番外編『宮本さんと風間さん⑬』
すっかり日の暮れた夜の山を、宮本静佳は一人下山していた。
男が消えた後、彼女は再度山を登って男の姿を探そうと試みた。が、数歩も歩かない内に歩みを止めてしまう。
━━━アレは、関わってはいけない男だ。
その直感が、宮本静佳の足を止めてしまったのだ。
彼女はしばらく立ち止まって山頂へ続く坂を眺めていたが、やがて未練を振り払うように顔を背けると、ゆっくりと山を降り始めた。
道すがら、ふと空を見上げると、生い茂る木々の隙間から見える太陽に翳りが見え始めていた。幼い頃から定期的に山籠りをしていた宮本静佳にとって、夜の山など何ほどのものでもないのだが、その日は初めて、山の中でひとりぼっちでいることに不安を覚えた。理由は言わずもがなだった。
下山する足が、自然と速くなる。
その最中、宮本静佳は男の話を思い返していた。
『ベルゼブブの十三秒間』
その名前を知らない者は、たぶん地球上には存在しない。
最初にあの赫い眼が現れたのは、今からおよそ十年前ほど前。
その日は、二つの意味で、宮本静佳にとって忘れ得ぬ日だった。
その日、宮本静佳は病院にいた。
彼女自身が何かの病気を患ったわけではない。
入院していたのは、りっちゃんだった。
宮本静佳はお見舞いの品を手にりっちゃんの病室を訪れ、いつものようにとりとめのない雑談をした。
そうして時計の針が一周する頃に暇を乞い、宮本静佳が病室のドアを閉めようとした、その時だった。
中から、りっちゃんの叫び声が聞こえてきた。
大慌てで病室に戻ると、りっちゃんが苦悶の表情でお腹を押さえていた。
陣痛が始まっていた。
※
出産は長時間に及んだ。
りっちゃんは元々身体があまり丈夫な方ではない。それに加え、十七歳という身体がまだ完全に成長しきっていない状態での出産だった。難産になる可能性が高いことは当初から医者に告げられていた。
宮本静佳は、分娩室前の長椅子に腰掛け、身じろぎもせずに出産が無事に終わることを神に祈り続けた。
震えが止まらなかった。
何かをこれほどまでに『怖い』と思ったのは、彼女の人生で初めてのことだった。
駆けつけた宮本静佳の両親と近所の爺様婆様に背中をさすられながら、彼女は泣きそうな表情で両手を口元に当てていた。
途中、看護師が分娩室から出て来て、「もしかしたら帝王切開になるかもしれない」と告げられた時、宮本静佳は気が遠くなりかけた。何とか意識を失うことは避けられたが、代わりに涙が止まらなくなった。涙腺が壊れてしまったかのように涙が次から次へと溢れ出し、拭っても拭っても止まらなくなってしまった。歯の根が噛み合わない。ともすれば叫び出しそうになる自分を必死に押さえながら、宮本静佳はただただりっちゃんの無事を祈り続けた。
そうして、長い時間が過ぎた。
帝王切開は何とか回避され、分別室から産まれたばかりの赤ちゃんの元気な産声が聞こえてくる。
女の子だった。
皆が肩を叩いて喜び合う中、崩れ落ちた宮本静佳は声を大にして泣いた。
※
りっちゃんの出産が終わった後、宮本静佳は一人ぼうっと病院の屋上に突っ立っていた。
己の手を見つめる。
つい先程まで自分の腕の中にあった柔らかくて温かな感触を思い出し、彼女の口元が自然と綻んでくる。
出産後、宮本静佳はりっちゃんに分娩室の中に招かれた。
彼女の腕の中に、産まれたばかりの小さな赤ん坊が抱かれている。
りっちゃんの顔は憔悴しきっていたが、目は溢れんばかりの喜びと活力に満ち溢れていた。
それを見て、ポロポロと涙を流す宮本静佳に、りっちゃんは「この子を抱いてあげて」と言った。
宮本静佳はブンブンと首を横に振った。自分のようなガサツで怪力の女が、赤ちゃんに触っていいはずがない。そう言って慌てる宮本静佳を、りっちゃんはおかしそうに見つめ、「いいから」と笑い、
「アンタが、この子を産ませてくれたようなものなんだからさ」
と、言った。
宮本静佳はそれでも尚、固辞していたが、結局は折れるような形で赤ん坊を抱っこした。
おそろしく、柔らかかった。
こんなにも柔らかいものがこの世に存在するなんて信じられなかった。
その、あまりにも脆くて尊いものを傷つけないよう注意し過ぎるあまり、宮本静佳の表情は、保険のかかってないウン千万の美術品を運んでいる運送屋のようになってしまっていた。腰が完全に引けていた。
それを見て、りっちゃんが大笑いする。
「アンタ、ひびりすぎでしょうが。・・・大丈夫だから、もっとちゃんと抱いてあげな」
宮本静佳は顔を青くした。そんなの無理だよりっちゃんと、泣き言を言おうとしたのだが━━
その思いとは裏腹に、背筋は自然としゃんと伸び、包み込むように赤ん坊を抱っこすることが出来た。
完全に、無意識の行為だった。
それは、赤ん坊を抱っこするのに最適な体勢である。宮本静佳はそういうような、赤ちゃんに接するための訓練を受けたことはない。女性が生まれ持つ本能の成せる技だったのか、あれだけ腰が引けていたのにも関わらず、いつのまにか自然にそういう姿勢が出来てしまっていた。
宮本静佳の顔に、戸惑いが浮かぶ。
が、すぐに、その口元には笑みが宿った。
赤ん坊を腕に抱きながら、彼女は心底愛おしそうにその子どもを見つめている。
「やればできんじゃん」
その様子を見て、りっちゃんが歯を見せて笑った。
赤ん坊は未だ産声を上げているが、その表情はどこか、笑っているようにも見えた。
※※※
※※
※
りっちゃんの赤ちゃんのことを思い出し、宮本静佳の頬にまたもや一筋の涙が流れた。
「・・・今日の私は、いくらなんでも泣きすぎてるな・・」
頬を伝う涙を指で軽く弾き、彼女は屋上の夜風に身を任せる。夏が終わりを告げ、秋が始まることを予感させるような少し冷たい夜だった。しかし、今の彼女には、その冷たさがひどく心地が良い。宮本静佳は静かに目を瞑った。その時だった。
唐突に、背筋にぞくりとしたものを覚えた。
弾かれたように空を見上げる。
『そこ』だと思ったのは、完全な勘だった。
━━━空から、光が消えていた。
厚い雲がかかっているわけではない。夜空が、今まで見たことのない『黒』をしていた。それは、まるで空一面にコールタールを垂らし込んだかのような、どこか作り物じみた歪な黒い空だった。吐く息が白くなる。いつのまにか、気温がまるで真冬のように凍えていた。宮本静佳は青ざめた表情で、その不気味な空を見つめている。
━━━『何か』が、この世に絶対に存在してはいけない『何か』が、こちら側に来ようとしている。
宮本静佳は屋上から駆け出した。
『何か』に恐れをなして逃げ出したわけではない。幼少の頃から剣一本で生きてきた彼女の『勘』が、確信に等しい予感を持って、頭の中で激しく危機を告げていたのだ。
屋上を飛び出す際、扉の近くに立てかけてあったデッキブラシを引っ掴み、ブラシの部分を素手で捻じ切って放り投げる。階段を一足飛びで飛び降りて、宮本静佳はりっちゃんの病室まで全速で走った。病室のドアを叩きつけるように開くと、驚きに固まるりっちゃんと医師たちに、
「赤ちゃんは!?」
と、叫んだ。
宮本静佳の剣幕に完全に萎縮する医師たちの中で、一人、りっちゃんだけは顔を青くしていた。幼馴染のこんなにも切迫した表情を見たのは、初めてのことだったからだ。
何かが、起きてはならない何かが、起きようとしている。
「新生児室!!」
前のめりになったりっちゃんがそう答えると、宮本静香は返事もせずに病室を飛び出した。外で待っていた彼女の両親や近所の爺様婆様がどうしたんだと声をかけたが、彼女は振り向きさえしなかった。
幸い、何度も通った病院なので、新生児室の場所は頭に入っていた。宮本静佳はただひたすらに、新生児室に━━赤ん坊の元へ急いだ。
飛び込むようにして新生児室の中に入ると、中には一人の年配の看護師がいた。彼女は鬼気迫る表情の宮本静佳を見て一瞬ぎょっとなったが、手に持っている棒のようなものを見て表情を険しくした。
「アナタ何なの!! ここは関係者以外立ち入り禁止よ!! 出ていきなさい!!」
看護師は出口の方を指差しながら、断固とした強い口調で宮本静佳に迫った。
「・・・」
彼女はそんな看護師を見ようともせず、どこか一点を凝視している。訝しんだ看護師が、首を回して視線を追うと、
━━━そこに、『何か』がいた。
人の形をした『それ』は、黒い霧のようでもあり、小さな虫の集合体のようでもあった。
ぼんやりとした影法師のような『それ』の人相を窺い知ることは出来ない。が、どことなく、シルエットは女性的に見えた。『それ』の顔の部分には、まるで鮮血のような赫い眼が二つ付いており、その不気味な眼は、保育器の中で激しい泣き声を上げる赤ん坊へと注がれていた。
その保育器のネームプレートには、『久喜原』と書かれている。
「ひぃぃ・・!」
看護師が短い悲鳴を上げ、腰を抜かして後ずさった。
一方の宮本静佳は、微動だにせず『それ』を睨み続ける。
━━━・・・。
『それ』は、宮本静佳の方を見ようとすらしなかった。
みしりみしりと、何かが軋む音がする。『それ』から放たれる邪気と圧力に、その場の空間が歪み始めているのだ。
絶対的な恐怖。
人の本能の根幹を揺さぶり、そして、生を含むすべてを諦めさせるほどの圧倒的な気配。並の人間ならば立っていられないほどの恐怖に支配された新生児室の中で、宮本静佳は、
━━━すうっ、と、深呼吸をした。
そうして、流れるような動作で棒切れを大上段に構える。
宮本静佳の表情は『無』であり、眼は清流のように澄み渡っていた。
━━━その時、宮本静佳は剣の『極』にいた。
宮本静佳の精神が達した世界には、彼女と『それ』以外のすべてが消えていた。
朝焼けのような淡い青の光が支配する世界の中で、宮本静佳は一歩、足を踏み出す。すると、ぴちゃり、という、水滴が一雫落ちたような音と共に、彼女の足を中心に水面の波紋が真円を描くように広がっていく。その波紋はどこまでもどこまでも伸びていき、やがてその淵が見えなくなるのと同時に、ふっと、世界が完全なる『白』に包まれた。
━━━・・・?
『それ』が、初めて宮本静佳に目を向けた。何かを訝しむような眼差しだった。
対する宮本静佳は、眼の焦点を失っている。
その眼差しはまるで死人のようで、何を見ているのか、何が見えているのか定かではない。
彼女は、遠い昔の記憶をなぞっているかのような霞がかった頭の中で、一人『納得』をしていた。
━━━自分のこれまでとこれからの鍛錬は、すべてこの時、この一撃のためにあったのだと。
剣の『極』。
過去に存在したいかなる剣豪をも立ち入ることの出来なかった剣の道の果てに、宮本静佳は確かに足を踏み入れていた。
━━━過去、現在、未来。宮本静香が『成れた』かもしれない、『何者か』になる可能性を犠牲にして。
そして、宮本静佳はゆっくりと、まるで鳥の囁きのような小さな声で、彼女が何千何万回と繰り返してきた『その言葉』を口にする。
━━━チェスト。
宮本静佳が、一撃を振り下ろす。
何の変哲もない緩やかな一振り。しかしそれは、はっきり見えているのにはっきり見えない━━そんな、不思議な矛盾を孕んだ一撃だった。
もしも、本当の意味での『神業』というものが存在するのなら、まさしくその一撃がそうであったのだろう。
宮本静佳は、斬れるはずがないものを斬った。
※※※
※※
※
『それ』が、肩の部分から真っ二つに両断される。
唯一生物的な『それ』の眼が、驚きに見開かれた。
斬られた下半身が、足から砂のように崩れて消滅ていく。糸の切れた凧のように宙を舞う『それ』の上半身は、憎々しげに宮本静佳を睨みつけ、
━━━ちっ。
と、微かな舌打ちをした。次いで、
━━━まあいいや。もっと良さそうなの、見つけちゃったし。
と、言った。
『それ』の上半身が、水の中に垂らし込んだ墨のように、空に向かってすうっと消えていく。その間際、
━━あはっ、あははっ、あはははははははははははははははははっっ!!!
と、完全に狂っているとしか思えない幼い少女の哄笑が、新生児室中に響き渡った。
その残響は、いつまでも宮本静佳の耳に残り続けた。
『それ』の気配と狂笑が完全に消えると、新生児室はしんとした静寂に包まれる。
「・・・」
宮本静佳は、がっくりと膝をついた。
荒い息を吐きながら考える。
今自分は、自分の中に確かにあった『何か』を永遠に失ってしまったのだと、そんな確信があった。
(でも、いい。そんなものは、どうだって、いい・・)
宮本静佳の目は、保育器の中で泣き声を上げる赤ん坊へ向けられている。
彼女は血の気の引いた蒼白の顔で微笑み、
━━━もう大丈夫だよ、安心して。『怖いもの』は、私がやっつけてあげたから。
と、言った。
すると、宮本静佳の声が届いたかのように、保育器の中の赤ん坊の泣き声がぴたりと止んだ。
それを見て、宮本静佳は、
━━━ああ・・よかった。
と、顔を綻ばせる。
その表情は、先程赤ん坊を腕に抱いた時と同じ表情だった。
「ほんとうに、よかった・・」
宮本静佳は再度そう呟くと、糸が切れた人形のように、がっくりとその場に倒れ込んだ。
カランッ、と、何かの終わりを告げる合図のように、彼女の手にしていた棒が床に落ちて硬い音を立てた。




