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貴方を選ばなければなりませんか?

注)ハッピーエンドではございませんので何卒ご了承ください

 キーラ・アッセル伯爵夫人は、亡骸となって横たわる夫の傍らで、固く組んだ両手を震わせた。


 彼女がランベルト・アッセルと結婚したのは、十八歳の頃だった。

 政略結婚だったが、二つ年上で包容力のある優しいランベルトのことを深く愛していた。

 しかし、結婚後しばらくして――夫は愛人を作って家を出て行った。


 この国の貴族は各家に専属の魔法薬師を雇い、病の治療を任せることが一般的だ。

 ここアッセル伯爵家では、フローチェ・レイクという女性が専属魔法薬師として働いていた。フローチェとランベルトは幼馴染のようにして育った旧知の仲で、とどのつまり、ランベルトは妻のキーラよりも幼馴染フローチェに惹かれてしまったらしい。

 夫に出て行かれた当時まだ若かったキーラは、執事や侍女長の力を借りてなんとかアッセル家を切り盛りした。


 夫の愛人――フローチェ・レイクは、悪逆非道な()()だ。

 領民はそんな風に噂して、自分たちを見捨てて帰らない領主を恨む代わりに、愛人の魔法薬師フローチェに対して怒りを募らせた。


 領民たちの気持ちも分からなくはない。以前のランベルトはキーラにとって、おとぎ話に登場する王子様のように眩しい、憧れの存在だった。太陽のような笑顔で優しくエスコートしてくれるランベルトに一目惚れして、彼の妻となる日を楽しみに、結婚式の日を指折り数えて待っていたものだ。

 領民にとっても、明るく優しいランベルトの存在は、希望だったに違いない。

 そしてきっとそれは、幼馴染のフローチェにとっても同じだったのだろう。


(でも旦那様は、あの頃とはすっかり変わってしまった)


 静かに眠る夫の顔を見ながら、キーラは長く息を吐いた。


 ◆


 ランベルトがアッセル伯爵家に戻ってきたのは、彼らが屋敷を出て十年ほど経ってからのことだった。王都にある劇場で意識を失って倒れ、そのままアッセル家に運びこまれたのだ。


 十年ぶりに会った夫の頬はこけ、眉間には長年の皺が刻まれていて、以前とは別人のようだった。

 どこから見ても、この十年を愛する人とともに幸せに生きてきた人の顔には見えない。

 ランベルトが戻って来るという先触れを聞いた時にはさすがにキーラも慌てたが、いざ夫の顔を見ると、憐み以外になんの感情も湧いてこなかった。

 愛人から夫を取り戻したことに対する優越感も、かつて愛した夫への愛情も、微塵も感じない。

 だからキーラは、ただ粛々と夫の部屋を整え、看病の準備をし、夫を診てもらうためにアッセル家専属の魔法薬師を呼んだ。


 専属魔法薬師だったフローチェが出て行った後、アッセル家は別の魔法薬師に世話になっていた。薬師曰く夫の病は「長年に渡って強い魔力を受け続けたことによる、魔力中毒症」だという。

 よほど強い魔力を長期間受け続けたんだろう、ここまで酷いのは珍しい、という薬師の言葉を聞いて、キーラは妙に納得した。


 ランベルトと一緒にいたはずのフローチェが現れないのは、そのせいだ。

 自分の魔力のせいでランベルトが魔力中毒症にかかって倒れたのだと分かって、あえて夫とは距離をおいたのかもしれない。

 それもまた、ランベルトとフローチェの二人の間の、愛の形なのか。


 そう考えると、夫だけではなくフローチェのことまで憐れになった。


 ◆


 数日後ほど経って、ランベルトはようやく目を覚ました。


 しかし魔力中毒症のせいで、口がきけなくなっていた。

 この十年を幸せに生きてきた人の顔には見えない――久しぶりに夫の顔を見てそう感じたキーラの勘は、当たっていた。ランベルトは以前とは正反対の、荒れた性格に変わっていたのだ。

 飲み物を準備したキーラの手をはたいたり、物を投げて遠ざけたりするのは日常茶飯事。

 時にはキーラのことを、まるで悪魔でも見るかのように睨みつけたりもした。


 これで口がきけたなら、毎日のように罵詈雑言を浴びせられたかもしれない。不謹慎だが、「旦那様が話せなくてよかった」なんて思ったこともある。

 しかし、ランベルトに対して嫌な感情を抱く度、自分の心も醜悪になっていくような気がして、キーラはランベルトに対して何かの感情を抱くのはやめようと決めた。


 だから夫の変わり様を、なるべくそのまま受け止めた。自分でも気が付かないうちに、夫への愛情もとっくに尽きていた。


 献身的に夫の世話をした、そんな生活が十年。

 三十八歳となったキーラは、就寝前の挨拶をするために、その夜もランベルトの寝室を訪れた。ただ「お休みなさい」と声をかけるだけなのだが、これを欠かすと、とにかく翌朝の機嫌が悪い。

 いつものように扉をノックして、中に入る。

 すると、部屋の中にいつもと違う空気が流れているような気がした。


(どうしたのかしら。旦那様、もう眠ったの?)


 ランプを持ってベッドにそろそろと近付くが、今夜は夫からの冷たい視線も向けられず、物も飛んでこなければ、舌打ちすらされない。

 明らかに様子がおかしいと思って掛布を少しめくると、暗闇の中でランベルトは息絶えていた。


 ランベルト・アッセル、四十歳。

 魔力中毒症による、早すぎる死。

 愛してもいない妻を迎えて家に置いたまま魔女と駆け落ちした男は、彼女の魔力で中毒を起こし、それが原因で命を落としたのだった。


 ランベルトに対してなんの感情も持たないと決めていたキーラは、彼の死を「憐れ」だとも思わなかったし、「ようやく彼の世話から解放された」とも思わなかった。


 ただただ、呆然としていた。


 執事のクルトを呼んで夫の死を伝えると、伯爵家はにわかに騒がしくなった。

 夫を天国へ送る準備が、夜を徹して身の回りで着々と進んで行く。

 そんな中でキーラは一人、夫のベッドの横に置いた椅子に座っていた。自分を睨んでいない穏やかな表情の夫の顔を見るのは、いつぶりだろうか。


「旦那様……」


 彼のことをそう呼ぶのは、これが()()だと思った。


 今となっては、ランベルトとの幸せな結婚生活を夢見た若き日のことを、馬鹿馬鹿しいとさえ感じる。


 十八歳のあの日、偶然ランベルトと出会わなければ。

 彼の太陽のような笑顔に騙されて、結婚の申し込みを受けたりしなければ。

 今の自分はもっと別の、幸せな生き方をしていたんじゃないだろうか。


(生まれ変わったら、私はもう二度と、貴方を選んだりしない)


 キーラは、ドレスの腰に下げた小物袋から、ガラスの小瓶を取り出した。赤黒い液体が、瓶の中でチャプンと小さく音を立てる。


 これは、キーラがアッセル家の専属魔法薬師から譲り受けたものだ。

 夫との不和に悩んだキーラのために作った、特別な()()


 これを飲むとキーラの命は絶たれ、過去に戻ってもう一度人生をやり直しできるという。


(旦那様と出会う前の、十八歳の私に戻るの。そして、もう一度私の人生をやり直すのよ)


 小瓶を月明かりにかざすと、どす黒く光った。


 生まれ変わったら、今度は貴方のことは選ばない――そう強く決意して、キーラは小瓶の蓋に手をかける。

 すると、ちょうどその時、寝室の扉がノックされた。


「奥様、少しよろしいでしょうか」

「……クルトね? ええ、入ってちょうだい」


 小瓶をもう一度小物袋に戻しながら返事をすると、執事のクルトが寝室に入って来た。椅子に座ったまま振り返り、笑顔を作る。


「クルト、夜遅くまでお疲れ様。準備は進んでいる?」

「はい、奥様。葬儀までの準備は滞りなく進めておりますので、奥様は気にせず旦那様とのお別れをゆっくりお済ませください。それと……」


 クルトはキーラの目の前まで歩いて来て、そこで言葉を止めた。

 しばらく迷った後、キーラに一通の手紙を手渡す。


「この手紙は何? どなたからなの?」

「……旦那様からです」

「え? 旦那様から、私に?」


 つい先ほど、旦那様と呼ぶのは最後だと決めたのに、早速それが覆されて心がざわついた。


 ランベルト・アッセルに振り回された人生を、もう終わりにしたかった。覚悟を決めて、小瓶を手に取ったのに。

 この後に及んでまだ心をかき乱すつもりか。

 椅子に座ったままなのに眩暈がする。


「申し訳ございません。旦那様から、ご自分にもしものことがあったら奥様にお渡しするようにとお預かりしていました」


 寝たきりだった夫が自分で封をしたのだろうか。不器用に折りたたまれた手紙を、クルトから受け取る。

 自ら持ってきたくせに、クルトは手紙をなかなか放そうとしない。キーラがクルトを軽く睨みつけて見上げると、それに気付いたクルトはようやく手を離した。


「何をもったいぶってるのよ」

「いえ……私は中身を存じ上げませんので。奥様にとって良い手紙なのか悪い手紙なのかは分かりません」

「心配してくれたのね、ありがとう。後で読むわ。今日はもう遅いから、仕事も切り上げて帰ってちょうだい」

「ですが……」

「もう深夜よ。貴方の家族も心配しているんじゃない?」


 ()()と言ったが、クルトには妻のほかに家族はいない。「妻の元に帰って」とは言いたくなくて、あえて()()という言葉を使った。


 ランベルトから捨てられたキーラにとって、執事のクルトは十八歳の頃からずっと、心の支えだった。年の近い彼に対して、心が揺れたような時期もなかったとは言えない。

 しかし、いくら夫に捨てられたとはいえ、自分はアッセル伯爵夫人。

 執事であるクルトに惹かれることは許されない。

 キーラはクルトに妻を迎えるように何度も説得して、結婚させた。

 彼の妻のことは、キーラもよく知っている。気立てが良く、献身的で優しい女性だ。


「……奥様。私は今、貴女にどう声をかけてよいか分かりません。この二十年、貴女はただただ耐える日々でした。どうかこれからは、自由にご自分のお好きなことをなさってください」

「馬鹿ね、クルト。私のことなんて心配しなくていいわ。さあ、貴方も家族の元に帰ってと言ったでしょう?」


 クルトから視線を逸らし、横たわる夫の白い顔に視線を向けて、突き放すように言った。

 クルトはキーラに対して、何も答えない。

 しばらくの静寂のあと、寝室の扉がパタンと閉まる音がした。


(クルト、ありがとう。お幸せに)


 キーラは、握っていた手紙を膝に置いた。

 夫からの、最後の手紙。

 生前、いつの間にこんな手紙を準備していたのだろうか。


「……どんな罵詈雑言が書かれているのかしらね」


 苦笑とともに、口からついつい本音が漏れる。

 もう、いいのだ。

 醜悪な心の内をさらけ出したところで、咎める夫はもういない。

 そして、今世での自分の命ももうすぐ終わる。


 なるべく感情を持たないようにしてきた。夫に捨てられ、心惹かれたクルトのことを遠ざけ、ただただアッセル家のことだけを考えて生きてきた。

 愛人と別れ、口が聞けなくなって戻ってきた夫の介護をした十年間。ものを投げつけられても罵詈雑言を浴びせられようとも、耐えて来た。


 専属魔法薬師からもらった毒薬のおかげで、いつか自分は人生をやり直せる。

 感情を持たないようにした灰色の人生を、自分の選択によってもう一度、塗り替えることができる。

 これまでやって来れたのも、毒薬のおかげだ。


 あとはこれを飲み干すだけだった、それで全て終わりにできた。


 ……それなのに。


「今さら、手紙なんて」


 読まずに捨てようか。

 それとも、今世のしめくくりとして読んでみようか。


(まあ、今更どんな暴言を吐かれたって、傷つくこともないわよね)


 十八歳のあの日、偶然出会ったランベルト。

 彼の言葉には、二度と騙されない。


(大丈夫よ)


 手紙の封を開ける前に、キーラは小瓶の毒薬をあおった。


 喉の奥が焼けるように熱い。

 だんだんと早くなっていく心臓の音を感じながら、キーラはそっと、手紙の封を開けた。


 息絶える前に読まなければと、文字が書かれた部分を月明かりで照らす。

 書かれていたのは、思うように動かなくなった手でランベルトが必死で書いたであろう、たった一行の歪んだ文字だった。



「…………なぜ……ランベルト様」



 嗚咽とともに、キーラは椅子から崩れ落ちる。

 床に突っ伏して、手紙を持った左手にぎゅっと力を入れた。


 夫からの手紙に、一体どんな恨みつらみが書かれているのかと覚悟した。

 十年間、愛人フローチェから捨てられた苦しみを夫から八つ当たりのようにぶつけられても、心を無にして耐え続けた。


 いくらでも自分を恨み、邪険に扱うがいい。

 私には貴方と違って、死に戻った後に新しい人生が待っている。


 しかし、夫からの手紙の内容は、キーラが想像していたものとはあまりにも違った。



『ありがとう、愛していた』



 それから数分後。


 床に突っ伏して、左手に手紙を持ったまま、キーラも息を引き取った。

 死に戻った先で、彼に背を向けるのか、それとも再び彼の手を取るのか。

 彼女自身にもまだ分からないままだった。


(おわり)

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