番外編『久喜原さんの3秒クッキング①』
九州の端っこに住んでいた頃の話だ。
「ちぇすとー!!」
当時まだ幼稚園児だった久喜原は、声高らかに叫びながら、『それ』に向かって飛び蹴りをかます。
真っ黒に焦げたやかん。その取手の辺りからぬるりと生えている、大きなオタマジャクシに似た『何か』に向けて。
『何か』の感触は、車のタイヤに似ている。指がほんの少しだけ沈み込んだような感じがしたかと思うと、すぐに硬質な弾力に突き当たって弾き返される。幼い久喜原の真っ赤な靴越しに、その独特な感触がはっきりと感じられた。
久喜原の飛び蹴りが炸裂すると、巨大なおたまじゃくに似た『何か』は、ゆっくりと仰向けに倒れながら、声も上げずに霧散する。
虚空に消えていくそれを背に、幼い久喜原は、まるで戦隊ヒーローのように腰に手を当てながら「ふふん」と得意げに鼻を鳴らす。
「久喜原が成敗してやったのです!」
ぶいっ、とピースサインをして見せると、その人は、品の良い穏やかな笑みを浮かべながら、パチパチと軽く拍手をしてくれた。
久喜原は、にっと破顔し、その人の元へ駆けて行く。
「あか婆!! 今の久喜原の決め技はどうだったですか!! 今日の一発は、いつもより角度を11度下にして、助走を0.71秒短くしてみたのです!! 久喜原の計算が正しければ、これでいつもより威力が0.35倍減少して、かっこよさが2.15倍増しになっているはずなのですが、どうだったですか!!!」
久喜原がそう言うと、あか婆は困った風に頰に手を当て、「0.35倍は、いくらなんでも減りすぎじゃないかしらねぇ・・」と言った。
あか婆こと、×川あかり。お母さんが子どもの頃からお世話になっている拝み屋のお婆さんで、久喜原の最初の師匠でもある人。
あか婆の言葉に、幼い久喜原は唇を尖らせてぶぅぶぅする。
「あか婆はロマンがないのです!! 格好良さとは、何物にも優先されなければならないことなのです!! 例え威力がゼロになろうとも、格好良さが百万倍になれば、それはもう勝ちといっても過言ではなのです!!」
幼い久喜原の訳の分からない理論を、あか婆は「うんうん」と穏やかな笑みを浮かべながら聞いてくれる。
端から見れば、それはヒーローごっこに興じる幼子と、それを見守る祖母といった風にしか見えないだろう。しかし、私たちのやっていることは、割と命懸けのことだった。
除霊。
俗な━━というか、一般に通用する言い方をするならば、それになる。
その時、久喜原が倒したのは、やかんに取り憑いた『何か』だった。
その『何か』は、とある火事の現場から発見された代物であり、警察に協力している霊能力者による『鑑定』の結果、『祓う必要アリ』と判断され、あか婆の元に持ち込まれたものである。
やかんに取り憑いているのは、恐らくは動物霊。恐らく、というのは、『魂』が変質しすぎていて、『元』が何であるかが判別不能になってしまっているからだった。
本来、『元』が判別出来ない霊は非常に危険なのだが、これは大丈夫な方の霊である。分からないといっても、『元は何らかの生き物である』という、必要最低限のことは分かっているので、本当に危険な『元々この世の生き物ではない』奴らと比べれば、まったく大した存在ではないからだ。
最も、大したことはといっても、それは久喜原やあか婆レベルの話であり、何の能力も持っていない一般人にとっては、これらは紛れもない脅威である。
実際、デカいおたまじゃくしにしか見えない『何か』によって、もう何人もの人間が祟られ、怪我を負っていた。放っておけば死人が出るのは必定だった。
久喜原が遊び感覚で倒していたのはそういう奴らばかりであり、あか婆が用意してくれた『修行』の相手は、そんな雑魚ばかりだった。
幼稚園児にして、久喜原の『能力』は既にあか婆を凌駕していたが、あの人は久喜原に『人を殺したことのある霊』や、『本当に危険で厄介な霊』の相手をさせたことは一度もなかった。久喜原の『能力』を利用すれば簡単に解決出来ると分かっているのに、あの人はそういうことを一度もしなかったのだ。その優しさに気付いていない幼くて愚かな久喜原は、「早く次のバトルがしてぇのです!!」と言って、格好だけでしかない稚拙なシャドーをしていた。完全に天狗になっていた。
あか婆はそんな久喜原を、とても眩しいものを見るような目で見つめていた。
その表情に、いつもとは違う何かを感じ取った久喜原は、ふいに不安になって手を止める。
「・・・あか婆、どうかしたですか?」
久喜原が眉を落とすと、あか婆は一瞬泣きそうな顔を見せると、ふっと寂しげに笑った。そして、
「・・・実はね、びすけちゃん。私、しばらく家を留守にすることになったの」
と、言った。
それを聞いた久喜原は、「・・え」と、途方に暮れたような声を出す。
「しばらくって、どれくらいですか? 二日ですか? それとも、三日ですか?」
思わずあか婆の服を掴み、そんなことを訊いてしまう。あか婆の顔を見れば、そんな話をしているわけではないことは分かっているのに、久喜原はそう訊かずにはいられなかったのだ。
あか婆が、久喜原の頭をそっと撫でる。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「いつまで留守にするかは分からないのよ。一週間か二週間、あるいはもっとかかるかもしれないわね」
嘘だ、と叫びたくなる。久喜原はあか婆の身体に思い切りしがみつく。この人が、どこに行って何をするつもりなのかは知らない。けれど、行かせたくない。絶対に行かせたくないと思った。何故なら━━
━━━あか婆の顔は、死を覚悟していたからだ。
あか婆の、かすかにお線香の香りのする身体に顔をうずめた途端、久喜原の脳裏に『何か』の光景が視えた。
※※※
※※
※
腐った肉のような色をした空が無限に続く世界。下に目を向ければ、そこに広がっているのは、ありとあらゆる生物が死に絶えた寂しい荒野。
その荒野に、まるで影絵のように高くそびえ立つのは、『山』のようであり『塔』のようでもある無数の建造物。無秩序にそびえ立つそれらに混じり、蟻のように蠢く『何か』が見える。
子ども、子ども、子ども、子ども・・
幾千幾万人にも及ぶ、七つかそこらの小さな子どもたちが、その世界を所狭しと走り回っていた。
子どもたちは人種も服装もバラバラで、現代風の洒落た服を着ている子もいれば、昭和の始めのような淡白な服装の子、まるで江戸時代のような薄い着物を着た子どもまでいる。日本人の子どもばかりではない。ある子どもは西洋の民族衣装を纏っており、ある子どもは東洋の民族衣装を纏っていた。古代ギリシャのような布を巻いた服を着ている子もいれば、獣の毛皮を腰布のようにして巻いている子もいる。その様はまるで、人類の服装の変遷を詳らかにするための博物館のようである。
ただし、その博物館は極めて歪だ。
子どものように見える『何か』は、一人の例外もなく、鼻から上が消失していたのだ。
そこから先は、ゆるゆると紫色の炎のようなものが立ち昇り、子どもたちの頭を、まるで悪趣味な蝋燭のように形作っている。
そして、子どものような『何か』には、もう一つ共通点があった。
━━━小さな赤い箱。
全員が、それを大事そうに両手で持っていた。
それが何かなのかは分からない。
分からないが、酷く禍々しくて、それでいて、強い血の匂いがした。
赤い箱は、小刻みにカタカタと震えており、上蓋がそれに合わせて上下している。かすかに見える箱の隙間からは、ゾッとするような闇が広がっていて、そこから何かの囁き声のようなものが聞こえる。
━━━その声を聞いてはならないと、本能が激しく警鐘していた。
久喜原は咄嗟に、箱から意識を逸らす。
と、同時に、背中に氷の塊を押し付けられたような寒気を覚えた。
思わず『寒気』の元へ目を向けると、そこにバケモノがいた。
そのバケモノは、周囲を走り回る子どもたちをまるで意に介さず、悠々とどこかへ向けて歩いていた。
後ろを向いていて、顔は見えない。
けれど、他とは違い、『その女』は明らかに子どもではなかった。
かなり小柄だが、背丈がまったく違う。十代、あるいは二十代前半の後ろ姿。髪型はショートボブで、何故か黒いゴスロリ衣装を着ている。
『女』は子どもたちと違い、鼻から上が消失してはいなかった。
だがその代わり、紫色の炎のようなものが、『女』の身体を中心に広範囲に渡って立ち昇っており、それが山一つ焼き尽くすほどの勢いで周囲を飲み込んでいる。炎は空に向かってどこまでもどこまでも伸びており、その『果て』がどこであるのかは、久喜原の『認識』では辿ることが出来なかった。
『女』の周囲を走り回る無数の子どもたちは、その炎をまるで恐れてはいなかった。それどころか、積極的に炎に向かって飛び込んでいるようにさえ見えた。
一人の子どもが、女の炎に触れる。
途端、その子どもは一瞬だけ強風に煽られたかのように全身が揺らいだが、すぐに何事もなかったかのように『女』の元に向かって走っていく。しかし、その身体が『女』に触れる直前、
━━━ジッ
という、蝋燭を握り消したような音と共に、その子どもが消失した。が━━
━━━ジッ
という音が再度したかと思うと、天から紫色の炎の塊が降ってくる。それが地についたかと思うと、その炎の中から、先程消えたはずの子どもが再び姿を現す。子どもはしばらく立ち尽くした後、手にした赤い箱を、まるで犬猫をあやすようにそっと撫でると、
━━━くすくすくす・・
と、不気味に笑い、再び『女』の元に駆けていく━━。
空に目を向けると、幾つもの炎の塊が、絶え間ない霧雨のように降り注いでいた。それらはすべて、『女』に触れた子どもたちの成れの果てである。
━━━くすくすくす・・
━━━くすくすくす・・
━━━くすくすくす・・
炎の塊が地面に落ちる、子どもの姿になる、女に向かって走っていく、消されれる、再び炎の塊になって空から降ってくる━━いったい何の意味があるのか分からない不気味なサイクルが、『女』を中心に幾度も幾度も繰り広げられていた。まるで誘蛾灯に誘われる羽虫のように、子どもたちは『それが当然』と言わんばかりに、『女』へ向かって走っていく。
その不毛の極みを眺めている内、久喜原の脳裏に、昔あか婆に聞かせてもらった『賽の河原』の話が思い浮かんだ。
━━━この子どもたちは、決して積み上がることのない石を積み続けているのだ。
何故だか、そう思った。
「・・・」
ふいに、『女』が足を止めた。
途端、全身が金縛りにあったかのような強い緊張が走る。たったそれだけのことなのに、死が目前に迫っているような絶望を覚えた。
『女』が何者なのかは分からない。
けれど、この『女』こそが、この歪な世界の『王』であることは間違いない。他の奴らと比べて、『存在』があまりにも桁違いすぎる。
━━━強い。
『女』は、久喜原が今まで見てきた、どんな『存在』よりも強かった。
あか婆の『封印倉』の『主』よりも、晴信君が常に持ち歩いている『モノ』よりも。そして━━
産まれたばかりの久喜原を覗き込んでいた、あの赫い眼の影よりも、その『女』は強いと感じた。
━━━この『女』は、人間がどうこう出来るような『存在』ではない。
あまりの恐怖と絶望に、指先一つ動かせずにいる久喜原の目の前で、『女』の頭がゆっくりとこちらを向き始める。ショートボブに隠れた横顔が、はっきりと見えそうになった、その瞬間━━
━━━パンッ、という、軽い音がした。
ハッとして目を覚ますと、久喜原の目の前で、あか婆が拝むような格好で両手を叩いていた。
「びすけちゃん、大丈夫!?」
あか婆が、心配そうに久喜原の肩を掴んでくる。
「・・・」
久喜原の全身に、どっと汗が流れる。心臓が、思い出したかのように早鐘を打ち始める。
今しがた視た光景は、恐らく幻視。アレが、あか婆が対決しようとしている相手なのだろう。
顔面蒼白の久喜原は、震える手であか婆の服を強く握り締めた。
「・・・行ってはダメなのです、あか婆」
久喜原は、弱々しい声で懇願した。
「あれは、人間が関わってはダメな奴なのです・・。関わったら、絶対に酷いことになる・・。久喜原は、あか婆にそんなことにはなって欲しくないのです。久喜原は、あか婆に教えてもらいたいことが、まだまだたくさんあります。でも、そんなのはどうだっていいのです。久喜原は、あか婆が元気でさえいてくれれば、それでいいのです。だから、行かないでくださいなのです、あか婆・・。久喜原は、あか婆のことが大好きなのですよ。お願いだから、行っちゃやだ・・」
久喜原は、あか婆の身体に頭を埋める。
「・・・」
あか婆は、何も答えてはくれなかった。
ただ静かに、駄々っ子のように泣きじゃくる久喜原の頭を、いつまでも優しく撫で続けてくれた━━
※※※
※※
※
それからどれくらい時間が経ったろう。
久喜原がゆっくりと顔を上げると、あか婆の優しい笑顔があった。
かすかに、目が潤んでいた。
「・・・びすけちゃん。びすけちゃんは、お母さんがピンチになったら、何を差し置いてでも助けに行くわよね?」
あか婆は、突然そんなことを訊いてきた。少し戸惑いながらも、久喜原は、
「・・・勿論なのです。お母さんは、久喜原が助けるのです」
と、答える。
「その相手が、びすけちゃんより強くても?」
「当たり前なのです! お母さんのためなら、久喜原はどんな相手にだって立ち向かっていくのですよ!! 例え━━」
━━━勝てない、と、分かっていても。
あか婆が、久喜原の頭を優しく撫でる。
「・・・私もね、そうなのよ、びすけちゃん。勝てるとか勝てないとか、そんなことは何の関係もないの。これはね、私がやらなけらばいけないことなのよ。きっと━━」
「『あの子』は今も、私のことを待っているだろうから・・」
あか婆の目に、何かをひどく懐かしむような光が見えた。
それを目にした久喜原は、もう何も言えなくなってしまった。
あか婆にどんな事情があり、どんな因縁を抱えているのかは分からない。
けれど、それは絶対に他人が介入出来ないこと━━『宿命』であることが、幼い久喜原にも分かってしまったからだ━━
「あら?」
ふいに、あか婆が何かに気付いたように声を上げた。
目線を追うと、そこには手を振りながらこちらに歩いてくるお母さんの姿があった。
久喜原も手を振ろうとしたのだが、その手は途中で止まってしまう。
お母さんの後ろ━━そこに、大きな猿のような姿をした『何か』が迫っていた。
思わず、あか婆の方を見やる。あか婆も、緊張した面持ちをしていた。
その『何か』は、明らかにお母さんを狙っていた。
瞬時に、久喜原の頭が怒りに支配される。やっつけてやる、と、久喜原が拳を握り締めながら『何か』をキッと睨みつけてやると━━
突然、その『何か』はびくりと身体を震わせ、どこかへ逃げて行ってしまった。
久喜原は、ポカンとその背を見つめる。
あか婆の方を向き、
「久喜原とあか婆に恐れをなして、逃げちまったみたいですね!」
と、上機嫌に笑う。あか婆は、そんな久喜原を見て、一瞬、何かを言いかけたが、
「・・・ええ、そうね」
と言って、いつものように優しく微笑んで、久喜原の頭を撫でてくれたのだった━━
※
翌日。あか婆は久喜原とお母さんに、「自分の留守中に何かあったら、晴信君を頼りなさい」と言い残し、家を出た。
久喜原はその服にしがみつき、
「絶対に・・絶対に、帰ってきてくださいね? 帰ってこなかったら、針千本飲ますですからね? きっとですからね? 絶対に、帰ってきてくださいね? あか婆」
と、必死に懇願する。
あか婆は、いつもと変わらない穏やか笑みを浮かべながら、久喜原の頭をそっと撫でると、
「ええ」
と、答えた。
あか婆は、嘘つきだった。




