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第1部

 初作品です。初心者なりに頑張って書いたので、お読み頂けますと幸いです。

(ライブドアブログでも同様の作品を投稿しております)

 中学二年生の木崎小春(きざきこはる)が、自分の身体の「変調」を自覚したのは、小学五年生の、ひどく蒸し暑い夏の日だった。

 最初は、ただの湿疹だと思っていた。背中の肩甲骨のあたりが、むず痒くて仕方がない。鏡を覗き込んでも、そこには赤みを帯びた小さな突起があるだけで、母に見せれば「あせもじゃない?」と一蹴される程度のものだった。


 しかし、その突起は日を追うごとに硬さを増し、形を変えていった。そしてある朝、彼女が目を覚ますと、枕元に小さな、黒い産毛のようなものが落ちていた。鏡に向かい、必死に背中を反らせて確認した小春は、その場で凍りついた。


 そこには、蝙蝠(こうもり)のそれを思わせる、湿った質感の小さな翼が生えていた。


 同時に、前髪で隠れた額の左右にも、指先ほどの硬い()()()ができていた。それは成長するにつれ、ゆるやかにカーブを描く漆黒の「ツノ」へと姿を変えた。


 「――どうして、私が」


 鏡の中の自分は、まごうことなき「怪物」の兆しを宿していた。




 それから三年間、小春の日常は徹底した「隠蔽」によって構築されることになった。




 角と翼 ―ツノとツバサ― 第1部




 現在、中学二年生。小春は、衣替えの季節が過ぎて周囲が眩しい白い半袖姿に切り替わっても、決して指定の長袖カーディガンを脱ごうとはしなかった。白い半袖のセーラー服一枚では、日に日に増していく背中の違和感を隠しきれないからだ。


 「冷え性だから」「日焼けしたくないから」


 そんなありふれた言い訳を鎧のように纏い、彼女は教室の隅で息を潜めていた。滴る汗よりも秘密が露見することの方を恐れる彼女は、必然的に周囲から浮いた存在になっていく。体育の授業は見学するか、あるいは更衣室の個室に一番に駆け込み、誰にも肌を見せないように細心の注意を払って着替える日々。彼女にとって学校は、学びの場ではなく、剥き出しの自分を隠し通すための戦場だった。


 翼は、幸いなことにまだ小さい。成長と共に少しずつ大きくはなっているが、筋肉を緊張させて背中に密着させれば、少し厚手のインナーを着ることでシルエットを誤魔化せた。問題はツノだ。小春は重めのパッツン前髪を維持し、さらにファッションを装って太めのカチューシャやヘアバンドを常用した。この学校は髪型に関する校則が比較的緩く、その無関心さが彼女の生存を辛うじて助けていた。


 しかし、身体の成長は残酷だった。14歳の夏。翼の関節が、時折、小春の意志とは無関係にピクリと震えるようになった。




 放課後のテニスコート。陽炎がゆらめくアスファルトの上で、小春はひたすら壁打ちに没頭していた。本来なら後輩たちの練習を見るべき時間だが、今の小春には他人のペースに合わせる余裕などない。

 

(……ああ、もう、うるさい)耳の奥で、血液が激しく脈打つ音が聞こえる。


 テニス部を選んだのは、決してテニスが好きだからではなかった。この身体の底から溢れ出してくる、正体不明のエネルギー。それを何かにぶつけ、力任せに発散させなければ、自分が自分という形を保てずに内側から弾け飛んでしまうような、そんな得体の知れない恐怖が常に彼女を追い立てていた。


 バコォォォン!!


 渾身の力で振り抜いたラケットがボールを捉え、コンクリートの壁に凄まじい音を立てて激突する。

 

 「ちょ、先輩! 今のショット、壁壊れるって!」


 背後から声をかけてきたのは、一学年下の後輩、早坂(はやさか)香奈(かな)だった。香奈は両手を大げさに振り回しながら、軽い足取りで駆け寄ってくる。その隣には、同じく一年生の望月(もちづき)麗夏(れな)もいた。


 「……別に、普通だよ」


 小春は荒い息を整えながら、冷淡に答えた。長袖のアンダーウェアの下で、翼が熱を持って蠢いている。


 「普通じゃないですよぉ。小春先輩、いつも以上に気合入りすぎ! そんなに打ち込んでたら、ラケットの方が悲鳴上げちゃいますよぉ」


 香奈が屈託のない笑顔で、落ちたボールを拾い集める。一歳の差。たったそれだけなのに、彼女が持っている「中一の無邪気さ」は、今の小春には毒のように毒々しく、そして眩しかった。


 「香奈の言う通りですよ。あまり無理して倒れないでください、小春先輩。さっきから顔色が変です」

 麗夏が少し眉をひそめて、じっと小春の顔を覗き込んできた。麗夏は一年生ながら真面目で、時折、こういう妙に鋭い指摘をしてくる。


 「……平気。倒れるわけないでしょ」

 小春は麗夏の視線から逃げるように、再び壁に向き直った。


 (倒れるんじゃない。私は、壊しそうなんだ。このラケットも、壁も、この退屈な日常も……全部)


 隣の武道場からは、剣道部の野太い叫び声が響いてくる。


 同じクラスの佐藤(さとう)(たける)という男子が竹刀を振り下ろす。一見、力任せに見えるその動きには、独特の「溜め」と「鋭さ」があった。相手の打ち込みを最小限の動きで受け流し、そのまま自分の打突へと繋げる。その無駄のない洗練された所作は、剣道部員としての鍛錬の賜物だった。

 

 「あはは、小春先輩マジですごーい! やっぱり二年生は違いますね!」

 後ろで香奈がはしゃぐ声が聞こえる。


 自分の内側で暴れる「何か」を黙らせるために、小春はただ、目の前の白いボールを憎しみを込めて打ち返し続けた。




 部活が終わり、小春は火照った身体を落ち着かせるように、誰もいない手洗い場で顔を洗った。冷たい水が、首筋に溜まった熱をわずかに奪っていく。それでも背中の翼の付け根は、激しい運動の後遺症で脈打つように熱い。濡れた髪を拭い、逃げるように校舎の中へ戻る。

 外の喧騒を離れ、蔵書の保護を名目に一足早く冷房が稼働している図書室へ。冷たく澄んだ空気に満ちたその静かな空間こそが、今日の彼女にとって唯一の「逃げ場所」だった。




 放課後の図書室。人影もまばらな静寂の中で、本の背表紙が並ぶ匂いに包まれると、ようやく内側の「何か」が大人しくなるのを感じた。小春は図書委員の当番としてカウンターに座り、返却された本の整理を始める。だが、その指先が自然と伸びるのは、実用書や小説の棚ではない。


 奥の書架から持ち出してきたのは、『世界の神話と伝承』という分厚い図鑑だった。ページをめくれば、そこには自分と同じようなツノや翼を持つ「異形」たちの姿が、古い版画や絵画として並んでいる。彼らは神に抗い、人々に恐れられ、暗闇に住まう者たち。


 (私と、同じ……)


 そう思った瞬間、背後から不意にかけられた声に、心臓が跳ね上がった。


 「木崎さん、またその本読んでるの?」


 声をかけてきたのは、同じ図書委員の佐藤だった。彼もまた部活を終えたばかりなのだろう。制服に着替えてはいるが、髪はまだ湿っており、その体からは武道場特有の竹刀と汗の入り混じった熱い匂いがかすかに漂っていた。

 小春はびくりと肩を揺らし、読んでいた図鑑を慌てて閉じた。


 「……別に。ただ、なんとなく」

 「悪魔とか、モンスターとか。女子にしては珍しいよね。ファンタジー好きなの?」


 佐藤は悪気のない笑顔で隣に座る。彼はクラスでも目立つタイプではないが、誰にでも分け隔てなく接する、小春が最も苦手とする「光」の側の人間だった。

 放課後はいつも剣道部の練習に顔を出しているらしく、手の甲には竹刀の擦り傷がいくつもあった。そのせいか、彼の仕草にはどこか落ち着いた芯のようなものがあり、言葉に無駄がない。


 「好き、っていうか……。ただ、調べてるだけ」


 小春は嘘を吐いた。彼女が調べているのは、自分の正体だ。なぜ自分にだけツノが生えたのか。先祖に何か別の生き物が混じっていたのか。それとも、これは何かの病気なのか。しかし、どの本を読んでも、現実の世界で人間に翼が生えた事例など載っていなかった。載っているのは、宗教画の中の邪悪な象徴としての姿ばかりだ。


 「俺さ、そういうの結構かっこいいと思うけどな」 佐藤が不意に言った。

 「もし本当に翼とか生えたら、空とか飛べて便利じゃん。満員電車とか乗らなくていいし」


 「……そんなに良いものじゃないよ」 小春は低く、自分でも驚くほど冷めた声を出した。

 「もし本当に生えたら、その人はもう、人間じゃないんだよ。誰にも言えなくて、ずっと隠して、一生ビクビクして生きなきゃいけないんだよ」


 佐藤は一瞬、呆気に取られたように小春を見た。小春は自分の失言に気づき、慌てて鞄を掴んだ。


 「ごめん。今の、忘れて。……帰るね」


 逃げるように図書室を飛び出す。背中の翼が、彼女の動揺に呼応するように、衣服の下で激しく波打った。




 夜、食卓の上には冷めかけたカレーが並んでいた。

 換気扇の回る単調な音だけが、やけに大きく響いている。父はまだ帰ってこない。母はスマホの画面から目を離さず、指先を滑らせてスクロールを繰り返しながら、何気なく言った。


 「小春、学校どう? ちゃんと友達できた?」


 母の首筋には、当然ながら何のしこりもない。薄手のTシャツ越しに見える背中も、滑らかで平坦だ。そこには、皮を突き破らんとする翼の脈動も、硬いツノの予兆もない。この人は、正真正銘の「人間」なのだ。 私を産んだはずのその身体と、今の自分の身体が、あまりにもかけ離れた別の生き物に見えて、小春は胃の奥が冷えるのを感じた。


 「……別に」


 小春はスプーンで、冷えて固まりかけたカレーの表面をなぞるようにして答えた。喉の奥に、砂でも飲んだような不快感がこびりついている。


 「別にって何よ。ちゃんと話さなきゃダメでしょ。このままだと、また三者面談で先生に心配されるわよ。あなたいつも一人でいるって。……だいたい、その前髪も何なの? 暗いわよ。もっと短く切って、顔が見えるようにしなさい。若いうちだけなんだから、普通に可愛らしくしてればいいのに」


 “普通に、可愛らしく”


 その無神経な言葉が、小春の胸の奥を逆なでした。

 前髪の下にある指先ほどの硬いしこりも、制服の下でうごめく湿った翼も、母は何も知らない。知らないからこそ、そんなお気楽なことが言えるのだ。


 「心配なんていらない。私は一人で平気」

 「そんなこと言って。人は一人じゃ生きていけないのよ。みんな、誰かと支え合って生きてるの。それが当たり前でしょ?」

 「みんなって、誰?」


 小春が真っ直ぐに見返すと、母は一瞬だけスマホから目を離し、困ったように笑った。

 「……そういうひねくれたこと言わないの。とにかく、普通にしてなさい。普通にしていれば、そのうち馴染めるんだから」


 “普通”


 その二文字が、熱を持った泥のように耳の奥に流れ込んできた。

 

 (普通にしてなさい。普通に生きなさい)


 何も知らないくせに。私が毎朝、どれほどの恐怖と絶望を鏡に叩きつけているかも知らないくせに。


 母は、目の前に座っている娘が、もう自分たちの知っている「人間」の形を失い始めていることなんて、想像すらしていない。彼女にとっての小春は、まだ自分たちの世界の延長線上にいる、ただの「ちょっと手のかかる娘」でしかないのだ。


 小春は立ち上がり、食器も片付けずに自室へ向かった。

 「ちょっと、小春! まだ話してるでしょ! 食べ終わったら前髪切りなさいよ、ハサミ出しとくから!」

 背後で聞こえる母の声を、ドアを強く閉める音で遮断した。


 暗い部屋の中で、小春は制服のままベッドに倒れ込んだ。

 厚手のインナー越しに、背中の突起がシーツに当たって鈍く痛む。


 (みんなと同じ形でなければ、存在してはいけない世界。みんなと同じ色でなければ、汚れだと思われる世界)


 窓の外を見れば、街の灯りが規則正しく並んでいる。あの明かりのひとつひとつの下に、「普通」を信じて疑わない人々がいる。もし、彼らの目の前に今の私が現れたら? 悲鳴を上げ、警察を呼び、私は「駆除されるべき異物」として処理されるだろう。母さんだって、きっと真っ先に私を拒絶するはずだ。


 「……大嫌い」


 誰に届くでもない声が、闇に溶けた。

 この世界が、嫌い。

 無知な善意で「普通」を押し付けてくる、このぬるま湯のような社会が、心底反吐が出るほど嫌いだ。


 背中の奥で、まだ形にならない翼が、激しい拒絶の感情に呼応するように、ズキリと疼いた。




 別の日の放課後、家に帰る途中のことだった。夕暮れの商店街は人通りが多く、狭い歩道を前の人がのんびり歩いていた。小春はその背中が鬱陶しく感じた。


 (……どいて)


 心の中でそう呟いた瞬間、前を歩いていた人の足元に落ちていた紙くずがふわりと浮き上がり、相手の足にまとわりついた。驚いた通行人が足を止め、紙を払う。その隙に、小春はすり抜けるようにして前へ出た。


 (……今の、風? 違う。風なんて吹いてなかった)


 立ち止まって振り返るが、誰も不思議そうにしていない。ただ、胸の奥が妙に熱く、指先がじんじんと痺れていた。その感覚は、家に着いても消えなかった。




 夕食の支度をする母の背中を横目に、六畳間の自室へと戻る。机の上のシャープペンを見つめながら、そっと息を吸い込む。


 (動け……)


 心の中でそう念じた瞬間、ペンがカタリと転がった。偶然かもしれない。けれど、偶然にしては、あまりにも自分の意志に近すぎた。


 (私、もしかして……)


 クローゼットの中。小春は、防虫剤の匂いに包まれながら、自分の手のひらを凝視していた。背中には、セーラー服を押し上げる小さな翼。前髪の奥には二本の硬いツノ。そして、指先の奥には、確かに何かが「在る」と感じられた。


 (もし、本当に何かがあるなら――)


 「……いでよ、火」


 小春が低く呟くと、指先に熱が収束した。パチッ、という静電気のような音と共に、ビー玉ほどの大きさの火の玉が浮遊する。それはオレンジ色に輝きながら、小春の瞳を紅く照らした。


 「すごい……。本当に、できた」


 火の玉は、彼女の意志に合わせて掌の上を転がる。自分の中から溢れ出したその熱は、不思議と彼女の肌を焼くことはなく、まるで親密な体温のように馴染んでいる。小春は、自分の内側に眠っていた「何か」が目覚めたことを確信した。それは、小学校高学年から始まった身体の変異――ツノとツバサ――が、単なる奇病ではなく、もっと強大で、禍々しくも美しい「力」への前兆だったことを意味していた。


 「あはは……。これ、もう病気なんてレベルじゃないよね。なんて呼べばいいんだろう、これ」


 超能力。あるいは、超常現象。そんな無機質な言葉は、今この胸の奥でドクドクと脈打っている熱い高揚感には相応しくなかった。脳裏をよぎったのは、幼い頃からずっと憧れ、けれど、現実には存在しないと諦めていた物語の中の力。


 「……魔法」


 その単語が、一番しっくりきた。自分の掌で起きていることは、物理法則を無視し、世界の(ことわり)を書き換える神秘そのものだ。だとすれば、自分の中に流れるこの不思議なエネルギーは「魔力」だ。


 (魔法……。私は、魔法を手に入れたんだ)


 言葉を噛みしめるほどに、自分が特別な存在になったのだという実感が強まっていく。

 彼女は小さく笑った。鏡に映る自分は、確かに人ではない形をしている。だが、この小さな火の玉一つで、今までの「隠さなければならない劣等感」が、「選ばれた者の優越感」へと反転していくのを感じた。




 翌日の昼休み。教室は、カーテンの隙間から差し込む夏の陽光とは裏腹に、小春にとってはひどく居心地の悪い場所だった。

 隣の席の女子、高橋を中心とした数人の女子が、最近流行っているスイーツの話で盛り上がっている。


 「ねえ、これ超可愛くない? インスタ映え間違いなしだよ」

 「あー、分かる! 行きたーい!」


 キャッキャと弾けるような笑い声が、小春の鼓膜を不快に叩く。彼女たちは、自分が立っている地面がどれほど平穏で、恵まれているかを考えたこともないのだろう。小春は教科書を盾にするようにして、じっと自分の掌を見つめていた。


 昨夜、部屋で見せたあの「火」。あれは幻ではなかったはずだ。

 小春は机の下で、そっと右手の指先を、高橋が机に置いたばかりの真新しいスマートフォンに向けた。


 (……落ちろ)


 心の中で強く念じる。指先の奥から、微かな熱が糸のように伸びていく感覚があった。

 次の瞬間。

 何かに押されたように、スマートフォンがガタリと音を立てて机から滑り落ちた。


 「ああっ! 嘘、最悪!」


 高橋が悲鳴を上げる。スマホは床に激突し、お気に入りのチャームがどこかへ飛んでいった。

 小春の胸の奥で、ドロリとした暗い歓喜が湧き上がった。


 (やった。私がやったんだ)


 「え、何? 今、誰もさわってなかったよね?」

 「高橋が自分で落としたんじゃないの?」


 女子たちの当惑した声を聞きながら、小春は口の端をわずかに吊り上げた。

 誰も気づいていない。この教室の誰よりも地味で、誰からも無視されている自分が、彼女たちの平穏をほんの一瞬だけ破壊したことに。


 けれど。

 その高揚感は、驚くほど短かった。


 高橋はすぐに友達に慰められ、「まじショックだわー、今度おごってよね!」と、また元の賑やかな輪に戻っていった。

 小春がどれほど念じようが、彼女たちの「普通」の世界は、小石を投げ込まれた水面のように、すぐに形を戻してしまう。


 (……何よ、これ)


 小春は、机を握りしめた。

 スマホを一台落としたところで、私は相変わらず、服の下に異形を隠してビクビクしている「変な子」のままだ。放課後になれば、またあの窮屈な家へ帰り、母の無神経な言葉を浴びる。


 小さな悪戯。小さな報復。

 たったそれだけのことに一喜一憂している自分が、急に耐えがたく惨めに思えてきた。


 (嫌い。やっぱり、全部嫌い)


 この教室も、この学校も。

 私を異物として弾き出すくせに、私の存在をまともに認識すらしないこの世界そのものが、どうしようもなく憎い。


 「木崎さん、顔色悪いけど大丈夫?」


 不意に、後ろから声をかけられた。佐藤だった。

 小春はびくりと肩を震わせ、反射的に指先を隠した。手のひらは、まだ自分の放った魔力の残滓(ざんし)で、じっとりと熱を持っていた。




 翌日、小春はいつものように厚手のカーディガンを羽織り、前髪を念入りに整えて登校した。 教室は相変わらず、くだらない喧騒に満ちている。


 「ねえねえ、昨日のドラマ見た? 超ウケたんだけど!」

 「木崎さーん、プリント回して。……え、何? 寝不足?」


 高橋が声をかけてくる。小春は無機質な声で答えた。


 「……別に。普通だよ」

 「ふーん。相変わらずテンション低いね。あ、そのカチューシャ変えた? なんか、盛り上がってない?」


 高橋の指が、小春のツノが隠れているあたりへ伸びる。小春は反射的にその手を叩き落とした。


 「っ! 触らないで!」

 「……っ、何よ。ちょっと触ろうとしただけじゃん。怖っ」


 高橋は顔をしかめて離れていく。周囲の視線が突き刺さる。


 (落ち着け、小春。今はまだ隠さなきゃいけないんだから)


 自分に言い聞かせながら、小春は机の下で拳を握りしめた。その拳の中では、微かな熱が渦巻いている。もし今、ここでこの力を解き放てば、この騒がしい連中を驚かせ、黙らせることだってできるかもしれない。今はまだ指先を焦がす程度の火種だとしても、その奥には、彼らを跪かせるほどに巨大な「何か」が眠っているのだと、小春は確信していた。




 放課後。図書室の掃除当番で一緒になった佐藤が、棚の整理をしながら話しかけてきた。


 「木崎、さっきは災難だったな。高橋のやつ、デリカシーないから」

 「……佐藤君。あんた、もし魔法が使えたらどうする?」


 小春の唐突な問いに、佐藤は手を止めて首を傾げた。


 「魔法? なんだよ急に。中二病か?」

 「いいから答えてよ。もし、この指先から火が出せたり、背中に翼が生えてて空を飛べたりしたら」

 「うーん……。そうだな、手品師になって大儲けするとか? あ、でも、警察とかにバレたら人体実験とかされそうだし、やっぱり隠すかなぁ」


 佐藤は笑いながら言ったが、小春は笑わなかった。


 「隠すだけ? もったいないよ。……そんな力があれば、なんだってできるのに」

 「なんだってって、何だよ」


 「――世界を、作り直すことだって」


 小春の瞳の奥に、仄暗い火が灯る。佐藤はその気迫に押され、

 「お、おう……壮大だな」と苦笑いするしかなかった。




 その日の夜、小春は自宅のベランダから街を見下ろしていた。立ち並ぶマンション、絶え間なく流れる車のヘッドライト、忙しなく歩く人々。 誰もが、自分が「普通」であることに疑いを持たず、システムの一部として生きている。


 「みんな、バカみたい」


 小春は掌を突き出した。昨日よりも少し大きな、ゴルフボールほどの火球が現れる。彼女はそれを夜空に向けて放った。火球は音もなく数メートル飛び、パッと霧散した。


 「今はまだ、これだけ。でも、翼がもっと大きくなって、火がもっと強く燃えるようになったら……」


 想像が膨らむ。まず、この窮屈な学校を支配する。自分をバカにする連中を、その圧倒的な力で沈黙させる。次に、この街を。そして、この退屈な国を。


 「……世界征服。悪くないかも」


 口に出してみると、それは突拍子もない冗談のようには思えなかった。自分に生えてきたのは「悪魔」の象徴だ。ならば、神に仕える天使のように謙虚に生きる必要なんてない。むしろ、この力を存分に使い、世界を自分の望む形に塗り替えることこそが、この身体を与えられた者の使命なのではないか。


 「小春ー! お風呂空いたわよー!」


 階下から母親の呑気な声が響く。小春は舌打ちをした。


 「……分かってるってば!」


 現実の彼女はまだ、母親に風呂を催促される中学生だ。だが、背中の翼が力強く蠢くのを感じた。ツノの根元が、熱い脈動を打っている。


 「見てなよ。いつか、誰も私を無視できなくしてやるんだから」




 数日後。小春は放課後の公園で、人目を避けるようにして生い茂る木々の裏にいた。この辺りには防犯カメラもない。彼女はスカートをたくし上げ、背中の翼を解放した。服の中で窮屈そうに折り畳まれていた翼が、バサリと音を立てて広がる。


 「飛べ……!」


 地面を蹴る。だが、まだ翼の筋力が足りないのか、身体が数十センチ浮き上がるのが精一杯だった。それでも、地面を離れた瞬間の浮遊感は、彼女を狂喜させた。


 「あははっ! すごい、本当に浮いた!」


 興奮した彼女は、そのまま近くの太いケヤキに向けて手をかざした。


 「燃えろ!」


 最大級の魔力を込める。掌から放たれた火球は、真っ赤な尾を引きながら木の幹に激突した。ボッ、という鈍い音と共に、表面の皮が黒く焦げ、小さな火の手が上がる。


 「……やった」


 小春は焦げた木肌を指でなぞった。これは単なる悪戯ではない。彼女が世界に対して放った、最初の一撃だった。その時、背後の茂みがガサリと揺れた。


 「……木崎?」


 振り返ると、そこには塾帰りらしき佐藤が立っていた。彼は、大きく広げられた小春の黒い翼と、まだ煙を上げている木、そして彼女の額から突き出たツノを、信じられないものを見るような目で見つめていた。


 「佐藤、君……」


 「それ……何だよ。その背中の。……マジかよ」


 小春の心臓が激しく鐘を打つ。秘密がバレた。最悪のケースだ。誰かに言われる。通報される。白い目で見られる。恐怖が、一瞬で純粋な「殺意」に近い防衛本能へと変わる。


 「……見たわね」


 小春の手のひらに、再び火が灯る。今度の火は、今までで一番明るく、そして冷徹な青みを帯びていた。


 「待てよ、木崎! 落ち着けって!」

 「黙って。……あんたに言いふらされたら、私の計画が台無しになる」

 「計画ってなんだよ! 言いふらしたりしねーよ!」


 佐藤は後ずさりしながら両手を挙げた。小春は一歩、また一歩と彼に近づく。


 「……言わないなんて保証、どこにあるの? 人間は裏切る。私はもう、それを知ってる」

 「俺は人間だけど、お前は……お前は友達だろ!」


 「友達」という言葉に、小春の動きが止まった。魔法を使い始めてから、忘れていた響き。


 「……友達? 悪魔の私と、人間のあんたが?」

 「悪魔かどうかなんて知らないよ。でも、その翼、やっぱりかっこいいじゃん。さっき浮いた時、お前、すごく笑ってたぞ」


 小春は、肩越しに振り返り、剥き出しになった自分の翼を呆然と見つめた。そして、手のひらの火を、ゆっくりと消した。


 「……バカじゃないの、あんた」




 小春は翼を畳み、不機嫌そうに制服を整えた。


 「今の、誰かに言ったら、本当に丸焼きにするからね」

 「分かってるって。……で、世界を作り直すとかいうのは本気だったのか?」


 佐藤が恐る恐る尋ねる。 小春は、沈みゆく夕日に向かって不敵に微笑んだ。


 「本気に決まってる。私はこの力で、このつまらない世界をひっくり返すの。佐藤君、あんたはどうする? 支配される側に回る? それとも……」


 小春は彼に向けて、魔法ではない、一人の少女としての手を差し出した。


 「私の『最初の部下』として、特等席で世界が変わるのを見る?」


 佐藤は呆れたように肩をすくめ、だがその目は好奇心で輝いていた。


 「……世界征服か。塾の宿題よりは面白そうだな」


 二人の影が、長く地面に伸びる。それは一人の孤独な少女が、真の意味で「魔王」としての第一歩を踏み出した瞬間だった。




 公園での小さな成功から数日。小春は自転車を飛ばし、街外れの埋立地へと向かった。

 深夜の防波堤。背後には巨大なクレーンが骸骨のようにそびえ立ち、目の前には黒い海が広がっている。ここなら、どれだけ暴れても誰も見ていない。


 小春は服を脱ぎ捨て、足元のコンクリートを見つめた。膝の力を抜き、ふわりと地面を蹴る。同時に、背中の「塊」を支点にして空気を掴むイメージを持った。

 すると、身体が羽毛のように軽くなった。重力に逆らうのではない。上昇気流を自分で作り出し、その波に乗るような感覚。ついに彼女の足は地上を離れ、海風に乗って数メートルの高さまで、滑らかに、そして自由自在に浮上した。


 (……わかった。こうやって飛ぶんだ)


 宙に浮いたまま、彼女は右手を海へと向けた。指先に溜めた熱を、一気に解放する。

 放たれたのは、パチパチとした火花ではない。「ドッ」という衝撃音と共に、青白い雷光が海面を叩いた。続いて左手を振れば、爆風を伴う紅蓮の炎が海風を切り裂き、渦を巻いて闇を照らす。 炎は海面に触れた瞬間にジュッと音を立てて消えたが、その熱量は間違いなく、数日前の自分とは比較にならないほど強大だった。


 誰もいない、自分だけの領土。小春は空中で自分の手を見つめた。

 電撃の余韻で指先が痺れている。けれど、それは心地よい万能感だった。この飛び方さえ忘れなければ、どこへだって行ける。


 (これなら、もう……あの狭い食卓に収まっている必要なんてない)


 彼女はゆっくりと、勝利を確信したような笑みを浮かべて、静かにコンクリートの床へと降り立った。




 世界を征服する。その第一歩は、最も身近な「支配構造」を破壊することから始まった。


 「小春! まだそんなに髪を伸ばして。前髪を切りなさいって言ってるでしょ、不潔よ」


 翌日の夕食の席、母親のヒステリックな声が響く。いつもの日常。いつもの抑圧。しかし、今日の小春は違った。彼女は箸を置き、ゆっくりと前髪をかき上げた。露わになった漆黒のツノに、母親の悲鳴が凍りつく。


 「……っ、何それ、小春、あなた何なの!?」


 「うるさいな」


 小春の呼吸が荒くなる。胸の奥で、何かが暴れ出していた。


 母の声が遠くで響く。

 「小春、やめなさい! そんなこと――」


 その言葉を遮るように、小春は右指を突き出した。瞬間、指先から青白い電撃がほとばしった。バチィッ――という鋭い音とともに、天井の蛍光灯が閃光を放ってショートする。次の瞬間、家中の電気が一斉に落ち、闇が押し寄せた。


 停電した暗闇の中、青白い稲妻が部屋を断続的に照らす。 ビカッ、ビカッ、と光るたびに、小春の姿が浮かび上がる。黒いスウェットの背中を突き破って広がる黒い翼。額から伸びる二本の黒いツノ。その瞳は、まるで雷そのもののように光を宿していた。


 母は声を失い、ただその場に立ち尽くす。小春の放った電撃が壁を這い、食卓の上の皿を震わせ、空気を焦がす。それでも小春は止まらなかった。彼女の中で、恐怖と怒りと悲しみが渦を巻き、電流となって世界に溢れ出していた。


 「もう……誰にも止められない……!」その叫びとともに、最後の閃光が部屋を真昼のように照らし出した。


 「お父さん、お母さん。今日からこの家のルールは私が決める。……いい? 返事は『はい、魔王様』よ」


 恐怖に支配された両親は、震えながら頷くしかなかった。彼女の小さな部屋は、もはやクローゼットの中ではない。家全体が、彼女の最初の「領土」となった。




 その夜、木崎家を支配したのは、ただの暗闇ではなかった。それは、娘という形をした「未知の暴力」への、底なしの恐怖だった。

 一階のリビングでは、父と母が寄り添うようにしてソファーに座り、震えていた。


 父は、まだ破片が散らばったままのキッチンの方を呆然と見つめ、微動だにできなかった。守るべき対象だったはずの娘から、明らかな殺意に近い視線を向けられた。その事実が、彼の父親としての誇りと理性を粉々に砕いていた。「悪魔」として通報すべきなのか、それとも、このまま彼女の「領民」として死ぬまで怯え続けるのか。膝の上で震える拳は、もう娘を抱きしめるためのものではなくなっていた。


 母はただ、音を立てずに泣き続けていた。

 キッチンの床には、自分が腕によりをかけて作ったはずの料理が泥のようにへばりついている。「普通にしてなさい」という自分の言葉が、どれほど小春を追い詰めていたのか。あるいは、もっと早くに気づいてやれば……。そんな後悔すら、今の小春には「無意味な雑音」として切り捨てられてしまうことを、彼女は本能で悟っていた。


 一方、二階の自室でベッドに横たわった小春は、かつてない安らぎの中にいた。

 もう、隠さなくていい。もう、母の顔色を窺って「普通」のフリをする必要もない。

 学校から帰って着替えた黒いスウェットの背中を、自らの翼で内側から引き裂き、剥き出しのままシーツの上に横たわる。 月光を浴びて鈍く光る漆黒の翼は、彼女にとって唯一無二の誇りであり、この世界の誰よりも自分が気高い存在であることの証だった。


 床を隔てた一階から、怯える両親の気配が微かに伝わってくる。

 かつては自分を縛る巨大な檻だった大人たちが、今は自分の機嫌一つでどうにでもなる、か弱き民に過ぎない。その事実が、小春の心を冷たく、そして深く満たしていった。


 (……明日からは、もっと広くなる)


 この家という小さな箱を飛び出し、自分を否定した世界そのものを、私の下に跪かせてやる。

 小春は額から伸びる鋭いツノの感触をそっと確かめながら、魔王としての初めての夜を、甘い眠りの中で過ごした。




 翌日、小春は隠すことをやめた。カチューシャも、厚手のカーディガンも捨てた。制服の背中をカッターで大きく切り裂き、翼を剥き出しにした姿で登校した。


 「おい、見ろよ……木崎、何だあの格好」

 「コスプレ? いや、あれ本物……?」


 教室が騒然とする中、小春は教卓に飛び乗った。


 「今日から、この学校は私の支配下に入る。逆らう者は、焼く」


 「ははっ、木崎、お前本気で言ってんの?」


 笑い声を上げたのは、クラスの主導権を握っていた男子生徒だった。彼は面白半分に小春に近づこうとしたが、小春の掌から放たれた青い火球が、彼の足元の床を抉り、一瞬で炭化させた。


 「ぎゃあああっ!」


 生徒たちの悲鳴が響く中、小春はゆっくりと立ち上がった。その眼差しは凍てつくように鋭く、髪の隙間から覗くツノが鈍く輝いている。


 小春が指先を扉の方へ向ける。次の瞬間、指先から眩い光線が放射された。それは一直線に教室の扉へと走り、金属を焼き切るような音を立てて表面を溶かしていく。ドロリと溶けた鉄が垂れ、扉と枠が癒着した。生徒の一人が慌てて取っ手を引くが、扉はびくともしない。退路は完全に断たれていた。焦げた匂いと、まだ空気中に残る光の残滓。小春の指先からは、なお微かに熱が立ち上っていた。


 「誰も逃げちゃダメだよ。……あ、佐藤君。あんただけは別。こっちに来なさい」


 窓際で呆然としていた佐藤を呼ぶ。小春は彼を「最初の騎士(しもべ)」として遇してやるつもりだった。だが、佐藤は眉をひそめ、ポケットに手を突っ込んだまま歩み寄ってきた。


 「……木崎、やりすぎだろ。これじゃ世界征服っていうより、ただのテロじゃん」


 小春の頬がぴくりと引き攣った。

 「……何て言った?」


 「いや、だからさ。学校占拠してどうすんだよ。もっとスマートにやれよ。お前、頭悪いのか?」


 教室の空気が凍りついた。小春の瞳から一切の体温が消え、底知れない冷徹な殺気が溢れ出した。

 「……佐藤。あんた、誰に向かって口を利いてるの? 私は魔王よ。この世界の新しい(ことわり)なの」


 「魔王だか何だか知らないけどさ、俺たち友達だろ?」

 「黙れ!!」


 小春の叫びと共に、爆風が佐藤を壁まで吹き飛ばし、教室中の窓ガラスが粉々に砕け散った。小春は割れた窓ガラスを抜けて空中へと舞い上がり、蔑むような視線で彼を見下ろした。


 「友達? 笑わせないで。私は、私を崇める存在以外、必要ない。あんたも、他の有象無象と同じように、跪いて後悔しなさい」


 小春の放った言葉は氷のように鋭く、周囲の空気を凍てつかせた。だが、対峙する佐藤の身体が、恐怖で震えることはなかった。

 彼はただ、真っ直ぐに小春を見つめ返していた。その瞳に宿っているのは敵意ではない。それは、闇に飲み込まれそうな相手をただ一点から照らし返し続ける灯台のような、静かで、ひどく頑固な光だった。

 佐藤には見えていたのかもしれない。禍々しい翼を広げ、圧倒的な魔力を纏って傲然(ごうぜん)と見下ろす「魔王」の姿などではなく、夏の間中、必死に自分を押し殺して長袖を脱がなかった、あの孤独で不器用な少女の震える心が。

 ここで彼が膝をつけば、彼女は望み通り「絶対者」になれるだろう。だがそれは同時に、彼女がこの世界で、誰の手も届かない深い孤独の深淵へ落ちることを意味していた。


 佐藤が竹刀を握る。


 ぎり、と音を立てて握り込まれた拳には、彼女の言葉を拒絶し、その傲慢ごと叩き伏せるという明確な意志が宿っていた。


 「……いいよ。お前が俺を友達じゃないって言うなら、それでも構わない」


 佐藤の声は、不思議なほど穏やかだった。

 一歩。彼は魔力の圧力に抗うように、地面を踏みしめる。

 

 「でも俺は、お前を一人にはさせない。力尽くでも、隣まで引きずり戻してやる」


 その言葉は、もはや今の小春には届かない。彼女は、(すが)るような佐藤の視線から無機質に目を逸らした。もはや彼と語り合う言葉など、一言も持ち合わせてはいなかった。


 小春はそのまま佐藤を放置し、屋上に降り立った。




 教室の外では、すでに異常事態が広がっていた。 廊下を走る教師たちの怒号、逃げ惑う生徒たちの悲鳴。誰もが何が起きているのか分からず、ただ恐怖に突き動かされていた。


 「火事か!?」 「いや、爆発だって!」

 「救急車呼べ!」 「警察もだ、早く!」


 スマートフォンを構える者、泣きながら友人を探す者、階段を転げ落ちる者。校舎の外では、避難した生徒たちが校庭に集まり、ざわめきが波のように広がっていく。空には黒い煙が立ち上り、焦げた匂いが風に乗って漂った。


 「中にまだ人がいるんだろ!?」

 「先生、戻っちゃダメです!」


 誰もが叫び、誰もが混乱していた。その中心にいるのが、たった一人の少女――木崎小春だとは、まだ誰もが知らなかった。




 事件はすぐに日本中を駆け巡った。「角と翼を持つ少女、学校を占拠」「正体不明の熱線兵器を使用」 SNSには画像が溢れ、警察の特殊部隊が学校を包囲した。


 「対象に告ぐ! 直ちに武装を解除し、投降しなさい!」


 スピーカーからの警告。小春は学校の屋上に座り、飛来するヘリコプターを見つめていた。

 「……武装? これが私の身体だって言ってるのに」


 小春はゆっくりと顔を上げた。風が止まり、空気が張り詰める。


 銃口が一斉に彼女へと向けられた。次の瞬間、乾いた銃声が連続して響く。しかし放たれた銃弾は小春の周囲に展開された魔力の障壁に阻まれて力なく地面に落ちた。

 「無駄だよ。鉄の塊なんかで、私に届くと思ってるの?」


 小春の右手の人差し指の先端に、ぽうっと小さな光の玉が現れた。それはビー玉ほどの大きさで、静かに脈打ちながら青白く輝いている。彼女は無言のまま、その光の玉を警察車両の目前へと放った。光はゆっくりと落下し、地面に触れた瞬間――沈黙が訪れた。


 そして、数秒後。


 轟音とともに、学校全土が吹き飛ぶような大爆発が起こった。爆風が校舎を貫き、警察の車両を紙屑のように吹き飛ばす。空中では、取材用のヘリが激しい衝撃波に煽られ、コントロールを失って墜落していった。炎と煙が空を覆い、世界が一瞬で白く塗りつぶされる。その中心に、小春だけが静かに立っていた。


 小春は、都心を見渡した。

 「あの塔にする」


 彼女が指差したのは、東京の象徴とも言える、最も高い電波塔だった。彼女は翼を羽ばたかせ、一気に加速した。風が彼女の髪を揺らし、下には混乱する街と、上空には自衛隊の戦闘機が旋回している。小春が小さく呟き、指先を軽く弾いた。その瞬間、空気がわずかに震え、彼女の周囲に淡い電光が走る。稲妻というほどではない、静かな放電。

 それでも、近づいていた戦闘機の計器が一斉に狂い始めた。警告音が鳴り響き、機体が不安定に揺れる。パイロットが必死に操縦桿を引くが、制御を失った機体は煙を上げながら高度を落としていった。

 小春はその様子を見下ろし、ただ静かに目を閉じた。彼女の周囲には、まだ微かに青白い光が漂っていた。


 眼下の街並みがパニックに染まり、迎撃に現れる戦力をもぎ取っては捨てていくうちに、高かった太陽は次第にその勢いを失っていった。街の影が長く伸び、空が燃えるような朱色から、深く、重い藍色の闇へと溶け始める。幾つものビルから上がる黒煙が、夜の(とばり)に飲み込まれていく。




 やがて完全に日が落ち、街が人工的な光に覆われる頃、目標としていた巨大な鉄塔が、小春の眼前にその圧倒的な威容を現した。頂上は雲を突き抜け、赤い航空灯がゆっくりと点滅している。小春は速度を落とし、塔の最上部にある鉄骨の縁へと降り立った。


 足元から伝わる金属の冷たさ。眼下には、果てしなく広がる夜景。遠くでサイレンの音がかすかに響いていたが、ここまで届くものは何もない。

 小春は静かに息を吐き、夜空を見上げた。雲の切れ間から覗く月が、彼女の翼を淡く照らす。その光の中で、彼女の瞳は深い決意を宿していた。


 「……ここなら、全部見える」


 小春は塔の先端に立ち、両手を広げた。彼女の指先から溢れ出した禍々しい魔力が、意志を持つかのように天へと駆け昇る。一瞬にして空は濁り、重苦しい紫黒色の雲が薄い月影さえも塗り潰し、残された星屑の光までをも飲み込んでいった。

 風が強く吹き抜け、制服の裾がはためく。その姿は、まるで夜の支配者のように、東京の空を見下ろしていた。


 マスコミのヘリが遠巻きに彼女を撮影している。その映像は、瞬く間に各局のニュース番組へと送られ、緊急特番として放送が始まった。


 「現在、東京上空に正体不明の少女が――」 アナウンサーの声が震える。


 SNSでは、誰かが撮影した動画が次々と拡散されていった。ライブ配信、ニュース速報、海外メディアの翻訳投稿。 数分も経たないうちに、世界中の人々がその映像を目にすることになる。

 ツノと翼を持つ14歳の少女――木崎小春。彼女の姿は、テレビにも、スマートフォンの画面にも、街頭ビジョンにも映し出されていた。

 夜の東京の空に立つその小さな影は、もはや一国の出来事ではなく、人類全体の「現実」として世界に刻まれようとしていた。




 その光景を、息の仕方も忘れたかのように見つめる男女がいた。


 郊外の住宅街にある木崎家のリビング。昨夜、小春が放った電撃で焦げ付いた壁や、ひっくり返ったままの椅子が、テレビの青白い光に照らされて不気味な陰影を落としている。


 母親は震える手で口を覆い、画面の中の娘を凝視していた。

 ほんの数日前まで、この部屋で共に食卓を囲んでいたはずの少女。その背中から生えた漆黒の翼が、夜風を(はら)んで傲然と広がっている。

 画面の下には「史上最悪のテロリストか」という、あまりに非現実的なテロップが躍る。だが母の目には、世界を脅かす怪物などではなく、昨夜の夕食の途中で箸を置き、それまでの親子関係を自ら断ち切るように去っていった、たった一人の愛娘の姿としてしか映らなかった。

 その時、スピーカーからノイズ混じりの、しかし凛とした声が響いた。


 『人類の皆さん、こんにちは。私は木崎小春。……いいえ、今日からはただ「魔王」と呼びなさい』


 母の喉から、言葉にならない嗚咽(おえつ)が漏れた。

 画面の中の小春は、かつてないほど残酷に、連鎖する破壊を背に美しく笑っていた。


 『私は、あなたたちの古いルールには従わない。法律も, 国境も、道徳も。今日限りで全て破棄します。これからの法律は、私の気分一つ。私を喜ばせる者は生かし、不快にさせる者は消す』


 その宣言は、彼女を縛り付けてきた「家族」という名の小さな平穏すらも、完全に焼き捨てたことを意味していた。


 横に座る父親は、微動だにせず画面を凝視していた。昨夜、目の前の娘が放った異形なる力に圧倒され、ただ跪くことしかできなかった彼は、もはや一言も発することができない。握りしめた拳が白く震え、滴り落ちる汗が床の焦げ跡に吸い込まれていく。彼にとって、画面の中の少女はもう「娘」という言葉では到底捉えきれない、あまりに遠く高い場所へ行ってしまった、絶対的な拒絶の象徴だった。


 「……小春」


 母親の悲鳴のような掠れた声が、虚しく室内に響く。

 ヘリのライトに照らされた小春の瞳には、一階のリビングで震え続ける親の姿など、もはや微塵も映ってはいなかった。




 小春は塔の最上部にある鉄骨の縁に立ち、夜風に吹かれていた。高所特有の風が絶え間なく吹き抜け、髪を揺らし、制服の裾を翻す。眼下には、無数の光が瞬く東京の街。その光のひとつひとつが、まるで遠い星のように静かに輝いている。

 小春はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たし、心の奥に残る熱を少しだけ鎮めていく。


 「……静かだね」


 誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。遠くでヘリの音がかすかに響くが、この高さでは届かない。ただ、夜風と街の光だけが、彼女を包み込んでいた。


 「……今なら、私の思考一つで都市を壊滅させることが可能なはず」


 その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほど心が動かなかった。恐れも、興奮も、達成感もない。ただ、すべてが手の届く範囲にあるという事実だけが、静かに胸の奥に沈んでいく。

 小春は小さく息を吐き、夜風に髪を揺らした。


 「……退屈」


 不意に、そんな言葉が漏れた。全てを手に入れた。誰も逆らわない。両親は恐怖で壊れ、学校の連中は逃げ出し、国家は機能不全に陥った。だが、心のどこかに、消えない棘のような不快感が残っている。


 (佐藤のやつ、あんなこと言って……)


 『お前、頭悪いのか?』


 その言葉が、どんな魔法の障壁も通り抜けて、彼女の胸を締め付ける。世界を征服しても、あの生意気な少年の言葉一つを、彼女は消し去ることができないでいた。


 「いいもん。あいつだって、すぐに死ぬ。私が世界を全部壊して、新しく作り直せば……」


 小春はゆっくりと右手を前に差し出した。掌の中心に淡い光が集まり、やがて細い光線となって夜空を貫く。一本、また一本と、光が次々と放たれ、眼下の街へと降り注いでいった。光線が触れた場所から、建物が崩れ、爆発が連鎖する。 道路が裂け、炎が走り、街全体が赤く染まっていく。


 「……あはは。面白い。面白すぎるよ」


 やがて、東京の一角が炎に包まれ、夜空を焦がすように燃え上がる。小春は、厚い雲が月を覆い隠す暗がりのなか、漆黒の翼を大きく広げた。


 「もうすぐ、この国から『抵抗』という言葉が消える。あはは、なんて静かな世界かしら」


 その時だった。鉄塔の下方から、耳を裂くような衝撃音が響き渡る。小春が放った炎の奔流が、何者かによって次々と打ち消されていく。


 「……何? 私の業火を、誰が」


 小春は目を凝らした。炎と煙の切れ間、塔の根元近く――崩れた瓦礫の上に、ひとりの人影が立っている。距離はあるが、その姿を見間違えるはずがない。


 「佐藤……? 生きてたんだ」


 彼は学校のジャージ姿のまま、その手には剣道の名門である佐藤家に代々家宝として伝わる、古びた一振りの真剣が握られていた。本来なら錆びついていてもおかしくないその刃が、今は小春の魔力に呼応し、佐藤の「友達を助けたい」という執念を吸い込んで、眩いまでの白銀の光を放っている。彼は小春が放った炎の波を切り裂きながら、一直線に塔を駆け上がってくる。


 「小春! 降りてこい! お前の『ごっこ遊び』は、ここで終わりだ!」


 「……佐藤。私を名前で呼ぶなんて、随分と偉くなったじゃない」


 小春は立ち上がり、空中を歩くようにして佐藤の前に降り立った。塔の中層、崩れかけた展望デッキが二人の決闘場となった。




 風が吹き抜け、鉄骨が軋む。焦げた匂いと血の匂いが混じり合う中、二人はしばらく無言で向かい合っていた。


 「……来なきゃよかったのに」 小春の声は、かすかに震えていた。

 「ここは、もう人間が立ち入っていい場所じゃない」


 佐藤は息を整え、ゆっくりと刀を構えた。

 「それでも来た。お前が、まだ人間のままでいてほしかったからだ」


 「人間? そんなもの、とっくに捨てたわ」 小春は笑った。だが、その笑みはどこか寂しげだった。

 「私は魔王。世界を焼く存在。……あんたの知ってる小春なんて、もういない」


 「嘘だな」 佐藤の声は静かだった。

 「本当にそうなら、今みたいに泣きそうな顔はしない」


 小春の瞳が揺れる。

 「……うるさい。私を哀れむな」


 「哀れんでなんかいない。止めたいだけだ。お前が壊す前に、俺が斬る」


 「……そう。なら、やってみなさいよ」 小春は翼を大きく広げ、足元の鉄骨が熱で赤く染まる。

 「この世界で、私を止められるのは――神か、悪魔か、あるいは……」


 「友達か、だろ」


 その言葉に、小春の表情が一瞬だけ崩れた。次の瞬間、二人の間に閃光が走る。

 炎と風がぶつかり合い、展望デッキの床が爆ぜる。小春の掌から放たれた火球が、夜空を裂くように飛び、佐藤の足元を焼き払う。だが佐藤は一歩も退かず、刀を振り抜いた。光の刃が空気を裂き、炎を真っ二つに断ち切る。


 「なんて力だ……!」

 「当然よ。私は魔王なんだから!」


 小春が叫ぶと同時に、額のツノが雷光を帯びた。次の瞬間、無数の稲妻が空から降り注ぎ、塔全体を白く染め上げる。電撃が鉄骨を伝い、空気が焦げる匂いが広がった。佐藤はその中を駆け抜け、雷鳴の中で刀を振るう。刃と雷がぶつかり、轟音が塔全体を震わせた。


 「くっ……!」


 佐藤の腕に電流が走り、筋肉が一瞬痙攣する。

 それでも彼は怯まず、踏み込みながら横薙ぎに斬りつけた。


 だが、その刃は小春の身体に届く寸前で弾かれた。目に見えぬ壁――小春の周囲に張り巡らされた魔力の障壁が、鋭い音を立てて刀をはじき返す。


 「……そんなものまで使えるようになったのか」

 「魔王を名乗るなら、これくらい当然でしょ」


 再び炎が爆ぜた。小春の足元から紅蓮の火柱が立ち上がり、塔の外壁を焼き尽くす。 佐藤はその中を駆け抜け、光の刃で炎を切り裂くが、熱気が肌を焦がす。瓦礫が雨のように降り注ぐ中、二人は互角の攻防を繰り広げた。


 だが、次第に小春の魔力が空気を支配し始める。炎が彼女の周囲を巡り、空間そのものが揺らめいていた。 佐藤の動きがわずかに鈍る。刀を振るたびに、熱が全身を焼く。


 「どうしたの、佐藤。もう限界?」

 「……まだだ。俺は、まだ倒れない!」


 膝をついた佐藤の前で、小春が静かに歩み寄る。その瞳には、勝者の光と、どこか痛みを隠すような影が宿っていた。


 「終わりよ、佐藤。あなたはもう、私の世界にはいられない」


 炎が塔を包み、夜空を赤く染め上げた。焦げた空気の中で、佐藤は歯を食いしばる。全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界が赤く滲む。それでも、足は止まらなかった。


 ――負けられない。


 あの日、彼女に誓った言葉が、胸の奥で燃え上がる。


 『――俺は、お前を一人にはさせない。力尽くでも、隣まで引きずり戻してやる』


 握る刀が軋み、血に濡れた掌が滑る。それでも構えを崩さず、ただ前へ。


 「うおおおおおおおっ!!」


 鋭い刺突が、小春の魔力障壁を疾風のごとく突き抜いた。小春は咄嗟に翼を盾にして防いだが、鋼のような硬度を誇ったはずの翼が、深く切り裂かれ、黒い血が舞った。


 「っ、痛い……痛いじゃない!! よくも私の美しい翼を!」


 小春の逆鱗に触れた。切り裂かれた翼の痛みが理性を塗りつぶし、彼女の周囲の温度が急上昇する。大気がプラズマ化してバリバリと音を立てる中、小春は両手を天に掲げた。

 その手に、太陽を模したような超高熱の光球が凝縮されていく。


 「もう手加減なんてしない! 骨の髄まで焼き尽くしてあげる!」


 光球は唸りを上げながら膨張を続ける。小春の頭を覆い、肩を越え、やがて彼女の身体そのものを数倍飲み込むほどの巨大な質量へと成長した。一切の陰りもない、純粋にして苛烈な白銀の輝き。逃げ場のない熱波が鉄骨を赤く変色させ、鉄塔の頂上を影すら許さぬ終焉の光が支配する。

 小春は、光の濁流の中で涙を浮かべ、足元の瓦礫に立つ佐藤を凝視した。


 「……お願い、もう逃げてよ。このままじゃ私、本当にあんたを消しちゃう……っ!」


 震える声は、膨れ上がる光球の轟音にかき消されていく。その小さな願いを無慈悲に飲み込みながら、光球は冷徹な殺戮の質量となって膨張し続けた。


 「死ねえええええ!!」


 小春が光球を解き放つ。全てを無に帰す光の奔流が、佐藤を飲み込もうとした。だが、佐藤は逃げなかった。彼は剣を鞘に収めるような独特の構えをとり、全身の神経を刀の切っ先に集中させた。


「――うおおおおっ!」


 彼が叫んだ瞬間、剣が閃いた。それは「斬る」ための動きではなく、巨大な力をそのまま「受け流し、返す」ための円運動だった。剣道部で何万回と訓練した「返し技」の極意が、人知を超えた魔力とぶつかり合う。


 光の奔流が佐藤の剣に吸い寄せられ、螺旋を描いて収束する。そして――その力は倍化し、小春へと逆流した。


 「え……?」


 自分の放った最大最強の魔法。その熱波が、皮肉にも小春自身を包み込む。魔力障壁は、自分自身の魔力に対しては無防備だった。ドォォォォォン!! という凄まじい爆発音と共に、塔の展望デッキが粉砕される。


 小春の身体は、自分自身の業火に焼かれ、黒焦げのボロ布のようになって夜空へ放り出された。


 「ああ……あああああ……っ! 熱い……身体が、溶けていく……」


 墜落する感覚の中で、小春は背中に「喪失」を感じた。

 誇りだった漆黒の翼が、自らの炎に晒され、無惨に焼け(ただ)れていく感触が神経を突き刺す。視界の端を、焼けて千切れた黒い膜の破片が、まるで見捨てられた落ち葉のようにひらひらと舞い上がっていくのが見えた。

 蝙蝠のような薄い膜は至る所が焼け焦げて弾け、虫食いのような不格好な穴がいくつも開いていく。必死に羽ばたこうとしても、穴から空気が無情に漏れ出し、風を捉えることができない。もはやその翼は、彼女を空に留めておくための道具ではなく、ただ重く引きずるだけの「焼けた肉の塊」へと成り下がっていた。


 「……ああ……私の、翼が……」


 視界が暗転する。

 地面に叩きつけられる直前、瓦礫の山が衝撃を和らげたが、全身を貫く激痛に小春は絶叫することすらできなかった。




 荒れ果てた大地の中心。そこには、かつての「魔王」の面影もない、無惨に焼けた一人の少女が横たわっていた。衣服は焼け焦げ、肌は炭のように黒ずんでいる。だが、彼女はまだ生きていた。弱々しく、しかし確かに、胸が上下している。


 「……小春。おい、しっかりしろ」


 佐藤が声をかける。彼の剣も折れ、身体中に火傷を負っていた。小春は力なく目を開けた。視界は霞み、あんなに溢れていた魔力は、もう一滴も感じられない。


 「……さ、とう……くん……」


 「ああ、俺だ。終わったぞ」


 小春は震える指で、自分の身体をなぞった。

 左のツノは、落下の衝撃で根元から無残にへし折れている。そして、背中にあるのは、穴だらけになり、ぼろきれのようになった翼の残骸だった。世界征服なんて、遠い夢のように思えた。


 「……私、負けたんだ……。あはは、かっこ悪い……。魔王なのに、人間に……負けちゃった」


 彼女の瞳から、一筋の涙が溢れる。それは黒く汚れた頬を白く洗い流した。


 「ねえ……どうして、止めに来たの? 放っておけば、私、本当に世界を壊せたのに」


 「言っただろ。お前が笑ってたからだよ。あんな風に笑うやつを、化け物のままにしときたくなかったんだ」


 小春は、空を仰いだ。紫黒色の雲は晴れ、そこには皮肉なほど綺麗な星空が広がっていた。魔法も、権力も、居城も失った。今の彼女は、ただの「奇妙な身体を持った14歳の少女」に戻っていた。


 「……警察が来るわね。私、死刑かな。……それとも、やっぱり実験室行き?」


 「……誰にも渡さない。お前の未来は、俺が守る」


 遠くから、無数のサイレンの音が近づいてくる。小春は、佐藤のジャージの裾をぎゅっと握りしめた。全身を突き刺すような激痛の中で、彼女は不思議な安堵感に包まれていた。もう、隠す必要はない。もう、偽りの王座に座る必要もない。


 「……お腹、空いたな。……世界征服、結構疲れるんだもん」


 小春は小さく笑い、そのまま深い眠りへと落ちていった。まどろみの中で、すべてが白銀の虚無へと溶けていく。

 こうして「魔王」と呼ばれた14歳の少女の時間は、唐突に、そして静かに止まった。




 角と翼 ―ツノとツバサ― 第1部 (完)

*更新履歴

 2026/3/8 時間の描写に矛盾が生じていた箇所があったため加筆修正しました。

 2026/3/8 目的地に関する記述が重複して書かれている箇所があったため修正しました。

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