くるい井戸
蘇明秀は、王命により北辺の農村「水螺」へ向かった。
この村では、近年、**「井戸の水を飲んだ者が発狂する」**という噂が相次いでいた。
さらに村の戸籍記録には、存在しない者の名が頻出していた。
白猫・玄氷を連れ、明秀は水螺村に入った。
村は水脈に沿ってできた集落で、石造りの井戸を中心に広がっていた。
不気味なほど、静かだった。
村人たちは誰も井戸に近づかず、代わりに川水を汲んでいた。
「もう、あの井戸は”開いてしまった”のです」
村長を名乗る女、翟婆がそう言った。
白髪で、目が潤んでいた。
⸻
その夜。明秀は宿で帳簿を調べた。
すると不審な記録を見つけた。
「成和三年、水螺村の人口一〇六。だが、翌年の記録には一四九」
なぜか、一年の間に四十人以上が“増えていた”。
しかも、増えた者の名は、すべて“水”の文字を含んでいた。
水梳、水嶺、水宿、水陽……。
彼はそれらの名が記された戸籍札を、玄氷の前に並べた。
玄氷は小さく「ニャ」と鳴き、そのうちの一枚を爪で引っかいた。
水麗
明秀はその名に見覚えがあった。
それは、村の入口で彼に水を差し出してきた、無言の少女の名だった。
(あの娘は……)
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翌朝。彼は井戸のもとへ向かった。
井戸の底を覗き込むと、澄んだ水面に、自分の顔とは別の顔が映っていた。
見知らぬ女の顔。
無表情で、しかし水面の裏側から、じっとこちらを見ていた。
「……井戸は、門です。水が、内と外をつなげてしまう」
背後から翟婆の声。
「十年前、干ばつを恐れて封印を解いたのです。
だが井戸は、水を与えるものではなく、記憶を奪うものだった」
明秀は問うた。
「では、村人たちは?」
「あなたが話した者の中に、**“もともとこの世にいなかった者”**がいるでしょう。
彼らは、水の中から戻ってきた名だけの存在です」
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明秀は、水麗のことを思い出した。
確かに、彼女は言葉を発さなかった。目も合わさなかった。
ただ、手の甲が濡れていた。
そして――足が、土に沈んでいたように見えた。
その夜、玄氷が小屋の床をひっかき続けた。
木の床板を剥がすと、そこからわずかに湿った声が漏れた。
「……水を返して……」
水麗の声だった。
明秀は覚悟を決めて、井戸に水を戻す儀式を試みることにした。
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翟婆によれば、井戸には**“渡し水”**が必要だという。
これは、人の記憶と名前を一時的に託す水。
儀式には、王の官吏である明秀の“真名”を一滴の水に封じる必要があった。
玄氷が彼の手を爪で引っかいた。血が滲む。
それを村の最古の壺に落とすと、壺の中の水が一瞬青く光った。
「あなたの名前が、一時的に水に渡った。
この水を井戸に戻せば、“偽の者たち”は還るでしょう」
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夜更け。井戸に向かい、壺の水を注ぐ。
すると、霧が立ち昇り、井戸の底から数十の影が現れた。
皆、村の記録にあった“水”の名を持つ者たちだった。
彼らは、静かに、にこやかに、そして淡く笑いながら――
そのまま、水面に吸い込まれていった。
最後に現れたのは、水麗。
「お名前……ありがとう……」
そう言って、水面に沈み消えた。
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翌朝、村人たちの人数は“元通り”になっていた。
戸籍札から“水”の名の者たちがすべて消えていた。
水嶺、水梳、水陽――水麗も。
誰も彼らのことを覚えていない。
しかし明秀の手には、まだかすかに水の痕が残っていた。
そして玄氷は、水たまりの上にぽたりと座り、
長く低い声で鳴いた。
「――ニャァ」