番外編『宮本さんと風間さん⑫』
男が、すうっと息を吐いて呼吸を整えると、それまで周囲に充満していた殺気が嘘のように引いた。
「・・・」
男も宮本静佳も無言のままだった。しかし、殺気は消えたが、両者の間に残る緊張感が、場の空気を張りつめさせたままにさせている。
永劫とも思えた緊張は、男が踵を返す足音で破られた。
「・・・もう帰れ」
男は背を向けたまま短くそう告げると、疲れたような足取りで歩き始めた。それを見て、宮本静佳の肩から力が抜ける。が━━
数歩も歩かないうちに、男の足が止まった。
「・・・」
男は無言のまま、じっと立ち尽くしている。自分はここで口封じされてしまうのだろうかと、宮本静佳の背中に嫌な汗が滴り落ちる。
「菜々子は━━」
男がその名前を口にしたのを耳にして、宮本静佳はハッと目を見開いた。
「菜々子は、アンタが思っているよりもずっと大人だ。あの子は、もう覚悟が決まってしまっている。自分の生活も、人生も、命も━━何もかもを投げ打つ『覚悟』で、俺から『技』教わった。その『覚悟』は、頭の悪いガキが、ゲームや漫画に出て来るキャラクターに憧れて使うような安っぽい『覚悟』とはモノが違う。あの子は頭がいい。自分が他人に暴力を振い、その先に自分がどういう報いを受けるのか、その結果、自分の人生がどうなってしまうのか━━そういうことは、すべて折り込んでいる。だから、あの子は止まらないし、止められない。すべてが、想定の範囲内だからだ。何もかもを理解し、その結果すらも受け入れて行動している人間を止められる術などない。もしあるとすれば、それは座敷牢に放り込んで一生監禁するような過激なやり方くらいしかない。菜々子は、そういうやり方でしか止められないほど心が壊れてしまっている。あの子が自ら望んでああなったんだ。それが自分の宿命であり、変えることのできない運命だと、あの子自身が決めてしまった。菜々子はもう、普通の子どもには戻れない。その地点は、とうの昔に過ぎている」
「だから、勝手に・・っ!!」
男への恐怖を忘れ、宮本静佳はつい声を荒げてしまう。それを、
「いいから聞け」
と制し、男は続ける。
「俺は、アンタのような一般人には想像もつかないような暗い世界で生きてきた。地獄が楽園に感じられるような光景を沢山見てきたし、悪魔が聖人に思えるような人間も沢山見てきた。そんな人間にしか分からない、視えないことが世の中にはある。こんなことを言ったらアンタはまた怒るだろうが、俺には分かるんだよ。アンタが、まだ菜々子を矯正出来ると信じているように、俺はあの子はもう普通の子どもに戻ることは出来ないのだと知っている。それは、アンタにもいずれ分かる時が来るだろう」
「菜々子は、そう遠くない未来に必ず破滅を迎える」
場の空気が、一気に下がったような気がした。
何か反論をするべきだった。風間菜々子のことを思うなら、そんなことはないと強く言い返すべきだった。
しかし、宮本静佳はそれが出来なかった。
男に臆したわけではない。その言葉が、気味が悪いくらい、すうっと胸に入ってきたからだ。
それは酷く気持ち悪い経験で、胸が悪くなるような思いがした。男に対してではなく、男が放った言葉に対してでもなく、その言葉に納得のようなものを抱いてしまった自分自身が、宮本静佳はただただ気持ちが悪かったのだ。
否定したい。
否定したいが、どれだけ頭の中で否定しようとも、現実として、風間菜々子の人生は、もう━━
「・・・」
男は依然として宮本静佳に振り向かない。背を向けたまま、微動だにする気配もない。
「・・・菜々子ちゃんはもう、破滅してるようなものよ」
宮本静佳は拳を握りしめ、絞り出すような声で言った。
「いっさい情状酌量の余地のない通り魔的な暴力事件を三件も起こしてる。例え小学生でも、少年院行きは免れない。賠償もある。これから先のあの子の人生は、もう破滅してしまったのと同じよ。アンタが━━」
━━━アンタが、へんな技をあの子に教えたせいで。
しかし、宮本静佳は喉まで出かかったその言葉を何故か口に出すことが出来なかった。男に臆したわけでも、遠慮したわけでもない。彼女の脳裏にふと、この男が『不殺法』とやらを風間菜々子に教えていなかったら、いったいどうなっていたのだろうという思いが湧いたからだ。もし、この男がいなかったら━━
━━━風間菜々子は、とうの昔に人を殺めていたのではないか?
その想像が、宮本静佳の口を閉ざさせたのだ。
「俺の言っている『破滅』は、そういうことじゃない。そもそも、あの子に『不殺法』を教えたのは━━」
そんな彼女の心を読んだかのように、男は感情の読めない声で口を開いた。
「菜々子が殺人の罪を犯すのを止めたかったからだ。わざわざ言うまでもなく、暴行と殺人では天と地の差がある。社会的に死んだも同然の身になるし、魂にのしかかってくる罪の重みは、その人間のすべてを押し潰しに来る。俺は菜々子にそんな風にはなって欲しくなかった。あの子自身がそれを望んでいたとても、だ。だから、思うがまま暴力を振るっても人を殺すことのない『不殺法』をあの子に教えた。これしか、菜々子の中に巣食う殺人衝動からあの子を救う術はないと思った。だが、救うといっても、それは所詮、その場しのぎにしか過ぎない。本当の意味で菜々子の心を救うことは、もうどうやって出来やしないんだ」
「俺が━━俺たち大人が、あの可哀想な女の子に対して出来ることは、いずれ必ず来るであろうあの子の破滅を、少しでもマシなものにしてやることしか残ってない」
「俺がやったのは、いわば延命処置だ。その処置の中で、俺が知る中で最良の、それでいて、俺にしか出来ない処置を取った。・・・取ってやらねばならないと思った。あの子に『不殺法』なんぞを教えた理由は、それがすべてだ」
「・・・」
宮本静佳は、一言も口を挟めなかった。
「アンタは俺のことを頭がおかしいと思っているだろう。俺の妄言なんぞこれ以上聞きたくないのは百も承知だが、それを押して、一つアンタに頼みがある」
「・・・なに?」
一拍、男が言い淀む気配がした。
「おそらくこの先、アンタは菜々子を見捨てたくなる時が来る」
「・・・」
「その時に、どうか一度だけ・・一度だけでいいから、踏み止まってやってくれ」
「・・・」
「その後に、もう一度あの子を見捨てたくなったら、その時は当然、縁を切っていい。だが、一度だけは、何とか堪えてやって欲しい・・」
「そんなこと━━」
宮本静佳は歯軋りする。
「そんなこと、アンタなんかに言われなくてもやってやるわよ。当たり前でしょうが!!」
宮本静佳は、己の胸に手を当てる。そして真っ直ぐな目で、男の背中を睨みつけた。
━━━ずっとずっと・・ずっとずっと、後悔していた。
あの日━━菜々子ちゃんが帰って来なかった夜、風間家であの子の母親から聞かされた「誕生日を忘れてしまっていた」という話。それを聞いた時、私は心が凍りついてしまった。菜々子ちゃんの両親が、あの子に対する心の矢印を失ってしまっていることにショックを受けただけではない。
自分が、菜々子ちゃんの誕生日を意識すらしていなかったことに気付いて、愕然としてしまったのだ。
━━━私は、あの子のことをまるで見ていなかった。
あの子のことを本当に気にかけているのなら、誕生日くらいは知っていて当然のはずだった。それなのに、あの子と出会った最初の年も、次の年も、その次の次の年も━━時間はたくさんあったのに、私は菜々子ちゃんの誕生日がいつなのかということを考えもしなかった。
その間には、あの子の誕生日の日に声をかけてしまった日もあるかもしれない。
━━━菜々子ちゃんのことを、いつも気にかけているからね?
そう、口癖のようにのたまう女が、自分の誕生日すら知らない。
それを知った時、あの子はいったいどんな気持ちがしただろうか?
自分の適当さ、思慮の足りなさに愕然としてしまう。
たかし君の事件があった時だってそうだ。
私は刑事に促されるまま、菜々子ちゃんに事情聴取をした。その間、あの子は一言も喋らなず、何の反応も示さなかった。
それで少し、心が緩くなってしまったのだと思う。
刑事から指示された質問の中には、あの子にとって残酷な質問があった。聞くのを忘れたフリでもすればよかったのに、私は愚かにもあの質問を口にしてしまった。
━━━菜々子ちゃん。菜々子ちゃんは、たかしくんと喧嘩した時、あの子をぶったりとか、突き飛ばしたりとかしてない?
その瞬間、今まで無反応だった菜々子ちゃんに大きな変化があった。
まるで涙腺が壊れてしまったかのように両目から激しく涙を流し、首が折れるような勢いで大きく頭を横に振り始めたのだ。無表情のまま、何度も何度も何度も何度も━━
私はあの子を強く抱きしめた。
抱きしめた胸の中で、あの子は尚も首を横に振り続けた。それを必死に抑えながら、私はただ「ごめんなさい」と繰り返すことしか出来なかった。自分の愚かさと無神経さを呪いつつ、私もいつしか嗚咽を漏らしていた。
━━━酷いことを言ってごめんなさい。
━━━酷いことを訊いてごめんなさい。
━━━あなたは何も悪くない。
━━━悪くないから。
あの子の首振りが止まるまで、私は菜々子ちゃんを抱きしめ続けた。
※※※
※※
※
刑事課の連中がそんな質問を用意したのには理由があった。
菜々子ちゃんの弟を殺害した高校生━━そいつは、最初から一貫して無罪を主張していた。自分は何もしていない、と。
刑事課の誰もが、最初から信用していなかった。何故なら弟のたかしくんの身体には、どう見ても成人か、もしくは体格の良い未成年に暴行されたとしか思えない打撲痕が無数に存在していたからだ。後の解剖で、たかしくんの身体に残る靴跡と高校生が履いていた靴の型が完全に一致したと聞いても、刑事課の人間は誰一人として眉一つ動かさなかったそうだ。
容疑者が出鱈目をほざいているだけなのは誰もが分かっていたのにそんな質問を用意したのは、あくまでも確認作業にしかすぎなかったのだろう。身も蓋もない言い方をすれば、どうでもいい質問。
そんな、どうでもいいものために、私は菜々子ちゃんの心を深く傷つけてしまった。
事件が一応解決した後も、私は菜々子ちゃんのことを気にかけ続けた。その気持ちに嘘偽りはない。
けれど、あの子との間に、どこかで線を引いていたように思う。
あの子に対して申し訳がないという気持ちが、私の襟元を掴んで離さなかったのだ。
あの子の顔を見る度、菜々子ちゃんの泣き顔を思い出す。
私の胸の中で必死に頭を動かしていたあの子の小さな身体の感触を思い出す。
そして、自分の惨めさを思い出す。
あの時のことを思い出すのが辛くて、私はあの子に積極的に関わるということを無意識に拒否していたのだろう。
私は警察官なのに、相手のことよりも、自分の心の方を優先してしまった。菜々子ちゃんから嫌われるのが怖い、またあんな風に泣かせてしまうのが怖いという、自分本位の理由で。
・・・嫌われるくらいなんだ。
そんなものを恐れて何なる? 例え菜々子ちゃんから嫌われようとも、どんな暴言を吐かれようとも、私が真にするべきだったのは、もっともっと積極的にあの子の手を握ってあげることだった。声をかけてあげることだった。あの子のことを大切にしてくれる誰かの橋渡しになってあげることだった。あの子が喜ぶことは何なのかを考えてあげることだった。その役目を、私が本来やるべきだったすべてを、私はいつのまにか放棄してしまっていた。菜々子ちゃんに対して、本当に申し訳ないという気持ちがあったなら、そんな畏れは振り切るべきだった。どれだけ恨まれようが、恐れられようが、疎ましがられようが、あの子の手をしっかりと握りしめてあげるべきだったのだ。
もしも、人間に天から授かった己の役割━━宿命というものが本当にあるとするならば、きっとそれが私に与えられた役目だったのだろう。
例え相手にどう思われても、私は私が正しいと思ったことを言葉と行動で伝える。その結果、相手からすべての信頼を失うことになろうとも、私は二度と躊躇わない。子ども時代に恥の大権現のようなバカばかりやってきた私なのだから、こういう時にこそ躊躇わないのが、私という人間の本来あるべき姿のはずだった。
それが、私の宿命だったはずだ。
そういう人間であり続けることを、あの時━━りっちゃんの時に、私は己に課した筈だった。
けれども私は、また躊躇った。
躊躇ってしまった。
そして、菜々子ちゃんは取り返しのつかない、あの事件を起こしてしまった。
菜々子ちゃんが捕まった日の夜、私は一晩中、部屋の中で泣いた。
その時に、私はそれまで見て見ぬふりをしていた自分の心の卑しさに、ようやく気づくことが出来た。
自分自身に嫌気が差す。怒りが湧く。殺意を覚える。暗い感情が、心を覆い尽くしてくる。
でもそれは、自己憐憫と表裏一体の自己嫌悪でしかなかった。私は自分に嫌悪を向けると同時に、憐れんでもいたのだ。
━━━アナタはそれだけ強く菜々子ちゃんのことを思っているのだから、もうそれでいいでしょ? 充分じゃない? アナタは、よくやっている。
私はいつのまにか、自己嫌悪と怒りを隠れ蓑に、そうやって自分を慰めようとしていた。
そんな、自分の心の卑怯な動きに気付いた瞬間、私は涙を乱暴に拭って立ち上がっていた。そして、自分の顔面に自分で拳を入れた。
翌日。私は刑事課に掛け合い、何とか菜々子ちゃん関係の捜査に加えてもらうよう、直談判しに行った。
それで何かが変わると思ったわけじゃない。変えられないのは百も承知だった。けれど、何かせずにはいられなかったのだ。
しかし、私の嘆願は退けられた。
これまでずっと菜々子ちゃんの担当のようなことをしてきたのだから、これくらいなら便宜を図ってもらえると思っていた。刑事課の課長に何故ですかと問うと、ただ一言、「お前は入れ込みすぎている」という返答が返ってきた。私の今の有様では、客観性に欠けると判断されたのだろう。諦めきれない私は尚も食い下がろうとしたが、ヤマさんに肩を叩かれて言葉を飲み込んだ。
「課長が正しい。静佳ちゃんは、ちょっと休んだ方がいい」
その後、刑事課から上に報告が上がり、その結果、私は半ば強制的に休みを取らされることとなった。
だが当然、休めるような気持ちにはなれなかった。
菜々子ちゃんに警察官として関わることが出来なくなった今、私に出来ることは何が残っているだろうか?
そう考えた時に、真っ先に頭に浮かんだのが、目の前のこの男を探し出して、逮捕してやることだった。
ぶん殴ってやろうと思った。
見つけ次第ボコボコにして、首に縄つけて警察署まで引きずり回してやる━━そう意気込んで、私はこの山に足を踏み入れたのだ。
だが、ただの少女趣味の変態だと思っていた男は、私の実力を遥かに上回る怪物で、それでいて、底知れない闇を抱えた得体の知れないバケモノだった。
正直、恐ろしい。恐ろしいけれど━━
私は、私の心の中に、それ以上に恐ろしいものをすでに見てしまっていた。
それに呑まれる恐怖に比べれば、バケモノと対峙するすることなど容易いことだった。
「私はアンタを全力で否定してやる!! アンタが間違ってるって証明してやる!! 菜々子ちゃんを見捨てるなんて、例え世界の終わりが来たとしても、私は絶対にそんなことしない!! 見てなさいよ!! 私が必ず、菜々子ちゃんを元のあの子に戻してあげるんだから!!」
宮本静佳の言葉を、男は黙って聞いていた。
その背中から、ほんの少しだけ力が抜けたように見えた。
「・・・少し、安心した」
ややあって、男が呟く。
「アンタのような人が、菜々子の側にいてくれてよかった。あの子は、ずっと孤独だったからな・・」
「あの子は孤独じゃない。あの子の両親だって、まだ心が完全に離れてしまったわけじゃないし、アンタのことを『おじさん君』って呼んでバカにしている柳田ちゃんだって菜々子ちゃんのことをとても大切にしている。それに━━」
「アンタだって、あの子を支えている一人でしょうが」
宮本静佳の頭を支配する憎悪と怒りの感情をすり抜けて、その言葉は彼女の口から自然と漏れて出た。
「・・・」
男は長く黙った。
「・・・そうだな。きっと、そうなんだろうな。・・・だが俺は、あの子の側には長くは居てやれん」
ため息を吐く。
「俺は存在自体が汚染された毒のようなものだ。俺が側にいる時間が長ければ長いほど、あの子にとって害になる。それに━━」
「俺に残された時間は、おそらくそう長くない」
一瞬、男の背中が蜃気楼のように透けた気がして、宮本静佳は慌てて目を擦り上げた。再度男を見やると、その時にはもう、何の異常も見られなかった。
(見間違い? それにしては、今のは━━)
心に浮かんだ疑問を、宮本静佳は無理矢理噛み殺す。それよりも━━
残された時間が長くないとは、いったいどういう意味だ?
しかし、彼女が疑問を口にする前に、
「一つだけ頼みがあると言っておきながら早々に追加するのは非常に心苦しいんだが、アンタを類まれな善人と見込んで、もう一つ頼みがある」
男が先に口を開いた。今度は何?と、宮本静佳が険も顕に返すと、
「あのクソガキ━━柳田おれんじのことをよく見てやってくれ」
と、男はまったく想定外なことを言った。
何故か、胸に嫌な冷たさが走った。
「・・・何で、急に柳田ちゃんの名前が出てくるのよ?」
「悪い意味ではなく、あの子はアンタが思っているような子じゃない。あの子はある意味、菜々子よりも孤独だ。だから、何かの拍子で、あの子は菜々子よりも深いドツボに嵌ってしまう可能性がある。そうなったら、何もかもが終わる。だから、アンタにはあの子のことを、柳田おれんじのことを、出来るだけ見ていてやってほしい。・・・重ね重ね、重いものを背負わせるようなことを言って申し訳ないが、どうか心に留めておいてくれ。俺の頼みは、それだけだ」
男はそう言うと、再びゆっくりと歩き始めた。男の口調は穏やかだったが、相手に口を挟ませない不気味な圧力があった。ハッと我に返った宮本静佳が、待ちなさい、と、その背に手を伸ばそうとするのと同時に、目の前を突風のような濃霧が覆い尽くす。宮本静佳は小さく悲鳴を上げて顔を庇った。
しばらくして目を開けると、彼女は最初にバックパックをおろした、あの小さな空き地に一人立っていた。
男の姿は、影も形もなかった。




