番外編『宮本さんと風間さん⑪』
「それから、伽奈は男の子の前にめったに姿を現さなくなった。それに加えて、あの件以降は、伽奈は遠くの電柱の影などに隠れるようにして男の子の様子を伺うようになってしまった。その姿を見て、俺は何か声をかけてやらねばと思ったが、結局何も言うことが出来なかった。何を言えば良いのか、何を言っていいのか、何を言える資格があるのが分からない。男の子の現状とこれからを思えば、俺は伽奈に「あの子の前に2度と姿を現すな」と言うべきなのだろう。しかし、伽奈の途方に暮れたような後ろ姿を見ていると、どうしてもその言葉を口にするのが躊躇われてしまう。伽奈と男の子の間にいったい何があったのか、それは依然として謎のままだった。伽奈が『何か』をしていたのは間違いなく、そしてそれは、あの男の子にトラウマを植え付けるような『何か』だったのは間違いないのだが、それがいったい何だったのかを、俺はどうしても伽奈に訊くことが出来なかった。ただただ、怖かった。もし、その内容が、俺の許容を超えるものだった場合、俺は伽奈を許すことが出来なってしまう。伽奈が、本当の意味での敵になってしまう。それが、何より恐ろしいと感じた。リンとオトを除けば、『班』の中では、あの子たちが一番の古い付き合いになる」
━━━伽奈ともう一人の子は、俺が見つけた。
「だから、俺はあの子たちに対し、人間の親と同等の責任があると自覚していた。伽奈はきっと嫌がるだろうが、俺はあの子たちのことを娘のように思っていた。そんな娘が、絶対に許せない存在になってしまう━━それを想像するだけで、今まで感じたことのない類の恐怖が頬を撫でてきた。ガキの時分の『あの時』から、俺は多くのものを失ってきた。しかし、リンとオトと出会い、あの子たちを拾い、紆余曲折あって『班』に入ってから、俺はようやく、ガキの頃に失った何もかもを、ほんの少しだけ取り戻せたような気がした。リンは人間の営みに必要なことが何一つ出来ないボンクラだし、オトはこっちが何か言わなければ一切何もしない困った奴だし、あの子たちは無限におやつをねだってくる食いしん坊どもだし、『班』の女子どもは人間の社会よりも日本モンキーパークの方が生きやすそうなどうしようもない奴らだったが、俺はあいつらのことを愛していたし、本当の家族のように思っていた。・・・そんな大切な家族を、俺はほとんど失ってしまった。だからだと思う。残された家族━━伽奈に対して、俺がどこまでも甘い対応しか出来なかったのは。すべては言い訳でしかなかった。俺は伽奈と向き合うことから目を背け続け、逃げるように日々を過ごしていた」
━━━それから約二年。俺は伽奈と男の子を見守り続けた。
「その間、いろいろなことが沢山あった。・・・本当に、うんざりするほど沢山あった」
━━━そうなってしまったのは、男の子を取り巻く環境が大きく変わったせいだった。
「あの子は平田春香の一件以降、すぐに『あること』を始めた。俺は理由あってそのフォローに奔走し、影からあの子を支え続けた。そのこと自体は別に苦ではなかった。むしろ、ほんの僅かなこととはいえ、罪滅ぼしのような真似が出来ることに感謝すらしていた。問題だったのは━━」
首筋に、違和感を感じた。
「・・・それは、まあいい。とにかく、俺は当時、あの男の子のフォローのために忙しく動き回っていた。そのせいで━━というのは言い訳でしかないが、俺は男の子の登下校を見守る余裕があまりなくなっていた」
━━━あの事件は、そんな時に起こった。
「ある時、隣に住んでいる姉妹の妹の方が、変質者に絡まれてしまった。幸い、近くにいた男の子がその変質者を『止めて』くれたおかげで、妹の方は大事なかった。事件を察知した俺は大慌てで現場に駆けつけたが、その時にはもうすべてが終わっていた。複数台のパトカーと救急車、泣いている妹の方、その妹を慰めている姉と婦警、そのすぐ側でぼうっと立っていたあの男の子。赤い回転灯が瞬く現場で、ストレッチャーに乗せられた変質者が救急車の中へ運ばれていく。その変質者は、表情筋が完全に死んでいるかのようなふやけた顔をしていて、目が異様に細い太った禿げのオッサンだった。変質者は頭の配線が完全にトンでしまったらしく、救急隊員に運ばれながら意味不明な言葉を吐き散らかしていた。俺はその姿を見て、内心で舌打ちする。変質者のあの発狂具合いから見るに、おそらく伽奈が一時的に『領域』に飛ばしたのだろう。俺があの男の子の側にちゃんと付いていてあげていれば、あんな変質者など、伽奈の手を煩わせることもなく穏便かつ丁寧に始末してやったものを━━」
━━━ふいに、誰かに手を掴まれた。
「ハッとして目をやると、すぐ側に伽奈が立っていた。伽奈は俺の手を両手で握りしめ、ふるふると震えていた。驚きと戸惑いが同時にやってくる。伽奈がこんな風に俺の手を取るなんて、『あの時』以降まったくなかったからだ」
━━━お前・・どうした?
「訊いても、返事は返って来なかった。伽奈の両手越しに、細かな震えが伝わってくる」
━━━伽奈は泣いていた。
「曇りガラスの向こう側にいるかのようなぼやけた伽奈の顔。そこにしっかりと見える赫い両の眼から、鮮血のような涙が滴り落ちていた。俺はその様子を凍りついたような心で眺め、気付くとあの子を抱きしめていた。伽奈は俺の胸に身体を預け、衣服を強く握りしめてきた。伽奈の震えが強くなる。俺は、まるで錆びついたブリキ人形のような動きで、首を回す。何故、そこを見ようと思ったのかは自分でも分からない。直感でしかなかった。視線の先には、男の子がいる。男の子は無表情に立ち尽くし、泣いている妹の方を見つめていた」
━━━無表情に。
「ぞわり、としたものが全身を撫でた。男の子の姿にも、『道』にも異常はない。が、」
━━━俺は今、とても恐ろしいものを目にしていると、そんな気がした。
「妹の方は火がついたように泣いている。姉の方がオロオロと戸惑いながら必死に慰めているが、まるで泣き止む気配がない。傍にいた婦警が心配そうな顔つきで立ち上がり、次いで、男の子の方へ目を向けた。婦警は男の子へ近づくと、その頭をそっと撫でて、『大丈夫?』と訊ねた。男の子は無言で頷いた。それを見て、婦警は一瞬訝しむような表情を見せたが、すぐに笑顔を取り戻し、二言三言何かを喋った」
━━━急に、その婦警が弾かれたように俺の方へ首を回した。
「姿は見えないようにしているのに、俺は思わず顔を背けてしまった。婦警は厳しい目でこちらを見ている。が、すぐに肩の力を抜いて男の子の方へ向き直った。『道』の様子からして一般人なのは間違いないが、えらく勘の良い婦警だった。稀にだが、ああいう素人は現れる。あの婦警は要注意かもしれないと、俺は念の為、その婦警の顔を覚えておこうと思い━━」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
首筋に、違和感を感じた。
※※※
※※
※
━━━何故、気付かなかった?
目の前で、凍りついたような表情で俺を見つめている、あの女。あれは、あの時あの場所にいた婦警で間違いない。最初に見た時、俺はあの女に見覚えがあると感じた。それは、菜々子を家に送り届けてやった時に、あの女を見たからだと勝手に思い込んでいた。しかし、違う。俺はあの女を、それよりずっと前に見ている。・・・いや、それよりも、そんなことよりも━━
━━━俺は今、いったい何を話してしまっている?
首筋に、違和感を感じた。
※※※
※※
※
男は突然立ち上がると、自分の首筋辺りを掴み、何かを引き千切る動作を見せた。
瞬間、青い稲光のようなものが男の首筋から放たれる。
次いで、薄く金色に光る『線』のようなものが、切断された送電線のように青い火花を撒き散らしながら激しく蠢き、そしてすうっと消えていくのが見えた。
男は痛恨を極めたような表情で顔を歪めると、大きく舌打ちする。怒りに支配された両目が、宮本静佳の方を向く。
男は刀の柄を握ると、ゾッとするような速さで宮本静佳に斬りかかってきた。
明確な死の気配に、宮本静佳は硬直する。
が、抜刀された男の刀は、彼女ではなく、その背後にある何もない空間を斬り裂いた。
バチリッ、という音と共に、宮本静佳の首筋に軽い痛みが走る。視界の端で、先程見た『線』のようなものが青い火花を撒き散らしながら霧散していくのが見えた。
宮本静佳は首筋を抑えながら、何が何だか分からずによろけて姿勢を崩す。そちらを一切見ることなく、男は木々が生い茂る薮を仇のように睨みつけ、次いで刀を大きく振るった。出鱈目に振り回したようにしか見えなかったが、その一呼吸の間に男がいったい何度刀を振るったのか、宮本静佳はすべてを捉え切ることが出来なかった。それほどの速さだった。男が刀を納めると、一拍遅れて木々が次々倒壊し始めた。いかなる技を用いたのか、男の立つ場所よりもずっと遠くにある草木までもが、まるで紙切れのように宙を舞っていた。その数は十や二十では効かない。斬り飛ばされた木々が倒れる轟音と、それによって撒き散らされた枝葉が豪雪のように辺りを舞い散る中、宮本静佳は半ば腰を抜かした格好で、その異様な光景を震えながら眺めていた。
━━━自分は、こんなバケモノに喧嘩を売っていたのか?
「クソが・・っ!! この俺が、知らぬ間に『道』をぶち込まれるなど・・っ!!」
男は自らの顔を片手で掴みながら、毒づいた。肩が激しく上下している。刀を振るったことによる消耗ではなく、激しい怒りの発露による呼吸の乱れだった。
男はしばらく血走った目で地面を見つめた後、宮本静佳に目を向ける。びくり、と彼女の身体が大きく震えた。
「・・・いま聞いたことは全部忘れろ」
場の空気の密度が、呼吸が困難に感じるほど重くなる。男の身体と視線から、殺気が迸っていた。
「アンタがいま聞いた話は、アンタが思っている以上に危険な話だ。絶対に他所で話すな。話した場合、俺などとは比較にならん残虐で危険な連中に目をつけられる可能性がある。そうなったら、塁が及ぶのはアンタだけじゃない。アンタの家族、友人、恋人、大切な人すべてが危険に晒されることになる。だから、今この場で全部忘れろ。分かったな?」
男の口調には、有無を言わせないものがあった。
「・・・」
宮本静佳は、ただ黙って首を縦に振ることしか出来なかった。




