗り出した。


 「なっ……!? 今、何が起きた!?」

 「エネルギー反応を確認! 装置との接続なしに、指先から直接熱源が発生しています!」

 「数値が、物理法則を無視して急上昇しているぞ!」


 モニターを見つめていた男たちが、顔色を変えて叫び合う。彼らにとって、それは単に食料を温めるための「火」ではなかった。科学では説明のつかない、未知の現象が目の前で具現化した瞬間だった。


 小春は、指先の小さな熱を見つめながら、荒い息をついた。たったこれだけのことに、すべての力を使い果たし、指先が力なくシーツに落ちる。火はすぐに消えたが、研究員たちの驚愕に満ちた視線は、もはや彼女を「静かな検体」としては見ていなかった。


 (……これだけ。今の私では、これっぽっちしか……)


 冷え切った鮭の味は、最後まで分からないままだった。小春は深い疲労の中で、再び重い闇へと引きずり込まれていった。




 この白い実験室に運び込まれてから、一週間が過ぎた。


 地獄のような熱を孕んでいた全身の火傷は、徐々にその猛威を潜めつつある。赤黒く腫れ上がっていた皮膚は、ひび割れた大地が潤いを取り戻すかのように、少しずつ落ち着きを見せていた。身体の内側から、説明のつかない奇妙な活力が静かに湧き上がり、損壊した細胞を無理やり繋ぎ合わせているような感覚だ。

 だが、肉体の快復に反比例するように、小春の心は暗く沈んでいた。




 ある日の午後、強化ガラスの向こう側に二人の人影が現れた。小春の父と、母だった。


 「小春……! ああ、なんて姿に……」


 母がガラスにすがりつくようにして、声を震わせる。包帯すら巻かれず、火傷の跡が剥き出しになった娘の身体。穴だらけの翼と、根元から失われた左のツノ。その痛々しい姿を見て、両親はただ懸命に容体を案じ、無事を祈る言葉をかけ続けた。

 しかし、母は堪えきれなくなったように、溢れる涙を拭いながらこう漏らした。


 「小春……。身体にそんな異変が起きて、一人でずっと悩んでたんでしょう? どうして相談してくれなかったの。……お母さんたちに、話してくれたら良かったのに……」


 母の泣き声がスピーカー越しに響く。その無垢な優しさが、今の小春にはどんな攻撃よりも鋭く胸に突き刺さった。


 (……無理だよ、お母さん。言えるわけないよ……)


 魔王としての全能感に酔いしれていた自分。両親に向かって「――お父さん、お母さん。今日からこの家のルールは私が決める。……いい? 返事は『はい、魔王様』よ」などと傲慢に言い放った、あの狂乱の夜。思い出すだけで、火傷とは別の熱が全身を駆け巡り、身悶えしたくなる。あんなにも身勝手で尊大な言葉をぶつけた相手に、今さら目を開けて「痛いよ、お母さん」なんて縋れるはずがない。自分の犯した過ちの重さと、底知れない羞恥心が、彼女の瞼を鉄のように重くさせていた。

 両親への申し訳なさと、己の醜態への嫌悪。その板挟みになった小春ができる精一杯の抵抗は、「意識が回復していないふり」を貫くことだけだった。


 「……小春? 聞こえてるの……?」


 母の切実な呼びかけにも、小春は微動だにせず、ただ規則正しいバイタルモニターの音に身を任せ続けた。ガラスの向こうで泣き続ける母と、黙ってそれを見守る父。

 小春は、快復しつつあるその身体の中で、二人の声を聞きながら、己の愚かさと情けなさにただじっと耐えていた。




 それから数週間。動くたびに走っていた激痛は、今では嫌な鈍痛へと変わり、小春はベッドの上で上体を起こせるまでになっていた。

 そんなある日、強化ガラスの向こう側に、見慣れないデザインの制服を着た2人組の姿が現れた。小春が「魔王」として暴れた際、通っていた中学校を破壊してしまったため、近隣の学校へ転校を余儀なくされたテニス部の後輩たち――早坂香奈と望月麗夏だ。


 (……えっ、麗夏? 香奈……!? なんで、あんたたちがこんな場所に……)


 まさか、世界を敵に回した自分に会いに来てくれる者がいるなんて思ってもみなかった。小春は目を丸くし、呆然と二人を見つめた。


 「麗夏と香奈か……。あの子たちにも、酷いことをした」

 掠れた声でそう呟くと、小春の脳裏に、あの頃の日々が鮮明に蘇ってきた。




 放課後のテニスコート。西日が差し込む中、小春の怒声が響いていた。


 「ちょっと麗夏! 何その鈍臭いフットワーク! 守備範囲が狭すぎて話にならないわよ。やる気ないなら、さっさとコートから出てって!」

 「す、すみません、小春先輩っ!」


 必死にボールを追いかけるものの、ラケットの面が合わず、麗夏は派手に転倒する。隣のコートでは、香奈がサーブをネットに直撃させていた。


 「香奈も! 肘が下がってるって何度言えばわかるの? そのフォームじゃ、一生相手のコートにボールは入らないわよ!」

 「ひえぇ……ごめんなさい、せんぱいぃ……!」

 「謝る暇があるなら、今のボールの回転を頭に叩き込みなさいよ!」


 小春は苛立ちを隠そうともせず、手元にあったボールを無造作に放り上げると、流れるような動作でラケットを振り抜いた。パコォォン! と乾いた衝撃音がコートに鳴り響く。放たれたボールは、香奈の足元、ベースライン際で鋭く弾むと、そのまま目にも止まらぬ速さでフェンスに直撃した。


 「わ、わわわ……。やっぱりせんぱいの打球、重すぎますぅ……」

 香奈は呆然とそれを見送ることしかできない。


 「……ねえ、麗夏。あんた、さっきから私のフォーム見てた?」 小春は麗夏を鋭く睨みつけた。


 「は、はい! 見てました!」

 「嘘ね。見てたなら、あんな無様なステップになるはずがないわ。私が教えてるのはテニスなの。お遊戯のダンスじゃないんだから、もっと地面を強く蹴りなさい!」


 「はいっ! 地面を蹴る……ですね! 頑張ります!」


 転んで泥だらけになった膝を叩き、麗夏は必死に食らいつく。小春はその様子に鼻を鳴らしながらも、心の中では毒づいていた。


 (どうしてこの子たちは、教えたことがこんなにできないの? 面倒くさい……。私一人で練習したほうが、よっぽど効率的だわ)


 小春は、自分と同じレベルをこなせない後輩たちが、もどかしくて仕方がなかった。彼女の打球は正確無比で、鋭い鋭角ショットは誰も追いつけない。その実力は誰もが認める圧倒的なものだったが、指導は苛烈を極めていた。


 「木崎、ちょっと来なさい」三年生の部長が厳しい表情で小春を呼び出した。


 「あんたの技術は認めるけど、あの態度は何? 後輩たちが怖がってるわ。もっと優しく、丁寧に指導してあげてって、何度も言ってるでしょ」


 部長の言葉に、小春はフンと鼻を鳴らした。(優しく? 丁寧に? ……どうして私が、あんなレベルの低い連中に合わせなきゃいけないの?)

 「才能がないなら努力で補うしかないじゃないですか。私は、勝つためにやってるんです」


 背中を向けて立ち去る小春を、麗夏と香奈は涙目で、それでいてどこか熱い眼差しで見つめていた。




 小春は現実の白い部屋に視線を戻した。目の前の二人は、新しい学校の制服を着ている。自分が壊した日常の象徴だ。


 「小春先輩! お久しぶりです……!」 麗夏が強化ガラスにそっと手を触れ、潤んだ瞳で小春を見つめた。

 「ずっと、ずっと心配してたんです。ニュースで先輩があんなことになって……どこに連れて行かれたのか、先生も誰も教えてくれなくて……」

 「せんぱ~い! お久しぶりですぅ! また会えて本当に、本当に嬉しいですぅ……!」香奈も麗夏の隣でぴょんぴょんと跳ねながら、溢れそうな涙を袖で拭った。


 (……「お久しぶり」か。よくそんな言葉が出てくるわ。私はあんたたちの日常をめちゃくちゃにした張本人なのに……)


 小春は二人の制服の胸元にある、見覚えのない校章に視線を落とし、自責の念を隠すように鼻先で笑った。


 「……元気そうね、二人とも。新しい学校はどう? テニス部は? 私がいなくなって、のびのびやってるんじゃないの」


 「そんなことないです! 先輩がいないと、全然締まらなくて……」麗夏が言いかけるのを遮るように、香奈がガラスを叩かんばかりの勢いで身を乗り出した。

 「何言ってるんですかぁ! テレビに映ってたせんぱい、本当にかっこよかったですぅ!」 突然、香奈がガラスを叩かんばかりの勢いで声を上げた。

 「特にあのセリフ!『――今日からはただ「魔王」と呼びなさい』……う~ん! しびれるぅ!! さすがせんぱい、スケールが違いすぎますぅ!」


 「……やめてよ」小春は力なく首を振った。

 「かっこいいわけないじゃない。世界を支配するとか言って、結局何も壊せなかった。それどころか、ただの一人の人間に負けて、こんなところでチューブに繋がれて……。私は、魔王でも何でもない。ただの、何もできない弱虫」


 自分の無力さが、骨の髄まで染み渡っている。あんなに威勢のいいことを言っておきながら、自分は誰も、何も変えられなかった。


 「まさかそんなお姿をされていたなんて、最初はビックリしちゃいましたけど。でも、やっぱり小春先輩は特別なんだって納得しちゃいました」麗夏が、穴だらけの翼を見つめながら、穏やかに笑う。


 「……でも、今の私はボロボロ。……もう、何も残ってない」

 「そんなことないです! ……でも、その……ツノや翼も、私たちの怪我と同じで自然治癒するんですか?」


 麗夏の問いに、小春は自嘲気味に吐き捨てた。

 「そんなの知らないわよ。事例なんて他にないんだし。治ったところで、どうせもう飛べもしないわ……」

 「……わかりました。私が調べてみます!」麗夏は力強く頷いた。


 小春は期待しないで待つことにした。だが、閉ざされた意識の奥底で、小春の思考は冷徹に回り始めていた。


 (……そう。あんたたちは、まだ私を「先輩」だと思ってる。このボロボロの姿になっても、まだ私を求めてる……)


 自分の無力さを突きつけられるだけのこの白い監獄で、外の世界と繋がっている数少ない「手足」。利用できるものは、たとえかつての後輩であろうと、その純粋な憧れであろうと、すべて使い倒してやる。


 小春の凍りついた心に灯ったのは、温かな希望などではなかった。それは、彼女たちを足がかりにして再び這い上がり、この世界に復讐を遂げるための、どす黒く、昏い野心の火だった。


 (……いいわ。精々、私のために働きなさい。いつか私がここを出て、再び世界を蹂躙するための「駒」として)




 面会を終えた麗夏と香奈が、重い金属音を立てて閉まる実験室の扉を背にした時だった。無機質な白い廊下の向こうから、一人の少年が歩いてくるのが見えた。

 すれ違いざま、三人の足が止まり、視線がぶつかる。


 「あ……!」

 「えっ、まさか……」


 麗夏と香奈は息を呑んだ。煤汚れは落ち、腕には真新しいガーゼが貼られているが、その眼差しと、テレビの画面越しに何度も見たあの姿。間違いなかった。佐藤だ。ただ、画面の中のジャージ姿とは違い、今は清潔感のある白のVネックTシャツにネイビーのYシャツをさらりと羽織り、どこにでもいる少し大人びた少年の装いでそこに立っていた。


 「……君たちは?」驚きに目を見開く二人を見て、佐藤が足を止め、不思議そうに問いかけた。


 「あ、あの! あなたは……小春先輩に、勝った……」香奈が興奮と緊張を抑えきれずに口にすると、佐藤は少し困ったように眉を下げた。

 「勝った、なんて……。俺はただ、彼女を止めたかっただけだよ。君たちは、小春の知り合い?」


 「はい。私は望月麗夏、こっちは親友の早坂香奈です。私たちは小春先輩の一年下の、テニス部の後輩なんです」

 「後輩……。そっか、小春に後輩がいたんだ」


 麗夏は、実験室の扉を振り返り、悲しげに瞳を揺らした。

 「……先輩に会ってきたんですけど、すごくボロボロで。……あんなに強くてかっこよかった先輩が、こんな姿になっちゃうなんて……」


 麗夏の言葉に宿る、純粋な憧憬(しょうけい)と悲しみ。それを聞き、佐藤は一瞬、顔を険しく歪めた。二人がどれほど小春を慕っていたかを悟り、沈痛な面持ちで口を開いた。


 「……そうか。君たちはあいつを慕っていたんだな。だとしたら、俺は君たちが尊敬している先輩を、あんな無残な姿にした張本人だ。ツノを折り、翼を焼き……二度と空を飛べない身体にした。……俺のことが、憎くないのか?」


 その問いは、自分自身を責める刃のようだった。しかし、麗夏は逸らすことなく佐藤の目を見つめ返し、静かに、けれど毅然とした声で答えた。


 「……先輩を止めなかったら、世界が壊れていたと思います。あんなに悲しい顔をして暴れる先輩を止めるには、きっと、そうするしかなかった。……だから、仕方ないことだったんだと、私は思っています」


 麗夏の言葉に、佐藤はふっと、憑き物が落ちたように肩の力を抜いた。


 「……そうか。ありがとう。改めて自己紹介をさせてくれ。俺は佐藤 逞。小春と同じクラスの友達だ」

 「友達……。そうだったんですか」麗夏は意外そうに目を瞬かせ、それから絞り出すように言った。


 「正直、驚きました。学校での先輩はいつも厳しくて、誰とも関わろうとしない孤高の人だと思ってたから……。まさか、あんな大きな秘密をたった一人で抱えて、ずっと悩んでいたなんて。小春先輩、かわいそう……」


 「私たち、さっき会ったらせんぱいがすごく元気なくて……見てるのが辛かったのですぅ。あんなに堂々と『魔王』って名乗ってたのに、今はもう、ボロボロで……ぐすん」香奈が涙目になりながら付け加えると、廊下に沈黙が流れた。


 あの日、友として彼女を止めた佐藤と、憧れの先輩を追い続けてきた後輩たち。立ち位置は違えど、三人の胸にあるのは、閉じ込められた「木崎小春」という一人の少女への、やり場のない想いだった。


 「……小春は今、自分を責めてるんだと思う。でも、あいつは一人じゃない」佐藤が、自分に言い聞かせるように言った。

 「俺たちで、小春の力になろう。今は何もできないかもしれないけど……あきらめないで、あいつを支えていかないか」


 麗夏と香奈は、顔を見合わせて力強く頷いた。

 「はい! 私たちにできること、探してみます!」


 厳重な警備に守られた冷たい廊下で、小さな、けれど確かな約束が交わされた。




 麗夏たちが去った後、入れ替わるように佐藤が部屋へ入ってきた。 その姿を見た瞬間、小春の胸の奥に、ある種の「確信」が生まれた。


 (……来たわね、佐藤。あんたなら、必ず来ると思ってた)小春はわざと顔を背け、脆く傷ついた少女を演じるように、不機嫌そうな声を絞り出した。


 「……何よ。私の弱り切った姿を拝みに来たわけ?」

 「小春……」


 佐藤がベッドの傍らに歩み寄る。その同情に満ちた視線を、小春は「利用すべき獲物の目」として冷静に分析していた。彼女は、包帯も巻かれず剥き出しになった腕や、シーツの上に横たわる穴だらけの翼を、あえて佐藤の方へと突き出した。


 「見てよ。あんたのせいで、私の身体はこんなボロボロ。ツノは片方折れて、翼は虫食いみたいに穴だらけ。そしてこの焼けただれた皮膚……。ねえ、佐藤。年頃の女の子が、一生消えないかもしれないこんな傷を全身に刻まれた時の気持ち、考えたことある?」


 その言葉は鋭い棘となって佐藤を刺した。彼は言葉を失い、自責の念に駆られたように拳を握りしめた。


 「……ごめん。でも、あの時ああしなかったら、俺はやられると思ったんだ。それくらい、あの時の君は本気だった」

 「当たり前でしょ。私は魔王だもん」


 小春は自嘲気味に鼻を鳴らした。内心では、彼の罪悪感が深まれば深まるほど都合が良いと考えていた。


 (そうよ、もっと悔いなさい。私をこんな姿にした責任を、その身に刻み込みなさい。……でも、あんたを殺すつもりはないから)


 小春の願いは身勝手だった。世界を壊したいという衝動は本物だが、自分を「魔王」ではなく「友達」として扱い、今もこうして会いに来るこのお人好しの少年だけは、壊したくなかった。

 彼女は無惨な翼をなでるように触れ、静かに続けた。


 「……でも、いいわ。私はこの姿を、世界中の人間たちに晒して見せた。魔王として暴れ回る姿も、敗北して引きずられていく姿も、もう全部、みんな知ってる。今さら隠す必要なんて、どこにもない。私はこの『怪物』の姿のまま、あんたたち人間に思い知らせてやるんだから」


 「小春……。俺は、君がまた普通の女の子に戻れるように……」

 「普通? 冗談言わないで」小春は佐藤を睨みつけた。


 「このツノがあって、この翼がある時点で、私はもう普通じゃない。でもね、佐藤……あんただけは、この姿を見ても逃げなかった。……そこだけは、認めてあげてもいいわ」


 小春の言葉に、佐藤は少しだけ寂しそうに微笑んだ。

 「……認めてもらえるまで、何度でも来るよ。君がこの部屋を出て、また笑えるようになるまで。……友達だからな」

 「勝手にすれば? 暇人ね、あんた」


 「友達」という言葉を耳にした瞬間、小春はさらに顔を背けた。


(……ええ、何度でも来なさい、佐藤。あんたのその真っ直ぐな善意も、『友達』なんて呼んで私を繋ぎ止めようとするその愚かさも……すべて逃さず束ねて、いつかこの世界を真っ黒に塗り潰すための燃料にしてやるわ)


 バイタルモニターの無機質な音だけが響く中、小春は初めて、佐藤の目をじっと見つめ返した。




 佐藤が去った後の部屋は、再び血の通わない静寂に包まれた。だが、その静寂を切り裂くように、無機質な電子ロックの解除音が響く。


 入ってきたのは、数人の白衣を着た男たちだった。彼らの目には、小春を案ずる色など微塵もない。ただ、新種の昆虫の羽をむしり取るような、冷酷な好奇心だけがぎらついていた。


 「さて、木崎小春。今日の検査を始めようか」リーダー格の男が、手元のタブレットを操作しながら無造作に言い放つ。

 「あの日、指先から出した稲妻。あれをもう一度ここで再現してほしい。出力、電圧、そして体内のエネルギー伝達経路……すべてを記録する必要がある」


 小春はベッドの上で、彼らを射殺さんばかりの目で見つめた。


 「……断るわ。私はあんたたちの見せ物じゃない。ましてや、実験動物でもない」

 「聞き分けのない子だ。君には拒否権などないと言ったはずだよ。君の身体は、今や国家の貴重な研究資源なんだからね」


 研究員の一人が、小春の痛々しい翼を乱暴に掴み、広げようとした。小春はその手を振り払い、男の胸ぐらを掴みかける。


 「触らないで! その汚い手で、私に触るな!!」


 「威勢がいいのは結構だが、身の程を知れ」男は冷淡に呟くと、小春の髪を乱暴に掴み上げ、無理やり顔を上向かせた。


 「――っ! 痛い……離してよ……!」頭皮を引きちぎるような痛みに小春は顔を歪める。だが、男は嘲笑うようにさらに力を込めた。


 「さあ、やってもらおうか。それとも、もっと手荒に扱われたいか?」研究員たちは、ベッドに押さえつけられた小春を囲み、冷笑を浮かべて見下ろしている。小春は怒りに震える右手を持ち上げ、指先を目の前の男の眉間に向けて突き出した。


 (……電撃よ、貫け。……感電して死んで……お願い!!)


 彼女の瞳に、昏い復讐の光が宿る。男は一瞬、怯えたように身を引いた。いよいよ、あの世界を震撼させた破壊の雷が放たれるのかと、期待と恐怖が混じった表情で小春の指先を注視する。

 だが、放たれたのはかつてのような電撃ではなかった。


 パチッ……! バチバチッ!!


 小春の指先から、青白い小さな電気が弱々しく火花を散らした。男めがけて放ったはずのその一撃は、しかし無常にも狙いを外し、男が手に持っていたタブレットに命中した。激しい放電音と共に、液晶画面が火花を上げて暗転する。

 男は焦げた臭いを立てるタブレットを見て、顔を真っ赤にして激怒した。


 「貴様……! 今日の貴重な入力データが消えたじゃないか! なんてことをしてくれるんだ!」


 男は焦げたタブレットを握りしめたまま、八つ当たりするように小春が横たわっているベッドのフレームを力任せに蹴りつけた。 ガンッ、という鈍い金属音が室内に響き、小春の身体が衝撃で跳ねる。男はなおも収まらない怒りをぶつけるように、小春を激しく怒鳴りつけた。

 だが、リーダー格の男がそれを制し、すぐさま横の研究員に指示を飛ばした。


 「待て、データのバックアップは無事か? クラウドへの同期状況を確認しろ」

 「はい、直近の血圧とバイタルデータはサーバーに残っていますが……詳細な波形データは一部損失した可能性があります。端末を解析に回します」


 研究員たちは、ベッドを蹴られて痛みに顔をしかめる小春のことなど気にも留めず、機材の被害状況を機械的に確認し始めた。


 「……ふん、せいぜい慌てればいいわ。次はあんたの心臓を直接、焼き切ってあげる……」


 小春は痛みに耐えながら、低く笑った。狙ったほどの破壊力には程遠い「火花」に過ぎなかったが、それでも自分の意志で電気を放ち、電子機器を狂わせてみせた。

 かつて世界を絶望させた雷撃の片鱗。それは、この絶望的な檻の中で掴み取った、反撃のための小さな、けれど確かな手応えだった。




 数日後の深夜、小春は一人、硬いベッドの上に横たわっていた。小春は仰向けに寝たまま、指先に全神経を集中させた。 集中を極限まで高め、体内の奥深くに(おり)のように溜まった魔力を、細い針を通すように指先へと集めていく。


 パチッ……


 暗闇の中で、小さな、けれど鋭い青白い閃光が弾けた。先日よりも明らかに、放電の制御が正確になっている。あの時は狙いを外してタブレットに当ててしまったが、今は指先の感覚が、かつて魔王として世界を脅かしていた頃の記憶を、少しずつ、確実に呼び覚ましていた。


 (……少しずつ、戻ってきている。まだ蚊を殺す程度の威力しかないけれど、着実に魔法の導管が開き始めている)


 小春は歪んだ笑みを浮かべ、それから自分の醜く変貌した翼を見つめた。


 『――小春……。俺は、君がまた普通の女の子に戻れるように……』


 (普通? 笑わせないでよ。私をこんな無様な姿に変えておきながら、また私に『普通』を突きつけてくるなんて。あんたの言う『普通』は、私にとっては死よりも残酷な侮辱なの)


 そして、自分を化物として閉じ込め、データの塊としてしか見ないこの世界。小春の心にあるのは、純粋な破壊衝動に近い復讐心だった。

 小春は、自分を「友達」と呼ぶ佐藤の顔や、自分を「先輩」と呼んで慕う後輩たちの顔を思い浮かべた。


 (佐藤のあの甘っちょろい善意……。そして、あの従順な後輩たちの憧れ。……人間なんて、感情という不確かなものに突き動かされる、本当に頭の悪い生き物。……特に私に情を抱いているような連中なんて、少し『可哀想な女の子』を演じてやれば、簡単に手足になってくれるはず)


 剥き出しの憎悪を「孤独」という仮面の下に隠し、彼女は再び、深い眠りにつくふりをした。




 さらに数日後、麗夏と香奈が再び面会にやってきた。 二人は何やら分厚い図鑑やノートを抱え、以前よりも少しだけ晴れやかな表情をしていた。


 「せんぱ~い! 調べてきましたですよぉ!」


 香奈が鼻息荒く、一冊の図鑑を開いて小春の目の前に差し出した。

 「見てくださぁ~い! 私たち、廃校になった校舎の図書室に忍び込んで調べてみたんですぅ。……コウモリの生態について!」


 小春は呆れたように眉を寄せ、穴の開いた自分の翼を指差した。

 「……誰がコウモリよ。失礼ね、私は悪魔なの、悪魔」

 「だってぇ、そっくりじゃないですかぁ。その翼の、色も形もですよぉ!」

 香奈がケラケラと笑いながら言う。


 (……悪魔……)


 小春はふと、自分のアイデンティティの根拠を突きつけられたような気がした。悪魔のような姿をしているという理由だけで、自分は悪魔だと勝手に思い込んでいたことに気付いたのだ。


 (もし、私がただの『翼の生えた人間』だとしたら……。私は何のために……。いいえ、そんなことは関係ないわ。私は悪魔だから世界を壊そうとしたんじゃない。私に『普通』を突きつけてくる、この反吐が出るような世界が嫌いだったからよ)


 そんな小春の内心の毒づきに気づくはずもなく、麗夏が得意げにノートを広げた。


 「先輩、これ見てください。図鑑によると、コウモリの翼……この『飛膜』っていう部分は、驚異の自己治癒力を持ってるらしいんです。小さな穴くらいなら、すぐに塞がることもあるって!」

 「そうですよぉ! だからぁ、栄養の高いものをたくさん食べていたらぁ、その翼も元通りに治るんじゃないですかぁ?」香奈が能天気な提案を重ねる。


 「……そんな都合の良いものかしら。魔法で焼けた傷なのよ」

 小春は冷たく突き放したが、それ以上に理解できなかったのは、彼女たちの行動そのものだった。


 「……ねえ。一つ聞いていい? 私は学校では、あんたたちに散々きつく当たってきた。テニスの練習では一分の妥協も許さず、挙句の果てには、あんたたちの住む世界まで壊そうとした。……それなのに、なんでそんなに私に尽くすの?」


 あまりに愚かだ。だが、麗夏は迷うことなく微笑んだ。


 「だって、先輩は先輩ですから」

 「そうですよぉ! せんぱいがいないとぉ、私たち張り合いがないんですからぁ!」


 二人の真っ直ぐな言葉に、小春は胸の奥を掻き乱されるような感覚を覚えた。そして、自嘲気味に言葉を繋ぐ。


 「……バカね、あんたたち。今の私を見て。ツノは折れ、翼はこの有様。そして全身火傷の跡……こんな姿になった私は、もうテニスだってできない。……きっと今は、私なんかよりあんたたちの方がずっと上手なんでしょうね。あんなに偉そうにしてきた私が、今や後輩のあんたたちより下手だなんて……本当に惨めよね」


 小春の言葉には、失った力への執着と、ボロボロになった自尊心が滲んでいた。だが、香奈は「はわわっ」と慌てて手を振った。


 「そんなことないですよぉ! せんぱいのサーブ、今でもめちゃくちゃ憧れてるんですからぁ!」

 「そうです。今でも先輩目指して努力してるんです。これからも指導してください!」


 小春は言葉を失った。人間は本当に頭の悪い生き物だ。自分を絶望させた相手の復活を信じ、その時のために努力までしている。利用してやろう、駒にしてやろうと心の中で嘲笑っている自分を、彼女たちはどこまでも「先輩」という光で見ようとしてくる。


 「……ふん。勝手にしなさい。……で、その『栄養の高いもの』って、具体的に何よ」


 「はわわ! それですよぉ! 麗夏ちゃんと相談してぇ、やっぱり『レバニラ』しかないって結論になったんですぅ! 鉄分とビタミンがドバドバでぇ、翼の皮も一気にブワッて治るはずですよぉ!」


 「……レバニラ? 匂いがきつそうだし、この部屋に持ち込んだら研究員に怒られるって」


 「大丈夫ですよぉ、こっそり差し入れ作戦を決行しますからぁ! せんぱい、元気100倍ですよぉ!」


 「根拠がないわね、本当に……」小春はわざとらしく溜息をつき、顔を背けた。




 それから毎日、二人はレバニラを小春のもとへ届け続けた。「毎日同じものを食べさせ続けることで、被検体の生体反応に特異な変化が見られるかもしれませんよぉ」と香奈が適当なデタラメを並べて施設の許可を取り、研究員たちも「データが取れるなら」と、彼女たちが毎日実験室へ立ち入ることを渋々認めたのだ。


 「……また、これなの?」小春は心底うんざりした表情で、差し出された割り箸を口元に寄せた。部屋中に広がるニラとレバーの濃い匂い。研究員たちが眉をひそめて強化ガラスの向こうで鼻を鳴らしているのが、今の小春には手に取るようにわかった。


 「はわわ! せんぱい、残しちゃダメですよぉ! 毎日しっかり食べてぇ、翼をシャキーンって治すんですぅ! 美味しいですかぁ? ほっぺた落ちちゃいますかぁ?」香奈が期待に満ちた目で小春を覗き込む。

 小春は無言でレバーを口に運んだ。 正直、味などどうでもよかった。だが、毎日毎日レバニラ。さすがの悪魔も胃が悲鳴を上げ始めている。


 「………………げふっ」


 咀嚼し終えた瞬間、こらえきれずに深いゲップが漏れた。自分のみっともない音に、小春は耳まで赤くして口元を押さえる。

 その様子を見ていた白衣の研究員は、感情の欠片もない動作でタブレットを操作した。


 「……被検体、特異な食事摂取後の排気現象を確認。消化器官の活性化に伴う反応か。代謝スピードの関連性を要調査……」


 小春が黙々とレバニラを胃に流し込んでいる最中、麗夏が意を決したように強化ガラスの向こう側に回り込み、研究員の男の元へ歩み寄った。


 「……あの、すみません。一つ聞かせてください」麗夏の声は震えていた。

 「先輩……木崎小春はこの後、どうなるんですか? また学校に戻れるんですか? 彼女はまだ、私たちと同じ学生なんです。更生する機会だって、あるはずですよね?」


 研究員はタブレットから目を離さず、鼻で笑った。


 「更生? 冗談はやめてくれ」男は冷淡な声をスピーカー越しに響かせる。


 「本来なら、彼女の年齢は少年法に守られるべきものだ。だが、この被検体が焼き尽くした街の数、奪った人命の数は、子供の過ちという範疇(はんちゅう)を遥かに超えている。国際法に照らしても、彼女はもはや人間ではない」


 麗夏が息を呑む。小春の箸が止まった。


 「政府は決定したよ。木崎小春を『国家の安寧(あんねい)を脅かす特異災害』として指定した。彼女は一生、この部屋で管理され、データの抽出に使われる。ここから出ることは二度とない。……君たちも、何か彼女の過去について知っている特異な情報があるなら、我々に提供してくれ。それが、この被検体の価値を上げる唯一の方法だ」


 「……二度と、出られない……?」


 麗夏は呆然と立ち尽くし、その場に崩れ落ちそうになった。

 「はわわ……そんなの、そんなのあんまりですよぉ……!」香奈の声も、湿った悲鳴に変わった。


 小春は、レバニラを見つめたまま、動かなかった。分かっていたことだ。自分が何をしたか。世界に何を突きつけたか。けれど、後輩たちの前で突きつけられた「一生、ここから出られない」という宣告は、冷たい氷水となって彼女の背筋を駆け抜けた。


 (……永久に、管理……? この私が、男たちの玩具として、この狭い箱の中で朽ち果てると言うの……?)


 小春の手の中で、割り箸がみしりと音を立てた。 復讐の炎が、消えかかっていた灰の中から、かつてないほど激しく爆発しようとしていた。


 (いいわ……やってみなさいよ。……この『特異災害』が、あんたたちの箱を内側から焼き尽くす日が、すぐそこまで来ていることを教えてあげるわ)


 小春は、レバニラの最後の一切れを飲み込んだ。




 その翌日。実験室のベッドに横たわる小春は、ぼんやりと天井を見上げていた。身体に繋がれた無数のチューブも、監視カメラの赤い光も、今はもう気にならない。彼女の意識は、すでに部屋の白い壁を乗り越え、遥か彼方の復讐劇を繰り広げていた。


 (……電撃を放出して、この施設の全設備をショートさせて脱出……それから、まずは香奈の家に転がり込んで力を蓄える……。いや、いっそのこと、炎でこの箱ごと爆破しちゃう?)小春の瞳に、昏い殺意が宿った。


 無意識のうちに、小春の思考の昂ぶりと呼応するように魔力が漏れ出す。一本しかないツノの付け根が、チリッと音を立てて青白い火花を散らした。かつての魔王の頃に比べればあまりに弱々しい帯電。しかし、それは人一人をショック死させるには十分な威力を秘めていた。


 この実験室の設備には、魔力そのものを察知する高尚な機能など備わっていないはず。だが、あまりに敏感すぎた管理システムが、小春のツノに帯電している微かな電圧の変化を見逃さなかった。


 ピィィィィィィィ――!!!


 無機質な警報音が室内に鳴り響き、施設のモニターには赤字で異常数値が踊る。強化ガラスの向こう側で、リーダー格の研究員が目を見開いた。


 「……何だと? 電圧の急上昇? 被検体の頭部付近で放電反応を確認!」


 研究員の男が慌ててマイクを掴み、小春に叫んだ。


 「木崎小春! 何を企んでいる!」


 小春は静かに、けれど不敵な笑みを浮かべた。露見してしまったのなら、もう隠し通す理由はない。


 「……バレちゃったら、しょうがないよね」


 その瞬間、小春は右手を大きく広げた。 手のひらの中心に、マグマのように煮え滾る真っ赤な火球が姿を現す。それは凄まじい熱量を放ちながら、一瞬で人の頭ほどにまで膨れ上がった。


 「さようなら。……私の大嫌いな、頭の悪い人間たち」


 小春は無慈悲に、その真っ赤な火球を解き放った。 火炎は、強化ガラスをドロドロに融解させながら貫き、爆風を伴って制御室へと殺到する。


 ドォォォォォン!!!


 轟音と共に、真っ赤な炎が全てを飲み込んだ。 コンクリートの壁は焼け焦げて崩れ落ち、一瞬の光の中で研究員たちは悲鳴を上げる暇もなく、炎に巻かれて全滅した。瓦礫と化した制御室から、白い煙がもくもくと立ち上る。その中心で、小春は身体にまとわりつく無数のチューブを引きちぎり、ゆっくりとベッドから降り立った。


 (……やっと、終わったわ。第一段階はね)


 折れたツノと穴だらけの翼。しかし、その瞳にはかつて世界を絶望させた魔王の光が宿っていた。




 真っ赤な火球が全てを焼き尽くした後、小春は静まり返った施設の正面出口から、外の世界へ踏み出した。


 (……どれぐらい、あの中にいたのかな)


 あの白い檻の中には窓も時計もなかった。数ヶ月だったのか、それとも数年が過ぎたのか。小春には時間の感覚が完全に欠落していた。ただ、肌を刺すこの猛烈な冷気だけが、自分が「外」にいることを残酷なまでに実感させる。鬱蒼とした森には雪が降り積もっていた。小春の格好は、研究員たちが用意した白の下着が一枚きり。髪は手入れもされずボサボサに伸び、裸足の足先は雪に触れた瞬間から感覚を失い始めていた。


 「……っ……さむ、い……」


 思わず鼻水をすすりあげ、肩をすくめる。魔王としての威厳も、この圧倒的な自然の冷たさの前では無力だった。


 「はわわわわわっ! な、なんということですかぁー!? 昨日まであった建物がぁ、瓦礫の山になってるですよぉー!!」


 静寂を切り裂いたのは、聞き慣れた、場違いなほど高い香奈の声だった。 木々の向こうから、今日もレバニラを届けに来たのであろう香奈と麗夏が走り寄ってくる。二人は変わり果てた施設の惨状を前に、呆然と立ち尽くした。


 「先輩! これ、先輩がやったんですか!?」 麗夏が真っ青な顔で小春を見つめる。

 「はわわ……! せんぱ~い、人はもう殺しちゃダメですよぉ! めっ、ですよぉ!」 香奈が、泣きそうな顔で小春を叱るように叫んだ。


 (……私に指図しないで。……イラッとするわ)


 心の中で毒づく小春だったが、次の瞬間、込み上げてくる冷気に耐えきれなかった。


 「……っ、ハ、ハックシュン!!」盛大なクシャミと共に身体が大きく揺れる。あまりの寒さに歯の根が合わず、もはや威厳を保つ限界だった。小春は麗夏が着ている厚手のパーカーを忌々しそうに睨みつけ、震える声で命じた。


 「……麗夏。それ、よこしなさい」


 「えっ……あ、はい!」麗夏は慌てて自分のパーカーを脱ぎ、小春の肩にかけた。小春はひったくるようにして袖を通し、麗夏の体温が残る布地にくるまった。震えが少しだけ収まり、ようやく人心地がつく。


 「はわわ……でも、ここじゃすぐに見つかっちゃいますよぉ。パトカーとか来ちゃうですぅ!」

 「……わかってる」


 麗夏が、パーカーのフードを整えながら小春の目を見た。

 「誰かに見つかる前に、私の家に行きましょう。あそこなら、ひとまず隠れられますから」


 小春はフードを深く被り、顔を隠した。三人は足早に、温かい麗夏の家へ向かっていった。




 雪道を抜け、崩れたビルの瓦礫や復興途中のクレーンが立ち並ぶ街中を横目にしながら、三人は麗夏の家に辿り着いた。街のあちこちには、あの日小春が放った炎の跡が黒く残り、通り過ぎる人々は皆、怯えたような表情で寒さに肩をすくめている。

 古びた平屋の家は、外の冷気から小春を隠すように静かに佇んでいた。


 「ひとまず安心ですね」


 麗夏は居間に小春を座らせると、湯気の立つお茶と、ありあわせの茶菓子を運んできた。小春は奪い取ったパーカーに身を包んだまま、黙って菓子を口に運ぶ。長期間に及ぶ実験室での監禁生活。久しぶりに味わう砂糖の甘みが、乾いた心にじわりと染み渡った。

 だが、居間の隅に飾られた小さな仏壇と、そこに置かれた二つの遺影が目に入った瞬間、小春の手が止まった。


 「……麗夏。あそこに写ってるの、あんたの両親?」


 「……はい。あの時……亡くなりました」 麗夏は努めて明るく、けれど静かな声で答えた。

 「先輩が、あの攻撃を放った日に。……巻き込まれちゃって」


 「…………」


 小春は喉に茶菓子が詰まるような感覚に陥った。ほんの少し前、自分が「魔王」として街を焼き払ったあの日。その一撃が、自分を「先輩」と慕い、テニスコートを共に走っていたこの少女の家庭を奪った。それは「歴史」というほど遠い過去ではなく、季節が二つほど足早に通り過ぎただけの、まだ生々しい現実だった。


 「だから、せんぱい。これ以上、悲しい想いをする人を増やしちゃダメですよぉ。もう、絶対に人を殺しちゃダメですよぉ……」


 香奈が、珍しく語尾を震わせながら小春の目を見て言った。


 (……黙りなさいよ、このバカ。私に指図するなんて、何様のつもり?)

 小春は、黙って茶菓子を口に放り込んだ。




 その夜、香奈は「明日もまた来るですからぁ!」と手を振りながら自分の家へと帰っていった。家には、小春と麗夏の二人だけが残された。


 「先輩、そのままだと傷口にバイ菌が入っちゃいます。手当てしますね」麗夏は救急箱を取り出し、小春の身体に残る火傷の痕や擦り傷を、丁寧に消毒していく。小春はそれを、当然の権利であるかのように不遜な態度で受け入れていた。


 「……あいたっ。もっと優しくしなさいよ、この鈍臭い後輩」

 「すみません、先輩。……それから、髪もボサボサですね。少し切りましょうか?」


 麗夏の家のお風呂を借り、汚れを落とした後、小春は居間で椅子に座った。麗夏は手慣れた手つきで鋏を動かし、実験施設で伸び放題になっていた小春の髪を整えていく。チョキ、チョキと、静かな部屋に鋏の音だけが響く。魔王として君臨していた頃、誰かに背中を預けるなどあり得なかった。ましてや、自分の両親を死なせた相手に、これほど慈しむように触れる人間がいるなど――。


 「……ねえ、麗夏。あんた、私のこと恨んでないの?」


 鏡に映る自分の姿を見つめながら、小春がぽつりと溢した。 麗夏は鋏を止めず、少しだけ困ったように笑った。


 「恨むとか、そういうのはよく分からないです。私にとっての木崎小春は、街を壊した魔王じゃなくて、テニスコートで誰よりもかっこよかった、私の大好きな先輩ですから。……さ、終わりましたよ。似合いますか?」


 切り揃えられた髪が、小春の肩で揺れる。 小春はふんと鼻を鳴らし、立ち上がった。


 「……まあまあね」


 世話をしてもらうのを「当たり前」として受け入れながら、小春は胸の奥のモヤモヤとした熱に気づかない振りをしていた。




 二人で食事を終え、ようやく人心地がついた頃。居間の古いテレビから流れてきた緊急ニュースの音が、その平穏を切り裂いた。


 『――続いてのニュースです。本日午後、未確認生物の研究施設で大規模な爆発が発生しました。当局の発表によると、収容されていた「特異災害指定個体」……木崎小春による復讐目的の破壊工作である可能性が極めて高いとのことです』


 画面には、無惨に崩れ落ちたあの施設の映像が映し出されていた。


 『被検体は現場から行方をくらましており、現在、警察と特殊部隊が全力で付近一帯を捜索しています。非常に危険な個体です。近隣住民の方は……』


 「……フン。よく言うわ。自分たちが私を弄んでいたことは棚に上げて、全部私のせいにするなんて」


 小春は麗夏に切り揃えてもらったばかりの髪を指先で弄りながら、鼻で笑った。 画面の中では「非常に危険」だの「全力で捜索」だのと騒ぎ立てているが、小春の心に緊張感など微塵もなかった。いざとなれば、あの施設と同じようにこの街ごと焼き尽くし、邪魔な人間を一人残らず消し去ればいいだけの話なのだ。今の自分には、その力がある。

 一方で、麗夏は冷静に、けれど険しい表情で画面を見つめていた。


 「……まずいですね。毎日、あの施設にレバニラを届けていた私たちのことは、当然把握されているはずです。ここが突き止められるのは時間の問題ですね」


 麗夏はテレビのスイッチを切ると、小春に向き直った。その瞳には、先輩を守り抜こうとする強い決意が宿っている。


 「先輩。この家にいたら、すぐに見つかってしまいます。……明日、移動しましょう」

 「移動? どこへ? この世界に、私の居場所なんてどこにもない」


 小春が投げやりに答えると、麗夏はかつて自分たちが通っていた、今は使われていないあの場所を口にした。


 「廃校になった、私たちの学校です。あそこなら、今は立ち入り禁止で誰も寄り付きません」

 「……あそこね」


 小春は窓の外を見つめた。夜の闇の中、静かに雪が降り積もっている。逃げるのも悪くない。戦って全滅させるのは容易いが、魔力はまだ完全ではない。何より、自分のために必死に策を練っているこの後輩が、どこまで私を「普通」の中に隠し通せるのか、試してみるのも一興だ。あくまで「面倒を避けるため」という体裁で、小春は麗夏の提案に乗った。


 「決まりですね。明日の早朝、暗いうちに出発しましょう。……今夜はもう、ゆっくり休んでください」

 麗夏の言葉に、小春は小さく頷いた。




 翌朝、まだ夜の気配が色濃く残る暗闇の中、小春は麗夏とともに家を出た。麗夏のコートのポケットには、護身用のナイフが深く握りしめられている。自分より遥かに強い力を持つ「魔王」を連れているというのに、それでも自分が先輩を守るのだという彼女の悲壮な決意が、小春には少しだけ可笑しく、そして奇妙に眩しく見えた。

 深い雪を漕ぎ、たどり着いた廃校の周りには、冷え切った空気が淀み、吹き抜ける寒風が雪の粉をさらさらと巻き上げては、小さな白い渦を作って消えていく。月明かりに照らされた校庭はどこまでも白く、凍てつく静寂だけが校舎を重く包み込んでいた。

 昨夜、麗夏は香奈にメールを送り、この廃校で合流するよう伝えていた。だが、まだ彼女の姿はない。静まり返った校舎に入り、二人はかつて小春が通っていた二年生の教室へと向かった。


 窓から差し込む冬の月光が、埃の積もった机を青白く照らす。小春はかつての自分の席に腰を下ろし、窓の外の雪景色を見つめた。昨夜、麗夏が傷の手当をし、髪を切り、当たり前のように自分を世話してくれた。その手の温もりが、冷え切った小春の心をわずかに解かしていた。


 「……ねえ、麗夏」小春が静かに口を開いた。その声には、いつもの傲慢な響きではなく、どこか乾いた寂寥(せきりょう)感が混じっていた。


 「私はこの力で、世界を壊したいと思ってる」


 麗夏は、息を呑んで小春の横顔を見つめた。


 「あの施設で確信したの。人間は『普通』という枠からはみ出した存在を、生きることさえ許さない。ツノがあるから。翼があるから。力が強すぎるから。……ただそれだけの理由で、私は一生、あの白い箱の中で解剖され続けるはずだった」


 小春の右側に残されたツノが、月光を浴びて鋭く光る。


 「『普通』じゃないと生きられないこの世界が、私は反吐が出るほど憎い。だから、全部壊して塗り潰してやりたい……。魔王として、この世界を私の望む形に変えてやりたい」


 剥き出しの憎悪。けれどそれは、あまりにも純粋で痛々しい叫びだった。麗夏は小春の言葉に、反論することも否定することもできなかった。自分の両親を奪った力だと分かっていても、目の前で震える小春の言葉は、あまりにも重い「絶望」に裏打ちされていたからだ。


 「……先輩」麗夏は、小春の傍らに歩み寄った。同情なんて言葉では言い表せない、共感と深い慈愛を込めた瞳で、その小さな肩を見つめる。


 「私は、先輩が世界を再び壊そうとしても……それでも、ここにいます。先輩が『普通』じゃなくても、私が先輩を知っていますから」


 小春はフンと鼻を鳴らして顔を背けたが、その耳元はわずかに赤らんでいた。


 「……甘いのよ、あんたは」二人の間に、不思議な静けさが流れる。




 静まり返った教室に、突如として不釣り合いな騒音が響き渡った。


 「せんぱ~い! お待たせしましたぁ! 食材をたくさん買い込んでたら、遅くなっちゃいましたぁ! てへへ~っ」


 香奈が、両手に食材の詰まった買い物袋をガサガサと盛大に鳴らしながら教室に駆け込んできた。


 「香奈! 静かにしなきゃダメでしょ……」麗夏が顔を伏せて絶望するのと、ほぼ同時だった。


 『――木崎小春! ここにいるのはわかっている! 直ちに出てきなさい!』


 窓の外から、拡声器を通した重苦しい声が校舎の中に響き渡った。幸いなことに、来たのはまだパトカー 1台だけのようだが、赤い回転灯が埃の舞う教室の壁を不吉に染めている。


 「……香奈! あんた、大きな音を立てて堂々とここに来たから、見つかったじゃない」小春は窓の外、校門の前に停まったパトカーを見下ろしながら言い放った。


 「はわわ……! す、すみません! 途中の自販機で飲み物をまとめ買いしてたら、つい後ろを気にするのを忘れちゃって……!」香奈が涙目になって小春に謝るが、事態は一刻を争う。

 小春は面倒そうに鼻を鳴らし、ガタガタと震える香奈の方へ向き直った。


 「……香奈。あんたが行って、あいつらを追い払いなさい」


 「は、はいぃ!? む、無理ですぅ! 相手はお巡りさんですよぉ!」


 香奈が猛烈に首を横に振る。だが、小春の瞳には慈悲など微塵もなかった。小春はゆっくりと右手を上げ、その手のひらを香奈の顔のすぐ目の前に向けた。指先からは、昨日の火球を彷彿とさせる熱気がゆらりと立ち上る。


 「やりなさい。さもなければ……あいつらの前に、あんたをここで消し炭にしてあげる。これは命令よ」

 小春の冷徹な眼光と魔力の熱に、香奈はひっと息を呑んだ。


 「香奈、私も一緒に行こうか?」麗夏が心配そうに尋ねると、香奈は震える手で目元の涙を拭い、首を振った。

 「ううん……これは私がドジしたせいだもん。私一人で行くよ。それに……これは、先輩に認めてもらえるチャンスでもあると思うんだぁ!」


 震えながらも、香奈の瞳には先輩の役に立ちたいという必死な光が宿っていた。麗夏はそんな香奈の肩を優しく叩き、アドバイスを送る。


 「……分かった。やっつけられなくても、先輩がここには来ていないってことを信じ込ませられたら追い返せると思うから。頑張って、香奈」

 「うん、わかったぁ……! やれるだけやってみる!」香奈は決死の覚悟で教室を飛び出していった。


 小春はそれを見送ると、再び窓の外を眺めた。


 「……さて。あいつがどれくらい時間を稼げるかしらね」


 自分の力を使えばパトカーごと消し飛ばすのは一瞬だ。だが、小春はあえて自分を「先輩」と呼び、認めてもらおうと必死に足掻くこの少女の行く末を見届けようとしていた。




 校舎の入口、雪に反射する鋭い陽光が降り注ぐ中、香奈は一人、行く手を阻むように立ちはだかっていた。


 「……は、はわわ……! お、お疲れ様ですぅ、お巡りさん! ご苦労様ですぅ!」


 香奈は、精一杯の愛想笑いを浮かべて両手を広げた。だが、恐怖で小刻みに震える少女の姿は、警察官たちの目には不審の塊にしか見えなかった。


 パトカーから降りた二人の警察官が、険しい表情で距離を詰める。


 「君は実験室に毎日レバニラを届けていた早坂香奈だろう? 隠しても無駄だ。さっき後ろからつけさせてもらったが、君がここに入ったということは、木崎小春もこの中にいる可能性が非常に高い。そこを退きなさい」


 「び、び、びこう!? そんな、ストーカーみたいなことしちゃダメですよぉ! お巡りさん失格ですぅ!」香奈は顔を真っ赤にして、必死に声を張り上げた。


 「我々は公務を遂行しているんだ。いいかい、木崎小春は極めて危険な人物だ。彼女を匿うことは、君自身の身の危険にも繋がるんだぞ。校舎の中を確認させてもらう」


 「い、いないですぅ! 誰もいないですぅ! 私、ここで……あの、一人で思い出に浸ってただけなんですぅ!」


 「言い訳に無理があるだろう。君、道を開けなさい」


 「だ、め、ですぅ! 乙女の神聖な母校に土足で踏み入るなんて、デリカシーがなさすぎですよぉー! お巡りさん、お嫁さんに行けなくなっちゃったら責任取ってくれるんですかぁ!?」


 「……君の安全のためでもあるんだ。もし中に彼女がいるなら、君を人質にする可能性だってある」警察官の一人が香奈の肩を掴もうと一歩踏み出す。


 香奈は半べそをかきながら、まるで地蔵のように入口に踏ん張った。


 「はわわ……絶対にダメですぅ! ここは幽霊しかいないんですぅ! ほら、さっきもあそこの窓で、顔色の悪い女の幽霊が……あ、それ私のことじゃないですよ!? 私はぴちぴちの女子高生……じゃなくて中学生ですぅー!」


 必死すぎて墓穴を掘りかけながら、香奈は涙を拭う暇もなく立ちふさがる。


 その様子を、二階の教室の窓から二人が見下ろしていた。小春は窓枠に肘をつき、退屈そうに頬杖をつきながら、眼下で必死に足掻く香奈を見つめていた。その指先には、いつでもパトカーごと焼き尽くせるだけの魔力が蠢いている。


 「……あのバカ。泣き喚けば警察が帰るとでも思ってるのかしら。見苦しい」


 小春の声は冷淡だったが、その視線は香奈の震える背中から離れなかった。隣で窓にしがみつくようにしていた麗夏は、祈るように両手を握りしめている。


 「香奈……頑張って……。あの子、本当に一人で、先輩を守ろうとしてる」


 麗夏は、ポケットの中の護身用ナイフを強く握りしめた。もし警察が香奈を突き飛ばして校舎に踏み込めば、その瞬間に小春の「魔王の力」が炸裂し、取り返しのつかない惨劇が始まってしまう。それを食い止めているのは、今、地上で必死に叫んでいる香奈の滑稽(こっけい)なまでの嘘だけだった。




 やがて、校庭の喧騒が校舎の奥へと吸い込まれていった。


 「あ、ああっ! 待ってくださいぃ! 勝手に入っちゃダメですぅー!」


 香奈の悲鳴のような叫びも虚しく、二人の警察官は彼女を強引に振り切り、埃の舞う昇降口を突破した。重い編み上げ靴の音が、静まり返った校舎の廊下に不吉に響き渡る。


 二階の教室。小春は窓枠から肘を離し、深く、重いため息を漏らした。

 「……結局、これだわ。あのバカ、時間を稼ぐどころか、ただの誘導灯にしかならなかったじゃない」


 隣で顔を真っ青にしている麗夏には目もくれず、小春は教室の中央へと歩み出た。その瞳は、もはや中学生の少女のものではない。すべてを見下し、蹂躙する準備を終えた魔王の輝きを宿していた。

 やがて、教室の引き戸が激しい音を立てて開け放たれた。


 「動くな! 木崎小春だな!!」


 踏み込んできた警察官は、腰の拳銃に手をかけながら怒号を浴びせた。


 「研究施設の破壊、および殺人未遂、逃走の容疑で逮捕する! 大人しく……」

 「……うるさいわね。その汚い口を閉じなさい」


 小春は警察官の言葉を遮るように、左の手のひらを無造作に向けた。刹那、教室の空気が爆ぜた。手のひらから放たれた真っ赤な火球が、防弾チョッキすら意味をなさない熱量で警察官たちを呑み込む。


 「ぎ、あぁぁぁぁっ!!」


 断末魔の叫びは一瞬だった。火球に焼き払われた警察官たちは、黒い炭の塊となって廊下へと弾き飛ばされ、動かなくなった。


 静寂が戻った教室に、遅れて香奈が戻ってきた。肩を落とし、涙で顔をぐちゃぐちゃにした彼女は、廊下の惨状を見てさらに顔を引き攣らせた。


 「せ、せんぱい……ごめんなさい。追い返せませんでしたぁ……」


 香奈は小春の前に這いつくばるようにして、震える声で謝罪した。


 「本当に、ごめんなさい……」


 小春は、床に散乱した灰と、泣きじゃくる香奈を冷酷な目で見下ろした。その視線には、昨日見せたような僅かな柔らかさなど、もう欠片も残っていなかった。


 「……あんた、テニス部の頃からそうだった」


 冷たい声が、教室の壁に反響する。


 「鈍臭いし、私に生意気な指図をするし。そして結局、肝心な時にこれっぽっちも役に立たない」


 小春はゆっくりと右手を上げ、人差し指と中指の二本を、香奈の胸元へと突き出した。


 「あんたみたいな役立たずは、私の世界には必要ない」


 「え……せ、先輩……?」


 香奈が顔を上げた瞬間、小春の指先に凄まじい密度の光が集束した。

 香奈が絶望に目を見開く。小春はその表情を、まるで邪魔な虫を潰す時のような無感情さで見つめ返した。ためらいなど、欠片もなかった。

 バチィッ!! と、鼓膜を劈くような放電音が鳴り響く。指先から放たれた超高電圧の電撃は、一直線に香奈の胸を貫いた。


 「が……あ……っ」


 声にもならない悲鳴を漏らし、香奈の身体が大きくのけ反る。火花を散らす衝撃に弾かれ、彼女はそのまま糸の切れた人形のように、埃まみれの床へと崩れ落ちた。


 「香奈ぁぁぁぁぁー!!!」


 麗夏の絶叫が教室に響き渡る。麗夏は膝から崩れ落ちるようにして、倒れた香奈のもとへ這い寄った。


 「香奈! 香奈、しっかりして!!」


 震える手でその肩を揺さぶり、胸元に耳を寄せる。だが、さっきまであんなに騒がしく動いていた香奈の心臓は、無残に貫かれ、すでにその鼓動を完全に止めていた。

 教室には、焦げ付いた空気の匂いと、耐え難いほどの静寂が満ちていた。床に伏した香奈は、ぴくりとも動かない。先ほどまで必死に言い訳を叫んでいたあの声も、もう二度と聞こえることはない。

 麗夏は、信じられないものを見るかのように、力なく横たわる親友の姿を見つめていた。やがて、肩が小刻みに震え始める。


 「……なんで、こんなことをするんですか」


 絞り出すような麗夏の声が、静かな教室に響いた。


 「香奈は……香奈は、ドジで、バカだったかもしれないけど……。それでも、命がけで先輩を守ろうとしたんですよ? 先輩が施設に戻されないように、一生懸命に嘘をついて……。この子は、私の掛け替えのない親友だったのに!!」


 「……だから言ったでしょ。役立たずは必要ないって」


 小春は冷淡に言い放つ。その瞳には、かつてテニスコートで共に汗を流した仲間への情など、微塵も感じられない。


 「いくら先輩のことを尊敬していると言っても……目の前で親友を殺されても黙って従い続けるほど、私は物分かりのいい人間じゃありません……!」


 麗夏の瞳に、絶望を超えた激しい怒りの炎が宿る。彼女はポケットから、先ほどまで「先輩を守るため」に握りしめていた護身用のナイフを取り出した。


 「……今度はあんたが私に牙を剥くの? 面白いわね、麗夏」

 「小春先輩……いえ、木崎!!」


 小春の眉が、不快げにぴくりと跳ねた。


 「……今、なんて呼んだかしら? 礼儀知らずな後輩ね。その生意気な口、二度と開けないようにしてあげましょうか」

 「うるさい! 悪魔……最低の悪魔だったんだ。香奈の仇!!」


 麗夏は叫びながら、ナイフを逆手に握り、小春へと突進した。かつて憧れた背中。昨日、優しく髪を切ってあげたその相手に向かって、麗夏はありったけの憎しみを込めて刃を振り下ろす。

 教室の埃っぽい空気が、麗夏の絶叫と共に激しく震えた。


 「死ね! 死ねぇぇぇ!!」


 麗夏は、親友を奪った憎き先輩へとナイフを振り下ろした。だが、鋭い金属の先端が小春の肌に触れる寸前、空間が歪んだように鈍い音が響いた。小春の周囲に不可視の魔力の障壁が展開され、麗夏の渾身の一撃を無慈悲にはじき返したのだ。


 「あ……っ!」


 衝撃で手が痺れ、麗夏はその場に膝をついた。だが、悲しみと怒りは止まらない。彼女は溢れ出す涙を拭うこともせず、何度も、何度も、無意味だと分かっている攻撃を繰り返した。


 「無駄よ、麗夏。並の人間の力では、魔力の障壁は突破できない」


 「なんで……! なんでこんな酷いことができるの!? 私たちは、先輩が好きだったのに! 先輩がどんな姿になっても、味方でいようって……! 香奈だって、怖いのを我慢して、あんなに頑張って……!」


 小春は一歩も動かず、冷徹な瞳でその狂乱を眺めていた。

 「……勘違いしないで。私は味方なんて頼んでないし」


 「嘘だ! 昨日、あんなに……あんなに優しく髪を切らせてくれたじゃない! 傷の手当てだってさせてくれた! 先輩だって、少しは心を開いてくれたと思ってたのに!」


 麗夏はナイフを握り締め、床を叩きながら泣き喚いた。


 「あれはただの気まぐれ。あんたが勝手に私を世話して、勝手に親愛の情を押し付けてきただけ。……言ったでしょ? 私は世界を壊したいの。そんな私の目的に対して、こいつはあまりに無能で邪魔だった。だから排除した。ただそれだけのこと」


 「そんなの勝手だよ! 世界が憎いからって、自分の目的の邪魔だからって、人を殺していい理由になんてならない! 先輩は、ただ寂しかっただけじゃないの!? 誰かに認められたくて、でもそれが叶わないからって……八つ当たりしてるだけじゃない!」


 「黙れ!!」


 小春の声が一段と低くなり、教室の温度が氷点下まで下がったかのような錯覚を抱かせる。


 「あんたに何がわかるのよ! ツノが生え、翼が生え、普通じゃない能力――魔法まで使えるようになった私の気持ちが……! どれだけ孤独で、どれだけ呪われた存在として扱われてきたか、あんたに理解できるわけがない! 私は魔王として君臨することでしか、この理不尽な世界を変えられないのよ!」


 小春がゆっくりと右手を掲げた。指先には、先ほど香奈を貫いた時よりも遥かに強大な、紫電の渦が収束していく。麗夏は逃げようともせず、ただ憎しみのこもった瞳で小春を睨みつけた。


 「……殺せばいいよ。でも、先輩は一生…… 一人きりだ。誰も、先輩を愛さない。誰も……っ」


 「うるさい!!」 小春の絶叫が、教室の窓ガラスをビリビリと震わせた。


 図星だった。自分を化け物だと蔑む連中を焼き尽くしても、結局その後に残るのは、誰一人いない荒野に一人で立ち尽くす自分だけ。愛されたいと願うことさえ許されない、傲慢で孤独な怪物の末路。麗夏の言葉は、小春がひた隠しにしてきたその「恐怖」を、容赦なく白日の下に引きずり出した。


 (……愛されない? 私が? 違う、私が世界を愛してないだけよ! 誰にも理解されないなら、理解させる必要なんてない。ただ、私に跪いて、怯えていればいいのよ……!)


 震える指先に、逃避と拒絶を混ぜ合わせた破滅の雷光が凝縮されていく。目の前の麗夏の瞳に映る自分は、もはや憧れの先輩などではなく、ただの「哀れな人殺し」でしかなかった。それが、小春には耐えられなかった。


 「死になさい、麗夏!!」


 小春が叫び、指先から死の雷光が放たれようとした、その瞬間。


 「待て!」


 鋭く、よく通る制止の声が教室の入り口から響いた。その声を聞いた瞬間、小春の動きが止まった。身体が、魂が、憎悪と共に激しく反応する。

 扉の方を、小春と麗夏が同時に振り向く。暗い廊下から教室へと足を踏み入れたのは、小春のクラスメイトであり電波塔での戦いで小春の野望を打ち砕いたあの男だった。

 廊下の闇を背負って立つ彼の姿は、まるで地獄からの使者のようでもあり、あるいはこの残酷な連鎖を断ち切る裁定者のようにも見えた。


 「……佐藤」


 小春は、噛みしめるようにその名を呟いた。


 教室の入り口。暗い廊下の影から一歩踏み出した佐藤の腰には、あの時と同じ真剣が静かに横たわっていた。

 小春は雷光を消した指先を力なく垂らした。


 「……佐藤。何の用よ。私の処刑を、政府から委託でもされたのかしら?」

 「いいや。俺は自分の意志でここに来た。……変わり果てたな、小春」


 佐藤は床に横たわる香奈の遺体、そしてナイフを握って泣き崩れる麗夏を交互に見て、重い息をついた。


 「変わり果てた? 笑わせないで。私は最初からこうだった。ツノが生え、翼が生え、人間には持ち得ない呪われた魔法という力を持った……その時から、私はこうなる運命だった! あの施設で、普通じゃない化け物として一生を終えるくらいなら、すべてを焼き尽くす魔王になる。それのどこが間違いだって言うの!」


 小春の叫びに、麗夏が床を叩いて声を上げた。


 「間違いだよ……間違いに決まってる! 先輩がどんなに辛かったか、私には全部は分からないかもしれない。でも、香奈は……香奈だけは殺しちゃいけなかった! 先輩を『魔王』じゃなくて、『小春先輩』として見てた人を、なんで……っ!」


 「うるさい! 誰も……誰も私の本当の孤独なんて分からないくせに……!」


 小春の叫びが木霊する中、佐藤が静かに、だが地を這うような深い声で口を開いた。


 「……小春。お前は自分のことを『呪われた体』と言ったな」


 「そうよ。この忌々しいツノも、翼も、魔法も……全部、私が私として生きることを拒むための呪いよ」


 「違うな」


 佐藤は一歩、小春の方へ近づいた。

 「お前のその体は、呪いじゃない。……それは、お前が誰よりも『生きたい』と願った証だ」


 佐藤の言葉が、静まり返った教室に染み込んでいく。小春は視線を泳がせ、喉の奥で震える声を絞り出した。


 「望んでこんな姿になったわけじゃない……!」


 小春は叫びながら、自身が着ている麗夏のパーカーを乱暴に脱ぎ捨てた。パーカーの下から、彼女の「異形」が剥き出しになる。バサッ、という重い音を立てて広げられたのは、虫食い状の穴があちこちに開いたボロボロの蝙蝠のような翼。そして、頭上には佐藤との決闘で無残に折れ、片方が欠損したままの歪なツノ。

 小春はその醜いと信じてやまない姿を、呪詛(じゅそ)を吐き捨てるようにさらけ出した。


 「こんな翼も、ツノも、人間に恐怖を与えるだけの力も、全部私を人間から遠ざけるためにあるのよ! これのどこが『生きたい』と願った証だって言うの……っ! 私はただ、世界から拒絶されるためにこんな姿になったのよ!」


 「そうだとしても……!」 麗夏が、床に膝をついたまま叫んだ。

 「その体で、先輩は今日まで生きてきたじゃないですか。あの施設で、実験台にされて、名前じゃなくて被検体と呼ばれて……それでも先輩は、自分を失わなかった。魔王なんて名乗って、世界を敵に回してでも、先輩は『ここにいる』って叫んでた……! 香奈は、そんな先輩が……不器用で、本当は誰よりも必死な先輩が、かっこいいって言ってたんだよ……っ!」


 「……不器用……? かっこいい……?」剥き出しにされた翼が、小春の困惑を映すように力なく垂れ下がる。

 「そうだ」佐藤が静かに歩を進める。腰の真剣が、微かに音を立てた。


 「お前がその力で、その体で今日まで生き延びてきたからこそ、俺は今のお前という唯一の存在に出会えた。施設も、世界も、お前を道具や化け物としてしか見なかったかもしれない。だが、俺はあの日、電波塔でお前という一人の『魂』と剣を交えたんだ。俺が見たのは、おぞましい魔物じゃない。ただひたすらに、自分の存在を証明しようともがく一人の女の姿だった」


 「嘘よ……。あんたは私のツノを折った! 翼をこんなにボロボロにした! 私の居場所を、全部壊したじゃない!」


 「……それは俺にとっても悔やまれる事故だ。だがな、小春」佐藤は一歩、小春のすぐ近くまで歩み寄った。


 「あの日、電波塔でも言ったはずだ。俺はお前を友達と思っている。その気持ちは今でも、一秒たりとも変わっちゃいない」


 「友達……? まだ、そんなことを……」


 「ああ。お前は魔王なんかじゃない。……ただ、誰よりも強く、誰よりも不器用に『自分』でいようとした、一人の女だ。その誇り高き魂を、俺は否定しない。小春、俺は……お前の友達として、お前が背負ってきた孤独を一緒に背負いたいと心に決めている」


 その言葉は、小春が最も嫌悪する「説教」でも「指図」でもなかった。


 「……っ」小春の喉が、引き攣ったように動いた。


 自分が「化物」として石を投げられ、施設で「データ」として切り刻まれてきた日々。そのすべてを、佐藤は「お前が生きようとした証だ」と言い切った。そして誰のルールにも従わず、誰の言葉も聞き入れないと決めていた小春に佐藤が差し出したのは「支配」ではなく、ただの「隣り合わせ」だった。 その瞬間、彼女が世界を呪うための唯一の根拠――「自分は誰にも愛されない怪物だ」という確信が、音を立てて崩れ去った。


 「……あ、ああ……」小春の膝から力が抜ける。


 鎧が剥がれた。魔王という分厚い殻が割れ、中から剥き出しの「木崎小春」が零れ落ちる。すると同時に、今まであえて見ないようにしていた景色が、鮮明な色を持って彼女の網膜に突き刺さった。


 足元に転がる、物言わぬ香奈の体。


 (……私、何を……。何を、しちゃったの……?)


 今まで「役立たずの排除」としか思っていなかった行為が、取り返しのつかない「後輩の殺害」へと意味を変える。佐藤に「一人の女」として認められたからこそ、小春は自分が犯した罪の重さに、文字通り耐えられなくなったのだ。


 「なによ、それ……。なんなのよ、それ……! 今さら……香奈を殺して、もう取り返しのつかないことをした後に、そんな……」大粒の涙が、小春の頬を伝い落ちる。


 「先輩……」


 麗夏は、初めて見る小春の「弱さ」に、ナイフを握る手を緩めた。


 「世界を壊すとか、魔王になるとか……そんな憎しみで自分を塗り固めてないと、私は明日をどう生きていいか分からなかった。でも……本当は分かってた。私が一番憎んでいたのは、世界じゃない。こんな姿になって、誰も救えない、誰も愛せない……ただ自分のために人を傷つけることしかできない、自分自身だった」


 小春はゆっくりと顔を上げ、涙に濡れた顔で麗夏を見た。その瞳は、もはや濁っておらず、透き通るような悲しみに満ちていた。


 「麗夏。あんたの言う通り、私は最低だわ。……もう、終わりたい。この体で、これ以上孤独を積み上げるのは、もう耐えられない。これ以上、自分を嫌いになりたくない」


 小春は麗夏の前に歩み寄り、自らの細い喉元をさらけ出した。ボロボロの翼が、彼女の覚悟を示すように静かに畳まれる。


 「お願い、麗夏……私を殺して!! あんたの手で、香奈の仇を討って。それが、私がこの世界で最後に受けるべき、唯一の救いだと思うの」


 「先輩……」


 麗夏の手の中のナイフが、激しく震える。復讐を誓ったはずのその手は、あまりにも無防備に死を願う小春の姿を前にして、どうしても動くことができなかった。


 「……勝手ですよ、先輩。どこまで、自分勝手なんですか……!」


 麗夏の瞳から、(せき)を切ったように涙が溢れ出した。


 「香奈を殺して、自分だけ楽になろうなんて……そんなの、絶対に許さない。私に一生、この感触を背負って生きろって言うんですか!? 私に、大好きな先輩を殺した人殺しになれって言うんですか……っ!!」


 吐き出される言葉は鋭い刃となって、小春だけでなく麗夏自身の心をも切り刻んでいく。


 「でも……でも、今の先輩を見てたら……。こんなにボロボロになって、泣いてる先輩を見てたら……。香奈だって、きっと……っ!」


 静まり返った教室で、窓から差し込む昼前の光だけが、三人を冷酷に照らし出していた。


 そして、教室を支配していた重苦しい沈黙を、麗夏の慟哭が切り裂いた。


 「ああああああああああ!!」


 麗夏は、親友を奪われた憎しみと、目の前で救いを求める先輩へのやりきれない悲しみをすべて吐き出すように叫んだ。震える両手でナイフを逆手に握り直し、全体重を乗せて小春の喉元へと突き立てる。


 ――ザクッ、という、生々しく重い音が静かな教室に響いた。


 鋭い刃は小春の細い喉を深く貫いた。刹那、喉から鮮血が噴き出し、小春の顔や服を真っ赤に染め上げた。麗夏は返り血を浴びて血だらけになりながらも、その手を離さず、嗚咽を漏らしながらナイフを握り続けた。


 小春の身体がビクンと大きく震え、それからゆっくりと力が抜けていく。噴き出す血の熱さは、彼女が今まで「生きてきた」確かな証だった。


 「……っ……ぁ……」


 小春は薄れゆく意識の中で、麗夏の泣き顔を、そして傍らで見守る佐藤の姿を、かつてないほど穏やかな瞳で見つめた。彼女の唇が微かに動き、血に濡れた言葉を絞り出す。


 「……麗夏……今まで、ごめんなさい……。そして……ありがとう。……レバニラ、美味しかったよ……」


 その言葉を口にすると同時に、小春の瞳から光が消え、瞼がゆっくりと閉じられた。 虫食いのようにボロボロになった翼が床に力なく広がり、一本のツノが窓から差し込む光を鈍く反射する。

 魔王になろうとし、孤独の中で足掻き続けた 14歳の少女は、自分を「一人の女」として認めてくれた者たちの前で、そのまま深い闇へと沈んでいった。


 麗夏は崩れ落ち、動かなくなった小春の体に縋りついて子供のように泣きじゃくった。

 佐藤は何も言わず、ただ静かに、二人の上に降り注ぐ冬の陽光と、冷たくなっていく教室の空気を共に見つめていた。




 角と翼 ―ツノとツバサ― 第2部 復讐編 (完)

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