闇の中の過去
私は、中学2年生の時に襲われた。
いつも誰かに元気だねと言われていた、明るい女子だったんだと思う。
毎日公園で遊びに明け暮れ、それでもテストの点数はしっかりと取り、部活とかではなく友達と遊ぶ時間を大切にしていた。
あれは、少し遊びすぎてしまった日の帰り道。
茜色に染まる温かい空気の中を息を切らせながら走っていた。
「急がなきゃ……!」
いつもの公園からの道が事故で塞がれて私は回り道を強いられたが、これ以上遅く帰ったら両親を心配させてしまう。
その一心で、私はショートカットのために路地裏を走った。
路地裏に入る前までは外は明るくて暖かかったのに、そこだけはまるで別世界のような感覚がした。
でも、仕方ないことだ。自分のせいで親を心配させるわけにはいかないため、私は進むしかなかった。
初めて通った道で勝手が分からず、あっちかこっちかと迷いながら走っていた時、誰かにぶつかった。
「ごめんなさい!急いでて…ぶつかっちゃいました!」
すぐにした謝罪を聞き、ぶつかった相手の男は私を見下ろして言った。
「あぁ、大丈夫だよ。
ぶつかったのはこっちも同じだし。時間も遅いし早く帰った方がいい。」いかにも不良といったような格好だったので、内心どんな暴言を言われるか恐ろしかった。
想像していた言葉とは大きく異なるその言葉を聞き、人は見かけによらないのだと思って立ち上がった。
「そ、それじゃあ失礼します!」
そう言って横を通り抜けようとした時。
私は、後ろに倒れ込んだ。
「いたっ……!」
悲鳴より少しだけ遅れて尾てい骨に痛みが走り、それに耐えながら私はそこに1人の人物を見た。
つい先ほど優しい言葉をかけてくれた男が、狂気と嘲笑の混ざった何かを持って、私を見下していた。
ゾクリと身体中に迸る嫌悪感と絶望感。
助けを呼ぶための声も出せず、その状況を受け入れざるをえない。
男の手が伸びてくる光景がやけにスローモーションに見えて、さらに恐怖が込み上げてくる。
身体が震え、足がすくみ、地に着いた手は離せない。
つい先ほどの一瞬の安堵が、余計に自分を惨めにさせていた。
それから、どれくらいの時間だろうか。
服はビリビリに破られ、髪はぐしゃぐしゃになり、心も身体も痛めつけるだけ痛めつけ、弄び続けてその男は姿を消した。
その間に私の口から出た言葉は、悲鳴などではなかった。
口から流し込まれた薬によって強制された快感、そこから溢れ出る恥辱と快楽の間の感情。
やめてと言ったところでやめてもらえるわけもない、苦痛かどうかすらも分からない声。
永遠とも思える地獄を、身体だけは許してしまった。
否、許すしかなかった。
『抵抗したら殺す。』
たった一つのそれだけの脅しが、私の抵抗心を根元から掻き切っていった。
次の日から、周囲の私への対応は大きく変化した。
落ち込んだ気持ちをどうにか減らそうと学校へ行くと、私に関わると犯罪に巻き込まれるという話が広まっていた。
昨日の男本人が、ネットにその情報を全て流したらしい。
警察が逆探知によって犯人逮捕に乗り出したが、発信源となっていたスマホは捨てられており、男は逃亡した。
誰も私と話してくれる人はいなくなり、両親も私のことを突き放した。
何も悪いことなどしていないはずなのに、近くにいた人たちはみんないなくなっていく。
そんなわけのわからない状況を認められなくて、認めたくなくて、私は抗った。
その結果が、今だ。
あれだけ近くにいたはずの人間でさえ、たった1日で姿を消してしまうのだ。
だとするならば、こちらがとることができる方法はたった一つ。
“選定“だ。
この人間は信用できると、確実に思うことができる相手以外とは関係を望まない。
無駄なものは消す。
無駄なものは省く。
取捨選択こそが人生における最良の方法だと、私は自分に言い聞かせた。
これでいいのだと。これが私の人生だと。
これこそが、佐伯綾香の生きる道なのだと、自分の中で決定づけた。
………そして、暁翔。
彼だけは、もしかしたら信用に足る人物だと思った。
ただ、私が信用するのは表の彼ではなく裏の彼だ。
そのために接近したが、最後に見せた彼の冷たすぎる視線が頭から離れない。
何を見ているのか、彼の目から見えている世界は何色なのか。
本能が、彼と関わらないほうがいいとあの男の存在を拒絶している。
そんな心と裏腹に、私をどうにかしてくれるのは彼しかいないのだとも感じる。
どちらが正しい道なのか、そもそも彼は私が近くに行くのを許してくれるのか。
様々な思いが頭の中を駆け巡り、小さく息を吐いてシャワーを止める。
髪から滴る水ではない何かの感触が、目から流れ落ちているのを私は確かに感じ取った。
佐伯綾香との会話から2日が経ち、その日の朝一番。
スマホで見ていたニュースの中にある記事が流れてくる。
『3年前に中学2年生の女子に性的暴行を与えた当時25歳の男を逮捕』
その記事を目にして、僕はスマホの画面を暗くする。
制服に袖を通し、行ってらっしゃいのない朝の世界に向けて歩き出す。
学校に着き、今日も一日が始まるのだと1人で考えていた時。後ろの扉が乱暴に開かれて1人の人物が姿を現す。
教室内にいるのが僕だけだと理解していたのかどうかはわからないが、いつもの生活態度からは絶対に想像できないような行動と共に姿を見せたのは佐伯綾香。
まっすぐに僕の席まで歩いてくることから、その内容は想像がつく。
「どういう…つもり?」
「どういうとは?何かをしたつもりはないんだけど。」
とりあえず何も知らないという答えを返すが、それだけじゃ彼女は引き下がってはくれない。
「ふざけないで。
あんなことができるのはあなたくらいでしょ?私に恩を売ったつもり?」
「別に、僕は佐伯の過去に興味はない。
性被害に遭ったとかどうとかも関係ないし、その犯人を見つけ出すために色々する必要性もない。」
僕の目を睨んでくる彼女のきつい視線を受け流すように、少しだけ目を細めて言葉を返す。
「私、あなたに性暴力を受けたことがあるなんて話をしたことがあった?」
その言葉を聞いて、確かにと思う。佐伯が言葉上手なのを知った上で、見事なまでに誘導に乗ってしまったみたいだ。
調べたと答えたら、過去に興味がないというのも嘘になると即座にバレてしまうだろう。
「言葉遊びが好きなのか?」
「それが好きなのはお互い様でしょ。」
日々の学校生活の中ではあり得ないような言葉の応酬が、たった一つの席を中心として行き交っている。
正直、こうなった時点で佐伯が僕だけを疑ってくることはわかっていた。
「はぁ、わかったよ。」
降参を示すように両手をあげ、
「僕が犯人を捕まえた。」と事実を話す。
「それくらいわかってる。私が聞きたいのは、なんであなたがあいつを捕まえたのかだけ。」
静まり返った教室では、よく声が響くものだ。
「その前に聞かせてくれ。
佐伯は、僕に対して怒ってるのか?」
その言葉に、はっとしたような顔を彼女はする。
今までの口調、話のリズム。それらを振り返ってみれば、今までの自分の言動がどこか焦りを持っていて、僕への怒りを併せ持っていると思われてもおかしくないと考えられるだろう。
そして、そこに思考がたどり着いたかのように彼女は視線を少し逸らす。
「別に……怒ってはない………
理由はどうであろうと、犯人を捕まえてくれたあなたには感謝するしかない。
気分を悪くしたならごめん………」
急に素直になったかのように、彼女の口から謝罪の言葉が出る。
おそらく、彼女が他人の内面を考え、観察するようになったのにはこの事件が大きく関係してきている。
他人の弱みを握って自分が優位な状況を作りたい。危険な人間を炙り出して誰かを助けてあげたい。
あと考えられるのは、本当の意味で友達と言えるような相手と友達になりたい。
そういう感情と理念のもとで、佐伯綾香は動いているのではないかと推測している。
性被害にあったというのは高スピードで拡散され、今までの友達にとって近寄り難い存在になってしまったことも十分に考えられる。
こいつと関わったら自分達も巻き込まれかねない、と。
写真や動画を撮られてその後も脅し続けられれば、佐伯の動画をばら撒く代わりに友達を差し出せと言われる可能性の方が高い。自分を守るために、佐伯を切り捨てなければならなかった。
もちろん、本当はそんなことしたくないやつだって多少はいただろう。それでも実行させたのは、親だったり周囲の目だったり、友達だったりと様々だ。
僕が二日で調べ上げた情報によると、佐伯は中学生まで明るい生徒だった。
だからこそ、多くの友人を持ち、その人物たちと順風満帆な生活を送っていた。
それが一瞬でぶち壊されたとなれば、佐伯の性格や人間性、行動理念が大きく変わったところでおかしな話は何もない。
父が死んだ時から、僕の父の後を継ぐという意思が一気にエスカレートしたことと同じようなものだ。
心が折れたのか、ねじまがったのか。それは佐伯以外の誰にもわからない。
だからこそ、僕は問いかける。
「お前は、どうしたいんだ?」
たった一言でも、佐伯の心の入り口を開くには事足りる。
道は作った。
あとは、どの道を進か佐伯が選択するだけだ。
このまま止まり続けるか、後ろに戻るか、前に進むか。
その答えを、僕はじっくりと待つ。
「私は━━━━━━」
佐伯本人の口から出た夢と願いを聞き、僕は頷いた。
「じゃあ、ゴールテープを目指して頑張れ。とは言っても、ゴールテープを切るのなんて数十年後、あるいは100年以上後だけどな。」
未だに恐れが残っているであろう彼女の目をまっすぐに見て、僕は言う。
「大丈夫だ。
何かあったら、僕が必ずお前を守ってやる。
だから、安心して背中を任せていい。お前は、前に進むだけでいいんだ。」
そう言って佐伯から視線を外した僕に、彼女は言葉を紡ぐ。
「あの…さ、翔くん。」
「ん?どうした?」
彼女の方を再び見ると、その目には涙が浮かんでいる。
「私と………友達になってくれますか?」
心の底から込み上げてきたであろうその言葉。
数年の間友達を作らず、ただただ周囲を見続け、自分を押さえつけてきた人間から放たれた、覚悟と勇気の言葉。
その思いに報いるよう、僕は言葉を返す。
「もちろん、喜んで。」と。




