桜色のキス
魂の揺るぎなき領域において愛するということは
他者の中の永遠なるものを愛することである
モーリス・メーテルリンク
真っ直ぐと伸びる桜並木に、新しい季節の始まりを告げる風が優しく通り過ぎた。
風に揺られた薄紅色の花びらたちは、眩いばかりの春の陽射しを浴び、桜並木を走る美里の頭上で、キラキラと輝いていた。
結い上げた黒髪に飾られた少し大きなコサージュは、美里が走るリズムに合わせて愛らしく踊っている。
春らしいオフホワイトのワンピースは、十八歳という美里の若さをとても可憐に引き立てていた。
ただ……美里にとって、今日は若さの主張だけでは足りないと考えたのか、走る足元にはつま先にリボンがついた、少し高さのあるヒールを履いていた。
慣れないヒールを履いているものだから、走っているうちにバランスを崩し何度もこけそうになった。
しかし、今日は美里にとって大切な日。多少無理をしてでもこの靴を絶対に履きたかった。背が低くて幼児体系の自分のスタイルを、ヒールの高い靴を履くことによって、大人っぽく見せたかったのだ。
普段はすとんとした真っ直ぐな美里の脚も、淡いベージュのストッキングで包み、高さのあるヒールを履くことによって、女を強調する柔らかなラインがほんのりと際立ち、どこか大人の色気感じさせた。
少女特有の清らかさの中に、少しドキっとするような艶やかさが溢れている。
それが、今日の美里だった。
この日のために銀座のプランタンで見つけた桜色のリップスティックも、美里の唇の上でふんわりと美しく発色して、潤いに満ちた輝きを放っていた。
ふと、美里は立ち止まり、桜がきらめく春の空を仰いでみた。
晴れ渡る空に溢れた陽光は、桜の木々の隙間からこぼれ落ち、美里の周りに薄紅色の閃光を走らせている。
淡く煌めくその光の束は、あまりにも幻想的で美しい。
美里は、両手をゆっくりと大きく広げて、気持ち良さそうにその光を浴びた。
まるで、自分の恋の純潔を神にでも誓うかのように。
桜色のキス
~To Love You More~
作 あいぽ
高校一年生の春、美里は恋をした。
美里の入学した高校は、南青山にある私立の女子高校だった。
入学式を終えた教室の中、浮かれたようにはしゃぎ続けるクラスメイトを横目に、美里はひとり窓際の席で外の景色を眺め楽しんでいた。
教室から見える景色は、中学の時と全く違う。
中学生から高校生へ。教室から見える景色の違いが、自分が一歩大人へと成長した証のようで、美里はとても嬉しかったのだ。
ふと、校庭へ目をやると、そこの片隅に美しく花開いた一本桜が見えた。
春の空に自己主張するかのように咲き乱れる一本桜の花びらたちは、眩しいほどの陽光を一斉に浴び、風に吹かれる度にキラキラと揺らめき輝きを放っていた。
その様子は、まるでこれから始まる自分の高校生活を祝福してくれているかのようで、美里は静かな興奮を覚えた。
その時だった。
教室の扉がゆっくりと開かれ、新しい担任となる教師が入ってきた。
教室の中は一瞬にして静まり返り、全生徒の視線は教壇へと歩くひとりの男に集中する。
年の頃は三十代に差し掛かったくらいだろうか。何処からどう見ても真面目だけが取り柄で生きてきたようなその男は、生徒たちが静まり返る中、呟くように口を開いた。
「こ、こんにちは、宇野耕平と言います。……きょ、今日から、君たちの担任になります。よろしくお願いします」
それは、とても教師とは思えないほどおどおどとした挨拶だった。
そして耕平のそんな挨拶に、生徒たちは一気に浮かれたように騒ぎ始めた。緊張している耕平を可愛いとはしゃぐ生徒や、教師としての威厳など全くなさげな耕作を笑う生徒。
「先生、ファーストキスはいつ?」
「どんな女の子がタイプなんですか?」
「ねぇ、先生は独身なの?」
生徒たちはからかうように耕平に質問を浴びせ、教室の中は女子生徒たちの甲高い声で溢れ返った。
しかし、そんなざわめき中で、美里の態度だけは他の生徒とは違っていた。
教壇でおどおどする耕平を、優しげな表情でずっと見つめているのだ。
なんだか春のように穏やか人だ……
女子生徒たちにからかわれているにも関わらず、柔和な表情を崩さず、はにかんだように微笑み続ける耕平に、美里は心地のよい春の風に撫でられているような気分になったのだ。
中学から、ずっと女子校育ちだった美里は、「恋」と「男」に対して強い理想を抱いていた。
「恋」とは一途に誰かを愛し続ける純愛であり、「男」とは女を優しく包み込む存在でなければならない、そんな理想だ。
だからなのか、中学時代に友達の紹介で、何人かの同年代の男子に出会ったものの、決して彼らに恋をすることはなかった。彼らが求める恋は、美里からしてみれば非常に利己的な恋だったのだ。
彼らが求めていたものは、気軽にとっかえひっかえするようなファッション感覚なお手軽な恋。
容姿と要領だけでする恋は、美里の純愛にはほど遠かった。
しかし、この耕平という男は、今まで出会ってきた同年代の男子たちとは全く違っていた。
もちろん、それは耕平が大人の男性で、落ち着いているからという事もあるが、それだけではなく耕平の身体中から溢れる、穏やかでおおらかな雰囲気に美里の心は高鳴ったのだ。
この人なら、いつも春の季節のように、私を優しく包み込んでくれるに違いない……
その時、美里は思った。
耕平との出逢いは、きっと新しい季節が運んでくれた贈り物なんだと。
まだ恋を知らない十五歳の少女は、ロマンチックなほど理想の恋を夢見ていた。
「みんな、静かにしなよ! 先生がしゃべりにくいじゃん!」
ざわめき止まない教室の中、美里は耕平を助けようと、立ち上がり声を上げた。
その言葉で、教室は一気に静まり返り、生徒たちの視線は再び教壇に立つ耕平へと集中する。
思いもよらない美里の言葉に驚いた耕平は、美里の方へと顔を向け、しんとした教室の中で二人の視線は重なり合った。
耕平の視線に思わず頬を赤らめてしまう美里と、ただ驚いた表情で美里を見つめる耕平。
まるで時が止まったかのように、ほんの数秒間、互いの視線が重なり合った。
「ど、どうもすいません」
耕平は、教室を静かにしてもらった礼の言葉が自然と口に出る。しかし、それはおおよそ教師らしからぬ間の抜けた物言いになってしまい、生徒たちはまた大笑いをはじめ教室は騒がしくなってしまった。
さすがに、これには美里もぷっと頬を膨らまし笑を堪えてしまう。
やれやれというような表情で、照れくさそうに頭を掻く耕平と、笑いを堪えながら上目で耕平を見つめる美里。二人の視線は、今度はざわめき止まない教室の中でもう一度重なり合う。
生徒たちのざわめきが続く中、半ばやけになった耕平は小さく深呼吸をした後、話し始めた。
「え……と、先ほどの質問ですが、ファ-ストキスは二十歳の頃だったと思います。好きなタイプの女性は笑顔が素敵な人……かな」
耕平の真っ正直な答えに、女子生徒たちの笑い声が一層大きくなる。そして、美里もそんな耕平を見つめて、楽しそうに微笑みを浮かべる。
「それから、僕は……今は独身です。ただ、結婚を約束した女性はいます。その人は……実はこの学校の理事長の娘さんで、僕なんかにはもったいないくらいの素敵な人なんです。あ、あと、これからはどうぞお手柔らかにお願いします」
「!…………」
耕平の思いもよらない告白に、教室の中はまるで宴会のように盛り上がる一方、美里の顔からは一気に微笑みが消えてゆく。
そして、気がつけば眉間にシワを寄せ唇を強く噛み締めていた。
先生には、結婚相手がいる……!?
許せない、そんなの絶対に許せない!
「先生は、先生らしくちゃんとして下さい!」
行き場のない怒りを堪えることが出来なくなった美里は、両手で机を叩き、ヒステリックに声を上げてしまう。その声で、教室は水を打ったように静まり返った。
目を丸く見開き驚く耕平と、怒りに満ちた眼差しで耕平を睨みつける美里。
緊張感の張り詰めた教室で、二人の対峙はしばらく続いた。
◇
その日の放課後、美里は校庭の一本桜へと自然に足が向いた。
一時は、新しい季節が運んで来てくれたかのように錯覚した耕平への恋心。しかし、それは結婚を前提に付き合っている女性がいるという現実に、一気に崩壊した。
「やっぱ、現実ってこんなものよね……」
ため息混じりにそんな事を呟き、美里は一本桜に寄りかかり膝を抱えて座り込んだ。
そして、鞄から本を取り出し読書を始める。メーテルリンク著書の『青い鳥』だ。
昔から、何かイヤな事があったら本を読むのが美里の癖だった。
「あぁ……私の幸せはどこにあるのかな」
文庫本のページを開くもどこかうわの空で、風に揺れる花びらたちをただ呆然と見上げる美里。
ふと、寄りかかる桜の木の影から何か音が聞こえたので、美里は立ち上がり音がした方を覗いてみる。
すると、そこには美里と同じ一本桜の木に寄りかかり、気持ち良さそうに読書をしている耕平の姿があった。
まるで、春に吹く風のように、清涼感に満ちた耕平のその姿に、美里の胸はまた高鳴ってしまう。決して叶わぬ恋だと分かっていても、鼓動は自然に早くなり、体中が熱を帯びてくる。
「あれ……キミは確か……」
木の陰で佇む美里に気づいた耕平は、本から顔を上げ視線を投げる。
しかし、耕平の爽やかな笑顔にあまりにも恥ずかしくなった美里は、ぷいとそっぽを向き、口を尖らし言い放つ。
「先生は、何してるんですか、そんなところで!」
「読書をしてるんです。ここがあまりにも気持ちが良くて」
「読書なら、他でできませんか? ここは、私が先に読書をしていた場所です」
耕平の優しい口調に、どうしても苛々としてしまう美里。
あなたには結婚相手がいるんだから、私にはこれ以上近寄らないで。私の心を惑わせないで。
耕平と親しくなりたいのに、なりたくない、支離滅裂で苛立ちに満ちた感情だった。
「……なら、キミもここで一緒に読書をすればいい」
「イヤです! あっち行ってください!」
「おいおい、随分な言い方だなぁ。なんだか、僕はキミには嫌われたみたいですね」
「!…………」
嫌いじゃなくて……嫌いじゃないから……
だけど、意地を張ってしまった美里にはそんな言葉は出てこない。
「とにかく、ここから離れて下さい。私は、ここで一人で読書をしたいんです」
「なんだ、キミも本が好きなのかい?」
「本が好きで、悪いですか?」
「ははははは、そんなに怒らないで下さい。実は僕……図書クラブの顧問を任されたんです。だからんね、今度自分のクラスの生徒たちにも入部を募ろうと思ってましてね」
「図書クラブ!?」
「はい、天気の良い日には、みんなでこうやって青空の下で読書をしたりするんです。きっと楽しいですよ」
「……先生」
そう言って気持ち良さそうに、空に腕を伸ばす耕平のしぐさに、思わず美里は見とれてしまう。
私は、やっぱりこの人が大好きだ……
叶わぬ恋とは分かっていても、どうしても心は耕平に惹かれてしまう。
嫌われて……こんな恋を捨ててしまおうとも思ったが、この人には嫌われたくない。
好きになってもらう事が無理だとしても、嫌われたりはしたくない!
そう思ってくると、美里は自然と耕平へ心を開いてゆく。
「ねぇ、先生。先生はどんな本読んでるの?」
しかし、素直になったとたん、なんだか恥ずかしくなり、美里は伏し目がちに耕平に尋ねた。
「これ……読んでみる?」
一冊の本を美里に手渡す耕平。一瞬、耕平の肌が触れ、美里は体中が熱くなる。
「なにこれ、字ばっかじゃん」
「蟻の生活って本なんだ。ええと、ほら、青い鳥を書いたメーテルリンク著書」
耕平のその言葉に、美里は自分が手にしていた『青い鳥』を恥ずかしそうに耕平に見せる。
「一緒だね……」
空に向かって大きく伸びた一本桜の木の下で、恥ずかしそうに見つめ合う二人の言葉が重なった。
◇
高校へ入学して、二度目の春。
美里は図書クラブの一員として、数名の生徒たちと一緒に新入生歓迎会の準備を行っていた。
耕平と共に過ごした一年間は、美里にとって幸せな一年間だった。
耕平はとにかく穏やかな男で、美里はいつも耕平のそばで心地の良い時間に包まれていた。
二年生に進級して、耕平の担任からは離れてしまったが、放課後は図書クラブで一緒に過ごせる事を考えれば、そんな事は美里にとうってどうでもよかった。
ただ、耕平と一緒に過ごしてきた中で、一度だけ耕平が見せた淋しそうな表情が、美里の心にいつも引っかかっていた。
「人間はね、宿命的なエゴイストだとメーテルリンクは言うのです」
それは、耕平が愛読しているメーテルリンク著書の「蟻の生活」を課題に、図書クラブでデスカッションを行っている時の事だった。
メーテルリンクはね、アリは周囲を幸福にすることでしか、自分も幸福になれない生き物だと言っています。
これはつまり、すべての個体が自分自身の子孫を残さないアリの社会では、高度な社会を維持していくためには、自己犠牲や利他的な行動が必要になってくるからなんです。
現に、アリ社会では遺伝子を残すための産卵をするのは女王アリのみで、他のアリは生殖活動などせずただ女王アリに尽くしています。
「先生、それって、女王アリはセックスさせずに、男を縛り付けるサイテーな女ってこと!?」
好奇心旺盛な女子生徒の一言で、デスカッションの場に大きな笑いが起こる。
耕平は、その女子生徒に笑顔を向ける。
ははははは、アリにとっては自分の遺伝子を残す事などそんなに重要な事ではないんですよ。
アリにとって一番大切なことは、アリという生命体が永遠なるものとして存在してゆく事なんです。
実際、アリの歴史は人類よりも遥かに長い。
それは、アリが利他的な愛を持っているからです。
利他的な愛とは自分を中心とした愛ではなく、その社会に存在する無数の彼らの同胞、アリというひとつの生命体に向けられる愛です。
自我を忘却した利他的な愛こそが、ひとつの生命体が滅びるまで続いてゆく永遠なる愛だと僕は思うのです。
そのように語る耕平の言葉は、美里には理解できるようなできないような、そんな言葉だった。
美里が理解できたのは、耕平という人間はどこか純粋で、真っ直ぐな男なんだろうという事だけだった。ただ、いつも穏やかな表情を崩さない耕平が、何故あの話をしている時だけ、淋しそうな表情を浮かべていたのか、美里には分からなかった。
「みんな、お疲れ様……!」
急に、図書室の扉が開き、威勢のいい声をあげた一人の女性が入ってきた。
「新入生を歓迎するための準備をしてるんだってね、ご苦労さま。はい、これ差し入れね」
まるで女を強調すかのように胸元の大きく開いたブラウスを着た、少し派手目なその女性は、美里たち部員の前にずけずけと入ってきて、手に持っていたケーキの箱を広げ始める。
ケーキの箱を開けるその指先には、春らしく桜色のネイルを美しくグラデーションに施していた。
「……キレイな人」
図書部員たちは、羨望の眼差しでその女性に見とれてしまう。
「あ……玲子さん、来てくれたんですね。すいません、差し入れまで持ってきてもらって」
「いえ、あなたの可愛い教え子たちですもの。彼女たちに嫌われたくないもの」
脚立に登り、天井に飾り付けをしていた耕平が、その女性の姿に気づき声をかける。
「ええと、みなさん、こちらの方がこの学校の理事長のお嬢様で、僕の婚約者でもある渡辺玲子さんです」
「どうも、いつも耕平がお世話になっています。この人、とっても気が弱い方なんであんまり皆さんイジメないでね」
二人の微笑ましいやり取りに、女子生徒たちは和やかかに笑い合う。
しかし、美里だけはどうしてもみんなと同じように笑えなかった。
なんで、こんな女が先生の婚約者なの!
おおよそ耕平からはイメージがつかないような華やか女に、美里は嫉妬を通り越して憎しみさえ覚えてしまう。
先生は弱くなんかないもん……
先生はいつも優しい人だもん……
「先生をバカにしないで!」
美里は玲子にそう言い放ち、図書室を駆け出した。
気がつけば、校庭の一本桜まで走ってきていた。
一本桜は去年と同じように美しく煌いている。
「あ……」と美里は何かを思い出した。
勢いあまって飛び出したものだから、鞄を持って来るのを忘れてしまったのだ。
イヤな事を吹き飛ばすために、本を読もうと思っても本がない。
はぁ……
ため息をついて一本桜を仰いだ時だった。
「やっぱり、ここにいたんですね。はい、忘れ物」
耕平は、何事もなかったかのような爽やかな笑顔で、美里に『青い鳥』を手渡してくれた。
「キミは、イヤな事があったらいつもここで本を読んでいたからね。去年……国語のテストが悪かった時も、文化祭の準備がうまく進まなかった時も、キミはいつもここにいた……」
耕平のその言葉に、美里の瞳は涙で溢れる。
耕平が大好き……今すぐ耕平の胸に飛び込んでゆきたい。
耕平に抱きしめてもらって、叶わぬ恋の淋しさを全部拭い取ってもらいたい。
美里は溢れる想いで、耕平を見つめる。
その瞳は、大粒の涙が今にもこぼれそうで潤んでいる。
「ねぇ、先生……」
「……なに?」
「あの人のこと好き?」
「あ……あぁ、好きだよ」
「じゃぁ、あの人も先生のこと好き?」
「!…………」
耕平は、その問いかけに何故か動揺してしまい、答えることが出来なかった。
校庭の大きな一本桜の木の下で、清らかな瞳を潤ませ耕平を見つめる美里と、そんな美里の眼差しにまるでうろたえるように身体を震わす耕平。
二人の間に、少し冷たい春の風が通り過ぎた。
◇
高校に入学して、三度目の春、事件は起こった。
もう二年間、ずっと耕平のそばにいた美里は、耕平の事なら大抵のことは知っていた。
朝は必ず、図書室で苦いコーヒーを飲んでいること。
購買部に売っているやきそばパンが大好きなこと。たまに、売り切れていたりすると、子供のように拗ねてしまうこと。
そして、辛いことがあったら耕平も本を読むということ……
この二年間、美里にとって毎日が発見だった。
毎日毎日、自分の知らない新しい耕平を発見することが、美里にとって何よりも幸せだった。
しかし、この日美里が発見した耕平の素顔は、切ないほどに美里の胸を苦しめた。
いつもは柔和な表情で生徒たちに接する耕平が、その日の部活での態度は少しおかしかった。
春風のような爽やかな耕平なのに、無精ひげが伸びきっており、目の下も真っ黒なクマに覆われていた。
昨夜は眠れなかったのだろうか? ずっと苛々としている様子だったし、どこか表情が疲れきっていた。
だから、部活が終わったあと気になった美里は、校庭の一本桜へと足を運んだ。
校庭の片隅にある一本桜は、空に溢れる橙色の光を浴び、その影を長く伸ばしていた。
そして、その影の横にはそれに寄りかかるように座り込む一つの人影もあった。
……先生だ!
美里ははやる気持ちを抑え、一本桜へと走って行く。
「先生……!」
遠くから元気よく声をかける美里。しかし、その人影からは何の返事もない。
「先生、どうしたのよ。今日は何か変だよ」
一本桜に寄りかかり、うつ向き座り込む耕平の前で美里は明るく声をかける。
しかし、一日の終焉を告げる、眩しいほどの光の刃が美里に襲いかかる。空気中の微粒子が、色づいた光に照らされ乱反射を起こしているかのように、美里の視界を光で遮るのだ。
耕平はすぐ目の前にいるのに、美里には耕平の姿が影のようにしか見えない。
それでも美里は、笑顔で言う。
「もう、先生ったら……!」
すると、まるで二人の間を遮る色づいた光の幕を開くかのように、夕暮れ時の冷たい風が吹き抜けた。
美里の目に、うつ向く耕平がゆっくりと顔を上げてゆき、その顔がはっきりと映った。そして――。
「……せ、先生!」
「あ、あぁ、キミか……」
驚きを隠せない美里と、力のない目で美里を見つめる耕平。耕平の様子のおかしさに、美里は思わず耕平の前にしゃがみ込み声を上げる。
「ねぇ、先生どうしたのよ! ねぇ、先生……」
耕平は泣いていた。生気のかけらなど感じさせないほど無表情に。そして、そんな耕平を案じ声を上げる美里の言葉も、最後の方は涙につまる。
「僕は……愚かな人間なんだ」
涙に濡れた顔で、耕平は淋しげに呟く。その言葉には、生きる事を諦めたかのような絶望を感じさせる。
「先生はそんな人間じゃない……先生は……先生は……」
耕平の悲しみは、美里の心に悲しみを生み、美里の頬には自然と涙がこぼれる。
眩しすぎるほどの橙色の光に映し出された美里の長い影は、まるで寄り添うように耕平の影へとゆっくり重なり合ってゆく。
『なんでだろう、先生が悲しいと私も悲しくなっちゃう……』
彼女がね……浮気しているんだ。
彼女に、他の男性がいることは付き合い初めの頃から知っていた。だけどね……やっぱり、その現場を自分の目で見てしまったら、ショックだった。
ただ……僕にはそれを咎める資格なんかないんだ。
なぜなら、僕も心の底では彼女を愛してなんかいないから……
いつかキミに、人間は宿命的なエゴイストだと話した事があったよね。
それは、紛れもなく僕自身もそうなんだ。
僕が、彼女と婚約したのは彼女の父親がこの学校の理事長だったからなんだ。
三十歳を過ぎても教師にはなれず、アルバイトのような講師生活を繰り返していた僕にとって、大学の恩師の紹介で、彼女と出逢った事は自分の人生の転機だと思った。
彼女の父親はね、「老いてからできた一人娘なんで甘やかして育ててしまってね……」なんて言って、真面目だけが取り柄の僕をえらく気に入ってくれた。
そして、娘の婿になる男ならと、僕をこの学校の教師として迎え入れてくれたんだ。
汚い人間だろ……僕って。
夫公認の恋人がいる妻と、仕事のために妻を利用しただけの夫。
こんな風に、「愛」ではなく「嘘」を積み重ねてゆく二人の未来に、一体どんな幸せがあるっていうんだよ……
耕平は、心に宿る汚い自分を吐き出すように、時には何度も咳き込みながら、大粒の涙を流しすすり泣いた。そして、耕平に寄り添い美里も瞳を潤ませ泣き続けた。
私には……この人のために一体何ができるだろうか?
「先生……行こう……」
どのくらいの時間泣いていただろうか。
美里が耕平にそっと呟いた。涙をこぼしすぎて、少し赤くなった瞳で耕平を見つめる。
そして、耕平を包み込むような笑顔で耕平の手をとる。
「言ってたじゃん。先生もイヤな事があったら本を読んじゃうって。なら、いっぱいいっぱい本を読んでイヤなこと全部忘れちゃおうよ! だから、ほら、早く行こうよ、図書室に!」
橙色の光が溢れる放課後の学校。
手を取り合う二つの長い影は、ゆっくりと校舎へ消えていった。
◇
朝の光が、図書室の窓に差し込む。
少し開かれていた窓からは清涼感に満ちた空気が入り込みカーテンを揺らす。
そこには、気持ちよさそうにカーテンに頬をなでられ眠る耕平と美里の姿があった。
二人が座るテーブルの上には、いくつもの本が散乱している。
テーブルの下では、二人の小指が絡み合っていた。
未来が見えない結婚をする男と、未来が見えない恋をする少女。
互いに先の分からぬ不安を打ち消しあうように、その夜二人の心は惹かれあった。
◇
高校に入学して、四度目の春。
高校の卒業を控え、十八歳になった美里は、桜が煌く春の空を仰いでいる。
この桜並木を抜けると、もうすぐ耕平のもとへとたどり着ける。
一年前の春、図書室で耕平と一夜をともにして以来、美里と耕平の心は通じ合った。
それは、身体を求め合うのではなく、互いの心に互いの存在を認め合う幸せだった。
結局、耕平は浮気した婚約者と結婚することにした。嘘で塗り固められた結婚生活に、一時は絶望した耕平だったが、献身的に自分の幸せを願ってくれる美里の一途な愛により、嘘に満ちた結婚生活に立ち向かってゆく勇気が持てた。
「先生は、先生になるために一生懸命頑張ってきた人なんだから、このまま先生として生きてゆくべきだよ。だから、婚約解消なんかしちゃダメ。たとえ、あの女が先生のこと好きじゃなくても、私があの女の分までいっぱい先生を好きでいてあげるから」
耕平の心は、美里の一途な愛に救われた。
一方で、美里も、耕平の幸せを願うだけの一途な恋に満ち足りた時間を過ごしていた。
だから、耕平の結婚式が行われる今日、美里は自分の恋の永遠も耕平に誓いに来たのだ。
桜並木を抜けた美里は、ついに耕平が結婚式を挙げるチャペルの前まで到着した。
そこには、まるで自分を待っていてくれていたかのように、優しい笑顔を浮かべる耕平の姿があった。嬉しくなった美里は、タキシード姿の耕平の胸に飛び込んでゆく。
そして、耕平のワイシャツの襟に、美里は溢れる想いで口付けをした。
春の陽光を浴び純白に輝く耕平の襟元に、二人で過ごしたあの一本桜を思わせるような、美しい薄紅色をした花が咲いた。
こんばんわ、あいぽです。
まずは、この度は沢山の作家様にべた恋に参加して頂き、そして沢山の読者様にべた恋作品を読んで頂き、感謝を致します。
今回は、「初恋」をテーマにべた恋を行ってきたわけですが、べた恋作家様が描かれる「初恋」ストーリーは、ホントに素敵なものばかりでした。
「べた恋2010春」で検索して、ぜひ他の作品も読んでみ下さい。
さて、あいぽのこの作品ですが、前回のギフト企画・5分企画とコメディタッチの作品が続いたため、次はシリアスな作品を書こうと思いこの作品を作ったのですが、ん~いかがでしょうか?
正直、少し哲学的になりすぎて、今回の作品は賛否両論かなとも思っているのですが、ぜひぜひ皆様の率直なご感想を頂けたら幸いです。
ただ、あいぽ的には、久しぶりに深みのある作品を書けたかなとも少し満足しつつも、不安でいっぱいです(笑)
ではでは、これからも宜しくお願いいたします。
※参考文献
「蟻の生活」
作 モーリス・メーテルリンク