番外編『八号さんとほんわかぱっぱ⑤』
ガチャガチャガチャと、まるで無数の食器が蠢く調理場のような音を耳にして、男は不快げに眉根を寄せる。
うっすら目を開くと、そこには見知らぬ天井が広がっており、チリチリと音を立てる二本の蛍光灯が彼を見下ろしていた。
(・・・どこだ、ここは)
男は身を起こそうとした・・が、出来ない。身体を動かそうとした途端━━
ガチャリ、という金属音がし、喉と手首に強い圧迫感を覚えた。
男は潰れたカエルのような呻き声を上げる。全身が、何かで強く固定されていた。男は再度短い悲鳴をあげると、手足を出鱈目に動かし始める。
ガチャガチャガチャガチャ・・
しかし、いくら暴れても、立ち上がることはおろか、身を捩ることさえ出来ない。足首、膝、腰、肘・・人体の主要な関節部分が、すべてギチギチに拘束されていた。
目を必死に動かして手首を見やると、そこには鈍い色をした鉄製の枷が嵌められており、その先には到底千切れそうにない極太の鎖が繋がれていた。男が身をよじる度、その鎖がガチャガチャと蠢き、重い金属音を立てた。
(ここはいったいどこだ!? 俺は何でこんなところにいる!?)
男は混乱する頭の中で必死に思い出そうとする。と━━
━━━ほんわかぱっぱぁぁぁぁ!!! ほんわかぱっぱぁぁぁぁぁぁ!!!
若い女の、全力の「ほんわかぱっぱ」が聞こえてきた。
その声に、男はびくりと身体を震わせる。
恐る恐る声の方を見やると、そこに巨大な着ぐるみがいた。
何のキャラクターなのかは分からない。
体色は青で、どんぐりに手足をくっつけたような、ずんぐりむっくりの体型をしている。その着ぐるみは、頭に巨大な緑の野球帽をかぶっており、足には黒のゴム長靴、手には黒のゴム手袋を嵌めていた。そして、首元と腰には、エプロンの縛り紐のようなものが見える。
男に背を向いているその着ぐるみは、身体をふらふらと左右に揺らしながら、
━━━んっふふふふーんふん、んっふふふふーんふん、んふふふふんふん、んふふふふん。
と、上機嫌に鼻歌を歌っていた。
男は、そのリズムに聞き覚えがあった。日本人なら誰もが知っている国民的アニメ。その、かなり古いバージョンのテレビ主題歌だった。
何でそんな古い歌を歌っているんだと、男が自分の置かれている状況も忘れて考えていると、
━━━ほんわかぱっぱぁぁぁぁ!!! ほんわかぱっぱぁぁぁぁぁぁ!!!
再度、着ぐるみが全力でシャウトしてきた。そして、
━━━んっふふふふーんふん。
また、鼻歌を歌い始める。着ぐるみは何故か、「ほんわかぱっぱ」の部分だけ、拳を入れてくるようである。
男はゾッとしながら、フラフラ揺れ動く着ぐるみの後ろ姿を見つめている。
声をかける気にはまるでなれなかった。「ほんわかぱっぱ」の部分だけをやーやーやーのように全力する奴が正気なわけがないし、それ以前に━━
━━━キュイイイイイイン
━━━ガリガリガリガリガリ
━━━カンッカンッカンッカンッ
着ぐるみの手元から、金属研磨のような得体の知れない音が鳴り続けている。
何をやっているかは、男の位置からでは見えなかった。しかし━━
何かとてつとなく恐ろしい━━それでいて、ひどく忌まわしい予感が、男の全身を汗で濡らした。
男は充血した目を見開いたまま、着ぐるみの後ろ姿をじっと見つめ続ける。
━━━・・・ふぅ。
ややあって、着ぐるみが手に持っていた電動工具のようなものをストレッチャーに置き、額の汗を拭うような仕草を見せた。
そして、振り向く。
着ぐるみが振り向いても、男にはそれが何のキャラクターなのかは分からなかった。青い巨大などんぐりに、手足がついている。それ以外例えようがなかった。ただし━━
どんぐりの顔にあたる部分には、丸い穴がぽっかりと開いており、そこから10代の少女の顔が覗いていた。
美人というより、可愛らしいという表現がぴったりの少女である。
目は猫のようにくりっとしており、笑窪が深い、笑顔のよく似合う少女だった。アイドルなどをやらせれば、握手会ではきっと長蛇の列が出来るに違いない━━そう思わせるような、明るい魅力に満ちた女の子だった。
━━━あ、起きた?
着ぐるみ━━少女が、身体を左右にゆっさゆっさと揺らしながら、男に近づいてくる。
その笑顔はフレンドリーだが、とても気を許す気にはなれない。状況が状況であるし、何より━━
少女のエプロンには血がべっとりとついており、手には大きな金槌が握られているのだから。
歩いてくる少女の方角から、濃い血の匂いが漂ってくる。男は少女から逃れようと、必死に身体を動かす。その様子を見て、少女は更に笑みを深めた。
少女が、男が拘束されているベッドの側に立ち、その顔を覗き込む。
━━━・・・。
少女は無言である。近くで見る少女の八重歯はやけに鋭く、まるで動物の犬歯のようだった。
男は、少女の不似合いな八重歯を怯え切った瞳で見つめている。目を合わせたり、声をかけようなどとは欠片も思わなかった。
貼り付いている。
間近で見た少女の顔面を、男はそう評した。
親しげな笑み、人懐っこそうな眼差し、それらすべてが、皮一つ向こうにある得体の知れない何かを隠すための擬態であると、男にはそう思えてならなかったのだ。
━━━あっ。
ふいに、少女が何かを思い出したかのように間抜けな声を上げた。
━━━そうそう。おっぱじめる前に、訊いとかなきゃいけないことがあるんだったよ。
そう言うと、少女はエプロンのポケットから何かを取り出すと、それを男に見せてきた。A4サイズの茶封筒だった。
━━━これを送りつけてきた奴のことなんだけどさ、知ってること全部教えて?
男に封筒の中身を見せつけながら、少女が訊ねる。
中に入っているのは、数枚の写真と報告書。今日の日中に会った芸能事務所の女を脅迫するための『材料』だった。
男は狂ったように首を横に振り、自白する。
その『材料』は、ある日の朝、自分の執務室の机の上にいつの間にか置かれていたものであり、それを渡してきたのが誰であるかなど、彼はまったく知らなかったのだ。
それを聞いた少女は、「ああ、やっぱりね」といった風な、冷めた表情で鼻を鳴らす。
━━━痕跡が残るような真似をするわけがないか。パッと『視』、指紋や残り香も無さそうだし・・。『かけるん』にじっくり『視』てもらっても、たぶん無駄足に終わるんだろうなぁ・・。
はぁ、と少女はため息を吐き、わざとらしく肩を落とす。そのまましばらく俯いていたが、
━━━まっ、それはそれとして!!
バネ仕掛けの人形のように、バッと身を起こした。
少女の瞳が、爛々と怪しい光を放っている。
━━━んじゃまずは、おっぱじめる前に『どれ』からイクか決めよっか?
そう言うと、少女は男に背を向けてトコトコと走り出し、横三列に並べられた何かの前に立つ。それは、頑強そうな鉄製の椅子の背もたれだった。
眉根を寄せる男の前で、少女はそれをくるりと回すと、椅子に縛りつけられている『モノ』を露わにする。それを見た瞬間━━
男は限界まで目を見開き、大きな悲鳴を上げた。
椅子に縛りつけられた『モノ』━━それは、徹底的に損壊された『人間だったモノ』だった。
いったい何をどうすれば、人間をこのような『形』に出来るのか? 男には想像することすらできない。
暴れる男の目の前で、ふいに『モノ』が身じろぎした。
まだ生きている。
その事実に、心底ゾッとしたものを覚える。このような『形』になって尚、息をしているのがとても信じられなかった。
━━━そんなに怯えちゃ可哀想だよ? この人たちは、市長さんのお友達なのに。
男は、は?と問い返す。
少女はにこりと笑うと、男の胸元に向かって何かを投げて寄越す。ぴちゃり、と湿った音を立てたそれは━━
人間の顔を剥ぎ取った、人皮だった。
男は再度大きな悲鳴を上がる。あまりの悍ましさに恐怖を覚えただけでなく、自分の胸元に投げ捨てられた人皮の面相━━それに、見憶えがあったからである。学生時代からのツレ。その顔に間違いなかった。
━━━市長さんにお話を訊く前に、まずは『お友達』からイこうと思って。この人たちに色々と教えてもらったけど、まぁ酷いことしてるよね、市長さん?
少女が、男の顔を覗き込む。
━━━少年法バリアで全部無かったことにしてもらったみたいだけど、元気があって大変よろしかった頃は、この三人とつるんで殺し以外のことは全部コンプリートしたんだってね? その中でも特にお気に入りだったのが、『女の子に酷いことをする』ことで、それのやりすぎで捕まっちゃったんだよね? でも檻に入れられる前に、親の金と権力とコネで三人まとめてなんとかしてもらって、今では立派に更生して市長になりました、めでたしめでたし! 金魚の糞の三人も、今では立派に更生して一家の大黒柱やってまーす! 就職先は、この手の実家が太い『少年A』がやるのでお馴染みな、実態が不透明なベンチャー社長、実態が不透明なNPO代表、実態が不透明な政治屋の三本立てでーす!! わぁ、すごい! 超面白いコントじゃん! 今年のコントONEグランプリはこれで決まりだね!!
少女は上機嫌に笑いながら男の肩を叩いていたが、ふいに笑顔を引っ込めると、
━━━で? どれにするの?
と、訊いてきた。
男が「な、何がですか?」と震える声で聞き返すと、少女は、にぃっと大きく笑い、
━━━順番。切るか、焼くか、溶かすか。どっち選んでもいいよ? どうせ剥がした後で、また貼り付け直して剥ぐんだから。
部屋の中に、再度男の絶叫が響き渡る。
少女は耳に手を当てて、うんうんと満足げな笑みを浮かべる。
男は「助けてください」という旨の言葉を喚き続ける。少女はしばらくその言葉に耳を傾けていたが、ふいにスッと目を下に向けると、男の目を真正面から見据えてきた。男はひっと短い悲鳴を上げ、沈黙する。
少女の顔から笑みが消え、その下にある本性が露わになっていた。
━━━助けて、と声を上げた女に向けて、お前たちは何をしてきたの?
暗い井戸の底から聞こえてくるかのような冷たい声。
その声を合図に、地獄が始まった。
※※※
※※
※
━━━私があの国民的アニメに求めてる話っていうのはね、空を自由に飛びたいなぁって寝ぼけたこと言ってきたメガネのガキを、来るべき時が来た22世紀のアウトレットロボがパンチ一発で頭吹っ飛ばしてさ、脳漿と一緒にコロンと転がった眼球に向かって『お前が言ったんだぞ!? 空を自由に飛びたいって言ったのは、お前が言ったことなんだぞ!!』って、目と口と溶接の甘いところから臨界光線をピカピカ放出させながらめちゃくちゃに怒鳴り散らすの。んで、それを監視画面で見ていたメガネの子孫が背筋ピーンって伸ばして「ほんわかぱっぱぁぁ!!!」って泡吹きながら卒倒した瞬間、アウトレットロボが「ああああああああああっっ!!!」って叫びながら核爆発起こして地球が消滅しちゃうの!! あははっ、愉快愉快!! あのアニメの最終回、こういうのだったら最高って思わない!?
ねぇ?と言って、『八号』は男に語りかけるが、
「・・・」
男は無反応で微動だにしない。
肥えた身体は病的に痩せ細り、髪は総白髪になっている。眼球が零れ落ちんばかりに見開かれた目が、じっと天井を見つめていた。
『八号』は、うーんと唸りながら頬をかくと、
━━━やっべ、やりすぎちった。
と言って、自らの頭を軽く小突いた。そして、わざとらしくため息を吐くと、
━━━これは、帰ったら朝までお説教確定コースだなぁ・・。だしちゃんもまっちゃんも、こういうのは潔癖だから・・。
そう言って、がっくりと肩を落とす。
こういう時、『班』━━今は『棺桶』か━━に、下北沢円香がいてくれたらなと、『八号』は切に思う。
下北沢円香は『割り切れる人間』だった。
自分のような、味方からも敵からも弾かれるような異物。
けれど、必要な異物。
そういったものの使い方と付き合い方を、下北沢円香はよく心得ていた。あの班長がいてくれたなら、今日の自分のやらかしも、多分なあなあで治めてくれるだろう。
(まどっち・・)
『八号』は憂鬱な瞳で空を見る。
何度か探ろうと試みたものの、下北沢円香の行方は要として掴めなかった。
そのことについては、『四号』と『六号』にも伝えているが、二人には「距離が離れているせいか、中々上手くいかない」とだけしか説明していない。それは半分本当であり、半分は嘘だった。
『八号』の『夢祟り』には範囲制限があるという『嘘』を、二人は未だに信じ込んでいた。
『八号』の『家系』━━『八車』は、『夢を統べる者』。対象の夢に潜り込み、その精神に干渉することが出来る『夢祟り』を操る一族である。その『力』は、『夢』を介して対象の記憶を読み取ったり、精神を崩壊させるほどの悪夢を見せることも出来る。
本来、『夢祟り』を実行するには、対象と何らかの縁を結ぶ、あるいは血や毛髪などの身体の一部を必要とするのだが、朝霞奈沙月の助けにより『道』を掴んだ『八号』は、それらの誓約をある程度簡略化出来る。例えば今回、『八号』がまったく面識のない男━━土井山の市長の『夢』に潜り込めたのは、久喜原立夏から『夢』をたぐったからである。久喜原立夏の『怒り』と『憎悪』で結ばれた『縁』を頼りに、男の『夢』に潜り込んだというわけだ。
完全な赤の他人である場合、『夢祟り』はそのような手順を踏まなければならないのだが、下北沢円香のように、共に死線を乗り越えた強い『縁』で結ばれた仲間である場合、そのような手順はまったく必要ない。地球上の何処にいようが、相手の『夢』を感じ取ることが出来る。それが出来ないということは、それはつまり死んでしまっているということなのだが━━
そうとは結論付けられない、ある『不可解な現象』があった。
『八号』は小首を傾げる。この『不可解な現象』はいったい何なのか? 『八号』は折に触れ、それについて考えているのだが、未だ仮説すら思い浮かばない。ただ一つ、はっきりと言えることは━━
下北沢円香は、恐らく生きているということだ。
(しかし、生きているのなら、『コレ』はいったい・・)
再度、思考の袋小路に陥る。『業界』の生き字引である『六号』に相談出来れば良いのだが、それが絶対に出来ない理由がある『八号』は、一人で頭を悩ませるしかなかった。
『八号』はしばらく「うーん」と唸っていたが、
━━━分かんにゃい。
と言って、男の頭をぺちんと叩いた。
男は何の反応も示さない。完全に廃人化してしまっていた。『八号』は、本当にここまでやるつもりは無かったのだが、『夢』を探れば探るほど、目を背けたくなるような悪事がわんさか飛び出してきたので、それで思わずやりすぎてしまった。やったことに後悔も罪悪感もないし、むしろ足りないと感じるのだが、いつぞやの児童養護施設の男のように、いくらかの正気は残しておくべきだったと反省する。
━━━正気の方が、苦しみが深くなるからね。
『八号』が、久喜原びすけっとの前では絶対に見せない表情で嗤う。と━━
ブツンッ、という音がして、部屋のテレビが勝手についた。
次いで、部屋の照明やら何やらが次々とオンになる。『八号』の瘴気に当てられ、簡易的なポルターガイストが発生したのだろう。テレビ画面の向こうで、男女二人のアナウンサーが深々とお辞儀をしていた。
『おはようございます!! 朝の情報番組『昨夜はお楽しみでしたね?』のお時間になりました!!』
その番組は、『八号』の生前から放映されているニュース番組だった。コレまだ続いていたのかと、彼女はしばし画面を見つめていたのだが、早々に興味を失いテレビ画面から目を逸らす。そのまま、仲間が待つ家へ帰ろうとしたのだが━━
『本日は素敵なゲストをお呼びしております!! いま話題の宗教団体『赫きメメントモリ』の代表でいらっしゃいます、朝霞奈玲月さんです!!』
大勢の拍手に迎えられ、魅力的な蒼い眼をした女性が、優雅に一礼してスタジオ内に入ってくる。
『八号』の足が止まった。
※※※
※※
※
━━━あの日。
『八号』━━八車みちるには、是が非でも成さねばならぬことがあった。
『アレ』は、一分一秒足りとも生かしておくわけにはいかない。
このまま放置すればいずれ大変なことになる。今ここで、誰かが『アレ』を殺さなければならない。
そう判断した八車みちるは、己の命と魂を対価に陣を張り、自身の知識と『力』のすべてを注ぎ込んだ呪詛を放とうとした。成功しても失敗しても生還する見込みは薄い。仮に生還出来たとしても、自分は二度とあの『班』に戻ることは出来ないだろう。それは、八車みちるの文字通りすべてを賭けた決断だった。しかし━━
ふいに、彼女の脳裏に一人の少年の姿がよぎった。
女の子を猿呼ばわりするような最低のクソ野郎のくせに、今まで出会ってきた男どもの誰よりもツラが良くて、それでいて、誰よりも優しかった男━━
この呪詛が成功してもしなくても、もう二度と、自分は彼に会うことは出来なくなるだろう。それに気付いた瞬間、八車みちるの決意が始めて揺らぐ。
が、彼女はその未練を即座に断ち切った。
━━━アイツのためにも、今ここで自分が『アレ』を殺さなければならない。
八車みちるは己の親指を強く噛み、溢れ出た血液で形代に印を描く。最後の仕上げとして、自身の両目に指を突っ込もうとしたところで━━
唐突に、儀式が崩れた。
八車みちるの側に焚かれた篝火が砕け散る。はっとして目を向けると、陣の四方を囲うしめ縄が黒く変色し、死んだ蛇のようにずるずると腐り落ちていくところだった。
(呪詛返し? ・・・いや、これは呪詛崩しか!?)
瞬間、自らが用意した呪詛の反動が襲ってくる。
膨大な苦痛と怨念。
並の人間ならば発狂するような強烈な反動を受け、八車みちるは堪らず身をくの字に折る。
血反吐を吐きながら荒い息を吐く彼女の前に、誰かがゆっくりと近づいてくる。
顔を上げると、そこに知った顔があった。
病的な白髪と宝石のような蒼い双眸。瓜二つの双子の姉である朝霞奈沙月と、そこだけ明確に違う容貌が、じっと八車みちるを見下ろしていた。
女━━朝霞奈玲月は、八車みちるの前に立つと、口の端をほんの僅かに吊り上げ、
「それは悪手でしょう? みちるちゃん?」
と、嗤った━━
※※※
※※
※
「・・・クソメンヘラ電波ストーカー女が。まだ生きていたのか・・」
じっとテレビ画面を見つめていた『八号』が、死体のような無表情で呟く。地の底から聞こえてくるような暗くて冷たいその声は、仲間の前では決して見せない、八車みちる本来の声色であった。
『八号』の身体から、粘つくような瘴気がゆるりと上がる。
その根源は、怒りであり恨みであり屈辱であり、そして、それらを遥かに上回る『後悔』であった。
『八号』は己の小指を口に含むと、それを一切の躊躇なく噛み千切った。そして、
━━━物見八獄遊界・暗水面淵心中伺。
『家銘』を口にした瞬間、圧倒的な質量を持つ強大な怨念と邪気が、まるで竜巻のように天に向かって伸びていく。
テレビ画面の中でニコニコと笑みを浮かべていた朝霞奈玲月が、ふいに表情を失い、その片眉がぴくりと跳ねる。
彼女は流れるような動作で突然立ち上がると、巫女服の袖から年代物の古びた鈴鳴りを取り出す。その鈴鳴りを一文字に薙ぐと、見た目からはとても想像がつかない、シャリン、という神聖な音色がスタジオ中に響き渡った。
━━━ みみにもいへめへとしるはのへ
朝霞奈玲月の唇が微かに動き、人の世の外にある言葉を紡ぎ出す。瞬間━━
空間が一瞬、波打ったかのように小さく揺らいだ。
その揺らぎが収まると、一拍遅れて、天井に付けられたスタジオの照明が残らず弾け飛び、朝霞奈玲月の席に置かれたグラスがまるで爆発したかのように派手に砕け散る。スタジオからはそこらかしこで悲鳴が上がり、カメラが出鱈目にその狂乱を映し出す。
そして、画面の向こうにいる誰かに向けて、ほんのわずかに口の端を吊り上げた朝霞奈玲月の顔を映したのを最後に、画面は完全なブルースクリーンに切り替わった。
臨終を告げるような、ピーっという機械音がテレビから鳴り響く中、ピキリッ、と、『八号』のいるマンションの窓ガラスに大きな亀裂が走る。次いで━━
爆撃を受けたかのような衝撃がマンションの一室を襲い、部屋の中にある家具やら何やらを無茶苦茶に破壊する。
窓ガラスが粉雪のように飛び散る部屋の中で、姿見に映る『八号』の顔に亀裂が走る。そして、一拍遅れて━━
つうっ、と、『八号』の顔から血が流れ落ちた。
眼窩、鼻腔、耳朶、口の端から、細い血の筋がゆっくりと流れ落ちていく。『八号』はそれを一切気にする様子もなく、能面のような無表情で、最早何者をも写していないテレビ画面をじっと凝視している。
━━━・・・ちっ。
ややあって、『八号』は軽く舌打ちし、床に向かって何かを吐き捨てる。それは、先程自身が噛み千切った小指であった。
彼女の口から飛び出した小指は、カーペットの上をコロコロと転がると、突如として紫色の炎に包まれる。その炎は一瞬にして小指を焼き尽くし、跡に何の痕跡も残さない。
『八号』はゆっくりと左手を動かすと、自身の欠けた小指を見やる。と、その先端が紫色の炎に包まれ、何かの影を型作る。炎が消えると、そこには元通りの形となった彼女の小指があった。
━━━・・・。
『八号』は無表情のまま、感触を確かめるように小指を軽く動かす。それが問題なく可動することを確認すると、
━━━・・・流石に、その程度の対策はしてるか・・。
と、呟く。
遠い眼差しをしていた『八号』は、ふいに口の端を吊り上げると、
━━━ふふっ・・。
と、暗く嗤った。それは、聞く者の背筋を凍らせるような怨念の籠った声だった。
(・・・『楽しみ』が、一つ増えた)
くつくつと肩を震わせながら、『八号』は嗤う。その目に、得体の知れない光を宿しながら。
━━━待っててねぇ、玲月ちゃぁぁぁん!! いつかきっと、遊びに行ってあげるからねぇぇぇぇぇ!!! きゃはははははははははははははっっ!!!
目をカッと見開いた『八号』は、天に向かって破顔する。
『八号』は嗤い続ける。歓喜と憎悪を撒き散らし、彼女の視線の向こうにいる誰かに向けて嗤い続ける━━
狂った女の哄笑は、いつまでも消えることはなかった。




