第四話 『月島さんとごへいもちん②』
あの年は異様に暑い夏だった。
異常気象、酷暑、十年に一度の高温・・目にするだけでうんざりするような言葉の数々が、テレビやネット中に溢れかえっていた。
当時、僕は中学二年生の十四歳だった。
部活は『天文部』に入っていた。僕は一年の頃は、細々とではあるが、『天文部』っぽい活動をしていたのだが、二年になってからは活動らしい活動をまったくしなくなってしまった。特別な何かがあったわけではない。そもそも『天文部』は、『天文部』という名前がついているだけの帰宅部であり、部活はやりたくないけど部活動への参加が義務付けられてるから籍だけ置いている━━そんな人たちの集まりだった。学校側からは何の期待もされていないし、文化祭にも参加を許されない。何をやっても「あ、そう。頑張ったね」で終わりの部活で、一人で活動していた僕の方が異端だったのだ。
それに気付くのに一年かかった。
ただ、それだけの話だ。
そんな無気力な中学生だった僕は、同年代の中学生が夏休み返上で部活に汗を流している中、ひたすら家でゴロゴロしているか妹の遊び相手をするかの二択という、怠惰な夏休みライフを送っていた。
何とも灰色な学生生活だが、中学時代の僕は人と関わるのが苦手というか、関われない人間だったので、そういう孤独な夏休みを送っていても別に苦には感じなかった。・・・いや、苦に感じないどころか、楽だとさえ思っていた。
一生、こんな気楽な生活が続けばいい。
そんな風に思っていたのだ。しかし━━
ある日、姉さんが家に帰って来た。
帰って来てしまった。
※
━━━弟くん、『お願い』があるの。
姉さんは、僕のことを『弟くん』と呼ぶ。
久しぶりに会った姉さんは、昔と同じ、ガラス一枚隔てた向こう側にいるような薄い声で、僕にそう『お願い』しにきた。
僕は、ただ頷くことしか出来なかった。
暗い夜道を、僕は懐中電灯の光のみを頼りに登っていた。
姉さんの『お願い』は、とある山の頂上にある、黒い祠に祀られた大きな石を蹴り飛ばすことだった。
姉さんの『お願い』はいつも意味不明で、それでいて何故か正しい。
山は標高が低く、頂上へはすぐに辿り着いた。そこだけぽっかりとくり抜かれたような更地に足を踏み入れた途端、まるで業者の冷凍室のようなゾッとする冷気が全身を撫でた。皮膚という皮膚が瞬時に縮こまり、汗だくだった身体が悲鳴を上げる。僕は自らの身体を抱きしめるように両腕をさすった。
(早く姉さんの『お願い』をすませて帰ろう・・)
僕は懐中電灯で四方を照らした。
目的の祠はすぐに見つかった。
祠は、更地と雑木林の狭間に、まるでこの場所の主であるかのように異様な存在感を放って鎮座していた。思っていたよりもずっと大きい祠だ。近付いてみると、僕の背丈より頭一つ二つ分は高い。祠には木製の格子戸がついており、古いのか新しいのか判別がつかない色をしたそれを開けると、姉さんの言っていた『黒い石』とやらが姿を現した。もしかしなくても御神体なのだろう。小型の冷蔵庫ほどのその石には、しめ縄のようなものが巻かれていた。普通、しめ縄といえば藁の色と相場が決まっているが、そのしめ縄は何故か血のように赤い色をしてた。僕は石にそっと手を合わせ、無礼をお許しくださいと一応願った。
すうっと息を吐く。
そして、覚悟を決めて石を蹴り飛ばした。
途端、ガシャン、と、ガラスが割れるような音がした。
音は後方から聞こえた。僕がびっくりして振り返ると━━
空から、人の形をした『何か』が落ちて来た。
※
月島さんに頭を踏まれながらずっと土下座をしていたら、僕は何故か『あの時』のことを思い出していた。
僕と月島さんが初めて出会ったあの夜のことを━━
「・・・ひっく、ひっく・・」
月島さんは依然として泣いていたが、先よりはだいぶ落ち着いてきている。僕の頭を踏みつけてぐりぐりしていることからも分かる通り、普段の調子を取り戻しかけているようだ。
「・・・あ、あの、月島さん。まずは、その・・スカートの中に、何か履いた方がよろしいかと存じますのですが・・」
土下座をしながら恐る恐るそう言うと、月島さんは僕の頭をひときわ強く踏みつけた後、黙って僕の側から離れた。そして、ひっくり返った保健室の戸棚をごそごそと漁ると、中から白い何かを取り出した。何だろうと思って見ていると、月島さんは僕の方をキッと睨みつけ、
「見んな、変態。・・にょにょん」
と言った。僕は慌てて平伏した。
しん、とした保健室に、衣擦れの音が微かに響く。僕は何だかとても恥ずかしくなってしまい、一人で頬を赤くしていた。
衣擦れの音が止む。すると今度は、
━━━ジャラリッ
という、重い金属音がした。音の様子からしておそらく鎖だろうなと思っていると、僕の目の前に何やら物騒なモノが投げ捨てられた。
それは、金属製のゴツいトゲがついた赤い首輪だった。
その首輪には、普通の道具では到底千切れそうにない太い鎖がついている。
これは何ですか、という思いを込めて顔を上げると、月島さんは蔑んだ目をし、
「つけろにょにょん」
と言った。
何でですか、とは返さなかった。
断る権利がないからだ。
僕は黙って首輪をつけた。
「みかん畑」
「はい」
「お前を殺す方法をずっと考えていたにょにょん」
「左様でございますか」
「お前には、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、地獄すら生温く感じる苦痛の中で死んで欲しいにょにょん」
「はい。ご随意にお願いいたします」
「けど、いい殺り方が全然思いつかないにょにょん。だから━━」
月島さんは、もう泣いてはいなかった。
その代わり、その表情は等身大のビスクドールのようになっていた。
月島さんが、極大にキレているときの表情だ。
ガクガクと震える僕の前で、月島さんは、
「いい方法が思いつくまで、とりあえずお前は、犬になってろにょにょん」
と、言った。
僕は、はい分かりました、と答えた。
途端、頭を思い切り踏みつけられた。
「なんで?」と聞く前に、月島さんは、
「犬が人間の言葉を喋ってんじゃねぇにょにょん。ちゃんとワンって言えにょにょん」
と、言った。
僕は、色々な感情が混ざった涙を流しながら、「・・わ、わん!」と答えた。
「よーし、よしよしよし。・・にょにょん」
月島さんはそう言って、僕の頭を足でぐりぐりと踏みつけた。そして、
「クソ犬、ご褒美をやるにょにょん」
僕の前に、汚い字で『ぽち』と書かれた餌入れを差し出して来た。月島さんはその餌入れにドボドボとペットボトルの水を注ぐと、最後に仕上げと言わんばかりに「ぺっ」と唾を吐き出した。
「飲め、にょにょん」
月島さんに言われ、僕は、「わ、わん・・」と吠えながら、恐る恐る餌入れに顔を近づけた。
想像していた百万倍臭かった。
「その餌入れは、昔ババアが校舎裏で飼ってた子猫にミルクをやる時に使ってた容器だにょにょん。あのカスは洗い物なんて出来やしないからとんでもない臭いになってるけど、犬なら何の問題もねぇにょにょんな?」
月島さんに問われ、僕は、「わ・・わ、わん・・」と、答えた。
目の前の容器からは、ドス黒いオーラのようなねちっこい悪臭が漂ってくる。僕は目を瞑り、覚悟を決めて水を啜った。
「おぇぇぇぇ、うぇ・・おぇぇぇ!!!」
胃がひっくり返るような地獄が口内にぶわっと広がった。僕は舌を出し、げぇげぇと喘ぐことしか出来なくなった。
水はまだまだ大量に残っている。
「ひぃ、ひぃ・・」
僕は涙目になりながら、再度容器の水に口をつけた。
「おぇぇぇぇ、うぇ・・おぇぇぇ!!!」
横顔を思い切り蹴飛ばされた。その衝撃で容器の水が僕の顔面にぶち撒けられ、そのあまりの臭いに僕は転げ回った。
「・・・見ているこっちが吐きそうになったにょにょん・・。もういいからさっさといくぞ、クソ犬。・・にょにょん」
口元をハンカチで抑えている月島さんに、「これはリアルガチのギブアップです」と何とか伝えようするのだが、あまりの悪臭に口を開くことが出来ない。
「おいさっさと起きろにょにょん!!」と苛立たしげに言う月島さんの前で、僕はただ転げ回ることしか出来なかった。
「ちっ・・にょにょん」
やがて、僕が割と本気で死にかけていることに気付いたのか、月島さんは舌打ちし、僕の襟元を乱暴に掴むと、そのまま物のようにシンクの所まで引きずって行った。そして、蛇口を全開にし、大雨の後の滝のようになっているそこへ僕の頭を強引にねじ込んだ。
「洗ってやっから大人しくしろにょにょん」
月島さんはそう言って、五人前くらいのチャーハンを作る要領でシャンプーやら何やらを調味料のように僕の頭へぶっかけ始めた。
「ちっ・・にょにょん」
僕の頭をわしゃわしゃしている最中、月島さんは心底嫌そうに何度も舌打ちしていた。しかし、その割に僕の頭を洗う手つきは優しく、それでいて丁寧だった。
(そういえば、月島さんは学力がゼロな代わりに、こんな風な洗髪とかの美容関係のスキルが物凄く高いんだっけ・・)
以前、緑ヶ丘先生がそんなことを言っていたのを思い出す。しかし、あの時は━━
『お嬢。お前、美容関係の知識が豊富で料理が上手くて字が綺麗って、それ昭和の政治家のお妾さんに求められるスキルだからな? お前将来いったい何になるつもりだ? 港区女子とかぬかしたら殺すぞ?』
緑ヶ丘先生が穿ったことを言うものだから、それはそれは凄まじい殺し合いに発展したのだった。
あの時は本当に大変だった。でも、あの時の緑ヶ丘先生は、「殺すぞ」と口では言っておきながら、その表情はどこか自慢げだった気がする。お妾さんなんて憎まれ口を叩かずに、素直に褒めてあげればいいのに・・。
そんなことを考えていると、僕の口から自然と笑みが漏れた。
「お前、何笑ってるにょにょんか? 気持ち悪いにょにょん」
月島さんの引き気味の声に、僕は「何でもないよ」と、答えた。
すると、脇腹に強烈な一発が飛んできた。
「犬が人間の言葉を喋んなっつってるにょにょん」
僕は涙を流しながら、「・・わん」と答えた。
「そ、それと・・」
何故だか急に、月島さんの声が弱々しくなり、
「水が臭くなったのは、あの餌入れが元々激烈に臭かっただけで、私の唾が臭いわけじゃないにょにょん・・。そ、そこは勘違いすんなにょにょん!」
と、よく分からないことを言った。
僕は内心で首を傾げつつ、
「・・・え、いや、それはもちろん、分かってるけど・・」
と、答えた。
「・・・」
月島さんは何も言わなかった。心なしか、先程より僕の頭を洗う力が強くなった気がする。急にへんなことを言い出して、いったいどうしたのだろうと思っていると、
「・・・あ」
僕は、自分のミスに気がついた。
先程、人間の言葉を使ってしまったではないか。
また横合いから強烈な一発がくる。僕は衝撃に備えていたのだが━━
「・・・」
その一発はいつまでもくることがなく、僕の髪を洗うわしゃわしゃという音だけが保健室内に響いていた。
僕はますます意味が分からなくなり、内心で首を捻り続けることしか出来なくなった。
と、その時、「ポーン」と、時報のような音が鳴った。
『ごへいもちんは、キミのことが大好きだにょにょん〜』
今日一の一発が僕の脇腹を襲った。
その拍子に蛇口に頭を思い切りぶつけてしまい、僕は声にならない悲鳴を上げる。月島さんは痛みで暴れる僕を凄まじい力で押さえつけ、シャンプーの泡で溢れかえっているシンクに何故か沈めようとしている。
(死ぬ!・・・これは本当に、死ぬ!!)
バタバタと手足を動かす。しかし、助けてくれる人はどこにもいない。
土井山高校の保健室で今、殺人事件が起きようとしていた。
※
「有り金を全部出せにょにょん」
死の保健室から何とか生還を果たしたものの、学校を出た途端、今度はカツアゲにあってしまった。
「・・・わん」
今の僕はしがない犬でしかないので、大人しく財布を差し出した。
月島さんは僕の財布を慣れた手つきであらためると、
「・・・ちっ、しけてるにょにょん。お前、本当に有り金これで全部かにょにょん? もし隠してやがったら見つけた硬貨の数だけ骨を折るにょにょんよ?」
と、言った。
「・・・わん」
隠しておりません、という意思を込めて、僕はゆっくりと首を横に振った。月島さんは「ちっ」と、何度目か分からない舌打ちをし、
「仕方ないにょにょん。おい、クソ犬。これで買えるだけポテチとコーラを買ってこいにょにょん」
と、言った。
「・・・わん」
僕は立ち上がり、言われた通りにしようとしたのだが━━
「犬が二足歩行してんじゃねぇにょにょん。ちゃんと四つ足で歩けにょにょん」
月島さんにお尻を蹴られ、無理やり四つん這いにさせられた。
あの、それだと買い物ができませんが?という意思を込めて月島さんを見やると、
「むぐっ」
口に財布を押し込まれた。そして、
「このまま四つん這いでドラッグストアに行ってポテチとコーラを買ってこいにょにょん。コンビニだと通報される恐れがあるけど、薬局なら『まあこういう人もくるよね』で許してもらえるにょにょん」
言うほど許してはもらえない気がするのだが、僕は「・・わん」と答えた。
言われた通り、財布を咥えてドラッグストアに入る。
びっくりするくらい何も言われなかった。
ただ、店員さんも他のお客さんも、僕と一切目を合わせてくれなかった。人の優しさとは時に激痛を伴うものなのだなと思い知りつつ、僕は財布とポテチとコーラが入った袋を咥えて月島さんの元へ戻った。
「ちゃんとコンソメ買ったにょにょんな?」
僕は「わん」と答えた。この人はどういうわけか、昔からポテチはコンソメ以外一切認めないという原理主義者だった。
月島さんは袋から2リットルのコーラを取り出し、そのままラッパ飲みする。それを僕の頭に置くと、「こぼしたら頭を平らに削り出してやるにょにょん」といい、僕の背中へ腰掛けた。
・・・重い。
それを言ったら今度こそ本当に殺されてしまうので、僕は黙って耐えた。
しかし、似たようなことを何度もやられたことがあるが、その度に、この人は重くなっていってるような気がする。
月島さんは決して太ってないし、筋肉質でもない。じゃあ何がこの重さを生んでいるのだろうと考えて━━僕はその先を考えるのをやめた。
そんなつもりはないのに、僕の脳裏に勝手に月島さんの胸やらお尻やらの映像が浮かんできて、僕はほとほと自分が男であることが嫌になった。このまま脳みそを変な方向に動かし続けたら、僕の背中にのしかかっている柔らかい重みのせいでもっと大変なことになりそうだったので、僕は心を無に帰すべく、脳内でひたすら般若心経を唱え続けた。ぎゃーてぇ、ぎゃーてぇ、はらしょーぎゃーてぇ・・。
「・・・なにやってんの、アンタら」
その時、ものすごーく、聞き覚えのある声がした。
それは、僕の『いま会いたくない人ランキング』第三位に入っている人の声だった。ちなみに、一位と二位は親と妹である。
僕は恐る恐る顔を上げた。
頼む勘違いであってくれ、と思ったが、そこに立っていたのは、やはり━━
柳田さんであった。
「・・・柳田さんこそ、何やってるんですか?」
最初、僕は「私はみかん畑三郎ではありません、人違いです」で押し通そうと思ったのだが、柳田さんの『格好』を見て、つい口を開いてしまった。
柳田さんは長い髪を大雑把に一つに束ね、三本線が入った野暮ったい朱色のジャージを着ていた。そして何故か━━
『私はバカの低脳です』
と、デカデカと書かれた大きなプラカードを首からぶら下げていたのだ。