お気持ち系クズ
可愛らしい顔に、優しげな声。
そんな僕を見て、人は皆「いい子だね」と笑う。
でも本当は、僕の中身なんて、見せられたもんじゃない。
これは、“いい人”に見える僕が、どれほど“他人の目”を操って、心の中で嘲笑いながら生きているかを描いた、ほんの始まりの物語。
目が覚めた瞬間、僕はぼんやりとした頭で天井を見上げていた。窓から差し込む光はやわらかく、朝だということを穏やかに告げていた。いつもなら憂鬱なはずの月曜日だけど、今日は少しだけ気分が違った。昨夜、会社で評価されたことが嬉しくて、久々に安眠できたのかもしれない。
洗面所で顔を洗ったあと、鏡の前で軽く髪を整える。僕の顔はよく“中性的で可愛い”と言われる。自分でもそう思う。まるで少女漫画の主人公みたいに整っていて、ほんのり色白で、目が大きい。正直、この顔は気に入ってる。だって、これのおかげで誰からも「いい人そう」だと思われるから。中身の僕がどんなに腹の中で他人を見下していても、誰もそんな風には思わない。
駅へ向かう途中、スマホを開いてSNSを軽く流し見る。フォロワーの誰かが「爆弾事件の報道があった」と書いている。気になってニュースアプリを開くと、都内のショッピングモールで爆発があったらしい。ケガ人も出たらしいけど、詳しいことはまだ分からない。
「物騒な世の中だなぁ」
そう呟いて、アプリを閉じる。
だけど、それはまだ“他人事”だった。
会社に着いても、皆の会話はいつもと変わらなかった。今日の会議、上司の機嫌、隣の席の奴の仕事ミス。みんな、同じように愚痴をこぼし、同じように笑っていた。
僕はそんな日常に安心しながら、自分の席に座り、パソコンを立ち上げる。今日は定時で帰って、コンビニでスイーツでも買おうかな。そんなことを考えていた。
その時だった。
ビル全体を揺らすような衝撃が突き上げてきた。
次の瞬間、僕は真っ暗な空間に閉じ込められていた──。
全身が鉛のように重い。どこか遠くで爆音が鳴っていた気がする。目を開けると、照明の落ちた会議室の床が目の前にあった。倒れた椅子。割れたガラス。火花の散る配線。
「……なんだ、これ……」
僕はようやく事態を理解した。会社が、何者かに襲撃された? いや、ニュースで見た爆弾事件が、今度は僕の身に?
助けを呼ぼうとスマホを取り出すが、圏外だった。
僕は完全に、閉じ込められていた。
そして──
「おやおや……お気持ちくん。ひとりぼっちで、寂しそうだねぇ」
聞こえてきたのは、聞き覚えのない男の声だった。妙に甲高く、楽しげで、耳にまとわりつくような声。
「誰……だよ……」
声の主は、会議室の隅からぬるりと現れた。黒い影のような姿。輪郭がぼやけていて、目だけが真紅に光っている。
「俺様ちゃんはただの通りすがりの“悪魔”。暇つぶしに遊びに来ただけさ」
悪魔はくすくす笑った。
「お前にひとつ、ゲームをしに来たんだ」
「ゲーム……?」
「ここには、お前以外の三人の人間が生きている。でも、助かるのは一人だけ。一人助けるとしたら誰を選ぶ?」
僕は、言葉を失った。
「え、なに、それ……冗談、だろ……?」
「本気だよ。爆弾はもうセットしてある。選ばなければ、全員爆死。誰かを選べば、そいつだけは助けてやる」
悪魔は楽しそうに微笑んだ。その笑みは、嘲笑そのものだった。
「選択って、最高に人間性が出るからね」
僕の背筋が、氷のように冷たくなった。
会議室の天井に、薄暗い非常灯の明かりがぼんやりと浮かぶ。耳鳴りが鳴り止まず、息を吸っても肺の奥に鉛のような重さが残る。
爆発が起きたのは、ほんの数時間前。何がどうしてこうなったのか、僕にはまだ整理できていない。爆音と熱風、誰かの悲鳴──すべてがごちゃ混ぜになって、時間の感覚が消えていた。
気づけば僕は、閉じ込められた会議室の中で独りきりだった。
静寂を破るように、会議室の隅からふわりと声が湧いた。そちらに視線を向けると、いつの間にか黒い影が立っていた。人の形をしているのに、どこか煙のように輪郭があいまいで、赤い目だけが爛々と輝いていた。
僕の頭が回らないまま、黒い影──悪魔は口角を歪めた。
「爆破で頭を打ったのか?あんまり聞こえてないみたいだから、もう一度、説明してやるよ」
「でね、お気持ちくん。今、このビルに生き残ってるのはお前以外の三人。君の同僚の田村くんと、課長の西村さんと後輩の反町くんが別室で意識を失ってる。でもこのままじゃ──三人とも死ぬ」
悪魔はそこでわざとらしく間を取った。
「だからね、選んでくれないか? お前が、誰を生かすか、タイムリミットは、あと三分だ」
思考が止まった。意味が、理解できなかった。
「選べば、一人だけ助かる。でも選ばなければ、全員が死ぬ。ルールはそれだけ。簡単だろ?」
「ふざけんなよ……そんなの、僕が決められるわけないだろ……!」
悪魔は首を傾げる。
「でも、決めないと死ぬよ?」
ぞっとするほど軽い口調だった。
「お前のように、いつも誰かの顔色を見て、自分の責任を回避して生きてきた人間。そういう人間が“決断”を迫られる姿を見るのが、俺様ちゃんの娯楽なんだ」
悪魔は僕の過去を語り始めた。
──あの日、路地裏で男が殴られていた。僕は見て見ぬふりをした。関わりたくなかった。数日後、被害者が重体だとニュースで知った。
──ある日、子どもたちが猫をいじめていた。見て見ぬふりをした。数日後、猫の死骸が公園の隅で発見された。
──職場で同僚が無視されていた。僕は黙っていた。余計なことに巻き込まれたくなかった。
「なぜなら、お前にとって一番大事なのは、“自分が傷つかないこと”だからだ」
「うるさい! 僕は……僕は……そんなこと……!」
「そんなこと、したくなかった? でも、したよね」
言葉が喉で詰まる。言い返せない。僕は悪魔の視線から逃げるように、床を見つめる。
「誰かを選んで、誰かを見殺しにする。そんな“悪役”になるのは怖い。だから、“誰かのせい”にしたい。お前はずっと、そうやって生きてきた」
「違う……選ばせようとするお前が悪いんだ!」
「ほら、また他人のせいだ」
悪魔はくすくすと笑った。
「さあ、残り時間はあとわずか。お前は、どうするのかな?」
僕の喉が乾く。心臓が暴れる。脳が拒絶する。考えろ、考えろ、考え──
僕の心が、ギリギリと音を立てて軋んでいく。
そして、時間が過ぎた。
「タイムアップだ」
悪魔が囁いた瞬間、建物の奥から地鳴りのような轟音が響いた。
爆発が起きた。どちらを選ぶこともできなかった僕の目の前で、建物の一部が崩れ、煙が立ち上った。
「ハハ、やっぱりね。お前は“何もしない”を選んだんだ」
悪魔は黒煙のように身体を崩しながら、壁に溶け込むようにして消えていった。
そのとき悪魔は、最後に皮肉を込めた声で囁いた。
「お見事。何も選ばず、誰も救わず、罪悪感だけをしっかり抱えて生き残った。お前って本当に、現代的な善人だね。責任だけは取りたくない、でも自分は優しいと思っていたい。そういう連中を見てると、僕は実に飽きないんだよ。まるでSNSの中にいるような気分だ」
その瞳だけが最後まで残り、赤く光ったまま──にたりと笑っていた。
「……うるさいな」僕は震える唇を押さえながら言った。「誰が好き好んで選ばなきゃならないんだ。勝手に現れて、人の過去ほじくって、勝手に評価して……クソみたいなルール押し付けて……」
言い返しながらも、僕は涙をこらえていた。どこかで自分が正しいと思いたくて。悪魔が間違っていると信じたくて。
だが、すでに誰もいなかった。赤い光も、煙の影も、全て消えていた。
残されたのは、爆風で割れた窓ガラスの隙間から差し込む、静かな朝の光だけだった。
──今この場で、僕がほんの少しだけ、勇気を出せていたら。
静まり返った会議室。爆風で散らばったガラス片が床を覆い、焦げ臭い匂いが空気に残っている。
僕は崩れた机にもたれながら、壊れたスマホの画面をじっと見つめていた。誰に連絡を取るわけでもない。ただ、画面に映る自分の姿を確認するためだけに。
――同僚は死んだ。
西村課長も、田村も、反町も、そして他のフロアにいた人たちも……あの爆発で、すべてを失った。
「……結局、僕は何もできなかった」
か細い声が、ひび割れた窓から漏れる風にかき消されていく。
悪魔は去った。皮肉な笑いを残して、あっけなく。そして僕は“選ばなかった”ことの結果だけを手にして、今ここにいる。
誰もいない静寂の中で、僕の心臓だけがしぶとく動き続けていた。
――なぜ、あんな選択を迫られたんだ。
「僕が……人を殺したってことになるのか?」
誰に答えを求めるでもなく、ただ自分に問いかけていた。答えは出ない。出るはずもない。
その瞬間、僕の頭の中にフラッシュバックする。
子どもたちにいじめられていた野良猫の死体。
喧嘩を止められなかった通行人の重体報道。
後輩の濡れ衣を見て見ぬふりをしたあの日。
そして、今日。
「なあ……これって……罰なのか?」
悪魔の言葉が耳の奥でよみがえる。
──“責任だけは取りたくない。でも、自分は優しいと思っていたい”──
「違う……僕はそんなつもりじゃ……」
でも、違うと言い切れるか?僕は結局、誰かを傷つけるのが怖かっただけだ。誰かに恨まれるのが、嫌だっただけだ。
「最低だ……僕」
目の奥が熱い。涙が出る。
他人の不幸には無関心で、でも自分の良心は傷つけたくないから、善人ぶっていた。
そんな薄っぺらい優しさが──命を救えなかった。
僕は泣いた。小さな子どものように、しゃくり上げながら、声を出して泣いた。
「ごめん……ごめんなさい……」
誰に対しての謝罪なのか、もう分からなかった。
ただ、もう一度だけ、時間が戻せたら。
そんな無意味なことを、願ってしまう自分がいた。
しかし、もう遅い。
冷たい風が窓から吹き抜け、僕の頬を撫でていった。
──そしてその夜。
家に戻った僕は、無音のリビングでソファにうずくまっていた。
ニュースでは、爆発事件の詳細が報じられていた。犠牲者の名前も、顔写真も、テロとの関連も。そして、なぜか奇跡的に助かった“僕”のことも。
“勇敢な生存者”とさえ、呼ばれていた。
「……やめてくれよ」
そう呟きながら、テレビの電源を切る。
僕がしたのは、“何もしなかった”ことだ。
その報いを、これからずっと背負っていくのだろうか。
でも、そうやって悩むことすら、どこか“自己満足”なんじゃないかという気がして、また涙があふれてきた。
僕は何者なんだろう。
善人ぶった偽善者?
それとも──ただの臆病者?
分からない。
でも確かに、あの瞬間、僕は誰のことも救えなかった。
そして、もう二度と戻れない場所を、見送ってしまった。
──哀しみだけが、いつまでも胸を締めつけていた。
──それでも、朝は来る。
目が覚めた僕は、いつも通り鏡の前に立った。
「……うん、今日も悪くない」
映った自分の顔を見て、そう呟く。中性的で可愛い顔立ち。その顔を、僕は嫌いじゃない。むしろ好きだ。
この顔のおかげで、誰からも好かれやすく、性格の悪さを疑われることもない。
それが、僕にとっては最高の“仮面”だった。
爆発事件から数日が経っていた。
会社は壊滅状態。当然、解雇通知も届いていた。けれど、不思議と焦りはなかった。
「まあ……何とかなるか」
朝食を作り、コーヒーを飲みながらニュースを眺める。あの日の事件は、今もトップニュースだった。
死んだ同僚たちの名前が、何度もテレビに映る。けれど、もう僕の心は何も感じていなかった。
「あの人たちは死んだ。僕は生きてる。それだけ」
そう言い切れる自分に、少しだけ驚いた。
──人は変わる。そう、変われるんだ。
いや、もとからこうだったのかもしれない。
あの悪魔が、僕の本性を引きずり出しただけ。
僕は微笑んだ。
冷めたコーヒーを飲み干し、就職サイトを開いた。
新しい人生が始まる。
あの日、あれだけ泣いたのに、今では何も感じていない。
むしろ、「どうしてあそこまで思いつめてたんだろう」とさえ思う。
罪悪感?あるにはあるけど、僕だけが責められる筋合いはないと思う。
選ばせたのは悪魔だし、そもそもそんな選択肢を突きつけた奴が悪い。
僕が“選ばなかった”からといって、僕が“殺した”わけじゃない。
なのに、罪の意識に潰されるなんて──馬鹿げてる。
「僕は悪くない。……たぶん」
自分で自分を納得させる声が、意外にも心地よかった。
そして、その人生もまた──僕の顔と演技で、どうにでもなる。
「さて、次はどんな“善人”を演じようか」
僕は今日も、“僕”という役を演じ続ける。
心の奥底に、誰にも見せない“本当の僕”を隠しながら。
それが、僕の生き方だから。
「善人に見られる人生」って、悪くない。
誰にも疑われずに、少しの我慢とちょっとした演技で、どんな場も乗り切れる。
でも、そんな“完璧な皮”を被った日常が、壊れる日が来るなんて。
次の章では、僕が“選択”を迫られる。
僕が“傷つく側”になったとき、人はそれでも「いい子だね」と言ってくれるのか。
……それとも、僕の中身が“本当の僕”だって、気づいてしまうのかもしれない。