表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
柳田さんに取り憑かれた日のこと  作者: せなね


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

51/70

番外編『宮本さんと風間さん⑱』


 校庭を駆けているのが北野桝塚恵だと気付いた瞬間、塩谷由麻は教室を飛び出していた。

 「嫌な予感がしたんです。何か、とてもよくないことが起きるような、そんな予感がして・・。私は階段を駆け降りて、真っ先に正面玄関に向かいました。けれど、恵とは行き違いになったらしく、廊下には土のついた靴跡と、タッタッタッという、誰かが走っている足音だけが残っていました。私は足音を追い、再び走り出しました。あの恵が、靴も脱がずに学校の廊下を走るだなんてありえません。気色の悪い緊張が、私の頭をキリキリと締め付けました。私は声の限りに恵の名前を叫びましたが、足音が止まることはありませんでした。三階へ続く階段に足をかけた時です。上の階から、ガチャリという重い音がしました。校内で、あんな重い音を立てて開閉するドアなんて、私の知る限り一つしかありませんでした」



 「屋上へ続くドアです」



 塩谷由麻が遅れて屋上に辿り着くと、既に北野桝塚恵はフェンスを乗り越えているところだった。

 「その時、やめてと叫んだのか、恵の名前を叫んだのか、それとも全く違うことを叫んだのか・・あの時のことは今でも夢に見るのに、私はどうしても、あの時自分が何を叫んでいたのか、それを思い出すことが出来ませんでした。私は喉が裂けるくらいの大声で何事かを叫び、恵に向かって手を伸ばしました。そしたら、恵は一瞬だけ、私の方を振り向いてくれたんです。その時の、恵の顔は━━」



 「まるで、死人のような顔をしていました」



 「顔面は蒼白で、目からは蛇口の緩んだ水道のように、涙がとめどなく溢れていました。色を失った唇が、パクパクとずっと何事かを呟いています。私は読唇術なんて出来やしないのに、何故だかその時、恵が何と呟いているのかが分かってしまいました」



 ━━━ごめんなさい。



 「恵はずっと、その言葉を繰り返していました。その姿があまりに痛々しくて、私は思わず足を止めてしまいました。その、次の瞬間でした」



 北野桝塚恵は、学校の屋上から飛び降りた。



 ※※※

 ※※

 ※



 「人生で経験したことのない強い耳鳴りが、私の脳をキーンと揺らしました。視界がチカチカして、うまく物事を考えることが出来ません。けれど、私の身体は勝手に動いていて・・気付いたら、私は屋上のフェンスを、海に浮かぶ藁のように掴んでいました。恵、恵、恵と、私は狂ったように恵の名前を叫び続けました。イヤなのに、見るのはイヤだったのに、私の目は勝手に下へと向かっていきます。夢であってくれ、幻覚であってくれ、私の頭が狂ってしまったのならそれでもいいから、どうか間違いであって欲しい・・そう願いながら、私は恵の姿を探しました。けれど━━」



 地面にうつ伏せのまま横たわる北野桝塚恵の姿を、塩谷由麻は見つけてしまった。



 「膝から力が抜け、私はその場にへたり込みました。涙が次から次へと溢れてきて、視界がぼやけて何も見えません。私は意味不明なことをぎゃあぎゃあと叫びながら、フェンスを病気の猿のように揺らし続けました。もしもあの場に恵を攻撃してた奴らがいたら、私はそいつをその場で締め殺していたと思います。それほどに、私の心には怒りと憎悪しかありませんでした。恵がこんなことになってしまったのはアイツらのせいだ━━学校の連中、ネットの連中、マスゴミの連中、顔も名前も知らない有象無象、そして、あのクソヤンキー・・みんなみんな全部アイツらのせいだと、私は心の中で喚き続けました。恵を失った悲しみに目を向けることは出来ませんでした。もしもそれに目を向けてしまったら、私はもう二度と立ち上がることが出来なくなる━━そう、思ったからです。屋上から一歩も動かずに、恵のことだけを考えながら餓死するのも、それはそれでアリだったのかもしれません。けれど、その時の私には━━」



 「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 「私は、私の中にある憎悪に薪を焚べるかのように、ただただ叫び続けました。そうして喉が枯れ、ついに言葉を発することも出来なくなった時━━」



 「ふいに、恵が動いたように見えたんです」



 「最初は見間違いかと思いました。けれど、どう見たって、見間違いなんかじゃない。何故なら恵は━━」



 「ゆっくりと、立ち上がっていたんですから」



 「それを見た瞬間、私は走り出していました。飛び降りるように階段を抜け、校舎を飛び出します。その時━━」



 「ガラスの割れる音がしました」



 「音は、恵のいる方角から聞こえました。私は、もうほとんど声の出ない喉を必死に鳴らしながら、恵の名前を叫び続けました。そうして、息も絶え絶えに恵の元へ辿り着くと━━」



 「恵は、割れた校舎の窓ガラスの前で、膝をついていました」



 「傍には窓を割るのに使ったと思しき大きな石と、ガラス窓の破片が散乱していました。恵は私に背を向けた格好で、身体を揺らしながらぶつぶつと何事かを呟いているようでした。私はその肩を掴みました。そしたら━━」



 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい



 「恵は、壊れたテープレコーダーのようにそう呟きながら、割れたガラス片で自分の手首を切り続けていたんです・・」



 ※※※

 ※※

 ※



 その時のことを、宮本静佳ははっきりと憶えている。

 忘れようにも、忘れることの出来ない光景だった。

 通報を受け学校に駆けつけると、北野桝塚恵は、塩谷由麻と数名の教師に押さえつけられながら激しく暴れていた。完全に正気を失っていた。

 宮本静佳は教師を押し退け、北野桝塚恵の前に立つと、血まみれの両腕を掴み、

 「恵ちゃん!! しっかりしなさい!!」

 と、校舎が揺れるほどの大声で一喝した。

 それで一瞬、北野桝塚恵の動きが止まった。

 死人のような暗い目に、ほんの僅かに光が灯る。

 が、それも一瞬。光はすぐに消え、



 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい



 と、北野桝塚恵は再び繰り返し始め、地面に散らばっていたガラス片を掴もうとする。宮本静佳はその手を無理矢理払い、

 「救急車はまだ!?」

 と、呆然と突っ立っている教師たちに向け、苛立たしげに叫んだのだった。

 その後。救急車が到着し、病院に搬送されるまで、宮本静佳は北野桝塚恵を抑え続けた。塩谷由麻は彼女と共にその身体にしがみつき、北野桝塚恵に必死に呼びかけ続けていた。



 しかし最後まで、彼女がその声に応えることはなかった。



 ※※※

 ※※

 ※



 北野桝塚恵の搬送後、彼女の祖父母から聞いた話である。

 当時、俳優だか芸人だかアイドルだかの、とにかく界隈で有名な芸能人同士の超大物カップルが誕生したという、心底どうでもいいガラクタのようなニュースにマスコミ連中は揃って夢中になり、風間菜々子の家の前から一斉に姿を消していた。

 家に引きこもりながら、取り憑かれたように粛々とSNSの通報作業をしていた北野桝塚恵は、

 『いっつもマスゴミがたむろしてる例のクソガキの家の前に、今日は珍しく誰もいない件』

 という投稿をたまたま見つけ、数週間ぶりに外に出かける決意をした。



 ━━━菜々子ちゃんの様子を見にいきたい。



 祖父母にそう告げ、北野桝塚恵は家を出たのだそうだ。



 ━━━()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それは未だ不明である。



 最後まで、北野桝塚恵はそれについて何も語らなかった。

 しかし、その『何か』が、北野桝塚恵の心を決定的に砕いてしまったのは間違いない。

 病院に搬送後も、北野桝塚恵は自殺未遂を繰り返した。

 拘束が必要であると判断され、専門の病院に移されてからも、彼女の自傷行為は止まることはなかった。



 ━━━()()()()()()()()()()



 病院側は考えられる限りの手を尽くした。

 しかし、基準を超えた強い鎮静剤を投与し、皮のベルトで全身を拘束しても尚、北野桝塚恵は止まらなかったのだ。そのような処置を受ける度に、



 ━━━()()()()()()()()()()()()()()()()()()、無理矢理自傷行為に及ぼうとした。



 人間の力ではなかった。

 北野桝塚恵は運動が得意な方ではあったが、腕力も握力も、同年代の女子の平均を下回るほどの力しかなかったはずだった。

 そんな彼女が、何故そのような真似が出来るのか?

 医師は揃って頭を悩ませたが、誰も明確な解答を出すことは出来なかった。

 そして、異常なのは膂力だけではなかった。

 体質も同様である。



 ━━━北野桝塚恵には、鎮静剤も睡眠薬も効果がなかったのだ。



 薬剤耐性までもが常人とかけ離れていた。

 そのため、一度北野桝塚恵が暴れ始めると、病院側のスタッフでは、まるで手がつけられなくなってしまった。拘束が必要な患者を多く有するため、看護師も警備員もそれなりに屈強な者が集められていたのだが、それにも関わらず、彼らでは何人集まっても北野桝塚恵を止めることが出来なかったのだ。



 ━━━唯一、何とかすることが出来たのは宮本静佳ただ一人だった。



 当時の北野桝塚恵の膂力は、素手で皮のベルトを引き千切るほどに危険なものとなっていた。



 ━━━が、()()()()では、宮本静佳を押し切るには全く足りない。



 宮本静佳は、北野桝塚恵が暴れる度にその身体を押さえつけ、彼女が落ち着きを取り戻すまで抱きしめ続けた。

 そういう生活を、宮本静佳は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 北野桝塚恵の祖父母からは土下座せんばかりに感謝されたが、反面、彼女の両親からはバケモノを見るような目で見られていた。

 宮本静佳が初めて任された事件の被害者とはいえ、赤の他人に対してそこまで入れ込む理由が、彼らには分からなかったのだろう。

 理屈ではなかった。

 北野桝塚恵を物理的に止めることが出来るのは自分しかいない。それも理由の一つなのだが、それ以上に、



 ━━━()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 その予感が、宮本静佳を強く突き動かしている。

 それが『何を』意味する予感なのか、そこまでは分からない。しかし、是が非でもどうにかしなくてはならないと、宮本静佳は考えていた。

 そして、ただただシンプルに、



 ━━━この子を、助けてあげたい。



 それが、一番の動機だった。



 ※※※

 ※※

 ※



 北野桝塚恵は昼夜を問わず暴れ、その時間帯には一切の規則性がなかった。暴れるだけ暴れ、力が尽きたら気絶するように眠る。そうしてまた目が覚めると、再び暴れ始める。ひたすらそれの繰り返しだった。

 宮本静佳は、食事とシャワーの僅かな時間を除き、常に北野桝塚恵が眠るベッドの横の椅子に座って待機し、目を瞑ったまま微動だにせずに一日を過ごした。北野桝塚恵が起き上がる気配を察すると、宮本静佳はゆっくりと立ち上がり、一切何も喋らず、彼女が落ち着くまでその身体を抱きしめ続けていた。

 北野桝塚恵は、その様々な異常性から、病院の職員たちに薄気味悪がられていたのだが、入院して半月も経つ頃になると、北野桝塚恵よりも、宮本静佳の方を気味悪がるようになってしまっていた。



 ━━━()()()()()()()()()()()()()()



 病院のあちらこちらから、そんなヒソヒソ話が聞こえてくるようになった。

 そのほとんどを、地獄耳の宮本静佳は聞いていたのだが、彼女はそれらを完全に無視していた。心にさざ波すら立たなかった。



 ━━━子どもの頃から、バケモノ扱いされることには慣れている。



 強がりではなく、宮本静佳は本心からそう思っていた。

 彼女は他人への怒りや苛立ちの感情を全てシャットオフし、北野桝塚恵の看病を続けた。

 しかし━━



 ある日。北野桝塚恵の両親と祖父母がお見舞いに訪れた際、北野桝塚恵がいつものように暴れ始めた。

 祖父母は北野桝塚恵の足元に縋りつき、どうか落ち着くようにと涙ながらに彼女に訴えていたのだが、両親の方は病室の入り口に突っ立ったまま、足を踏み入れようとすらしなかった。

 この頃になると、宮本静佳は北野桝塚恵の両親のことを『そういう人たち』なのだと諦めていたのだが、その日は何故だか、二人の態度が妙に癇に障った。

 北野桝塚恵が落ち着いた後、ベッドに彼女を寝かしつけている最中、ふと両親の方へ目を向けると、



 二人は、病室の入り口でスマホをポチポチと弄っていた。



 それを見て、宮本静佳はキレにキレた。

 彼女は北野桝塚恵の両親を凄まじい声量で怒鳴りつけ、二人の腰を抜かせた。

 最初は、宮本静佳の剣幕に顔を青くしていた父親だったが、次第にその顔は赤くなり、「なんだ!! たかが警察官の分際で、その態度は!!!」と言ってキレ始め、宮本静佳の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。



 が、その手が届くより早く、祖父の拳が父親の顔面をとらえていた。



 父親は再度尻餅をつき、鼻血を出した格好で祖父を━━自分の父親の顔を見やる。その顔は次第に憎悪に歪んでいき、何事かを叫ぼうとした。しかし━━

 まるで赤の他人を見るような祖父の冷たい眼差しにびくりと身体を震わせ、父親は叱られた中学生のように視線を斜めに落とした。

 母親の方は最初から最後まで何も喋らず、『私には関係ない』という表情をして、ずっとそっぽを向いていた。

 祖父は、そんな二人を無言でしばらく見つめた後、ゆっくりと宮本静佳の方へ振り向いて一礼し、

 「お見苦しいところをお見せしてしまい、誠に申し訳ございません。・・・私と家内は、これからこの男と話さなければならないことがあります。重ね重ね大変申し訳ございませんが、どうかそれまで、恵ちゃんのことをよろしくお願いいたします」

 そう言って、祖母と一緒に再び頭を下げてきた。

 宮本静佳はよしてくださいと言ったが、二人はそのまま、長いこと頭を上げなかった。



 その後、北野桝塚恵の両親と祖父母の間で、どのような話合いがもたれたのかは定かではない。



 しかしそれ以降、北野桝塚恵の両親が病院を訪れることはなくなったのだった。



         ※



 「よぉ」

 時間は少し遡る。

 宮本静佳が北野桝塚恵の看病を始めて一週間が経った頃、ヤマさんが彼女の元を訪ねてきた。

 宮本静佳は立ち上がり、ヤマさんに向かって笑顔で会釈した。

 ヤマさんは土居山警察署の名物刑事のような人で、『もしもどこかの配給会社が、ヤマさんってあだ名の中年の刑事役を募集してるなら、この人を連れていけばいい。即日採用間違いなしだぞ』と噂されるほど、ヤマさんにしか見えないヤマさんな人だった。

 ヤマさんは、いつも古着屋の投げ売りセールのカートの中でしかお目にかかれないようなくたくたのコートやシャツを着ていて、髪は一周回って最近の流行りのように見えなくもないボサボサ頭をしている。靴は当然のようにへんなロゴの入った安物のスニーカーで、靴下には常に穴が開いている有り様だった。まるで絵に描いたようなだらしのない中年だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と宮本静佳は推測している。酒と日に焼けた顔には、まるでヤマさんの激動の人生を象徴するかのように深い皺が何本も刻まれており、その整った顔の造形を分かりにくくさせてしまっているが、若い頃はきっと、誰もが振り返ってしまうような美男子だったに違いない。

 実際、宮本静佳が彼女の『()()()()』と一緒にヤマさんの家でお世話になっていた時、ヤマさんが若い頃の写真を偶然見てしまったことがあるのだが、その時は失礼ながら、あまりの変わりように宮本静佳は大爆笑してしまった。ヤマさんは苦虫を噛み潰したような顔をし、『一番弟子』は、彼女が何故笑っているのか分からずに小首を傾げていた━━

 ヤマさんの顔を見た途端、何故か『あの頃』のことを急に思い出し、宮本静佳は口元を綻ばせた。

 ヤマさんはそれに応えるように、片方の口の端を吊り上げると、「これ、差し入れな」と言って、手に持っていたビニール袋をテーブルの上に置いた。

 「思っていたよりも元気そうで安心したぜ。立夏ちゃんから、ほとんど寝てないみたいだって聞いてたから心配してたんだが、大丈夫かい?」

 宮本静佳は平気そうに頷く。

 「ええ、私の方は全然大丈夫です。体力だけは自信がありますから」

 宮本静佳が自信満々にそう応えると、ヤマさんは苦笑し、

 「体力とか、そういう次元の話じゃねぇ気がするんだが・・まあ、静佳ちゃんだもんなぁ」

 と、言った。

 それからしばらく、宮本静佳はヤマさんと何のことはない世間話を交わした。

 話がひと段落つくと、不意に宮本静佳は目を伏せ、

 「・・・私は、やっぱりクビですか?」

 と、訊いてきた。

 宮本静佳は北野桝塚恵が病院に搬送されてから一度も署に戻っておらず、連絡も報告もしていなかった。今この場にいるのは彼女の独断であり、無許可の行動である。良くてクビ、悪ければ手に縄がかかる暴挙だが、すべては覚悟の上だった。

 しかし、ヤマさんは一瞬、キョトンとした表情を浮かべた後、宮本静佳の予想に反し、大爆笑し始めた。

 顔がクエスチョンマークに支配された宮本静佳を置き去りにし、ヤマさんはひとしきり笑った後、「悪い悪い」と言って目元に浮かんだ涙を拭い、

 「()()静佳ちゃんが、そんな常識的なことを考えながら暴走してたとは正直カケラも思ってなくてよ。申し訳ねぇがツボに入っちまった。・・・心配しなくても、これまでのことはちゃんと公務の扱いになってるから、クビになんかなりゃしねぇよ、安心しな」

 と言って、宮本静佳の肩を優しく叩いた。

 宮本静佳は少しだけ憮然とした表情をしたが、すぐに肩の力が抜けたような笑みを浮かべる。



 ━━━かなり後になって、この時ヤマさんが、かなりの無茶をして自分を助けてくれたのだと、宮本静佳は知った。



 それを知った宮本静佳はすぐにヤマさんの元に赴き、何度も何度も頭を下げたが、ヤマさんは「いいんだ、いいんだよ」と笑い、

 「お前さんとお前さんの『一番弟子』には、俺は『あの時』何度も命を救われたからな。その恩返しだと考えりゃ、安いもんだよ」

 と、言った。

 『あの時』━━宮本静佳、高校三年生。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に、宮本静佳はヤマさんと『一番弟子』に出会い、とある大きな事件に巻き込まれた。その際、ヤマさんの言う通り、宮本静佳は『一番弟子』と一緒になって、何度か彼の窮地を助けたことがあるのだが・・正直、その時ヤマさんに作った『借り』は、とっくの昔に返して貰っていて、今は宮本静佳の方が、一生かかっても返しきれないほどの『恩』を受けている状態なのである。

 すべてを知った後に、ゲリラ豪雨に見舞われたししおどしのようにヤマさんに頭を下げる羽目になるとは夢にも思わず、宮本静佳は無職にならずにすんだことに、ほっと胸を撫で下ろしていた。

 「この子が、静佳ちゃんが看病してる子かい? まったく、かわいそうになぁ。クズどものせいで、何だってこんな若い子があんな酷ぇ目、に・・」

 ベッドで眠る北野桝塚恵を見ていたヤマさんが、ふいに眉根を寄せた。

 口元に手を当て、何事かを考え始める。

 「・・・()()()()()()()()・・」

 その様子を訝しんだ宮本静佳が、どうしたんですか?と訊ねると、ヤマさんは「いや・・」と、大きく首を傾げ、

 「・・・いくらなんでも、()()()()()()()()()()()()()()()()・・。いや、すまん。俺の思い違いだ」

 と言って、照れたように笑って、頭をかいた。

 「はぁ・・」

 宮本静佳は何のことを言っているのだろうと不思議がったが、それを訊ねようとした瞬間、病室のドアがこんこんと、控えめにノックされた。返事をすると、北野桝塚恵の祖父母が、人の良い笑みを浮かべながら中へ入ってきた。宮本静佳とヤマさんは揃って会釈する。

 「・・・おっと、いけねぇ。用があるんだった。じゃあ、俺はもう行くから、後は頑張んなよ、静佳ちゃん」

 ヤマさんはそう言うと、宮本静佳に軽く手を振って病室から出て行った。祖父母とすれ違う際、再度会釈する。ヤマさんに会釈を返した祖父が顔を上げると、

 「宮本さんのお知り合いの方ですか?」

 と訊ねてきたので、宮本静佳は「はい」と頷き、

 「土居山署で刑事をやっている山田さんという方で、私が昔からお世話になっている人なんです」

 と、答えた。

 祖父は人の良い笑みを浮かべたまま「そうでしたか」と頷き、その後は、いつものように北野桝塚恵の容体に関する話になった。



 ━━━もしもこの時。



 もしもこの時、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだが、幸か不幸か、そうはならなかった。



 その爆弾が爆発するのはもう少しだけ先の話━━北野桝塚恵が失踪した後のことである。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ