番外編『宮本さんと風間さん㉙』
ある日のこと、市内のパトロールを終えた宮本静佳が署に戻ってくると、刑事課の辺りがにわかに騒然としていた。
近くにいた知り合いの署員に「何かあったんですか?」と訊ねると、その署員は曇った顔をして、
「ヤマさんが・・」
と、言った。次の瞬間、
刑事課の個室から、三名の刑事に羽交締めにされたヤマさんが飛び出してきた。
ヤマさんは憤怒の形相を浮かべ、何事かを怒鳴り散らしていた。
彼を抑える刑事が、やめてくださいと必死に懇願している。その訴えを無視し、ヤマさんは今にも殴りかからんばかりの勢いで、個室の奥にいる何者かのことを睨みつけていた。
「お前、分かってるのかっ!! 『アイツ』の時と同じことを、お前はまたやったんだぞっ!! それを分かってるのか!!!」
ヤマさんが怒号を上げる。それに応えるように、ヤマさん同様刑事に羽交締めにされた女が個室から半身を覗かせる。
「アンタには関係ないでしょ!!!」
怒鳴り返す女の顔を見て、宮本静佳は思わず「え・・」と目を丸くする。
相手の女は、北野桝塚恵の母親だったのだ。
※※※
※※
※
騒ぎがひと段落した後、宮本静佳は一人ヤマさんに会いに行った。
ヤマさんは外の喫煙室で、硬い表情のまま身じろぎもせずに長椅子に腰掛けていた。宮本静佳が彼の前に立つと、一瞬だけ視線を動かし、
「中川から言われてきたのかい?」
と言った。中川というのは土井山署の署長で、ヤマさんが緑ヶ丘署にいた時代の部下だった男のことである。
宮本静佳は苦笑し、
「署長にお願いされたのは事実ですけど、お願いされなくても、私はここに来ましたよ」
そう言って、ヤマさんの隣に腰掛ける。そして、一呼吸置いてから、
「・・・何があったんですか?」
と、訊ねた。
ヤマさんと北野桝塚恵の母親の間で何かしらのトラブルがあったようだが、詳細を知る者は誰もいなかった。
この日、北野桝塚恵の母親は、失踪した娘に関する何かしらの確認作業のために土井山署を訪れていた。
その確認が終わり、刑事課の個室から担当の刑事と一緒に出て来たところで、彼女はヤマさんと鉢合わせしたらしい。
二人はしばらく、唖然とした表情でお互いの顔を見つめていた。
しかし、その後すぐに、二人の顔が見る見る赤くなっていったかと思うと、取っ組み合い同然の激しい言い争いを始めた。あまりにも突然の出来事で、一緒に居合わせた刑事にも何が何だか分からなかったそうである。
刑事課の人間総出で二人を引き剥がし、北野桝塚恵の母親には何とかお帰り願ったものの、誰もヤマさんに事情を訊ねることが出来なかった。いつも飄々とした雰囲気を崩さず、どんな外道が相手でも態度を変えないヤマさんであるが、本気でキレた時は、屈強な警察官が縮み上がるほどの怒気と殺気を見せる。こうなってしまったヤマさんに声をかけられるのは、署内で彼と一番仲の良い警察官━━宮本静佳くらいのものだった。
「・・・」
ヤマさんは地面を凝視したまま、何も答えようとしない。宮本静佳は何も言わずに、ただ彼が話し始めるのをじっと待った。
静かな時間が流れる。
二人の頭上を、名前も知らない小さな鳥が群れをなして飛んで行く。場にそぐわない気の抜けた鳴き声が遠くに過ぎ去ると、隣から「はぁ」という疲れ切ったため息が聞こえた。
「アイツはな・・俺の、元女房だ」
それを聞いた瞬間、宮本静佳は弾かれたようにヤマさんの顔を見た。
「前に静佳ちゃんに差し入れ持って行った時な、似てるとは思ったんだよ。でもまさか、二十年以上前に別れた元嫁の娘とこんな形で出会うなんて、そんな偶然があるわけがないと、俺は勝手に思い込んじまったんだ。あの時、俺は自分の直感を信じるべきだった。あの子━━恵ちゃんだったか? 俺とは血は繋がってないが、あの子とは完全に赤の他人ってわけじゃねぇんだ。そうだと分かってりゃ、俺が何とかしてやれたかもしれねぇのによ・・」
本当に悪いことをした、とヤマさんは小さく頭を下げた。
宮本静佳は「そんなことは・・」と首を横に振る。未だ混乱する頭を必死に動かし、何とか言葉を紡ぐ。
「恵ちゃんが失踪してしまったことは、ヤマさんには何の責任もありませんよ。あれは私の━━」
宮本静佳は、ぐっと唇を噛む。脳裏に浮かぶのは、北野桝塚恵と最後に会ったあの夜の悔恨だった。
ヤマさんは目を瞑り、「いや・・」と言って、大きく首を横に振る。
「違う、違うんだよ、静佳ちゃん・・。あの子が失踪しちまったのはな、たぶん俺にも責任があることなんだ」
「・・・どういうことですか?」
ヤマさんは疲れ切った表情で再度ため息を吐くと、
「・・・少し、自分語りをさせてくれや」
そう言って、遠い目をしたままポツポツと語り始めた。
「どこから話したもんか・・。ジジイの馴れ初め話なんぞ話したところでしょうがねぇし、関係もねぇから端折っちまうが、アレと結婚したのは、俺が二十歳そこそこの若造だった頃だ。子どもはその翌年に生まれた。男の子だったよ。今はこんなナリをしているが、俺は元はキャリアでな。将来の幹部候補生ってことで、鉄火場みたいな部署で毎日揉みくちゃにされていた。そんな生活を送っていたもんだから・・ってのは言い訳でしかねぇんだが、俺は嫁と子どもにまったくと言っていいほど構ってやれなかったんだ。七五三やら入園式やらの行事は一度も顔を出してねぇ。その手のものは、全部嫁に投げてた。当時は折悪く、暴対法成立直後の混乱の真っ只中でな。法の抜け道を探ろうとするヤクザやチンピラどもが、あれやこれや仕掛けてくるのを水際で食い止めるのに必死だったんだ。あの頃の俺は、家に週に一回帰れれば良い方で、酷い時は丸一ヶ月帰らないなんてこともあった。そんな風だったからよ、夫婦仲は当然のように冷め切っていた。あの頃の俺たちは、戸籍上は夫婦ってだけで、実際のところは赤の他人も同然だった。お互い顔を合わせても、会話するどころか目を合わせることすらしなかったんだからな・・」
「・・・」
ヤマさんの告白を、宮本静佳は黙って聞いていた。バツイチで息子が一人いるというのはかなり昔から知っていたが、詳しい話を聞くのはこれが初めてのことだった。
「だが、女房とはそんな有り様だったが、息子の方とはそこまで関係は悪くなかったんだ。・・・いや、違うな。今のはただの俺の願望だ。アイツが俺のことをどう思っていたかなんて、今となっちゃもう分からねぇんだからよ。それを良いことに、俺が『そう』だったと、勝手に思い込みたがっているだけだ。遊びにも連れて行かねぇ、学校の行事にも参加しねぇ。それどころか、まともに家に帰って来さえしねぇ。そんな男を、アイツが父親と認めていた訳がねぇからな・・」
自虐的に口の端を吊り上げるヤマさんを見て、宮本静佳は「そんなことは・・」と言って、眉を落とす。それを見たヤマさんは小さく首を振り、
「いや、いいんだ。俺が父親失格だったのは紛うことなき事実だからな。きっと息子も、俺のことはたまに家に帰ってくる変な男くらいにしか思っていなかっただろうよ・・」
そう言って、目を閉じた。
「・・・だが、息子は誰に似たんだか、『よく出来た子』でな・・」
再び目を開いたヤマさんの顔には、先にはない優しさが宿っていた。
「こんな俺でも、『父さん』と言って、気遣ってくれたんだ。まだ幼稚園の頃の話だが、俺がたまに帰ってくると、アイツは必ず嬉しそうな顔をして俺の前に走ってきてな、描いた絵を褒めてもらっただとか、かけっこで一番になっただとか、そう言ったことを嬉しそうに話してくれたんだよ。言葉が驚くぐらいしっかりしていた。まだ五歳かそこらの年だったのに、まるで高学年の小学生を相手にしているみたいだった。実際、アイツはかなり頭が良かった。ある時、嫁が誇らしげな顔をして、俺に一枚の紙切れを見せに来たことがあってな。何だと思って見てみたら、息子の知能テストの結果が書かれた通知書だった。驚くほどの高得点だったよ。判定の結果、アイツのIQは160を超えていることが分かった。流石に驚いたよ。俺も嫁も、そこそこ偏差値の高い大学を出ていたとはいえ、IQ160なんて出鱈目な数字が出せるほど頭が良くはなかったんだ。鳶が鷹を産んだとは、まさにこのことなんだろうな。嫁はもう有頂天になっちまってな、息子を私立の良いところの学校に入れるんだって、一人であれこれと準備し始めた。正直、俺は私立のような堅苦しいところじゃなくて、息子には普通の学校で伸び伸びと学校生活を送って欲しかったんだが・・俺は何も言わなかった。・・・言えなかったんだよ。言う資格がなかった」
「・・・」
「俺は、息子の進学に関しては嫁の好きにさせることにした。何も口出しをしない代わりに、関わることもしなかった。バカなんじゃねぇかと思うだろうが、息子がどの学校を受験したのかすら、俺は受験が終わるまで知らなかったんだ。息子が受験したのは、財閥の子息令嬢が受験するような超難関の名門だったが、アイツは簡単にそこの入試に受かっちまった。しかも主席で、だ。その時の嫁の喜び様ったらなかったよ。息子が受かった時、アイツはそれまで片手で数えるほどしか連絡してこなかった俺の携帯にいきなり電話をかけてきて、まるで10代の頃に戻ったみたいな黄色い声で俺に報告してきたんだ」
━━━あの子のお祝いをしたいんだけど、アナタも来るでしょう?
「俺は一瞬言葉に詰まった後、仕事があるからと断った。その時、かなり厄介な案件を抱えていたのは確かだが、無理をすれば家族に会いに行けるくらいの時間は作れたはずなんだ。だが俺は、大して考えることなくその誘いを断った。受験の手続きやら何やらの面倒なことを全て嫁に丸投げし、自分の子どもが何月何日に受験を受けたのかも知らない父親もどきが、いったいどのツラ下げて祝いの席に顔を出せるんだと、俺はそう考えちまったんだ。・・・それに対する嫁の返答は簡素だったよ」
━━━・・・そう。
「あの時のアイツの冷たい声を、俺は今でもはっきりと憶えている」
※※※
※※
※
「息子が小学生に上がってからも、俺の生活は相変わらずだった。その頃には、ヤクザどもの動きも大分落ち着いていたんだが、今度は大陸の連中との凌ぎ合いが始まっちまった。ヤクザどもが失ったシマを奪おうと、遠路はるばる海を越えてお越しくださったのさ。俺はそいつらの対応に追われて、日本中を駆け回るような生活を続けていた。家に帰れるのは、月に一度あるかないかくらいだった。嫁は完全に俺をいないものとして扱うようになった。息子は俺が帰ってくると、おかえりなさいと挨拶はしてくれるんだが、どことなくよそよそしくなっちまった。幼稚園の頃のように、その日の出来事を話してくれることもなくなったよ。とうとう息子からも愛想を尽かされたのかと、自嘲なのか開き直りなのかも分からん諦念を抱いていたんだが、ある日、アイツがキョロキョロと辺りを見回しながら、「父さん」と、小声で俺に話しかけてきたんだ。俺は、何か内緒の話でもあるのかと思って、アイツの前にかがみ込んだ。すると━━」
━━━ごめんなさい。
「アイツは何故か、俺に頭を下げてきたんだ。まるで心当たりがなかったから、いったい何事だろうと大層驚いたよ。手酷いイタズラでもやらかしたのかと思ったんだが、そうじゃなかった。アイツは俺の顔を、物凄く申し訳なさそうに見て━━」
━━━避けるような真似をしてごめんなさい。
「と言ったんだ。それを聞いた瞬間、強い耳鳴りのようなものが頭にキーンと響き渡った。息子が意図的に俺を避けているのではないことは、薄々察していた。その頃、嫁は俺のことを文字通りの意味で見向きもしなくなっていたんだが、息子と話している時だけは鬼のような形相で俺たちのことを睨みつけてきた。恐らく、常日頃から息子に俺とは口を効くなと言い含ませていたんだろう。嫁は、俺が息子と話していると酷く不機嫌になった。それを息子は察していた。察していて尚、嫁の地雷を踏み抜くことを覚悟で、俺に声をかけてくれていたんだ。それに気付いた瞬間、俺は思わず泣きそうになった」
宮本静佳は目を細め、良いお子さんだったんですね、と優しく声をかける。ヤマさんは「ああ」と何度も頷き、
「本当に、俺の息子とは思えないくらい良く出来た子だった。まだ小学一年生だったのに、アイツはそういう気遣いが出来る子だった。俺はあの日ほど、自分が情けなく思えたことはなかったよ。無視されて当然、罵声を浴びせられて家から叩き出されても文句は言えない身だってのに、アイツはそんな俺に、ごめんなさいと頭を下げてきたんだ。その後、俺は息子に何と言ったのかよく憶えていない。色々な感情がごちゃまぜになって、頭の中が混乱しちまってたんだ。だが、とにかく━━」
━━━お前は悪くない。謝る必要なんて何もない。
「それだけは、強く言って聞かせたことは憶えている。悪いのは何もかも俺で、嫁が不機嫌になるのは当たり前のことなんだ。だから、お前が負い目を感じる必要は全くない━━そんなようなことを、俺はアイツに言った気がする。たぶん、その話の流れだったんだろう。俺はアイツに、今までのお詫びに、今度どこか連れて行ってやると約束したんだ。すると、アイツはぱぁっと顔を輝かせて」
━━━父さん、じゃあ今度、僕を釣りに連れて行ってよ!!
「と、言ったんだ。その時は、釣りなんて生まれてこの方したことがねぇ、休みもいつ取れるのか分からねぇってのに━━」
━━━分かった。今度、連れていってやるからな。
「と、俺は息子の頭を撫でながら約束しちまったんだ・・」
ヤマさんの目線が、遥か遠くの空を向いた。
「俺は結局、その約束を果たしてやることが出来なかった・・」
※※※
※※
※
「息子が小学二年生になった頃、大陸の奴らとの攻防も少し落ち着いてきてな、俺は週に一回くらいは家に帰れる余裕が出来た。その時期━━」
━━━家の様子が、妙だったんだ。
「いつ家に帰ってきても、嫁も息子もいねぇんだ。最初は、遂に俺に愛想を尽かして出て行ったのかと思ったよ。だが、部屋には生活の痕跡が残っていたんだ。それなのに、寝て起きて朝になっても、アイツらは帰って来なかった。そんなことが何度も何度もあった。あの時期、俺は一度も嫁と息子に会えなかった。その時すぐに嫁に電話して、何をやっているんだと問い詰めるべきだった。しかし、俺はそれをしなかったんだ。他所の男の家に上がり込んでいたのだとして、いったいこんな俺に、何を言える権利がある? おれは、勝手にそう思い込んじまっていたんだ・・」
━━━結果として、これが俺の人生史上、最悪の悪手となった。
「その事実を突きつけられたのは、署にかかってきた一本の電話からだった。相手の奴は※※テレビと名乗った。大手のマスコミが、俺のような一介の警察官に何の用だと訝しみながら話を聞いていると━━」
━━━俺の顔から、自分でもはっきりと分かるほど血の気が引いていき、遂には受話器を取り落としてしまった。




