番外編『宮本さんと風間さん㉑』
━━━身体が酷く冷たい。
北野桝塚恵がゆっくりと目を開くと、彼女は『海のような場所』の中を一人漂っていた。
周囲は見渡す限りの青紫色で、遥か遠い上空に、白い光のようなものが見える。その光は楕円形をしており、まるで水面に浮かぶ月のように、ゆらゆらと揺らめいていた。
自分はいったい何処にいるのだろうと、北野桝塚恵はぼんやりした頭で考える。
この場所は、水面の中のようで、そうではなかった。
ここは、凍えるほどに寒い。けれど、骨の髄まで凍ってしまいそうなほど寒いのに、何故だか身体が少しも震えない。産毛すら立たない。寒いのに寒くない。寒くないのに寒い━━何が何だか分からない。頭と身体が、バカになってしまったかのようだった。
そして、いくら息を吸い込もうが、周りの水が体内に入ってくることはなかった。それなのに、何故だか酷く、息苦しいと感じる。それはまるで、水でも空気でもない、別の何かが体内に入って来ているような、そんな不気味な経験だった。
私はもしかしたら死んでしまったのだろうかと、北野桝塚恵は小さく呟く。
しかし、その呟きが声になることはなかった。唇が動いたかどうかの感覚すらない。気泡すら浮かばない。何の音もしない完全な静寂の中で、北野桝塚恵は声を発することも、指先一つ動かすことも出来ずに、ただただ漂い続ける。
ゆっくりと目を瞑ろうとする━━が、その程度のことすらも、彼女には許されなかった。すべての自由を奪われた北野桝塚恵は、青紫色の『海のような空間』と、遥か彼方に浮かぶ白い『月のようなもの』を、じっと見つめ続けることしか出来なかった。
━━━ここは、もしかしたら地獄なのだろうか?
もしそうだったら、それはどんなに素晴らしいことだろうと、北野桝塚恵は笑い出しそうになる。
━━━私は、地獄に堕ちなければならないのだ。
ガンッ、ガンッ、ガンッ、と、頭の中から『あの音』が聞こえる。
今の彼女に、耳を塞ぐことは出来ない。仮に出来たとしても、『あの音』が聞こえなくなることは決してない。
何故ならその音は、北野桝塚恵の頭の中━━『記憶』から聞こえる音だからである。
━━━『あの音』から逃れたいがために、北野桝塚恵は自傷行為を繰り返していた。
あの日━━『あの音』を聞いてしまったあの日、北野桝塚恵は逃げ出した。
逃げてはいけないと分かっていながら、逃げ出してしまった。
けれど、どれだけ走っても、『あの音』は彼女を追いかけてくる。
━━━ガンッ、ガンッ、ガンッ
脳が、『それ』を思い出すのを拒否している。
壊れかけのブラウン管テレビのように煤けた記憶の中で、『誰か』がかすかに動いている。
━━━ガンッ、ガンッ、ガンッ
その『誰か』は、一定のリズムで同じ動きを繰り返している。
━━━ガンッ、ガンッ、ガンッ
映像は不鮮明で、どれだけ目を凝らしても、そこにいったい何が映っているのかは分からない。分からないのに、
━━━ガンッ、ガンッ、ガンッ
その音だけは、極めて鮮明に北野桝塚恵の耳朶を打った。
両耳を塞ぐ。指を突っ込む。しかし、何をやっても音は消えない。
割り箸━━もしくは竹串のようなものが欲しいと、北野桝塚恵は走りながらそう思った。
それを自分の耳に突っ込んで、頭の奥にある『音源』を止めてしまいたい。
走り続けながら、彼女は狂ったようにそれらを捜す。が、目当てのものは見つからない。
ふと、北野桝塚恵の目に、通い慣れた母校の姿が映った。
それを見た瞬間、彼女は迷いなくそちらに向かって走り出していた。
屋上から飛び降りて、自分の頭をスイカのようにかち割ってしまえば、きっとこの音は止まってくれる━━そう、期待して。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
北野桝塚恵は涙を垂れ流しながら、そう呟き続けた。
※※※
※※
※
屋上のフェンスを乗り越えた時の歓喜は、今も忘れることが出来ない。
これでやっと、何もかもを終わらせられる。
そう、安堵すると同時に、どうしてもっと早くにその選択を選ばなかったのだろうと、北野桝塚恵は自分自身に腹を立てていた。
━━━ガンッ、ガンッ、ガンッ
・・・ああ、もっと早くに死んでしまっていれば、この音を聞くこともなかったのに。
北野桝塚恵は、後悔に目を瞑る。と━━
「※※※※※※※※ッ!!!」
誰かの叫び声が聞こえた。
目を開くと、屋上の入り口に塩谷由麻が立っていた。
塩谷由麻は、北野桝塚恵に向かって手を伸ばし、この世のあらゆる悲哀が詰まったような表情をして、彼女を見ていた。
その表情を見た瞬間、北野桝塚恵の心が大きく揺らぐ。
ごめんなさいと繰り返し続けていた唇が、ぴたりと止まる。そして、
「・・・ごめんなさい」
塩谷由麻に向け、最後の「ごめんなさい」を呟く。そして━━
北野桝塚恵の身体が、宙を舞った。
※※※
※※
※
しかし、北野桝塚恵が死ぬことはなかった。
死ねなかったのだ、何をやっても。
頭をどれだけ打ち付けても、手首をどれだけ切ろうとも、首をどれだけ締めようとも━━死ねない。
死ねないから、『あの音』も止まらない。
何処とも知れぬ青紫色の海を漂う北野桝塚恵の耳朶に、
━━━ガンッ、ガンッ、ガンッ
と、またもや『あの音』が聞こえ始める。
今の彼女に、その音から逃れる術はない。
耳を塞ぐことも目を瞑ることも叫ぶことも涙を流すことも━━そして、自らの命を絶つことも出来ず、北野桝塚恵は流されるがままに身を任せていた。ぐちゃぐちゃになった心の中で、
━━━ああ、これが『地獄』か。
と、北野桝塚恵は、ほんの少しだけ救われた気持ちになった。
その時だった。
遥か上空━━白い月の浮かぶ場所に、ぶくぶくと気泡のようなものが浮かび始めた。
何だろう、と彼女が訝しむ間もなく、その気泡の中から突然『白い腕』が伸びてくると、彼女の胸ぐらを乱暴に掴んだ。その『白い腕』は、
━━━手首から肘の付け根に至るまで、細かな傷でズタズタになっていた。
北野桝塚恵は、その痛々しい傷跡に既視感を覚えた。
━━━私と同じだ。
北野桝塚恵の身体が、光の方に向かって引っ張り出される━━
※※※
※※
※
ザブンッ、と、池に大きな石を投げ込んだような音と共に、北野桝塚恵の身体は『白い腕』によって何処かへ引き上げられる。
そこは、紫色の空がどこまでも続く、寂しい場所だった。
しかし、ほんの少し下に目を向けると、そこには天にも届かんばかりの巨大な『蒼い門』と、西洋と東洋が入り混じったような不思議な佇まいの『蒼い宮殿』がそびえ立っていた。そして━━
「・・・」
大理石で囲われた溜池のような場所で、上半身を引っ張り出された格好の北野桝塚恵の胸ぐらを掴んでいる『白い腕』の主━━その少女が、彼女を憎々しげに睨みつけていた。
今まで見たことのない、暗い独特な光沢の黒髪をした少女だった。
少女の不思議な黒髪は、まるで市松人形のように前髪と毛先を綺麗に切り揃えており、そして何故か、髪の所々に様々な形のアクセサリー小物やピンバッチをつけていた。
それらのグッズは、すべて同じタレント━━現在、飛ぶ鳥を落とす勢いで世界中のエンタメ業界を席巻し続けている、『ある少年』のグッズだということに、北野桝塚恵はすぐに気がついた。
それがどういう意味を持つことなのかを彼女は知らない。・・・知りようがなかった。
不思議には思ったし、疑問にも思った。
だが、それを遥かに凌駕する『疑問』が、北野桝塚恵の頭を占めていたのだ。
彼女は、少女の顔に見覚えはなかった。しかし、少女の両眼━━
━━━その赫い眼には、はっきりと見覚えがあった。
「・・・」
赫い眼の少女は、ギリギリと歯を鳴らし、今にも噛みつきそうな表情で北野桝塚恵を睨みつけている。
少女の身体には、あちこちに痛々しい傷跡がいくつもあった。
手首の切り傷だけではない。首には縄で絞められたような痕があり、額には真っ赤な瘤が出来ている。
いったい何があったのだろうと、北野桝塚恵が小首を傾げると、
「お前ッッ!!!」
と、少女が大声で怒鳴った。
「毎回毎回、いい加減にしろッ!! この・・このっ・・えっと、その、バカッッ!!!」
相手を口汚く罵ってやろうと思ったけど、語彙力が足りなくて結局「バカ」しか言えない━━北野桝塚恵が保育園でボランティアをしていた際に見た、園児同士の微笑ましい口喧嘩の光景を、何故だかその時、彼女は思い出していた。
「バカ! バカ! バーーーカ!!」
何が何だか分からず目を白黒させる北野桝塚恵を、少女は「バカ」の一言だけでひたすら罵り続ける。と━━
「だ、だめだよぉ、伽奈・・。『老いぼれ』に怒られちゃうよぉ・・」
いつの間にか、赫い眼の少女の側にもう一人の少女が立っていた。彼女よりも更に幼い、小学生くらいの少女である。
その少女は、今まで見たことのないくらい、ひどく美しい顔立ちをした女の子だった。
赫い眼の少女を等身大の市松人形と評するならば、その女の子は等身大のフランス人形と評するのが相応しいだろう。
流れるような美しい金髪に、陶磁器のような白い肌。くりっとした愛らしい目はエメラルドのような碧眼で、その目があわあわと左右に揺れている。そして━━
その金髪の女の子は、『黒い変な鳥』を大事そうに抱き抱えていた。
金髪の女の子が、不安を誤魔化すように、その『黒い変な鳥』を更に強く抱きしめる。途端、『黒い変な鳥』はクチバシを大きく開き、「クェェェ」と一声鳴くと、次いで、「ぺっ」と、赫い眼の少女の足元に向けて唾を吐いた。
赫い眼の少女は、上半身に黒い振袖、下半身にフリルのついた黒のロングスカートという変わった格好をしているのだが、『黒い変な鳥』の吐いた唾が、そのスカートにべちゃりと付着した。「このバカバカバカ!」と、北野桝塚恵の身体をガクンガクン揺らしながらひたすら罵り続ける赫い眼の少女は、それにまったく気付いていない。
北野桝塚恵は、その『黒い変な鳥』に見覚えがあった。
独特な丸みを帯びたフォルムに、つぶらな瞳とオウムのようなクチバシ。体毛の色は、彼女の知る『鳥』のものとは違っているが、その独特な容貌は間違いなく━━
カカポ、と呼ばれる鳥に違いなかった。
「こりゃあああああああああああ!!!」
遠くから、誰かが走ってくる姿が見えた。
豪奢な着物を、男性の着流しのように大胆に着崩した、妙齢の女性である。
その女性は、赫い眼の少女や金髪の少女よりも、更に病的な白い肌をしていた。まるで歌舞伎役者のようである。
そして、その女性の髪は足首に届くほどに長く、右側が白髪、左側が真っピンクという、ひどくアンバランスなツートンカラーをしていた。
何もかもが派手な女性だった。
が、それらがまるで気にならなくなるほどの大きな特徴が、その女性には一つある。
女性の頭には、二本の細長い角が生えていたのだ。
「こンのっ、クソボケがっ!!!」
角の生えた女性が、赫い眼の少女の後頭部を、ぐーで思い切り殴りつける。
「痛いっ!」と、赫い眼の少女が叫ぶと同時に、北野桝塚恵の胸ぐらを掴んでいた手が離される。彼女の身体が、再び『海のような場所』へ沈んでいく。その間際━━
「己は毎度毎度、妾がやるなと言うたことばかりやりおってからにっ!! それは絶対にやるなと、あれほど口を酸っぱくして言うたじゃろうが!!!」
「でもだって、コイツがっ!!」
頭を抑えながら目に涙を浮かべる赫い眼の少女が、北野桝塚恵を指差す。角の生えた女性は、彼女をちらりと見やると、
「だっても何もあるかぇ!! それくらい、お主なら何でもないじゃろうが!! 我慢せぇ!!」
「ヤダ!! ヤダヤダヤダヤダ、ヤダッ!! 痛いのはイヤなんだもんっ!!!」
まるで五歳児のように地団駄を踏む赫い眼の少女に、角の生えた女性はイライラと歯軋りする。
「こンの・・っ!! いつもいつも駄々ばっかこねおってからに・・っ!! 『道』が拗れるだけならともかく、『魂』までもが歪んでしもうたら、痛いなどではすまんことになるのじゃぞ!! お主は、それでもええのかぇ!?」
「ヤダ!! ヤダヤダヤダヤダ!! ヤダッ!! どっちもヤだっ!!」
ヤダしか言わない赫い眼の少女に、角の生えた女性は堪忍袋の尾が切れた母親のような顔をして「我儘ばかり言うでないわっ!!」と、ブチ切れる。赫い眼の少女は「んきぃーっ!」と謎の奇声を上げ、地団駄のギアを更に上げる。言い争う二人の真ん中に立つ金髪の少女は、「はわわ・・」と、森の畜生みたいなことを言ってオロオロと身体を左右に揺らし、彼女に抱き抱えられている黒いカカポは「クェェェ」と鳴いて、赫い眼の少女のスカートに向かって再び唾を吐いた。どう見ても狙ってやっていた。
「※※※※※※※※っっ!!!」
二人の言い争う声が、どんどん遠くなる。
北野桝塚恵の身体が下へ下へと沈んでいくにつれ、やがて二人の言い争いは完全に聞こえなくなってしまった。
そして、北野桝塚恵の意識も途切れる━━
※※※
※※
※
「・・・」
北野桝塚恵が視た不思議な夢の話を、全員が黙って聞いていた。
何も知らない人間が聞いたら、それはよくある支離滅裂な夢の一種としか思わないだろう。しかし━━
宮本静佳と久喜原立夏は、ちらりと視線を交わす。
赫い眼の少女、という言葉に、二人は強い忌避感を覚えていた。
「・・・びすけちゃん?」
宮本静佳が、久喜原びすけっとの名前を呼ぶ。
「・・・」
久喜原びすけっとは、じっと無表情に立ち尽くしたまま、何も反応しない。心配した宮本静佳が、その身体に触れようとすると、
「・・・金髪のフランス人形みたいな女と、黒いカカポが『何』なのかは分からないのです」
久喜原びすけっとが、重い口を開いた。
「ですが━━」
「赫い眼の女と、角の生えた女━━その二匹は、正真正銘、紛うことなき本物のバケモノなのです」
宮本静佳の背に、冷たいものが走る。
「どういう訳だか、お前はその内の一匹と強い『縁』で結ばれているようですが・・。バケモノどもが、どういう目的を持ってそんなことをしているのか知らんですが、奴らが本気を出してお前に何かをしようとしてきたら、悪いですが、久喜原では助けてやれんのです」
久喜原びすけっとが表情を硬くする。
常日頃から、『神だろうが悪魔だろうが、全部久喜原の『糧』にしてやるのです』と、ラノベのイキリ主人公のように豪語している彼女が、「助けてやれない」と言った。
その言葉の重みを理解している宮本静佳と久喜原立夏は、揃って顔を青くする。しかし━━
「あ、そうなんですか」
北野桝塚恵は、キョトンとした表情を浮かべていた。
久喜原びすけっとが、どういう少女で、何をやっているのかを知らない彼女からしたら、それは当然の反応なのかもしれない。だが━━
宮本静佳はその反応に、久喜原びすけっとの言葉よりも怖ろしいものを感じた。
それが何に起因する『恐ろしさ』なのかは分からない。が、ひどく怖いものを見た気がした。
その違和感を覚えたのは、久喜原びすけっとも同じらしく、
「・・・お前、ことの重大さを分かっているですか? 久喜原はバケモノという言葉を使いましたが、アレはもう『神』と言っても差し支えないモノなのです。・・・あえて脅すようなことを言いますが、奴らに愛玩動物にされるならまだマシな方で、悪ければ、壊して遊ぶタイプのおもちゃにされてしまうのです。そうなったら、お前は未来永劫、地獄すら生温く感じてしまう程の責苦を━━」
ふいに、久喜原びすけっとが言葉を切った。
その視線を追って、宮本静佳は今度こそゾッとして身体を震わせる。
北野桝塚恵は、目をキラキラと輝かせて笑っていた。
まるで、それが楽しみで仕方ない、と、言わんばかりの表情で━━
「・・・」
北野桝塚恵の異常な反応に、三人は揃って沈黙する。
ぴちゃり、と、洗面台の蛇口から落ちる水滴の音が、やけに大きく室内に響いた。
それに合わせるように、久喜原びすけっとが沈黙を破る。
「・・・どうやら久喜原は、本当に無駄な時間を過ごしちまったようですね・・」
彼女は小さく嘆息すると、北野桝塚恵から背を向ける。
と同時に、病室のドアががらりと開いた。




