番外編『八号さんとほんわかぱっぱ 裏』
無数の緊急車両のサイレンが鳴り響いている。
多数の野次馬が何事かと人垣を組む中、マンションのエントランスから毛布に包まれた男が大急ぎで運び出されてくる。
点滴と呼吸器に繋がれたその男は酷く衰弱しており、その顔には先日までの面影は全くない。
男は土井山の市長だった。
元々は恰幅のよい壮年の男だったのだが、それが今や総白髪で痩せ細り、ビー玉のような目がぼんやりと虚空を見据えている。たった一晩で、男は死期を間近に控えた老人のように変貌してしまっていた。
「・・・」
その姿を、神楽野龍馬は雑居ビルの屋上からじっと眺めていた。
適当にハサミで切ったような雑な髪型に無精髭。すれ違う人から距離を置かれるような身なりをしているにも関わらず、彼の容貌は距離を置かれるどころか、すれ違う全ての異性を振り向かせる不思議な魅力に満ちていた。神楽野龍馬の祝福であり呪いでもある神懸かり的な容姿。それが、いかなる形であれ、彼を凡人以下の容姿に落とすことを許さなかったのだ。
神楽野龍馬の眼下で、男━━土井山の市長が、救急車に乗せられ病院へと搬送されて行く。その様子を最後まで見届けると、神楽野龍馬は口元に手をやり思案し始める。
(・・・また伽奈が『領域送り』にしたのかと思ったが・・アレは違うな・・)
神楽野龍馬は、男の不自然な衰弱っぷりに見覚えがあった。かつての仲間━━『班』のメンバーである八車みちる。彼女が使っていた『家銘』━━『物見八獄遊界』の『夢祟り』。それに呪われた人間に、症状が瓜二つだったのだ。
念のため『視』て確認してみたが、やはりというか、男には『八車』の『家銘』の痕跡が残っていた。何者なのかは不明だが、相手側には確実に『八車』の人間がいる。その結論に至ると、神楽野龍馬は僅かに顔を歪め、ちっと舌打ちする。
(『八車』の人間がいるということは、間違いなくこの件には『冥道』が絡んでいる。だが何故、たかが一地方都市の市長を相手に、奴らが首を突っ込んでくる?)
それが、どうしても分からなかった。
神楽野龍馬は更に思案する。
まさか連中に、『あの子』の裏に自分がいることがバレたわけではあるまい。それだけは細心の注意を払ってきたし、万が一バレていたのだとしたら、的を仕掛ける相手があまりにも意味不明すぎる。何故『あの子』の周りの人間ではなく、何の関係もない土井山の市長を狙った? あのくだらない豚のような男は、『あの子』のマネージャーを脅迫していた。『あの子』と市長の間に繋がりがあるとするなら、そこしかない。その程度の関係性しかない人間に『八車』の人間をけしかけ、精神崩壊にまで追い込むことにいったい何のメリット、あるいは利益がある? 素直に考えれば、あの市長は俺とも『あの子』とも何の関係もない理由で排除されたと考えるべきだが、今の『冥道』が『八車』の人間を使ってまで人間を一人消すのは余程のことだ。では、その余程のこととはいったい何だ? あの市長のことをそこまで深く知っているわけではないが、呪的な防御を一切行っていないただのカタギを相手に、一般の『草』ではなく『家銘』を使える『八車』のエリートを送り込んだ理由は何だ? そうしなければいけないほどのバックが後ろにいるのか? それほどまでに深い根が、あのくだらない市長の周りにはあるということなのか━━
神楽野龍馬は、口元に手を当てながらぶつぶつと呟いていたのだが、ふいに何かに気付いたように後ろを向く。
━━━・・・。
そこに、人の形をした闇の塊のようなものがいた。
人間の頭部にあたる部分には、赫い二つの双眸が光っている。
その闇の塊は、若干前屈みの姿勢で身体をフラフラと左右に揺らしながら、時折様子を伺うように神楽野龍馬を上目遣いにチラチラと見ている。
「・・・」
その様子を見て、神楽野龍馬は一転、げんなりした気分になる。
闇の塊━━伽奈の様子が、どえらいイタズラをやらかしてしまった時とまったく同じだったからである。
「・・・お前、何かやらかしたのか?」
神楽野龍馬がそう訊くと、伽奈は一瞬大きく身体を震わせた後、
━━━・・・!!
ぷるぷると首を左右に振り、姿を消してしまった。確定だった。
「・・・」
神楽野龍馬は伽奈が消えた空間をしばらく見つめた後、「くそが・・」と呟いた。
今の伽奈の様子━━アレは、アイツと紗姫が、戸棚の奥に隠しておいた来客用のお高いお菓子を全部食べてしまった時と同じリアクションだった。
あの時、伽奈と紗姫は、モリナガと志乃に説教されている間中、俺の方をあんな風にチラチラと見ていたんだった━━
神楽野龍馬は髪をわしゃわしゃとかきむしると、「はぁぁぁ・・」と盛大なため息を吐く。何をやらかしたのかは分からん。分からんが、今回のコレは、伽奈が関わっていることに間違いない。
(しかし、アイツが何かやらかしたとして・・)
それがどうして、『八車』の人間が、たかが一地方の市長にしか過ぎない人間を呪うことに繋がるのだろうか?
何もかもが意味不明すぎて頭がおかしくなりそうになる。伽奈を問い詰めてやりたいところだが、アイツはいま口がきけないし、何処にいけば会えるのかも分からない。ある程度の推論を自分で立てる他なかった。つまりは、振り出しに逆戻りというわけだ。
神楽野龍馬は、ゆっくりと頭を振る。と、
(もしや『視点』が違うのか・・?)
ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
相手の目的は、俺でも『あの子』でも市長でもなく、別にあるのだとしたら・・?
そう考えると、ある一筋の『線』が見えてくる。
「あのマネージャーか・・」
久喜原立夏。銀髪銀眼の容姿端麗なあの女━━彼女の顔を初めて見た時、神楽野龍馬はひどく驚いた。
━━━あの女は、『あの時』の女に間違いない。
随分と前の話になる。まだ『班』にいた頃、九州の端っこの方で任務があり、その時にたまたま助けてやったのが、あの女だった。
(最も助けたといっても、久喜原立夏の方は俺の存在を知らないはずだ。『あの時』━━俺は一度も表に出ることなく、今のように完全に影に徹して『あの連中』から助けてやったのだから・・)
他人の空似ということは絶対あるまい。あの容姿に銀髪銀眼。瓜二つの赤の他人がいるとは到底考え難い。
(だとすると・・)
随分奇妙な偶然もあったものだと、神楽野龍馬は考える。
最初に久喜原立夏を見た時、彼は何かしらの策に嵌められているのではないかと疑ったほどだった。九州の端っこで気まぐれで助けてやった名前も知らない少女━━その女と、こんな形で再会するなど、数学的にありえない確率だった。
神楽野龍馬は金庫(ブリキ缶)から蓄えを引っ張りだし、足りない分はヤクザや半グレの事務所から失敬して、徹底的に久喜原立夏の身辺を洗った。
その結果、久喜原立夏自身の身辺には、特に不審な点は見当たらなかった。到底信じ難いが、この件に関してだけは、ただの偶然と片付ける他なかった。しかし━━
久喜原立夏を調査する過程で二つ、引っかかる点があった。
━━━そのうちの一つを知った時、俺は荒れに荒れた。そして、これは確実に俺を嵌めるための罠だと思った。
しかし、久喜原立夏以上に徹底的に調査を重ねたが、『このこと』についても、『ただの偶然』以外の結論が浮かばなかった。運命の悪戯のあまりの気色悪さに思わず総毛立ってしまったが、『このこと』についてはもう、俺は何も考えないことにした。・・・考えようがなかった。
問題となるのは、もう一つの方だ。
それは久喜原立夏の娘━━久喜原びすけっとに関することだった。
※
久喜原びすけっと。
こんなふざけたキラキラネームがよくも通ったものだと思ったが、現在は「ちゅーる」という名前の競輪選手が生まれようとしている時代だ。そう考えると、びすけっとなんて普通だ普通、と思うところだが、神楽野龍馬が引っかかりを覚えたのは当然そんなところではない。
久喜原びすけっとは、『裏』に繋がりがあった。
所属しているのは『陰陽大・西派』。『陰陽大』は、『東』はともかく、『西』は割りかしクリーンな部類に入る組織なので、それだけならそこまで警戒する必要はないのだが、問題は久喜原びすけっとの『ケツモチ』だった。
「・・・」
神楽野龍馬はポケットからスマホを取り出すと、そこに羅列された情報を眺める。それは、彼が苦労して集めた、久喜原びすけっとの『ケツモチ』に関する情報だった。
顔写真だけはどうしても入手できなかった。が、代わりに大まかな経歴だけは入手することが出来た。そこに記されているのは、眉唾としか思えない華々しい経歴。その中でも、特に目を引くのが三つ。
━━━『裏』の生きる都市伝説とまで呼ばれた伝説的な陰陽師、×川あかりの一番弟子。
━━━数百年の長きに渡り、誰も調伏出来なかった『開祖の式神』を調伏。
━━━『六ノ宮の姫君』の一柱を単独撃破。
特に最後が異常である。万の犠牲を覚悟せよと云われる『六ノ宮』の眷族を単独で祓うなど、並大抵の者ではない。<<開祖以来の天才>>、<<人類史上最強の陰陽師>>、<<言霊の王>>━━数多ある仰々しい二つ名も、この戦績なら納得というものだ。
『長』をもたない『陰陽大・西派』の実質的な代表であり、一説には久喜原びすけっとの父親なのではないかとの噂もある稀代の陰陽師。その名を━━
安西晴信
という。
※※※
※※
※
久喜原立夏が安西晴信を頼り、何かしらの伝手を使って『八車』の人間に何とかしてもらった━━そう考えると、一応話の筋は通る気がする。だが、稀代の天才と呼ばれた陰陽師である安西晴信が、何故わざわざ『八車』の人間を頼ったのか? 相手は素人だ。どうとでも料理出来たはず・・。
「あるいは・・」
久喜原びすけっとの父親は、安西晴信ではなく『八車』の人間という可能性もあるのか? 籍を入れていないのは、相手が『冥道』の脱走者であると考えれば一応の辻褄は合うが、脱走者ならば『冥道』に見つかることを何よりも警戒しているはずだ。これ見よがしに『家銘』を使うなどあり得るのだろうか? もしくは相手は『冥道』の脱走者などではなく、『八車』のかなり上の方にいる人間で、認知しようにも『家』のしがらみで出来なかったからか? だが『冥道』の『上』にいるような人間が、私生児のためにそこまで尽力するとは到底━━
「・・・」
思考が脱線しすぎてしまった。そこまでの可能性を考え出したら、もう何だってアリになってしまう。
やはり当初の推測通り、市長を呪ったのは安西晴信であると考えるのが妥当だろう。
孕ませた女と籍も入れず、子どもを認知もせず、ふらふらとボウフラのように生きている最低の男が、あの鬼みたいに気性の荒い九州の女にせっつかれて、仕方なく事態の解決に乗り出した━━恐らくは、そんなところなのだろう。
(だが、しかし━━)
どういうわけだか、この結論がしっくりこない。
神楽野龍馬は腕を組んで考え続ける。頭の中に色々な可能性が思い浮かぶが、そのどれもが、何故か間違っていると感じる。
(俺は何かとんでもない思い違いをしていて、考えなくてもいいことを無意味に考えているんじゃないのか・・?)
何の根拠もないただの勘だが、神楽野龍馬はそんな気がしてならなかった。だが━━
現実問題として、『八車』━━『冥道』が『あの子』の周りに湧いてしまったのは確かな事実なのだ。
神楽野龍馬の表情が硬くなる。
最早影も形もないが、つい先ほどまでここにいた、伽奈について思いを馳せる。
(・・・『冥道』は、伽奈の地雷だ)
地雷どころか、核といって差し支えないだろう。もしも、伽奈が何よりも大事にしている『あの子』に『冥道』が何かをしてしまったら、その時は確実に世界が終わる。全盛期から大きく弱体化しているとはいえ、伽奈には依然として地球上の人類を一瞬にして皆殺しに出来るだけの力が残っているのだ。『あの子』に何かがあって伽奈が暴走してしまった場合、今度は『訳の分からん奴が何とかしてくれる』などという都合の良い奇跡は起こらないかもしれない。そうはさせないためにも━━
「・・・やり方を変える必要がある、か・・」
これまで、神楽野龍馬は影に徹して『あの子』を守り続けてきた。
しかし、それでは足りないと考える。
今のままでは致命的な後手を踏んでしまう可能性がある。『冥道』の数ある一族の中で、ある意味最も厄介な『八車』が出張ってきてしまったのだ。まだ相手の目的も動機も定かではないが、相手は『八車』。一瞬足りとも気を抜くことは許されない。今まで以上に『あの子』の周辺に目を光らせなければならない。そのためには━━
━━━もっと近いところで、『あの子』を守る必要がある。
だが、それも非常に難度が高い。今や『あの子』は日本屈指の売れっ子タレントだ。『あの子』に近づける程の立場を得るには、相応の苦労と工夫が必要になるだろう。それについては追々考えるとして、まずは差し当たって、絶対にやらなければならないことが一つある。
(気は進まんが、やはり久喜原立夏にもう一度『道』を打ち込まなければならない。一般人の口を無理矢理割らせるような真似をするのは俺の流儀に反するのだが、今回ばかりはやむを得んだろう・・)
安西晴信と『八車』が、いったいどういう関係にあるのか。あの女がその辺りの事情を知っているとは到底思えないが、念のため何か知っていることはないか聞き出しておかなければならない━━
昨日。
『ポンオフィス』の事務所に目と耳を『飛ばして』いた神楽野龍馬は、久喜原立夏が『あの子』と話している最中に突然泣き出したのを見て、何かがあったのだと察した。気は進まなかったが、便所に落ちていた使用済みの注射器を「これアンタのでしょ?」と言って大物女優の楽屋に持って行くような頭のイカレた九州の女が泣くなど絶対に只事ではない。それでつい、久喜原立夏に『道』を使ってしまった。結果、彼女が土井山の市長に脅迫されていると分かった。
正直、静観するつもりでいた。
これは『あの子』の問題ではなく、久喜原立夏とその娘が解決しなければいけない問題だと思ったからだ。しかし━━
『びすけのことは、しょうがないの。全部あの子がやったことなんだから、あの子が責任を取らなくちゃいけない。でも、晴信はどうでもいいとして、静佳やヤマさんにまで迷惑をかけることになるのが、私にはどうしても耐えられなくて・・』
それを聞いた瞬間、俺は頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。
一晩、悩んだ。
悩んだ結果、俺が始末をつけると決めた。どういう形の『始末』にするかまでは決めていなかった。それは、市長と『お話し』して決めるつもりだった。しかし、市長のお宅にリアル早朝バズーカーをキメようとしたところで━━
「・・・ご覧の有り様というわけだ」
はぁ、とため息を吐き、神楽野龍馬は野次馬が散りつつある現場から背を向けた。
ゆっくりと歩を進めながら、憂鬱げに空を見上げる。
「まるでタワーディフェンスだな・・」
神楽野龍馬は、小さくため息を吐く。
相手に一切の隙を見せることなく完封出来れば俺の勝ち。負けはそれ以外のすべて。俺の存在はおろか、ゲームをプレイしていること自体、誰にもに悟られてはならない━━
「随分と、難度の高いステージだことで・・」
神楽野龍馬は肩をすくめる。が、すぐに不敵な表情を浮かべると、
「だが、頭を使うゲームは俺の得意分野だ」
『班』にいた頃、俺はその手のゲームで負けたことは一度もなかった。『班』のメンバーはチンパンジーに毛が生えた程度の奴らばかりだったから、ほとんどの奴は頭を使うゲームに興味自体を示さなかったのだが、円香と万智の二人だけは、その手のゲームになるとムキになって俺に突っかかってきた。円香は班長としてのプライド故、万智は『読島』のプライド故に、俺のような何の変哲もない男に知恵比べで負けることが許せなかったのだろう。しかし、二人ともそこそこ頭はよかったのだが、円香は思考が素直すぎるし、万智はどうでもいいことを深く考えすぎてしまう悪癖があった。だから、癖さえ掴んでいれば、あの二人を捻るのは案外容易かった。それよりも、何を考えているのか分からない、頭が良いのか悪いのかさえ判断がつかない、みちるや柚の方が俺にとっては難敵だった━━
神楽野龍馬の口から、ふっという薄笑いが漏れる。
それに気付いた瞬間、彼の顔から笑みが消える。
「・・・何を考えてるんだ、俺は」
神楽野龍馬は一人頭を振る。
『班』のメンバーのことは、極力思い出さないようにしていた。そうしなければ、心が持たなかったからだ。しかし今日は、どうしてだかアイツらのことをよく思い出してしまう・・。
「やはり、久方ぶりに『八車』にやられた人間を見たからだろうな・・」
恐らくはそれがトリガーになって、ずるずると過去のことを考えてしまっているのだろう。神楽野龍馬は、自身の心の変化をそう結論付けた。
気持ちを切り替える。
「例え何が起きようと、俺のやることはただ一つだ」
━━━『あの子』を、ありとあらゆる災難から守り切る。
それだけだ、と神楽野龍馬は暗い表情で呟く。
それは『あの子』に対する贖罪であり、伽奈の暴走を止めるためであり、そして━━
━━━遠い遠い昔の、まだ彼が神楽野龍馬では無かった頃の『復讐』を果たすためでもあった。
神楽野龍馬の全身に、すっと霧のようなものが立ち込める。
その霧は瞬きする間に消失し、その時にはもう、屋上には誰の姿も残っていなかった━━
━━━これが、
この一件が、神楽野龍馬と久喜原びすけっとの両名による、無意味で無駄でそこそこ長い暗闘()の始まりになろうとは、この時誰も━━
『おいっ!! どうするんじゃ、このクソボケがっ!! 死ぬほど面倒なことになってしもうたぞっ!!!』
『私、悪くないもん・・私、悪くないもんっ!!!』
『何が悪くないもんじゃ!! お主の脳みそはダチョウかえ? 己がやらかしたことをもう忘れてしもうたんか? そんな残念至極な頭で余計なことをしよるから、お主は毎度毎度裏目に━━』
『んきぃいいいいいいいいいいいいっっ!!!』
『はわわ・・』
・・・若干名を除き、まだ誰も気付いてはいなかった。
※※※
━━━都内某所。朝の情報番組『昨夜はお楽しみでしたね?』の収録スタジオにて。
「朝霞奈さん、大丈夫ですか!?」
帽子を被った一人の男が、朝霞奈玲月の元へ駆け寄ってくる。男は番組のプロデューサーであった。
生放送中、スタジオ内で謎の爆破事故があり、出演者は全員退避したのだが、何故かゲストである朝霞奈玲月だけは平然として席に座り続けていた。
彼女は割れたグラスを見つめていた眼をスッと横に逸らすと、
「ええ」
と、男の顔を見て小さく笑った。
「そ、そうですか・・それは、よかったです・・」
男は引き攣った笑みを浮かべながら、朝霞奈玲月から目を逸らす。
局の職員、出演者、スポンサーのお偉方━━番組に関わる者全員が揃って絶賛する朝霞奈玲月の鮮やかな蒼い眼が、何故か彼にはひどく恐ろしいものに映った。
この眼を見続けてはいけないと、彼の中の何かが囁き続けていた。
「えーと・・」
男は頬をかきながら、意味もなくスタジオを見回す。割れたガラスの欠片がそこら中に散らばり、天井の照明からは未だ火花が飛び散っている。誰もが逃げることを選択する状況の中で、朝霞奈玲月は未だ席を立とうとしなかった。
ここは危険ですから早く避難してくださいと、彼が口にしかけた瞬間━━
ぞわり、と全身が総毛立ち、彼は言葉を失ってしまった。
「・・・」
朝霞奈玲月は笑っていた。楽しみで楽しみで仕方がないといった風に━━
いったい何が楽しみなのかは分からなかった。知りたくもなかった。こんな状況でこんな表情をするなど、やはりこの女は普通ではない。局に勤めて数十年、彼は初めてテレビマンになったことを後悔していた。
男の首筋から汗が流れ落ちる。
自分が恐怖していることを相手に悟られたくないあまり、彼はとんちんかんな質問を朝霞奈玲月にしてしまう。
「・・・な、何か、良いことでもあったんですか・・」
引き攣った笑みで、恐る恐る訊ねる。答えは期待していなかったのだが━━
「はい」
予想に反し、心底嬉しそうな表情で、朝霞奈玲月は首を縦に振った。そして、
「昔、遊ぶ約束をしていたんですよ」
男は、思わず「は?」と間抜けな声を出す。話がまるで見えなかった。
男の混乱に構わず、朝霞奈玲月は続ける。
「てっきり約束をすっぽかされたものと思っていたんですけど、『お友達』は憶えていてくれたみたいで・・今度こそ一緒に遊ぼうねって、お誘いをしてくれたんですよ。私は、それが嬉しくて嬉しくて・・」
頰に手を当て、うふふと笑う朝霞奈玲月の表情は、童女のように屈託がなかった。
男の恐怖心が加速度的に増していく。
主語が欠けているどころではない。言っていることが突飛すぎて、何の話をしているのかがまるで分からない。
完全に凍りついてしまった男は、割れたグラスを見つめながら上機嫌に笑っている女の姿を、ただ黙って見つめることしか出来なかった━━
「ところで━━」
朝霞奈玲月は不意に笑顔を引っ込めると、人形じみた動作で男へと首を回す。
男は全精神力を持って悲鳴を飲み込み、「は、はい!」と、直立不動の姿勢で応える。
「あの『約束』ですが・・勿論、憶えていらっしゃいますよね?」
朝霞奈玲月が、先程とは種類の違う笑みを浮かべて訊いてくる。
約束?と、男の頭が一瞬「?」になるが、すぐに『あのこと』だと思い至る。
それは、朝霞奈玲月が番組に出演するための条件━━『あるタレント』と共演させて欲しいという話に違いなかった。
「あっ、は、はい!! それは勿論、こちらの方でオファーは出しておりますし、予定もちゃんと押さえています。で、ですが、ご存知の通り、『あの子』は今、そこら中から引っ張りだこの状態ですので、実現するのはまだまだ先の話になるかと━━」
「構いませんよ」
朝霞奈玲月は男の言葉を遮る。
「どの道、まだその時期ではありませんし。どれだけ時間がかかっても、約束さえ果たしてくだされば良いのです。私をあの方に━━」
朝霞奈玲月の蒼い双眸が、蛇のように細められる。
「愛媛野伊予香様に、会わせてくださいましな」




