番外編『宮本さんと風間さん⑯』
保護者に連絡する前に一旦落ち着かせる必要があると判断した宮本静佳は、北野桝塚恵を伴って喫茶店に入店していた。
「・・・」
北野桝塚恵は俯いたまま、何も喋ろうとしない。
テーブルに置かれたコーヒーは、両者共に手つかずのまま放置されている。
コーヒーカップから立ち昇る湯気を見るともなしに見つめながら、宮本静佳はどう声をかけたものかと悩んでいた。
北野桝塚恵の手首に目を向ける。
そこには、無数の痛々しい赤い線が走っていた。
その数は、以前よりも増している。
宮本静佳は、僅かに唇を噛み締めると、
「・・・なんで、あんなことをしようとしたの?」
と、静かに口火を切った。
「・・・」
北野桝塚恵は、俯いたまま何も答えない。
宮本静佳は、ほんの少しだけ身を乗り出すと、
「お金をたくさん稼がなきゃいけないって言っていたけど、それはどうして? もしかして、ご実家の経営が苦しいの?」
と、優しい声で彼女に問うた。
北野桝塚恵の実家は、老舗の有名な和菓子店である。
だが、『あの事件』を機に、店には謂れのない誹謗中傷が相次ぐようになり、現在は経営がかなり厳しい状態であると聞いている。宮本静佳は、彼女が金を欲している理由はそれだと踏んでいたのだが━━
「・・・それもあります。でも、それよりも━━」
北野桝塚恵は、顔をあげないまま、
「菜々子ちゃんを、助けてあげないといけないから・・」
と、ポツリと呟いた。
その意味をはかりかね、宮本静佳は眉根を寄せる。
「どういうこと? どうしてお金を稼ぐことが、菜々子ちゃんを助けることになるの?」
風間菜々子は、北野桝塚恵以上の苦境に立たされている。しかし、それは金で解決出来るような問題ではなかった。
北野桝塚恵は僅かに身じろぎすると、
「私、調べたんです・・。お金さえ払えば、ネットの炎上を何とかしてくれる会社があるって・・」
と、言った。
「それは・・」
何と言ってあげればよいのか分からず、宮本静佳は顔を歪めた。
彼女は、その手の会社について詳しいことを知っているわけではない。しかし、風間菜々子の謂れのない炎上は、もはや一企業の努力程度で何とか出来るような段階ではなかった。仮にそういう会社と契約を結んだとしても、焼け石に水にしかならないだろう。
宮本静佳は慎重に言葉を選び、その旨を北野桝塚恵に伝えた。
「・・・一つの会社じゃダメなら、もっと沢山の会社を雇えばいいじゃないですか? 十や二十・・それでダメなら、そういう会社を全部雇えば、きっと・・」
「無理よ。そんなの━━」
その先を続けようとして、宮本静佳はハッと口をつぐんだ。
━━━いくらお金がかかると思っているの?
その瞬間、北野桝塚恵が「お金をたくさん稼がなくてはいけない」と言った理由が分かってしまった。
思わず顔を背けてしまう。
瞬間溢れ出しそうになった涙を意思の力で抑え込むと、宮本静佳は再び北野桝塚恵に目を向けた。
「・・・恵ちゃんが、お金を必要としている理由は分かったわ。・・・でもね、これはダメよ。あんな方法で、お金を稼いではいけないの」
「どうしてですか?」
「どうしてって━━」
「私はいいんです。別に、どうなっても」
北野桝塚恵が顔を上げる。その目に宿るあまりの暗闇に、宮本静佳は言葉を失ってしまう。
まるで奈落のようだった。
底のない闇が無限に続いていて、こちらがいくら手を伸ばそうが、もうどうやっても彼女の心には届きはしない━━そんな、絶望を覚えた。
「・・・でも、私はどうなったっていいけど、菜々子ちゃんは助けてあげたい・・」
北野桝塚恵が、ふいに視線を逸らした。
その際に一瞬だけ、彼女の瞳に人間らしい光が戻った気がした。
それを見て、宮本静佳は、この子の精神をギリギリのところで繋ぎ止めているのは、風間菜々子の存在なのだということに気付いてしまった。
もしも風間菜々子がいなければ、北野桝塚恵はこんな風に喋ることもなく、ただ呼吸をしているだけの人形のようになってしまっていたのではないか? そう思わずにはいられなかった。
あまりのやるせなさに心が折れそうになる。
宮本静佳はきつく目を瞑り、そうならないよう己の心を強く持った。
「・・・だからって、売春をしていい理由にはならないわ」
北野桝塚恵が再度、宮本静佳に目を向ける。暗い目に、僅かに反抗的な色が混ざっていた。
「今日みたいなことを、何回やったの?」
北野桝塚恵は僅かに下を向くと、
「・・・一回も」
と、答えた。宮本静佳は、その答えにほっと胸を撫で下ろしそうになったのだが━━
「やろうとしたことは何回もあるけど、成功したことは一回も、ない・・。『コレ』と同じ・・」
そう言って、北野桝塚恵はジャージの袖をまくると、自身のズタズタになった腕を露わにした。
絶句する宮本静佳に向け、北野桝塚恵は歪に口の端を吊り上げると、
「失敗するんですよ、自殺と同じで。何度やろうとしても、全然うまくいかない・・」
※
北野桝塚恵は、風間菜々子の弟である風間隆が殺害された事件の、もう一人の被害者と呼ぶべき存在だった。
彼女は、犯人である不良少年から一方的に絡まれただけであるにも関わらず、カストリやネットに、二人は恋愛関係だったという事実無根のデマを流されてしまった。
その結果、この事件は単なる痴話喧嘩を勘違いして仲裁に入ってきた幼稚園児が、『転んで』起きたものだと歪曲され、風間隆が亡くなった直接的な原因は、姉である風間菜々子の暴力によるものだと拡散された。
善良な男子高校生が、無関係の幼稚園児の死の責任を取らされようとしている━━
大多数の人間が、事件をそのように捉えてしまった。
風間菜々子とその家族は、ネット上で激しい攻撃に晒され、彼女の家の周りには、昼夜を問わず、カメラを構えた有象無象が列を成していた。
北野桝塚恵は、この惨状を何とかしようと手を尽くした。
しかし、そのすべては、空振りどころか、火に油を注ぐ結果に終わってしまう。
最初に、彼女はマスコミのインタビューに答え、現在ネット上で出回っている噂は全てガセであると伝えようとした。だが━━
『男子高校生とあなたは、お付き合いされているとお聞きしましたが、それは本当でしょうか?』
『・・・えっと・・それは、その・・あの・・ない、です・・』
北野桝塚恵は、インタビューではっきりと犯人である男子高校生との関係を否定したにも関わらず、その部分は勝手に編集され、まるで遠回しに関係を認めているかのような動画に改変されてしまっていたのだ。
彼女が言い淀んだこの場面は、男子高校生との関係を問われた場面ではなく、『男性と性的な関係を持ったことがあるのか』という、何の関係もない質問が飛んできた時のことだった。
北野桝塚恵は、インタビューを受けたTV局のディレクターに強く抗議したが、「精査します」という返答がきたきり、二度と連絡が返ってくることは無かった。
マスコミに見切りをつけた北野桝塚恵は、次に実名でSNSのアカウントを作り、風間菜々子の潔白をネット上で訴えようとした。
しかし、炎上を楽しんでいるような連中に人間の言葉が通じるはずもなく、彼女がどれだけ言葉を尽くして真摯に訴えても、連中からはただのオモチャとしか見なされなかった。
テレビ局のインタビュー映像で不必要に大きく映されていた彼女の大きな胸をイジる卑猥なリプや、風間菜々子に対する殺害予告じみたリプに耐えられなくなり、ほどなく北野桝塚恵はアカウントを消去した。
一連の行動の結果残ったのは、自身の実名を出してしまったことによる身バレという最悪の結末と、『例の巨乳JK涙目逃亡ww』というタイトルから始まるクソみたいなまとめ記事と読み上げ動画のみだった。
その後、身元を特定されてしまった北野桝塚恵の実家である和菓子店には、回線がパンクするほどの苦情が殺到した。
━━━あんな卑劣な殺人犯のクソガキを擁護するとか、頭が沸いているのか?
苦情の内容は、概ねそのようなものばかりだった。
頭が沸いているのはどっちだと、北野桝塚恵は一人頭を掻きむしったが、彼女の慟哭は誰にも届くことはなかった━━
それから、北野桝塚恵は家に引き篭もるようになってしまった。
この頃には、彼女の味方はもうほとんど残っていなかった。
北野桝塚恵の両親は、身元を勝手に公表したことにひどく腹を立てており、彼女は店を傾けた厄介者として白い目で見られていた。
対照的に、和菓子店の先代経営者でもある父方の祖父母は、北野桝塚恵のことを全力で擁護した。
そのおかげで、彼女が家庭内で完全に孤立することはなかったが、代わりに、毎日のように両親と祖父母の間で激しい口論が巻き起こるようになってしまった。
両親は、娘の現状を『自業自得』と言い切り、祖父母はその物言いに腹を立てて怒鳴り返す。そういう口論が延々と続いた。
両親と祖父母が口論している最中、北野桝塚恵は布団の中で耳を押さえ、ただただ涙を流していた━━。
※
そして学校にも、北野桝塚恵の居場所はなかった。
それまでは、北野桝塚恵は美人で頭がよく、誰に対しても優しい、皆から慕われるマドンナ的な存在の女生徒だったのだが、事件を機に、彼女からの側からは一斉に人が離れてしまった。
側を離れなかったのは、幼稚園の頃からの親友である塩谷由麻を始め、数えるほどしかいなかったそうだ。
━━━その顛末を、宮本静佳はかなり後になって塩谷由麻から聞いた。
事件が起きた直後くらいまでは、北野桝塚恵は学校内で同情的な目で見られていた。
しかし、カストリとSNSに例のデマが載るやいなや、彼女を取り巻く状況は一気に悪い方向へと傾く。
北野桝塚恵は容姿端麗で性格が良く、彼女を悪く言う人間などほとんどいなかったのだが、いかんせん、あまりにも美少女すぎた。
彼女はこれまで異性と付き合ったことがなく、高校在籍中は誰とも付き合うつもりはないと常々公言していたのだが、例のデマのせいで、偏差値などゼロに等しい県内最低最悪の底辺高校に通う不良と裏でこっそり付き合っていたと周囲に誤解されてしまったのだ。
憧れのアイドルに、裏切られたような気持ちになったのだろう。
オセロの駒がひっくり返るかのように、北野桝塚恵に冷めた目を向ける者が続出した。
『大人しそうな顔して、やっぱやることやってんじゃん』『ああいう人って、何で不良なんかと付き合いたがるんだろ。ホント意味分からん』『胸にばっか栄養が行ってて、脳に栄養が届いてないからあんな学校に通ってる奴なんかと付き合っちゃうんだろうな』『自分のイメージを守りたいからって、付き合ってたのを隠そうとするなんて、マジサイテー。子どもが亡くなってんだよ? 何とも思わないわけ?』『所詮、そういう人だったんだよ。美人で巨乳で誰にでも優しいJKなんて幻想だったんだ。みんなも受け入れろよ』
そのような陰口と周囲からの白い目に耐えきれず、いつしか北野桝塚恵は学校に行かなくなってしまった。
塩谷由麻と残った友人たちは、ネットに上がっているのは全部デタラメだと周囲に説いて回ったが、路上で宗教勧誘をしているババアを見るような生温かい目を向けられるだけで、誰からもまともに相手をされなかった。
意味が分からなかった。
何故、これほどまでに頑なに、周囲は北野桝塚恵の悪い話ばかりを信じようとするのだろうか?
塩谷由麻は、それがいくら考えても分からなかった。
「恵は本当に誰にでも優しくて、あの子が人のことを悪く言ったり攻撃したりするのを、私は見たことがないんです。性格も大らかで、私が何かやっちゃっても、いつも笑って許してくれた・・。私、バカだから宿題をしょっちゅう忘れちゃうんですけど、その度に『しょうがないなぁ〜』って言いながら見せてくれましたし、胸だって一日三回までなら揉んでも許してくれました。・・・四回目はぶん殴られるけど。
あの子は、将来は保母さんになるのが夢で、ピアノの練習を一生懸命頑張っていました。恵は勉強も運動も出来るのに、何でか音楽だけは全然ダメで・・。楽譜と睨めっこしながら辿々しい手つきで鍵盤を押すんですけど、あの子胸が大きすぎるから、いつも胸が鍵盤に当たって、演奏の締めみたいなバーーンッって、凄い音を出しちゃうんですよ。それ聞く度、私と友達は腹抱えて笑って、恵は顔を真っ赤にしてぐるぐるパンチしてくるんです。でも、あの子腕力ないから、全然痛くなくて・・」
そこまで話して、塩谷由麻は耐えきれなくなったように顔を伏せた。
宮本静佳はその背を優しく撫で、やるせなさに目を瞑った。
すべてが終わってしまった後━━北野桝塚恵が失踪してしまった後の話である。
※※※
※※
※
「・・・ねぇ、ちょっとへんな話を耳にしちゃったんだけど・・」
まだ北野桝塚恵が失踪する前、友人の一人が塩谷由麻に声をかけてきた。その友人は、わずかに残った北野桝塚恵の味方の一人だった。
その子が廊下を歩いている最中、たまたまこんな話を耳にしたそうだ。
「私、前々から言ってたじゃんね〜。北野桝塚さんって、絶対ロクな女じゃないって。だって、冷静に考えてみれば分かるじゃん。あんな嘘つくような女がまともな奴なわけないって」
あんな嘘、という言葉に、塩谷由麻は強い引っかかりを覚えた。
北野桝塚恵は誠実な性格で、自分のカップ数のこと以外、周りに嘘をついたことなどなかったのだ。
いや━━
一つだけある、と、塩谷由麻は気付いた。
「恵は、嘘とか根本的につけない性格で、身体測定の後で『胸、どうだった?』って訊くと、いつも顔真っ赤にして、『Aッ!!』って、嘘が下手とかそういう次元じゃないレベルのことしか言えない子だったんですけど、それなのに、あの子は昔から一つだけ、なんでそんな嘘をつくのか分からないことを頑なに言い続けてて・・」
それは何?と、宮本静佳が訊くと、塩谷由麻は困惑した表情をして、
━━━私は、ベルゼブブに攫われたことがある。
「・・・そう、言っていたんです」
塩谷由麻は、小さく首を横に振った。




