番外編『宮本さんと風間さん⑮』
「え、不起訴・・ですか?」
課長の言葉に、宮本静佳は戸惑いを露わにする。そんな彼女をチラリと見上げ、課長は小さく頷いた。
「信じられんのも無理はないが、そういう話になった。風間菜々子は、釈放された。保釈という扱いですらない。完全な無罪放免だ」
宮本静佳はわずかに喉を鳴らした後、「どうしてですか?」と、問うた。その問いに対し、課長は首を横に振ると、
「分からん。こんなことはありえないことだ。上にも問い合わせたが、とにかく無罪にしろの一点張りだった。経歴にも傷を残すなと厳命されたよ」
そう言って、重いため息を吐く。宮本静佳は黙ったまま、目を泳がせる。
風間菜々子のことを第一に考えるのなら、これは喜ぶべきことなのだろう。しかし、これは━━
風間菜々子は通り魔的な暴力事件を三件も起こしている。
それが、一切のお咎めなしで無罪放免になるなどありえない。例え被害者と示談が成立していても、刑事罰は絶対に免れない案件だった。
「民事の方はどうなっているんですか?」
「そっちの方は、もっと意味が分からん。・・・被害者側は全員、満足しているとのことだ」
宮本静佳は眉根を寄せる。
「満足・・とは、どういう意味でしょうか?」
課長は再度ため息を吐くと、
「多額の示談金を受け取ったそうだ。詳しい額までは知らんが、億単位だそうだ」
と、言った。
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無論、風間菜々子の示談金を払ったのは、彼女の両親ではない。
その正体は不明である。
名前も身元も明かさない無関係の人間が示談の手続きなど出来るはずがないのだが、『何故か』出来てしまった。そして、それが『何故か』通ってしまった。あり得ない話だった。
課長の話をまとめると、
正体不明の第三者が多額の示談金を支払い、その上、警察の上層部や検察までもを動かし、小学生の女の子が起こした通り魔的な暴力事件を無理矢理無かったことにした━━
そのような話になる。
まるで漫画のような話だった。こんなバカな話があってたまるものかと、土井山警察署側は、いったい誰が、何の目的を持って、そのような真似をしたのかを突き止めようとした。
しかし、一切が空振りに終わる。
どういうわけだか影すら踏めない。
この件に関わった者は、謎の第三者の代理人を筆頭に、全員が貝のように口を閉ざした。その上、警察の上層部から『もっとも強い』ストップまでかかり、この件について調べることは全面的に不可能となってしまったのだ。
その一連の流れの最中、宮本静佳は刑事課の人間に、何か心当たりはないかと訊ねられた。
彼女は一瞬考えた後、首を横に振った。
その一瞬の間に、宮本静佳の脳裏に『おじさん君』と呼ばれるあの男のことがよぎっていた。
しかし、すぐに心の中で否定する。
底の知れない男とはいえ、小学生にジュースを奢ってもらうような山暮らしの住所不定無職の中年に、そんな金も権力もあるとは到底思えなかったからだ。
それに、仮に何らかの手段でそれらを用意することが出来たとしても、あの男はこういった真似はしないだろうという予感があった。
あの男は、風間菜々子の破滅を仕方のないことだと諦めていた。
そんな男が、こんな歪な助け方をするはずがない。
男のことは何も知らないに等しいが、宮本静佳は自分の勘を信じた。
━━━では、いったい何者が、何の目的をもって、風間菜々子を助けているのだろうか?
それが、いくら考えても分からなかった。
宮本静佳は、風間菜々子とはそれなりに長い付き合いになる。彼女のことなら何でも知っているというほどではないが、風間菜々子の交友関係に、そういうことが出来そうな人物に心当たりはなかった。
そもそも、風間菜々子は政治家や大企業の重役の娘ではなく、ごく普通の一般家庭に生まれた女の子である。そんな彼女の関係者に、億単位の金を簡単に支払うことが出来て、尚且つ、国家権力を黙らせるほどの力を持つ、そんな、漫画やアニメに出て来る悪の組織の親玉のような人物などいるわけがないのだ━━
宮本静佳は、そう思い込んでしまった。
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その後も、風間菜々子は懲りることなく暴力事件を起こし続けた。
最初は未成年が対象だったが、次第にその対象は伸びていき、刃物を常備しているようなカラーギャング気取りの若者や、果てはヤクザにまで絡むようになった。
そのすべてを、風間菜々子は一方的に粉砕した。
小学生の女の子が武器もなしにである。考えられない強さだった。
それまでは、弟の件で同情的な目で見られることが多かった風間菜々子だったが、この頃になると、署内のほぼ全員からバケモノを見るような目で見られるようになってしまっていた。
態度が変わらなかったのは、「小学生で半グレやヤクザをボコるなんて別に普通でしょ?」と、無自覚チートものの主人公みたいなズレにズレた薩摩的感覚を持つ宮本静佳と、どんな相手だろうが飄々とした態度を崩さないヤマさん、そして━━
「自分は、いついかなる時でも菜々子ちゃんの味方ですから!! 自分、菜々子ちゃんの全肯定盲目信者なんで!!」
と、署内で公言して憚らない、塩谷由麻という宮本静佳の後輩婦警だった。
ベルゼブブ関連で、すっかりカルト嫌いが板についた宮本静佳は、味方になってあげるのはいいけれど全肯定盲目信者はやめなさいと注意するのだが、
「あの子には一人くらい、そういう奴がいてもいいと思うんですよね〜」
と、笑うばかりで、まるで言うことを聞かなかった。普段は聞き分けの良い後輩なのだが、こと風間菜々子に関することだけは、塩谷由麻は頑なだった。
その理由を知っている宮本静佳は、それ以上強く諌めることが出来なかった。
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風間菜々子が事件を起こす度、被害者には多額の示談金が支払われ、警察の上層部からは無罪放免にするよう『もっとも強い』指示が下された。土井山警察署は強い不満を抱えながらも、泣く泣くこれに従う他なかった。
ある時、どこで噂を聞きつけたのか、グレーゾーンを反復横跳びして小金を稼いでいる半端者が、風間菜々子の噂を聞きつけて、彼女にちょっかいをかけるべく近づいてきた。
結果、その男は風間菜々子にボコボコにされたのだが、示談の交渉になるやいなや、待ってましたと言わんばかりにゴネにゴネ始めた。金を毟れるだけ毟ってやろうという魂胆なのだろう。刑事課の人間は男の卑しさに顔を顰めたが、ふと、これはチャンスであることに気がついた。男が示談をゴネている間に、なし崩し的に起訴に持っていける。そう考えたのだ。しかし━━
数日後、その男は失踪した。
行方は現在でも分かっていない。自宅にあった通帳や現金は手付かずのまま、男は煙のように消えてしまった。
その後すぐに、『被害者の不在』を理由に風間菜々子は釈放される。
一連の手続きは、被害者の失踪に明らかな事件性があるにも関わらず、本来ならあり得ない迅速さで執行された。
流石にこれはおかしいと、多くの人間から声が上がった。
声を上げたのは土井山警察署の人間だけではない。検察側でも、風間菜々子と、彼女を支援する謎の第三者に対する不満と不審が爆発していた。
警察と検察、双方の『上』が静観するよう強めの通達を出したものの、数名の有志はこれを無視し、裏で独自の捜査を開始した。
相変わらず謎の第三者に関する手がかりは得られなかったが、その過程で一つ、判明したことがある。
謎の第三者から示談金を受け取った風間菜々子の被害者は、大半が行方不明になっていたのだ。
その数は、被害者十九名中十三名。偶然では片付けられない数だった。
しかも、行方不明なのは被害者本人だけではない。その家族までもが消えているパターンもあった。
風間菜々子の被害者は不良や半グレ、ヤクザといった、反社会的な人間ばかりである。その家族も、そういった世界にどっぷりと浸かった人間が多い。消えたのは、そういう輩ばかりだった。
しかし、被害者本人は反社でも、その家族は善良な一般市民だった場合は、失踪するのは被害者本人のみにとどめられていた。
理由は定かではないが、風間菜々子の被害者を攫っている何者かは、明らかに『反社』のみを標的にしていた。
これは水面下で、何かとてつもなく恐ろしいことが起きている。
警察と検察の有志たちは顔を青くし、この件を、マスコミやSNSを通じて広く世間に拡散しようとした。しかし━━
この有志連合は、ある日突然解散する。
風間菜々子の被害者のように失踪したわけではない。消えた者は誰一人としていなかった。いなかったのだが━━
ある者は昇進し、ある者は栄転し、ある者は退職後に起業し、ある者は田舎に戻って悠々自適の生活を始めた。
突如として全員が口を噤んだ理由は、火を見るより明らかだった。
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風間菜々子を支援する正体不明の第三者に対し、何もかもが気持ちが悪い、と、宮本静佳は心の中で吐き捨てる。
相手が何者なのかは知らないが、ソイツは金と権力で法と道理をねじ伏せ、正すべきことを正したようにするだけのロクデナシだ。
宮本静佳は、口笛を吹きながら警察署を去っていく風間菜々子の背中を見つめながら、心の中でそう断じる。
何度目か分からない『釈放』の帰りだった。今回の被害者は、強盗でしょっぴかれた前科のある半グレ三名。余罪もたんまりある。恐らく、示談が成立した後に消えるパターンだろう。
警察としては、そのような事態は阻止しなければいけないのだが、最早誰一人として動こうとする者はいなかった。
これが無辜の一般人ならともかく、相手は刑務所を反復横跳びしているようなロクデナシである。そのような輩を守るために、得体の知れない権力者を相手に身体を張ろうと考える者などいるはずがなかったのだ。
それは勿論、宮本静佳も同様である。
彼女には、市民を守るためなら命を賭ける覚悟がある。しかし、反社会的な連中のために命を賭けるつもりは毛頭なかった。
その考えは、警察官としては失格なのだろう。
だが、土井山警察署の署員の多くは、宮本静佳と同じ考えを持っていた。
━━━これは、寧ろ良いことなのではないか?
そう言って憚らない者が多くいる。
後輩の塩谷由麻などは特に顕著で、
「どーだっていいじゃないですか、反社の連中なんて。菜々子ちゃんの『あしながおじさん』が誰だか知らないですけど、社会のゴミ掃除してくれてるんだから、逆に感謝状を送ってあげたいくらいですよ」
などと、過激なことを言う始末だった。
その時見せた表情のあまりの暗さに、宮本静佳はゾッとすると同時に、ひどく心配になった。
━━━『あの子』と、同じ目をしている。
塩谷由麻は警察官になった理由を、
「宮本先輩に憧れたってのもあるんですけど、一番の理由は、恵みたいな子を助けてあげたいからですかね」
と、答えていたのだが、果たして本当にそれだけなのだろうかと思った。
この子は━━塩谷は、菜々子ちゃんと同じ『怨念』に囚われているのではないか?
その疑念が湧いた。
以降、宮本静佳はそれとなく注意して塩谷由麻のことを見るようになったのだが、今のところ、彼女が一線を超えた様子はない。
しかし、崩落寸前の橋の上を渡っているかのような不気味な緊張感は、いつまで経っても消えることはなかった━━。
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宮本静佳が塩谷由麻と初めて会ったのは、彼女が高校生の時である。
その頃から、塩谷由麻は今と同じように、快活でよく笑い、周囲を笑顔にする魅力の持ち主だった。
だが、その目には、今とは別の種類の『暗さ』が宿っていた。
その原因を、宮本静佳はよく知っていた。
塩谷由麻の『暗さ』の原因になっているもの━━それは、彼女の親友が置かれている凄惨たる状況にあった。
塩谷由麻の親友━━『あの子』は今、いったいどこで何をしているのだろうと、宮本静佳は思いを馳せる。
彼女に最後に会ったのは、夜の繁華街だった。
その日、宮本静佳は非番で、同僚の呑みに付き合わされた帰りだった。
ラブホテルや各種マッサージ店が立ち並ぶいかがわしい通りを歩いている際、ふと、見知った顔がいるのに気付いた。
『あの子』は、でっぷりと太ったハゲの中年に手を引かれながら、背中を丸めて歩いていた。
二人が向かおうとしている先は、ラブホテルだった。
宮本静佳は二人の間に割って入り、その手を無理矢理引き剥がした。
ハゲは怒りに顔を歪め、拳を振り上げる仕草を見せたが、宮本静佳の口から『警察』という単語が飛び出ると、イタズラがバレた小学生のような顔をして一目散に逃げて行った。
その醜い背中を睨みつけながら舌打ちし、宮本静佳は『あの子』に視線を戻した。
「・・・」
『あの子』は俯いたまま、宮本静佳に対して反応を見せなかった。僅かにウェーブがかった黒い長髪が顔を覆い隠し、大人の女性でもそうそう見られない彼女の豊満な胸に垂れ下がっている。髪の隙間から覗く赤色のジャージは、胸元が大きくはだけていて、中から下着をつけていない生身の肌が見え隠れしていた。
宮本静佳は無言でジッパーを首元まで引き上げると、小さくため息を吐いた。そして、
「何をしてるの、恵ちゃん?」
と、訊いた。
「・・・」
『あの子』は長く反応を見せなかったが、やがてゆっくりと顔を上げると、
「・・・どうして邪魔するんですか? 宮本さん」
と、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。
その目は、まるで死人のように光を失っている。
「・・・私は・・私は・・」
焦点の定かではない目が、左右に強く揺れた。
「私は、お金をいっぱい稼がなきゃいけないのに・・」
『あの子』━━北野桝塚恵はそう言うと、泣きそうな表情で顔を歪めた。




