番外編『宮本さんと風間さん⑭』
その後、宮本静佳は高熱を発し、三日三晩眠り続けた。
彼女が目を覚ましたのは、四日目の朝。宮本静佳は固まりきった身体を苦労して動かし、やっとのことで上半身を起こした。
身体が、ひどく軽いと感じた。
それは、三日間続いた高熱が彼女の体重を奪ったからではない。
それよりも重い『何か』が、自分の身体の中から消えてしまった。
そんな気がした。
そのことを、宮本静佳は少しだけ悲しいと思った。
しかし、自分が守り切ったものは、それよりも遥かに重い。
何を失ったのか、何を斬ったのか、宮本静佳は分からない。分からないが、一つだけ、はっきりと分かっていることがある。それは━━
自分は、守りきったのだということ。
その対価としては、むしろ安いと感じる。
宮本静佳は、満足げに目を瞑った。
宮本静佳が意識を取り戻したのを聞きつつけ、彼女の両親と弟、そして近所の爺様婆様が続々とお見舞いにやってくる。
その列がひと段落した頃、車椅子に乗ったりっちゃんが病室にやってきた。
出産による消耗が激しく、本来はまだ絶対安静の身だったのだが、無理を言って彼女の病室にやって来たのだった。
宮本静佳は大きく目を見開いた。
「・・・!! りっちゃん、ダメだよ!! 安静にしとかないと・・」
「・・・」
戸惑う宮本静佳を、りっちゃんはどことなくぼうっとした目で見つめている。そして、制止する宮本静佳を無視して彼女の元に近づくと、その手をしっかりと握りしめた。
「・・・ありがとう」
りっちゃんはそう言って、ポロポロと涙を流し始めた。次いで、
「ごめん・・」
と、何故か呟いた。
「・・・」
それは多分、宮本静佳の失ってしまった『何か』に対する謝罪なのだろう。
りっちゃんは、昔からある種の霊能力的なものを持っていた。
本人は、そんな大それたものではないと言っているが、りっちゃんには科学で説明がつかない何かの能力が備わっていることを、幼馴染の宮本静佳はよく知っていた。それで何度か、助けてもらったこともある。そんな彼女の『能力』が、宮本静佳が『何か』を失ったことを知らせのだろう。
(・・・そんなもの、どうだっていいのに)
項垂れるりっちゃんを見て、宮本静佳は涙腺が緩みそうになる。
が、全力でそれを堪えた。そして、
━━━りっちゃんの子どもを守れたことの方が、私にはずっとずっと大事なことなんだよ。
そう、言葉を続けた。
宮本静佳は、りっちゃんの頭をそっと撫でると、そのまま包み込むようにして優しく抱きしめた。
何かを失ったことに対し、自分の中では折り合いがついていると思っていた。
なのに今更、ひどく悲しくなった。
宮本静佳はりっちゃんを抱きしめながら、自分はここで泣いては絶対にいけないのだと強く思った。
ここで泣いたら、りっちゃんに背負わなくてもいいものを背負わせてしまう━━そんな確信があったから。
宮本静佳は穏やかな笑みを浮かべたまま、りっちゃんが泣き止むまで彼女を抱きしめ続けた。
『ベルゼブブの十三秒間』のことは、その後に知った。
※※※
※※
※
後に『ベルゼブブの顕現』と総称されるその現象は、世界中で同時刻に発生した。
━━━その日、その瞬間、世界は歪な夜に包まれた。
宮本静佳があの日屋上で見た、まるでコールタールを流し込んだかのような歪な夜空。その現象が見られたのは日本だけではない。朝だった国も、昼だった国も、夕方だった国も、そして日本同様、夜だった国も━━それら一切が例外なく、地球上のすべての国と地域の空が、その瞬間、歪な夜に統一された。
前兆など何もなかった。前触れもなく、突然として世界中の空がそうなった。
気温が真冬のように下がるのも世界共通の現象だった。世界中の人々が、その怪現象に不安げな眼差しを向ける中、『それ』は突如として現れた。
━━━空に浮かぶ、巨大な赫い眼。
その巨大な眼は、動物でも昆虫でもなく、人間の眼の造りをしていた。
しかし、その眼球は血のように赫く、瞳孔は血合いのように赫黒い。
魔物の眼だった。
世界中の人々が空を見上げ、呆けたような表情を浮かべる。
未知のものに対する恐怖、驚愕、畏敬、悲嘆、好奇、歓喜━━それらすべてをすり抜けて、人々の頭の中を支配したのはただ一つ、『諦め』であった。
あらゆる生物が持つ根源的な本能、『生きる』という最も基本的な本能を塗り潰すほどの圧倒的な絶望。それが、巨大な赫い眼には宿っていた。
多くの人が、まるで獣に喉笛を噛みちぎられる寸前のように感じたという。逃げるどころか、悲鳴を上げる気にすらならない。己の走馬灯すらよぎらない空白の脳内は、ただただ『無』に支配されていた。
しかし、多くの人々に絶対的な絶望を与えたその巨大な赫い眼は、わずか十三秒という短い時間で跡形もなく消え去った。
本人は知らぬことだが、それは丁度、宮本静佳が『何か』を斬ったのと同時刻であった。
空から眼が消えると、まるで何もかもが幻だったかのように、空の色がそれまでのものに戻った。同時に、人々は正気を取り戻す。
その後に起こったのは、狂乱であった。
ある者はその場に跪き、助かったことを神に感謝した。
ある者はスマホを取り出し、家族の無事を確かめた。
ある者はカメラを掲げ、赫い眼の残滓が残っていないかと右往左往した。
ある者は世界の終わりが来たのだと信じ、暴徒となった。
ある者は恐怖のあまり発狂し、その場にうずくまった。
そしてある者は、黒い影のようなモノに誰かが連れていかれたと訴え始めた。
正確な数字は未だ判明していない。
被害は世界中に及んだ。はっきり確認できる数だけでも、およそ数百万に及ぶ人間が、『ベルゼブブの十三秒間』の間に忽然と消えてしまった。
人間が消えるところを目撃した者の証言は、すべて共通している。
━━━赫い眼をした黒い人影が、人間を影の中へ引きずりこんで行った。
影に引き摺り込まれた人間が戻ってきたという公式の報告はない。
一応、非公式にはあるにはあるのだが、それらはすべて信憑性の薄いものばかりだった。そういう証言する者は、詐欺の前科持ちや自称霊能力者、目立ちたがりのインフルエンサー志望の若者や重度の虚言癖など、そんな人間ばかりだったからだ。
それらを除き、『ベルゼブブの十三秒間』で行方不明になった者の間に、共通点はない。
ない、ということになっている。
その後、政府もメディアも学術機関も大衆も、「あの赫い眼はいったい何だったのか?」という話題で一色となった。
その流れでかなりの数の仮説が提唱されたが、あの怪現象に対して明確な説明をつけられるものは一つもなかった。しかし━━
━━━アレは、地獄の君主の眼だ。
誰が最初に言い出したのかは分からない。
ネット上では、いつしか赫い眼のことは『ベルゼブブ』と呼ばれるようになり、あの恐怖の十三秒間は、それに因んで『ベルゼブブの十三秒間』と呼ばれるようになるのだった━━。
※※※
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『ベルゼブブの十三秒間』以降、まるで雨後の筍のように、世界中で信仰宗教が次々と設立され始めた。
そのほとんどは『ベルゼブブ』━━あの赫い眼を崇めるものだった。
邪教の類いだ、と宮本静佳は心の中で吐き捨てる。
直接対峙した自分には分かる。
━━━アレは、崇めるような存在では絶対にない。
あの赫い眼が連れて行く先は、恐らく地獄に違いないだろう。
にも関わらず、ベルゼブブの信者の中には、アレが連れて行く先が天国だと信じて疑わないものがいる。アイツらの脳みそはどうなっているのだろうと、宮本静佳は常々疑問に思う。あの禍々しい存在が、天国の使者などであるものか。それは、一度でもあの現象を体験した者なら分かるはずなのに、分からない、分かろうとしない、分からないフリをしている人間は、何故か相当数存在するのだ。
そういう風に、ベルゼブブを救世主か何かのように讃える教団の中で、今一番の勢力を誇り、世界中で爆発的に信者を増やしている教団がある。その、日本発祥のカルト教団の名称は━━
『赫きメメントモリ』
宮本静佳はカルトの詳しい教義や活動など知らないが、職務上、ざっくりとした知識は学んでいる。奴らの根本となっている教義は、大まかにまとめるとこのような話である。
曰く、ベルゼブブに連れて行かれたのは『楽園』に入ることを許された選ばれし者であり、連れて行かれなかった者は、ベルゼブブに対する信心が足りない者なのです。だから皆さん、ベルゼブブ様に選んでいただけるよう、教団に入ってお祈り(金)を捧げましょう━━
相手の不安を煽り、あたかも相手に非があるように錯覚させ、そこにつけ込んで金と人格を搾取していく━━典型的な霊感商法の手口だった。
こんなバカな話に引っかかる人がいるのだろうかと宮本静佳は不思議がったが、『赫きメメントモリ』の信者は現在進行形で爆発的に増え続けている。いつまで経ってもねずみ講のような単純な詐欺が撲滅出来ないように、この手の詐欺も永久に無くなることはないのだろう。残念なことに。
知らずのうちに、宮本静佳はため息を吐いていた。
この世に天罰というものが本当に存在するのなら、どうして心が弱っている人につけ込んで私腹を肥やし続けるあの詐欺師どもを根絶やしにしてくれないのだろうか?
詐欺師ども━━『赫きメメントモリ』の幹部どもは、天罰を受けるどころか、セレブの集まる外国に建てた豪邸で贅沢三昧の日々を送っている。その首魁であり、教祖でもある女。その名を━━
朝霞奈 玲月
と、いう。
宮本静佳は、朝霞奈玲月の姿をテレビの中でしか見たことがない。
が、厭な気配のする女だと思った。
朝霞奈玲月は、『眼』に妙な魅力のある女だった。
まるで外国人のような『蒼い眼』。澄み切った深海のような色をしたその蒼い眼は、見る者の心を掴んで離さない。
━━━教皇様の眼は聖女の眼だ。
信者は口々にそう讃え、朝霞奈玲月を崇め立て祀った。
『ベルゼブブの十三秒間』以降、世界中に乱立した新興宗教の中で、『赫きメメントモリ』だけが勢力を伸ばし続けている要因は、この朝霞奈玲月の存在によるものが大きいだろう。
確かに、朝霞奈玲月の『眼』には、神がかり的な魅力がある。
宮本静佳も初めてテレビのインタビューで朝霞奈玲月の姿を目にした時、思わずその『眼』に魅入ってしまったほどだ。
が、それだけだった。
この女はろくでなしだと、宮本静佳は直観で察した。
今まで培ってきた薩摩ぼっけもんとしての勘と女の勘、その両方が、朝霞奈玲月に対して嫌悪を示した。
明確な理由をあげつらうことは出来ない。
だが、ちょっとした所作や視線、何かの拍子にふと漏れる言葉の端々が、どうにも本人がアピールしている『聖女』とはかけ離れているように思えた。
━━━この女は恐らく、自分以外の全てを見下している。
宮本静佳には、朝霞奈玲月はそのように映った。
現に、朝霞奈玲月には黒い噂が絶えない。
信者が定期的に行方不明になる、裏社会に太いパイプがある、マネーロンダリングに手を染めている等々といった、ある種お決まりのようなものから、地下で得体の知れないバケモノを飼っている、生まれつき両目のない人間を集めている、黒い石を御神体にした祠を捜している等々、意味不明なオカルトじみたものまで多岐に及ぶ。
そのすべてが真実だとは流石に思わないが、いくらか事実が混じっているのは確実だろう。
テレビの向こう側で、いかにも「私は善人です」と言わんばかりの作り物じみた笑みを浮かべ、台本丸出しの「世界平和を祈っております」的なことを話す朝霞奈玲月に嫌気が指し、宮本静佳はチャンネルを変えた。
「・・・そもそもアンタ、厚化粧と美白ライトで必死に誤魔化してるけど、その顔絶対アラサーでしょ? その年齢で『私はベルゼブブ様に選ばれた聖女です』とか、言ってて恥ずかしくないわけ? それに、そもそも地獄の君主なんかに選ばれるって、それどう考えても聖女って呼んでいい存在じゃないでしょうが」
画面を変えた後、一人ツッコミが止まらなくなってしまった。
酷く、苛立たしかった。
その苛立ちは、何も朝霞奈玲月だけに限った話ではない。
宮本静佳は、ベルゼブブと呼ばれる『アレ』を崇めるすべての人間を嫌悪していた。
(『アレ』は最初の『ベルゼブブの十三秒間』で、まだ産まれたばかりのびすけちゃんに『何か』をしようとしていたのだ。そんな奴を許容出来るわけがない。そんな奴を崇める奴も許容出来るわけがない。それに━━
続く『ベルゼブブの二十一秒間』。あの時は、『アレ』のせいでびすけちゃんが━━)
と、そこまで考えて、宮本静佳は大慌てで頭を振った。
両手で己の頬を軽く張り、「いけないいけない」と、呟く。
━━━今は、びすけちゃんの『問題』を考えている場合じゃない。
それは、いずれどうにかしなければいけない問題だったが、びすけちゃんこと久喜原びすけっとには、母親であるりっちゃん━━久喜原立夏がしっかりとついているし、風間菜々子のように緊急性のある問題を抱えているわけではないのだ。宮本静佳は久喜原びすけっとを愛しているが、今は風間菜々子のことを最優先にしたい━━そう考えていた。
━━━だが、最優先に考えるといっても、自分にこれ以上何が出来るのだろうか?
唯一、宮本静佳に出来たかもしれないこと。風間菜々子に得体の知れない『何か』を教えていた男を捕えることは出来なかった。
出来ないというより、不可能と言って差し支えだろう。例え日本中の警察官を総動員したとしても、あの男を捕まえることは絶対に不可能だ。男の異常な強さを目の当たりにした宮本静佳は、無意識に二の腕をさすっていた。
━━━あの男は、いったい何者だったのだろう?
知りたいという気持ちと、知ってはならないという気持ちが同居する。
風間菜々子の話を訊いている途中、あの男は突然、意味不明の身の上話のようなことを語り始めた。宮本静佳は、何の話をしていると、思わず詰め寄りそうになったのだが━━
背後から、知らない女の匂いがした。
ハッと気付いた時には、宮本静佳は身体を動かすことが出来なくなっていた。
立った姿勢のまま金縛りのようになった宮本静佳の首筋に、女の吐息が触れる。
━━━すまないね。だけど、アナタには彼の話を聞いておいてもらいたいんだ。
女は囁くような声でそう言った。全く知らない声だった。
それきり、女の気配は消えた。声がすることもなかった。
その後に男が突然立ち上がり、宮本静佳の首筋に埋め込まれていた線のような形をした『何か』を斬るまで、彼女は声を発することも身動きを取ることも出来なかった。ただ黙って、男の話に耳を傾けることしかできなかった。
(・・・あの話)
男が見守っていたという、『男の子』の話。その子の隣に住んでいるという、変わった姉妹の話。あれは、どう考えても━━
━━━全部忘れろ。
瞬間、宮本静佳は男の殺気を思い出し、身震いした。
あの時、男は痛恨を極めた顔を己の手で隠すようにして彼女を睨みつけていた。その指の隙間から覗く眼。それが━━
一瞬だけ、赫く光ったように見えた。
宮本静佳はらその『赫』にも、ひどく見覚えがあった。それは━━
びすけちゃんに『何か』をしようとしていた黒い影の眼の『赫』であり、
『ベルゼブブの二十一秒間』の時に見た空に浮かぶ巨大な眼の『赫』であり、
そして━━
ニャンちゃんの事件があった時、一瞬だけ『あの子』の眼に見えた『赫』でもあった。
あの話は忘れなければならない。
宮本静佳は改めてそう思った。それは、男に対する恐怖からだけではなかった。
下山する足は、早足を通り越して駆け足のようになっていた。
※
登山口が見えてきた。
普段は煩わしいとしか思えないのに、すぐ側の国道から聞こえてくる車の騒音に、懐かしさのような安堵を覚えてしまう。
宮本静佳はほっと息を吐き、肩の力を抜いた。そのまま山を抜けようとして━━
弾かれたように、背後を振り返る。
(・・・あの男の子!!)
どうして今まで忘れていたのだろう? 山の中で見かけた、あの襟足の長い幼い男の子。あの子を探さなければ・・!!
宮本静佳は、再び山道を駆け上がろうとした。
が、数歩も歩かない内に、足を止めてしまう。
何故だか分からない。分からないが、
あの男の子は、自分がどれだけ探しても、もう見つけてあげることは決して出来ないのだと、何故だが分かってしまった。
陽は完全に落ち、山中は夜に包まれた。
登山口に立つ宮本静佳は、いつまでもそこに立ち尽くし、ただ静かに涙を流し続けた。




